INDEX 月読みの石  [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 夢の跡

 夢の中 [1]

 騒がしい雀の鳴き声で目が覚めた。
 うっすら目を開けると、既に明るい日差しに満ちて眩しかったが、いつものように湿り気を帯びた暑さはなくて、まだ早い時間なのだと分かる。いつになく目覚めが良いのは、夢を見ずに寝られたせいだろう。目を擦りながらあくびをした途端、隆ははっとして飛び起きた。
「ここ、どこ?!」 
 自分の部屋ではなかった。畳みの部屋だ。左手に襖、右手に雪見窓の付いた障子。
「客間…?」
 叔父の家の客間だとすぐに分かった。あまり立ち入らないが見慣れた場所だ。ただ、襖の唐紙が違う気がする。壁の色も少し違う。まるで、よく似た雰囲気の別の家のようだ。
 それにしても、どうして自分はこの部屋で寝ているのだろう。しかも、浴衣姿で。考える間もなく、月読みの石が脳裏に浮かんだ。
 隆は慌てて立ち上がると部屋を飛び出した。
 早朝なら叔父と祐輔が居間でまだ朝食をとっている筈だ。捨てられる前に石を取り返さなければ。
 古い家の客間は二間(ふたま)続きで、隣りの部屋の襖を開けると廊下に出る。小さな中庭を囲むように渡した廊下を、行儀悪く足音を響かせて走り抜け、客間と反対側の居間に通じる襖を開いた。
「叔父さん! 俺の “ 石 ” 返してよ!」
 襖を開きざま勢いに任せて怒鳴った声に振り返ったのは、叔父と祐輔ではなく、夢の男と、男と同じ年くらいの叔父によく似た青年だった。
「なっ……」
 なんで? という台詞は喉の奥へ逆流した。
 きっと自分と同じくらい驚愕しているのだろう、見開かれた四つの瞳と目が合った。隆の脳裏に昨夜の出来事がはっきりと蘇った。
 昨夜、叔父と祐輔に月読(つくよ)みの石を取り上げられた。
 奪い返そうと揉み合っているうちに石が激しく閃光し、眩しさに目を瞑ったすぐその後、隆はいつもの夢の中にいて、全裸で見知らぬ男たちに乱暴されそうになっていた。そこへ、夢の男が助けに来てくれて、初めて言葉を交わしたのだった。
 だが、いくら思い返そうとしても隆にはその後の記憶がなかった。
「やあ、元気になったみたいで良かったよ。でもさぁ、オジサンってのはないだろう? 俺たちまだ二十歳そこそこで、若いんだぜ」
 夢の男が驚きの表情を解いて、親しげな笑顔を浮かべて話しかけた。
「あっ…ごめん、なさい……」
 何とか声は出たけれど、どうしていいか分からない。
 いつものように夢を見ただけだと思っていたのに…。夢はまだ、続いているのだ。
 否、夢なのかさえ分からない。男と言葉が交わせるのだから。
「寒いから、中に入っておいで」
 襖に縋り付いていた隆に、男が中に入るよう促した。言われると、廊下の冷たさが素足にしみた。
 二人は大きな座卓の横に置かれた火鉢に手をかざし、寒そうに向かい合って座っていた。叔父に似た青年は地味な紬(つむぎ)に綿入れを羽織り、男の方は書生のような立ち襟のシャツに、カーディガンと黒いウール地のズボンを履いていた。
 今って、冬なんだ。そう思いながら、隆は小さく頭を下げて怖ず怖ず中へ入った。夢の男がニコニコしながら隣りに座れと手招きし、自分が座っていた座布団を譲ってくれたので、仕方なく男と青年の間に出された座布団の上に座った。
 男は羽織っていたカーディガンも脱いで、浴衣一枚だった隆の肩にかけてくれた。男の温もりに包まれて、隆は初めて自分の身体が冷えきっていたのに気がついた。
 いったい “ 今 ” は “ いつ ” なんだろうか。
 元いた場所は夏だったから、こちらもそうだと思い込んでいたが真冬になっているし、季節だけでなく、彼らの服装や見慣れた筈の家の設(しつら)えも、自分の時代の物とは趣(おもむき)が違っていた。
 隆の知識で判断できるのは、近代で平成の時代からそう遠くはないだろう、という事くらいだ。
 今までも夢を見るたび時代は違っていたけれど、そう困る事はなかった。まるで映画を見ているように、男との追憶の日々を、ただ黙って辿っていればいいだけだったから。
 それが今は、男とは恋人どころか知り合いでもない。これから自分はどうなるのだろう。
 男に救い出された時は、夢のように幸せだと思った。けれど現実は、文字通り五里霧中の状態で、泣きたい気持ちでいっぱいだった。
 心細さに震えると、それを見た男が「まだ寒いか?」と心配そうに聞いた。「大丈夫です」と首を振ると、男は目尻に皺を寄せて微笑んだ。夢の中と同じで男はとても優しい。恋人じゃないのは悲しいが、その優しさが支えに思えた。
