INDEX 月読みの石  [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 夢の跡

【プロローグ】 月読みの石

 清水寺から法観寺へ向かうため、土産物屋をのぞきながら産寧坂をくだっていたとき、その骨董屋をみつけた。
 他の店とは趣がちがい『玄淵堂(げんえんどう)』と彫られた屋根看板以外は何もなく、最初は何の店かも分からなかった。ただ、開かれた引き戸の中で何かがきらりと輝いた。好奇心の強い隆(たかし)はその光の正体が気になった。
 入っていいものか躊躇(ためら)ったが、看板をあげているのだから店屋にはちがいないと、格子戸をくぐって見店庭(みせにわ)に踏み込むと、果たして左手の座敷に古めかしい雑貨類がところせましと並べられていた。
 格子で光が遮られた店の中は薄暗く、氷室のように冷えていた。隆は思わぬ涼がとれたと思いながら、埃臭い暗がりの中を目を凝らして光の出どころを探した。
「隆、こんな所で何してる? 時間に遅れるぞ!」
 一緒に行動していた従兄弟の祐輔(ゆうすけ)が外から呆れたように声をかけた。
 二人は今、高校の修学旅行で京都に来ているのだ。次の見学場所の法観寺までの道は、土産物屋が多いため自由行動になっていた。
 集合時間に間に合えば何をしていても構わないが、それほど時間はなかったから、こんなつまらなそうな見世に気を取られる隆に、祐輔が呆れるのは尤もだった。
 隆は振り返りもせず「やっぱり骨董屋だった。涼しいし、ちょっと見て行く」と答えると、祐輔はわざとらしく大きなため息を吐いて「また始まった…。さき行ってるから、寺の近くに来たらメールして! 遅れるなよ?」と言って立ち去った。
 邪魔者がいなくなったとばかりに、隆は心置きなくゆっくり店内を見回した。暗さに目が慣れると、置かれている物がはっきり見えて来る。
 瀬戸物や人形、能面に着物、刀と甲冑。取り立ててめぼしい物はなく、少しがっかりした。場所柄か、外国人が喜びそうな和物中心の骨董が多く、価値ある品物は見当たらなかった。
 隆は祐輔の父親である叔父が営む骨董屋に幼い頃から入り浸っているせいで、十五歳にして骨董を見分ける目に長(た)けていた。祐輔は父親の仕事に全く興味を示さなかったが、隆は代わりに跡を継いでもいいと豪語するほど入れ込んでいた。
 骨董に興味が失せると光のことを思い出し、隆はまた古物が置かれた畳みの上を見回したが、ふと、視線を感じて顔を上げた。すると、白い女が恨めしげな目で隆を見下ろしていた。
「ひゅっ!」
 思わずのど笛を鳴らして後退(あとずさ)った。よくよく見れば只の人形で、隆は胸をさすりながら息を吐くと、じっと人形を観察した。
 大きさはほぼ等身大あり、白無垢の振袖に黒の帯、頭には綿帽子を被っている。黒い番傘を差しているところを見ると、おそらく『鷺娘(さぎむすめ)』なのだろう。鷺が人間の娘に化けて踊るやつだ。祖母が集めていた歌舞伎人形に、同じような衣装のものがあった。
 顔は透き通る白磁ように美しく、薄く開いた唇から白い歯がのぞいていた。一本一本人毛が植えられた生え際は、抜いたら血が出そうなほど緻密で、いわゆる “ 生(いき)人形 ” と呼ばれるものだとすぐに分かったが、本物を見たのは初めてだった。
「なんか、怖いな…」
