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 夢の中 [3]

 隆はすぐに落合を追いかけようと思ったが、清志郎に「朝食をとってからだ」と諌められた。
 悠長にご飯を食べる気分ではなかったが、女中の梅子が「お待たせしました」と座卓に朝食の膳を並べるのを見ると遠慮なく腹の虫が鳴った。
「食べなさい」と清志郎に促され、隆は赤くなりながら有り難く旅館のような朝食に箸をつけた。
 隆も清志郎も、始めはただ黙々と食べていた。隆は気まずい空気を何とかしようと、厚揚げの煮物を見て思い浮かんだ “ ハク ” の事を尋ねた。
「君の後ろに座ってる」
 事も無げにそう言われ、ぎょっとして後ろを見たが何もない。やっぱり見えないのかとがっかりして、「見てみたい…」と呟くと、清志郎はちょっと驚いた顔をした後、「君は面白い子だね」と破顔した。
 それを切っ掛けに、清志郎はハクや、家にある骨董品に憑いた妖怪の話を聞かせてくれた。一見取っ付きにくく見えるが、清志郎はそれほど気難しくないようだった。
 ふと、死んだ人と話しているんだなと、不思議な気分になったが、子どもの頃から話に聞いて、密かに憧れていた祖父と話せるのは、純粋に嬉しかった。もっと親しくなりたかったし、自分が孫だと信じて欲しかった。それには、二人の知識が共通するこの家の事しかないだろうと、隆は思い切って自分から話題を振った。
「あの、この部屋って、“ 松の間 ” って呼ばれてるけど、障子の桟の模様じゃなくて、赤松の床柱からついた名前ですよね。でも、俺は欄間の模様から、“ 麒麟(きりん)の間 ” って呼んでたんですよ。洋間に改装したから、もう残ってないんですけど……」
 清志郎の驚く顔に手応えを感じ、更に話を続けた。
「俺の時代で名前の由来した物が残ってるのは、こっちの棟の奥にある書斎の菊の間の丸窓と、菖蒲(あやめ)の間のステンドグラスくらいです。どっちも元から洋間だったから、そのままにしてあるんだって、叔父が言ってました。菖蒲の間は祐輔が使ってます。その前は叔父が使ってたって……」
「私の部屋だ。代々長男が使う事になってる」
 清志郎が思わずと言った口調で口を挟んだ。
「その、祐輔という子は…君の叔父さんの、子どもになるのか。だとすると、その子が片桐の家を継ぐのかな?」
「はい。祐輔は清治(せいじ)叔父さんの一人息子だから……」
「叔父さんは、セイジと言うのか……」
「はい。清志郎さんの清の字に、治めると書いて清治です。母は志に保つ子と書いて志保子(しほこ)……」
「もう、いい!!」
 清志郎は手を挙げて隆を制するように強い口調で言った。隆ははっとして口を噤んだ。
 自分のまだ見ぬ将来を、その本人が望んでもいないのに、こんな雑談の中で知ってしまいたくなかったのだろう。慌てて謝ると「否、いいんだ…」と瀬志郎は笑ったが、その後は口を閉ざし、前より気まずくなってしまった。
 茶碗の音だけが響く中、清志郎は時折なにか言いたげに隆の方を見たが、隆と目が合うと視線を逸らした。未来を知りたい誘惑と葛藤しているのだろう。
 もし、未来を知っている人間が目の前にいたら、自分ならどうするだろうかと隆は自問した。
 考え無しだから、きっと聞いてしまうだろう。例えば、どんな仕事に就いたのか。誰と一緒に暮らし、どんな風に死んでいったか…。
 不意に、落合が部屋を出て行く前に言った言葉が、心に重くのしかかった。この時代の誰もが一番気になる事。それは、“ 戦争 ” の事だろう。
 清志郎の場合、(信じるならばという前提だが)孫だと名乗る隆が存在し、この家で暮していると聞いたのだから、日本が勝ったかどうかは別として戦争は終結し、自分が死ななかった事は分かるだろう。では、戦地に行くと言っていた落合の場合、彼の生死はどうなったのか。
