INDEX 月読みの石  [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 夢の跡

 夢の中 [8]

「どういう、こと…?」
「言った通りだ。水に顔を付けて、七十一年後にこの家で起きている事が知りたいと願った。目を開くと、ベッドに寝かされているお前の姿が見えて、その脇に私によく似た壮年の男と、お前と年格好の似た少年がいた……」
 隆は死んだように眠っていたと清志郎は言った。
 腕に点滴の管をつけベッドに眠るその傍らに、一緒に暮らしていると言う叔父とその息子らしき少年が、憔悴しきった様子で座っていた。
 はじめは病室だろうと思ったが、暫く観察していると勉強机や本棚があったので部屋の中らしい事が窺えた。カーテンがひかれていない窓の外は暗く、時刻は夜らしい。その時ふと気がついた。窓辺に近い机の上で小さな石のようなものが、蛍の光のように一定の間隔で点滅していた。まるで息をしているかのように。
 あれが “ 月読みの石 ” だ。
 清志郎は直感した。そして、思わず口を開いた。『それを寄越せ!』と。
 当然の如く、水の中で空気が吐き出されただけで、ボコボコと空気が泡立つ音がして、噎(む)せ返りそうになった。すると、見えない筈の二人がぎょっとしたように顔を上げ、清志郎を見つめた。清志郎は必死になって『石、石』と口を動かしたが、二人はこちらを凝視しするだけで固まったように動かない。
 息が続きそうになかった。清志郎は顔を上げる間際、代わりに右腕を洗面器の中へ突っ込んだ。この洗面器が使えるのは一日に一度だけ。しかも同じ場所が見られるかどうか分からない。腕を身体が入る限り突っ込んだ。
 可能なら、そのまま向こうへ行っても構わないと思ったが、清志郎の肩幅ではどうやっても入らない。それでも、石のあった方向へ腕を伸ばした。清志郎が何をしたいか、二人が気づいてくれる事を願いながら。
 暫くそうしてもがいていたが、掌に何かが触れる感触があった。握ると小さくて固い。清志郎は意を決して腕を引き上げた。ずぶ濡れになった手の中には、三角錐の小さな石が入っていた。
「だから、この石は本物だと思うが、違うと言うなら、お前がこの洗面器を使って、向こうへ通り抜ければいい」
「無理だよ!」
 確かに隆は十五歳にしては小柄だが、さすがに洗面器の中へは入れない。首を振ると、清志郎は「いざとなったら、私が腕の骨を抜いてやる。そうしたら通るだろう」と恐ろしい事を口にした。
「どうして? 何でそんなに、俺を帰したがるの?」
 恐らく石は本物だ。けれど、清志郎がどうしてそこまでして自分を帰したがるのか分からない。もしかして、嫌われているのだろうか。
「どうしてだ? 何寝惚けた事を言っている! 今、この時代は、戦争をしているんだぞ? この先、お前がここにいて危険な目に遭わないためには、元いた場所へ帰るのが一番良い方法に決まっているだろうが!」
「嘘だ!」
 隆は拒絶するように叫んだ。睨みつけると、清志郎も同じだけ強い視線を向けてきた。
「清志郎さんは、俺の事が嫌いなんだ!」
「嫌いな訳があるか! お前は私の孫だろうが!」
 その言葉に、隆は目を見張った。清志郎は真剣な眼差しで隆を見つめていた。
「この目で、未来の世界を垣間見た。お前の言ってた事は、本当だった」
「でも、だったら……」
 自分を嫌ってないと言うのなら、他の理由は一つしかない。清志郎は、落合と自分の関係を認められないのだ。
「洋さんと別れさせたい、から?」
「……そうじゃない」
「嘘だ。だって、俺が元の時代に帰るって事は、そう言う事だよ!」
「確かに、そうなるが…別れさせたいと思ってる訳じゃない」
「矛盾してる! 嫌だよ。俺は帰らない。洋さんが好きだから、ここに ――」