 これは価値あるものだと思う以前に、リアル過ぎて気味が悪かった。特に、半眼開いた硝子の瞳が微妙に動いて見えるのが怖い。もしかして目玉は動かせるのかもしれない。確かめようと顔に指を伸ばした時、「触れてはいけない」と声がした。
「わあぁっ」
 今度こそ大声を上げて飛び退(すさ)った。人形が喋ったのかと思ったが、声の主は襖つづきの中の間から現れた老人だった。
「それに触れると、寿命が縮まってしまう。特に男はね…」
 老人は、ほお、ほお、と梟(ふくろう)が鳴くような声を出して笑いながら近づいて来たが、顔も梟に似ていた。とても小さい老人で、つるつるに禿げた頭部以外は、ぽやぽやと雛の産毛のような白髪に覆われていた。大きな鉤鼻(かぎばな)に白目の少ない丸い目玉を、くるくると動かしながら隆を見つめる。瞼が下から閉じるのではないかとぼおっと見入っていると、老人が小さな口を開いた。
「あんたさんは修学旅行生か? どうやってここへ?」
 猪首(いのくび)を傾げて咎(とが)めるように尋ねられ、隆は慌てて「あの、何か光るものが見えたから…。ここって、骨董屋さんですよね?」と、店なら入ってもいいじゃないかというニュアンスを込めて答えた。
「まあ…骨董は扱っているが、人へは商いをしていないのでね。ふむ…光るもの、光るものね……」
 言いながら、店主は目玉をくるくる動かして骨董類を見回していたが、箱階段の下辺りを眺めると「ああ…。あれだ」と呟きながら歩いて行き、何か小さなものを拾って戻って来た。老人の手には三角形の小さな石が載っていたが、光ってはいなかった。
「これは “ 月読(つくよ)みの石 ” というんだよ。うちで光ると言ったら、これくらいしかない」
 隆は首を傾げた。これだと言われても、光っていないから自分が見たものがこの石だと確認できない。訝しげな隆の顔を見て、老人はまた梟のような声で笑いながら触ってみろと言った。
 人形には寿命が縮むから触れるなと脅したくせに、今度は触ってみろと言われ、隆はおっかなびっくり指先で石に触れると、石がぽわっと黄緑色に光った。まるで蛍が光ったような仄(ほの)かな輝きだった。
「光った!」
 嬉しくなって店主に笑顔を向けると、店主は頷いて「この石があんたさんを招き入れたんだろう」と言った。
 月読みとは暦を読むことを言うが、この石は先を見通すのではなく、過去を見通すものだった。夜、月にこの石を翳(かざ)して眠りにつくと、過去の自分に出会える。但し、それは石と波長の合う者でないと叶わない。だからこの石は、見える相手に光って知らせるのだと店主は言った。
「これ、幾らですか?」
 隆はズボンのポケットから財布を取り出し中身を確かめた。“ 前世が見える ” とは眉唾物(まゆつばもの)だが、石が光ったのに気を良くしてすっかり買う気になっていた。お土産用に多めにおこずかいを貰っていたから、五千円くらいなら買ってもいい。
 すると、梟の店主は「金では買えないよ」とそっけなく首を横に振った。
「うちは骨董屋というより質屋でね、持ち込まれた品物に見合った代価を貸し付けるのさ。現金でも、寿命でも、相手の望む形でね。売る場合は、その品物に見合った “ ヨク ” を頂く。あんたさんの年齢では、まだ大してお持ちじゃなかろう?」
 ヨク…って、欲望の事だろうか。そんなものどうやって払えるのだろうと、隆がきょとんとしていると、店主の眼がくるりと動いて隆の財布を凝視した。余程気になるのか、黒目が小さくなって白目が出ていた。