「もうすぐ朝飯が出てくるから、それまで、君の事を教えてくれないかな。昨日、聞きたかったんだけど、君、眠っちゃったから」
 助けられた後すぐに気を失うように眠ってしまった隆を、男は背負って彼の下宿であるこの家に連れ帰ったのだと言った。
 隆は目線だけ廻らして居間の中を見回した。叔父の家の居間は洋間だが、ここは立派な床の間のある和室だ。
 けれど、はっきり見覚えがあった。洋間にリフォームする前は、ここにあるのと同じ、隆が気に入っていた麒麟(きりん)の欄間飾(らんまかざ)りのある和室だった。
 間違いなく、ここは叔父の家だ。正確に言えば、叔父が引き継いだ “ 祖父 ” の家だが、その “ 昔の家 ” の中にいるのだ。では、自分の隣りに座っている叔父によく似た青年は、誰なんだろうか。
 訝しげに青年を窺っていた隆に気づいた男が、すぐに疑問に答えてくれた。
「彼はこの家の主で、友人の片桐清志郎(かたぎり せいしろう)。俺は、落合洋(おちあい よう)。俺も清志郎も、昨日、君がいた上野の美校の画学生だよ」
 片桐清志郎と聞いた途端、隆は瞠目して青年の顔を凝視した。祖父の名前と同じだったからだ。
 祖父の清志郎は、隆が産まれる前に亡くなったので会った事はないが、叔父からも母からも、不思議な人だったと繰り返し聞かされていたから、どんな人かはよく知っている。
 祖父と同じ名前の青年は、落合と名乗った夢の男の紹介で目礼したが、言葉は発しなかった。ただじっと、興味深げに隆の顔を眺めている。隆も穴が空くほど清志郎の顔を見つめ続けた。
 知的な印象を与える切れ長の目元など、本当に叔父とそっくりだ。無論、青年の方が若く、もっと鋭い顔立ちをしている。
 少し神経質そうな尖った視線に見つめられ、隆の心臓は緊張とは別の動悸が起きた。
 身体に感じる変化も、この場の空気も、全てがリアルで夢とは思えない。けれど、知る筈もない若い頃の祖父と会っているなんて…あり得ない。馬鹿げた妄想を夢として見ているのだろうか。
「……なに見つめ合ってんの?」
 落合が二人の様子に不満そうな声を上げた。隆がはっとして落合を見ると、顔を覗き込まれ「君の名前は?」と聞かれた。
「染谷隆(そめや たかし)です」
 咄嗟に答えると「君、中学生だろう?」と言うので、慌てて首を振り「高校生です。早生まれだから、まだ十五ですけど……」と答えた。
「十五! じゃあ、やっぱり違うかぁ…。俺、君に会った事があるって思ってたけど、それって、君が西洋画科のモデルの子だと思ったからなんだ。でも、よくよく見れば、すごく幼い顔してるし、君をモデルに描いた覚えもない。でも、君は俺に会った事があるって言ってたから、どこでだろうと思って。それに、君はどうしてあんな時間に、美校の教室になんかにいたんだい?」
 落合の矢継ぎ早の質問に、隆は答えに窮(きゅう)して下を向いた。
『夢の中で会っていた』だなんて、言っても信じてもらえないだろう。それに、何故あの場所にいたかなんて、自分だって分からない。自分の存在を、どう説明したらいいのだろう。
「そんなにいっぺんに聞かれても、答えられないだろうよ」
 それまで黙っていた清志郎が、助け舟を出すように口を開いた。初めて聞いた清志郎の声は、叔父よりも祐輔に似ているような気がした。
 顔を上げ縋るように見つめると、清志郎は穏やかに「君の家は何処なんだい?」と聞いた。
「昨日の事はどうあれ、今ごろ君の親御さんが心配しているだろうから、先に使いを出して、こちらにいる事を知らせなければ。余計な事は、食事の間にでも聞けばいい」
 それを聞いた落合は、自分の質問を余計な事と一蹴(いっしゅう)され不満そうだったが、異存はないのか黙ってしまった。
 隆の返事を待つ長い沈黙が続いた。
 どうしようか焦りが募り、冷や汗が滝のように背筋を流れた。夢ならば、自分が窮地に陥れば疾っくに目が覚める筈だ。なのに、その兆しは一向にない。
 もう、自分の身に起きた事を正直に話す事しか思いつかなかった。だがその前に、はっきりさせたい事があった。
「……あの、今って、何年なんでしょうか?」
「何年って?」
 長い沈黙の後の隆の質問が予想外だったのか、落合は戸惑ったように聞き返したが、代わりに清志郎が的確に答えた。
「年号の事なら、昭和十六年の十一月三日だ」

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