 言い終わらないうちに頬を叩かれた。親にも叩かれた事がない隆はショックで言葉が出なかった。頬を押さえたまま清志郎を見ると、叩いた清志郎の方が辛そうに顔を歪め、浅い呼吸を繰り返していた。叩いた右手も小刻みに震えていた。
「頭を冷やせ! 好きなヤツのために、危険な場所にとどまるなんて、恋に狂って冷静な判断ができない証拠だ。恋なんて、生きていたらいつでも出来る。だが、死んだら終わりなんだぞ!」
「死んだって、構わないよ! 生きてたって、一人になったら意味ないじゃないか!」
「隆!」
 興奮して互いに声が大きくなっていた。隆は清志郎の声を遮るように大声で叫んだ。
「向こうに戻ったって、簡単に恋なんかできないんだ! 俺、洋さんと一緒だもの、男しか好きになれないんだもの! 俺の生きてる時代になったって、男の恋人を見つけるなんて至難の業なんだよ。寝るだけの人を探すなら簡単かもしれないけど、俺が欲しいのは、洋さんみたいに心から想い合って、愛してくれる人だよ!」
 清志郎は隆の剣幕に押されて息を飲むと、隆を見つめたまま動かなくなった。
 隆の声は屋敷中に響いたとみえて、遠慮がちなノックの後に、「旦那様! どうされましたか?」と梅子の心配げな声が続いた。
 清志郎は梅子の声で我に返ると扉の方へ向かい、「何でもない。下がってくれ。部屋には近づくな」と告げた。それから隆に背を向けたまま静かに言った。
「私が下宿屋を辞めたとき、どうして落合を追い出さなかったと思う?」
「……同じ学校の友だちだから」
「それもある。でも、それだけじゃない。落合は他の奴らと違って、人として信頼できる男だからだ。科は違ったが、あいつの事は入学した時から知っていた。才能があるのに自信がなくて、その分誰より真摯に努力していた。消極的なヤツかと思って話して見れば、あっけらかんと陽気で、変に大胆なところもあって、そのくせ、思い込んだら一途で頑固な…良い男だった。だから、落合ならお前を任せても構わないと思っている」
「だったら、どうして!」
「元の時間のお前は、まるで死んでいるようみ見えて…恐ろしかった」
「えっ?」
「殆ど昏睡状態で点滴だけで命を繋いでいるのだろう。お前がここに来てから、もう二ヶ月以上経っている。向こうでの時間の進み具合は分からないが、このままお前の魂が戻らなければ、あの身体は近いうちに死を迎えるだろう。そうしたら、どうなるんだ?」
 清志郎は振り返ると悲痛な顔で隆を見た。
「向こうの、本当のお前の身体が死んでしまっても、お前はこちらで生き続けられるのか?」
 そんな事を訊かれても分かる筈ない。でも、恐らく…。隆は自分の考えを打ち消すように、ぎこちなく首を振った。
「消失、してしまうのではないか?」
 図星を指されて下を向いた。消えるだろう。人魚姫が海の泡になるみたいに。
「傍にいた二人も憔悴しきっていた。あれが、叔父さんと従兄弟なのだろう? お前が心配でずっと看ているのだろうな。両親の姿はなかったが……」
「二人は、仕事で日本にいないから……」
「だったら、まだ呼んでいないのだろうな。騒ぎ立てて心配させたくないからだろうが、それも時間の問題だろう。お前は、大切な人を悲しませたいのか?」
 下を向いたまま首を振った。そんな訳がない。死にたくはない。
「今ならまだ間に合う筈だ。私は、お前を死なせる訳にはいかない。見す見すお前を死なせては、彼らに申し訳が立たないし…落合だって嘆き悲しむだろう。だが何より、私自身が辛い。私だって、落合に負けないくらい、お前を愛しているのだから」
 驚いて隆が顔を上げると、「肉親としてだぞ…」と清志郎は慌てたように付け足した。
 隆はまた下を向いた。清志郎の言っている事は正論だと思う。それでも、落合と一緒にいたい気持ちが勝っていた。
 黙っている隆に、清志郎は諭すように説得を続けた。