「……その、根付と交換するなら構わないけど、どうするね?」
 財布には叔父が大陸で見つけた年代物の根付が付いていた。象牙で蛙(かえる)が彫ってある。目玉や舌が動くなど細工が精巧で、強請って譲ってもらったものだった。どうしようか迷ったのは一瞬で、隆は根付と石を交換した。
 店を出て携帯で時間を確かめると、既に集合時間に近かった。慌てた隆は前も見ずに駆け出して、前を行く人にぶつかった。相手もろとも派手に転んで携帯や手帳をばらまいてしまった。
「いったぁ……」
 膝をぶつけた上に、石を握り締めていたので指を擦りむき、痛みで前のめりになったまま暫く動けなかった。
「あむないなあ! よう、こないな人の多いとこで走ったらあかんろう? って、なぁ、どもないか?」
 尻餅をついた相手が先に動き出すと、文句を言いながらも隆の散乱した荷物を拾い、踞(うずくま)っている隆を心配して声をかけた。まだ痛みは強かったが、恥ずかしさが勝って慌てて立ち上がると、「すみません! ありがとうございます!」と引ったくるように荷物を受け取り駆け出そうとした。
「こら! 言うたばっかりやろう、走るな! ちょい待て!」
 相手は若い男だった。隆の腕を掴んで叱りつけると、通りの端に引っ張って行った。
 もしや因縁をつけられるのだろうかと隆が身構えると、男は身につけている酒屋のような前垂れのポケットから絆創膏を取り出し、怪我をした指に貼ってくれた。隆は拍子抜けしながら小さく礼を言うと、男は笑いながら「ここでそないに転ぶと、ほんまに寿命が縮むよ」と言った。
「ええっ?」
 さっきも似たような事を言われたのでどきっとしてしまう。その反応に男はニヤニヤしながら
「あれ、知らんの。ここで転ぶと三年寿命が縮むって言われてるよ。あんた、修学旅行生か?」と言った。そう言われれば、祐輔に聞いたような気がする。青くなって男を見ると、「かいらしいね」と微笑んだ。
 その笑顔に、隆の胸がどくんと大きく波打った。好みの顔だった。深い奥二重の目尻にできた笑い皺が優しげで、浅黒く引き締まった顎先の剃り残しのような無精髭さえ好感がもてた。
 小さい頃から同性にしか惹かれなかった。死ぬまで隠し続けるつもりでいるが、不意に感じるときめきは自分の意思ではどうにもならない。赤くなって目を伏せると、手にした石が熱くなった気がした。
「……なぁ! あんた、どっかで会った事おますやろう?」
 笑っていた男が急にひどく焦った様子で訊いた。
 そんな事ある訳ない。京都に来たのは初めてだ。何を言い出すのだろうと不安を感じて男を見ると、頭ひとつ分高い位置からじっと見つめる目と目が合った。
「あっ、ああっ! 思い出した!」
 隆が『ありません』と答える前に、男が大声を上げた。嬉しそうに右手の拳を左の手のひらに打ち付けながら「そや、そや」と繰り返しながら、呆然と口を開けて見つめる隆の肩に両手をかけて、「かんにん、人違いやった。やけど、ほんでもええんや。なぁ、あんた、どこに住んでるん? 名前おせて?」と興奮した面持ちで尋ねた。
 これは、いわゆるナンパだろうか? こんなストレートに誘われたのは初めてだからよく分からない。切羽詰まった様子で腰を屈め、目線を合わせるように近づく男の顔に、隆は狼狽して額から汗が噴き出した。
 好みの男なのだ。こんなチャンスはもうないかもしれない。でも、自分は修学旅行の途中で……。隆ははっとした。そうだ、集合時間!