 落合があれほど必死になって尋ねた理由(わけ)が分かったが、知らないものは答えようがない。けれど、好きな人の生死に関わる事だ。隆だって気になって仕方がない。
 戦争が終わるのは昭和二十年。あと四年も戦争は続く。そんなに長く戦地にいて、生きて帰って来れただろうか。
「あの…、従軍画家って、何ですか?」
 初めて聞く言葉だった。他の言葉ならニュースで聞く事もあるが、画家が戦争に行って一体何をするのだろう。
「戦意高揚のために、作戦記録画を描くんだ。現地部隊とともに行動して戦地を回り、兵隊や戦況を描く。それが従軍画家だ。軍からは、最初は違う画家に依頼が来たんだが、辞退したために美校の教授が落合を推薦した。それを、あいつは引き受けたんだ」
「それって、落合さんが言うように、死んだりするんですか?」
 変に動悸がして声が震えた。
「戦うために行く訳じゃないから最前線に出る事はないだろうが、半年近く戻れないだろうし、全く危険がないとは言いきれないだろう」
 清志郎は箸を置き、難しい顔で腕を組んだ。
「断れるんでしょう? 他の人は断ったんですよね? なのに、何で引き受けたんですか!」
 本人ではないのに、つい責める口調になってしまう。
「このご時世では、絵など描いても売れやしない。美校を出たての若造の絵など尚更だ…。落合が引き受けたのは、生活のためだろうが……」
 清志郎は言葉の途中で目を伏せ、「従軍画家など…私もどうかと思うよ。心から描きたいと望まず描いた絵など、看板と変わりゃあしないだろう」と吐き捨てた。
 隆は居ても経っても居られない気持ちになり、清志郎が「そっとしておけ」と止めるのも聞かず、落合の部屋を訪ねた。

「あの…、落合さん、隆です。入っても、いいですか?」
 部屋の前で遠慮がちに声をかけた。
 居るはずなのに返事がなく、勝手に開けていいものか迷い、濃い紫の地に浮かび上がる萩の模様の唐紙を眺めて佇んだ。襖なのが不思議な気がした。
 この部屋は隆が中学三年生の時、この家で暮すと決まってから居間と同様に洋間に改装した。古い家は老朽化が激しく、あちこち手を入れないと保てない。お陰で昔の面影を残す部屋は少なく、部屋の名前も由来しか分からないものが殆どだ。名前は部屋ごとに違う贅を凝らした飾り障子の模様に因(ちな)んでいた。落合の部屋には萩の彫刻を施した飾り障子がある筈だ。
 洋間に障子は必要ないから捨てる筈だったのを、何故か母の意向で桟に磨りガラスをあて、廊下側の壁にはめ込んで明かり取りなった。はめ殺しにした萩の彫刻は見た目は美しかったが、灯りは漏れするし音漏れするしで、使い勝手は悪かった。
 その部屋に、恋い焦がれた夢の男が下宿していたなんて、一体どんな縁(えにし)なのだろうか。否、やっぱり都合の良い妄想なんだろうか。そんな考え事に浸っていたので、襖がすっと開いた事に隆は全く気がつかなかった。中から伸びて来た手に腕を取られ、危うく悲鳴を上げそうになった。
「まだそんな薄着をしているの? 風邪引くよ」
 言いながら落合は隆の手を引いて、鉄瓶が湯気を立てている火鉢の傍へと連れて行った。
 自分の部屋とは違って、落合の部屋はずいぶんと散らかっていた。本やらイーゼルやら布団やらが、ぞんざいに隅へと追し遣られ、火鉢の周りだけどうにか畳みが見えていた。待たされたのは急いで片付けていたかららしい。
 窓には隆の見慣れた萩の飾り障子があった。閉めてあるので外の景色は分からないが、開けたら桃の木が見える筈だ。
 隆は火鉢の前の座布団に座らされ、ずいっと菓子盆を押し付けられた。干し柿や干し芋がみっしり詰まっていたが、一部隙間が空いているのは、落合が朝食代わりに摘んだからだろう。