「仮定として、お前がこちらの時代で生き続ける事が出来たとしても、この先戦争が激化すれば、益々不自由な生活を強いられる事になる。今までお前を見てきて、お前がそんな生活に耐えられるとは思えんのだよ。食料事情が悪くなれば、体力も落ちる。そうなれば、どんな病気にかかるか分からん。一番怖いのは結核だ。特効薬のない不治の病だ。風邪に似ているから、放置して悪化させると手遅れになるんだぞ」
「結核は、不治の病じゃなくなったよ」
「馬鹿! それは、もっと先の話だろうが!」
 清志郎は呆れたように怒鳴りつけ、苛々と乱れた落ちた前髪を掻き上げた。
「それに、私だって近いうちに招集されるだろう。ずっとお前の傍にいてやりたいが、それが出来ないから心配なんだ。私の戻って来るまでの間、頼る者のいない状態で、何も出来ないお前が、どうやって生きて行くんだ?」
「梅子さんたちが、いる」
「ああ、そうだろう。彼らはお前を助けてくれるだろう。自分たちの食料を削ってもな」
 隆は泣きそうになって下を向いた。戦時下のこれから先の生活苦は、知識として隆の方がよく知っていた。
 戦争は激化の一途を辿り、地方よりも東京のような都市部の人々が、食糧難と空襲で命を削る苦しみを味わう事になる。食べるのも逃げるのも、一人増えたらそれだけ余計な苦労も増えるだろう。
「落合は、私を世間知らずの坊ぼんのように言うが、私に言わせれば、アレの方が現実を分かっていない夢想家だ。私だって考えたくはないが、万一落合が命を落としたら、お前がこの時代にいる意味はなくなってしまうんだぞ。それでもこの時代で生きて行きたいか?」
 隆は堪えきれずに泣き出した。落合が死んでしまうなんて、思うだけでも悲しくて胸が潰れそうになる。
 嗚咽を漏らし始めた隆を、清志郎の手が少し乱暴にその胸へ抱き寄せた。
「悪かった。泣かせるつもりじゃなかった。言いたい事は…つまり、お前に生きて欲しいんだ。そして、私たちの希望になって欲しい」
「きぼう…?」
「ああ、そうだ。仮定の話をしたが、お前がこのままここにいたら、十中八九、お前は消失してしまうだろう。そうなれば、落合が帰って来ても絶望を与えるだけだ。そして、私も、梅子も、徳一も、悲しいまま生きて行かなきゃならない。今、お前が帰るのも、もちろん悲しいさ。もう二度とお前には会えないし、それは変えようのない事実だ。でもこれは、死に別れるのとは違う。会う事は叶わなくても、戦争のない平和で便利な世の中で、お前が家族に囲まれて毎日元気に生きているのだと思えたら、悲しみの先に希望がもてる。落合だって、老人になってはしまうだろうが、お前の時代でこれから会えるかもしれない。そう思って、辛くても乗り越えて生きて行ける筈だ」
 清志郎の胸から鼓動と一緒に耳に流れ込む言葉は、隆の胸へしみ込むように伝わった。
 未来の、自分の時代で生きて行く事が、みんなの支えになるのなら、帰る意味はあるのかもしれない。けれど、老人になっていても構わないが、再び落合と会えるという保証はどこにもない。
「ひとりで生きるは…やだ…。洋さんじゃなきゃ…やだ……」
 駄々を捏ねる子どものように呟くと、清志郎が慰めるように優しく頭を撫でた。
「お前は、何かの間違いでここに来たんだから、お前の時代で、きっとお前を待ってる人がいる。男同士の恋愛は難しいと嘆くが、そりゃあ、真剣であればある程、簡単に恋など出来ないさ。それはいつの時代でも、男女の仲だって変わらない。でも、人は誰でも、未来が分からないからこそ、まだ見ぬ明日に期待して、希望をもって生きられるんだ。お前は、骨董の事もそうだが、過去にばかり捕われる。前を見ろ。そうすれば、きっと会えるさ。落合にも、未来で待ってる、お前の本当の恋人にも……」
 隆には、もう返す言葉が見つからず、清志郎の胸の中でこくりと小さく頷いた。

NEXTは18禁ページです。18歳未満の方と性描写が苦手な方は、上部よりINDEXでお戻りください。

BACK [↑] NEXT

Designed by TENKIYA