 ちょうど見ていたように尻ポケットに戻した携帯が震え出した。祐輔からに違いない。
「俺、い、行かないと!」
 男の手を振り払い、小さく頭を下げると一目散に駆け出した。焦っていたが、今度はちゃんと左右を確認した。男は後ろから待ってくれと叫んでいたが、追いかけては来なかった。
 その後は散々だった。全速力で駆けつけたが集合時間に間に合わず、担任にしこたま叱られた上に祐輔にも叱られた。“ 月読みの石 ” を根付と交換して手に入れたと話したからだった。
「親父の根付を、そんな石ころと交換するなんて、お前はその梟親父に担がれたんだよ」と決めつけられ、隆は向きになって石が光ったのだと祐輔の前で何度も触れて見せたが、石は一度も光らなかった。
 ほら見ろと馬鹿にしたように鼻で笑われ、自分でも騙されたのかとしゅんとして項垂れると、
「これに懲りて、もう古物買いはいい加減にするんだな。中には本当に変なモノが憑いているからって、親父にも注意されてるだろう? 偽物で良かったと思えよ。この事は、親父には黙っといてやるから」と慰めるように頭を撫でられた。
 骨折り損のくたびれ儲け…と、少し意味合いのずれたことわざを思いながら、隆は痛む膝頭をさすった。怪我は指よりも膝の擦過傷の方がひどかった。
 ずっと気づかずにいて、宿で風呂に入ろうと制服を脱いだ途端、同級生に「どうしたんだよ!?」と驚かれた。当然お湯はしみるし、集合時間に遅れた罰として食事中ずっと正座させられたのも、かなりキツかった。
 その上 “ 月読みの石 ” がただの石ころだったなんて。こんな事なら、あの男に名前を聞かれたとき、ちゃんと名乗っておくんだった。それに向こうの名前も聞いていたら……。悪い事だけじゃなくて、少しは良い事もあったと思えただろうに。
 そんな事ばかり考えながら残りの日程を過ごしたので、高校生になって初めての修学旅行は楽しくないもので終わってしまった。

 旅行が終わるとすぐに夏休みに入った。
 隆は両親が海外赴任中のため、祐輔の家に部屋を借りている。幼い頃から入り浸っている叔父の家は、隆にとって第二の我が家と言えた。
 叔父は早くに離婚して祐輔と二人暮らしだったから、今や男三人で何の不自由も気兼ねもなく暮している。隆はここのところ毎日寝不足で、昼ごろ起き出す怠惰な生活を送っているが、注意する者は誰もいない。
 叔父が祖父から受け継いだ骨董屋は休日に商う程度で、祐輔に言わせれば単なる “ 道楽 ” だ。普段は大学で文学と書を教えている。講師なので大学が夏休みの今はカルチャースクールで教えている。隆と違って活発な性格の祐輔は、部活動に熱中していて朝から疾うに居なかった。
 ようよう寝床から這い出すと、隆は窓辺に近い机の上の “ 月読みの石 ” を手に取った。何となく大きくなっている気がしたが、きっと気のせいだろう。指先でちょんと三角錐(さんかくすい)の天辺に触れると石がほわりと瞬(またた)いたて、隆は満足げに微笑んだ。
 祐輔が偽物と言った石は、一応本物だった。隆はこの石を使って夢を見ている。但し、梟親父の言った通り、見られるのは月が出ている夜だけで、雨の日や雲が厚くたれ込めていると見られない。試しに石を月光にあてず眠ったら、夢を見る事は出来なかった。
 一応、とつけるのは、夢の中の出来事が前世かどうか分からないからだ。それでも隆は満足していた。夢の中で、ある男に出会えるからだ。その男逢いたさに、毎晩のように石を窓辺に置いて眠りについた。そのせいか眠りが浅く、朝はなかなか起きられない。
 初めて夢を見たのは、石を手に入れてから二週間が過ぎた頃だった。
 騙されたと思っていたから、見るのも忌々しくて、すぐに机の引き出しに仕舞っておいたが、叔父が祖父の仏壇に供える月餅(げっぺい)を買って来たのを見て、試してみようという気になった。
 隆と祐輔の祖父である片桐清志郎(かたぎり せいしろう)は霊感の強い人で、異形(いぎょう)の者を見る事が出来たという。その祖父が、月には不思議な力があるとこよなく愛でて、月に因んだ骨董を数多く集めていたのを思い出した。どうせなら、駄目元で試してみよう。そんな些細な思いつきだった。
 その晩の月は満月から少し欠け始めていたが、それでも煌煌(こうこう)とよく輝いていた。カーテンを開け放って机の上に “ 月読みの石 ” を置くと、まるで本物の蛍のように一定の間隔を空けて黄緑色に淡く光った。どんな夢が見られるのかと、わくわくしながら布団に入ると、どこからともなく麝香(じゃこう)の香りがしてすぐ眠りに落ちた。
 ぼんやりした耳元でチリチリ、チリチリと微かな虫の音がする。眠ったときは蝉の鳴き声が聞こえていたから、ああ、夢の中はもう秋なんだと思った。
 ふと、瞼を透かして感じていた月の光が遮られたので、ゆっくり目を開くと、男が隆を見つめていた。あまりに近くてはっきり見えなかったが、段々焦点が合うようになると、どこかで見た顔だと思ったが、思った瞬間キスされて、隆は悲鳴を上げそうになった。けれど、声が出ない。そして、感触もあまりなかった。
 それでも、かなり激しく口づけられているのは分かる。音が聞こえるのだ。ちゅっと吸い付いて離れる音、舐(ねぶ)る舌の鳴る音、男の荒い息づかい。夢の中の自分は、しっかり男の首筋にしがみついて、行為に夢中になっていた。
 男が誰だか分からないのに、隆の胸の奥からは、この男を愛しく想う気持ちが混々と溢れていて、泣きたくなるほど切なかった。
 着物を脱がされ肌をくまなく愛撫される。感触は本当に僅かしかなくて、産毛を撫でられるようなもどかしさが、余計に欲情を煽られた。隆はしっかり反応していた。でも、声が出せない。男は隆の昂りを握り、優しく愛しげに扱いてくれる。
 ……どんなに、遠く離れていても、あなたは、私に繋がっているよ……。
 行為の途中で男が囁く。
 必ず、生きて…帰って来るから、私の帰りを、待っていておくれ……。
 男はどこかへ行ってしまうのだろうか。やっと会えたのに。そう思うと、胸が潰れそうなほど切なかった。
『どこへ行くの? いかないで』と口を動かしてみるが、はやり声は出ない。なのに、夢の中の自分は何かを男に告げているようで、男は目を細めて愛しそうに隆を眺め、口づけながら隆のそこを扱くので、思わず感じて精を放ってしまった。気怠さに目を閉じると、耳元で『約束だ』と囁かれた。
 はっとして目を開けると既に朝で、隆の下着は濡れていた。慌てて脱ぎ捨ててタオルケットを巻き付け丸くなった。恥ずかしかった。やっぱり梟親父に担がれたのだと思った。夢の中の男の正体も分かった。京都でぶつかったあの男だ。
 この石は前世を見られるものじゃなく、手慰みをするための道具じゃなかろうか。意中の相手を夢に見ながら自分で慰めるための……。
 隆は家に誰もいないのを確認してから、情けない気分で風呂場で下着を手洗いしてから、誤摩化すために他の洗濯物と一緒に洗った。
 けれども、その夜も隆は迷わず石を月に曝(さら)した。逢いたかったのだ、あの男に。石は月の色に輝き、望み通り男は夢に現れた。昨夜とは違う髪型、違う服装だった。時代も違った。それから毎晩、月が出ている限り隆は男に逢っていた。
 そうして二週間が過ぎる頃、隆の寝不足はピークに達していた。目の下には隈ができ、体重も二キロ減った。
 当然、叔父や祐輔に心配されたが、食欲はあるし、きちんと食べている。ゲームをして夜更かしが過ぎるのではと、夜中に部屋を覗かれているようだが、隆は眠っているので二人は首を傾げるばかりだった。
 隆も体調の変化を気にしてはいたが、心が満たされているのでそれほど深刻に受け止めなかった。今日は新月で月が出ないから夢は見られない。一日ゆっくり眠れば、疲れもとれるだろうと思った。
 石は机の上に出したままだった。もう机の引き出しには入らないくらい大きくなり、隆の減った体重と同じくらい重くなっていた。
 布団の上でうつらうつらしていると、ヒソヒソ話す声が聞こえた。
 月がないのに夢を見られるのだろうかと薄く目を開けると、叔父と祐輔が机を囲んで何やら話している。寝起きでぼうっと見ていると、叔父が石を骨壺のような白い陶器に入れた。隆ははっとして叫んだ。
「止めてよ!」
 ふたりは振り向いて厳しい顔で隆を見ていた。叔父が「これを持っていてはいけない」と言った。そうして石を入れた骨壺に蓋をしようとする。
 隆は慌てて立ち上がり取り返そうとしたが、祐輔に羽交い締めにされた。体力が落ちているから振りほどけない。それでも必死だった。あの石がなければ、もう男に逢えない。
 堪らず声を張り上げて「嫌だ!」と叫んだ。すると、その声に応えるように陶器が震えて叔父の手から転がり落ちた。弾みで蓋が外れ、石が外へと転がり出した。
 気を取られた祐輔の力が緩んだ隙に、隆はその腕を振り切って石を掴もうとしたした。その瞬間、石が眩しく閃光した。
 目がくらむほど強い光に咄嗟に目を閉じると、また強い力で身体を押さえつけられた。猛烈に暴れたがびくともしない。離してと喚くと、静かにしろとドスの利いた声で一喝された。
 叔父の声ではない。祐輔でもない。驚いてよく見ると、隆は素っ裸で見知らぬ男二人に掴みかかられていた。
 石が光ったから夢の中なのだろうと予想は出来たが、今までの夢と全然違う。自分の声が聞こえる。掴まれている腕が痛い。すえたような汗臭い男たちの体臭が鼻を突き、吐き気がした。全てがリアルだった。リアル過ぎた。
 夢はいつでも唐突に始まったが、こんな事は一度もなかった。男がいないなんて…。あの男はどうしたのだろう? どうしてここにいないのか?
 真っ白だなと、下卑た笑い声を上げる男の手が隆の胸を撫でた。ぞわっと全身が総毛立った。恐怖で喉が詰まって息も出来ない。心の中で一心に男を想った。助けて、助けて、たすけて――
「このっ、不埒ものどもがぁ〜っ、どけぇ〜っっ!!」
 怒声と共にガンガンと金物を叩く凄まじい音が聞こえた。途端に隆を押さえていた腕が離れ、男たちは脱兎のごとく逃げて行った。ガシャンと金物が地面に落ちる音がして「大丈夫か?」と声の主が駆け寄って来た。
 声ですぐに分かっていた。夢の中の男だ。隆は安堵して泣きながら男の胸にしがみついた。自分の泣き声が聞こえるなんて、当たり前の事なのに不思議な気がした。
 男は抱きつかれて「わあっ!」と素っ頓狂な声を上げた。それでも、恐る恐る隆の背中に触れると優しく擦りながら「もう大丈夫だ」と繰り返した。
 男の胸からも汗臭い匂いがしたが、ちっとも嫌ではなかった。もっと感じたくて男の背中をぎゅっと抱きしめて、思い切り男の匂いを嗅いだ。
「お、おい、きみ……」
 男は狼狽えたような声を出したが、無理に引き離そうとはしなかった。ゆっくり身体を離して男を見上げると、男は驚いた顔をして、「……なぁ! きみ、どこかで会った事ないかい?」と尋ねた。
 聞き覚えのある台詞に、隆は潤んだ瞳で笑った。
「あります……」と答えると、男はほっとしたような、どこか嬉しそうな様子で「やっぱり……」と呟いた。
 今まで夢の中では男が一方的に喋っているだけで、会話は成立しなかった。なのに、ちゃんと通じる。隆は自分が夢の中へ捕われたのだと悟った。
 この夢は、いつ覚めるのだろう?
 ここがどこなのか、いつの時代なのか、そして、夢なのかさえ分からない。どうなるのだろうという重い不安とは裏腹に、男を直に感じられる事が、夢のように幸せだと思った。

NOVEL [↑] NEXT

Designed by TENKIYA