 落合は隆の隣に腰を下ろすと、咳払いをして「あいつ、どうしてた?」と聞いた。
 菓子盆から顔を上げ、「あいつって、清志郎さんの事ですか?」と聞くと、「うん」と頷いた後、怪訝そうに「何であいつだけ、名前で呼ぶの?」と言った。
「あ…何となく……」
 お祖父さんと呼ぶ訳にはいかないし、だからと言って片桐さんと呼ぶのは、あまりに他人行儀な気がした。
「じゃあ、俺の事も洋さんって、名前で読んでよ」
 落合が不貞腐れたようにそう言うので、「はい」と頷くと、「あいつと未来の話、してたの?」と顔を覗き込むようにして訊かれた。
 隆は首を振った。そんな話はしなかった。
「狐の話と、部屋の名前の事と…絵の話…くらいです」
「へぇ、俺だったら、自分の将来がどうなるか、根掘り葉掘り訊くけどな。やっぱり、生き残れる運命にあるヤツは、余裕があるのかねぇ……」
 隆は隣りで嫌味ったらしく呟く落合を眺め、友人と言っていたけれど、二人は仲が悪いのかもしれないと思った。落合が祖父を嫌いなら悲しいと思いながら訊ねた。
「おち…洋さんは、清志郎さんが嫌いなんですか?」
「えっ? まさか! 嫌いじゃないよ!」
 落合は慌てて顔の前で手を振って見せたが、「まあ、正直に言えばイロイロと…、妬(ひが)みは、あるかな」と苦笑した。
「妬み?」
 鸚鵡(おうむ)返しに訊くと、落合は火箸で五徳の下の炭を突っついた。炭はコロリと転がって一瞬赤々と強く燃えた。
「絵の才能、不思議な能力、裕福な経済状態、将来の安泰……数え上げればきりがない」
 言いながら苛々と火箸で炭をつつき続ける落合の手を握った。すぐに手は離したが、落合は我に返り「ごめん…」と項垂れた。
「あいつね、すごい絵を描くんだよ。この間、新文展(※ 現在の日展)に入選したんだけど、美人画でありながら、従来の枠を超えて…こう、内面が滲み出た女の絵でね、そら恐ろしいくらいなんだ。言葉じゃ上手く説明できないよ。ヤツの手元にあるから、見せて貰うといい」
「それって、『宵待(よいまち)』って題名の、髪の長い女性が、家だか納屋だかの戸口でたたずんでる絵ですか?」
「えっ? ああ…そうだけど。まさか、見た事あるの?」
「はい」
 ある。落合が説明したように怖い女の絵で、子どものころ祐輔と二人でこの絵を見て泣いた記憶がある。
 絵は何て事のない、無表情だが吸い込まれそうなほど美しい女が、じっと宵待草を見つめているだけだ。ただ、題材が安珍清姫伝説であり、男の嘘を信じて、戻って来ない男をひたすら待つ女の姿だからか、無表情ながらどこか不安げで、恨めしそうでもあった。
 要は、能面の増女(ぞうおんな)のように、見る人によって色んな表情が見えるのだが、心の中が穏やかでない時にこの絵を見ると、負の感情が引き出されて気が滅入った。それでも、祖父の絵はそれ一枚しか残っていないから、家族みんなで大切にしていた。
「それって、どこで見たの? 展覧会場?」
 違う。その絵は毎年祖父の命日に客間の床の間に飾られるのだが、命日なんて、ナーバスになっている落合に聞かせたくないから「家で…」とだけ答えると、落合は「参ったな…」と長めの前髪を掻き揚げながら感じ入ったように呟いた。
「君…本当に、あいつの子孫なんだな」
「信じてもらえますか?」
 窺うように訊くと、落合は微笑みながら頷いた。信じてもらえたのが嬉しくて、自然と口が軽くなった。
「でも俺、お祖父さん…清志郎さんの絵は、それしか見た事ありません。理由は知らないけど、早いうちに絵は辞めたと聞いてます。だから、その絵しか残ってないんです」
「ええぇっ?!」
 悲鳴に近い落合の驚いた声に、隆はまた口を滑らせたのだと冷や汗が流れた。落合は暫くの間、青い顔をして隆を見つめていたが、大きく息を吐き出してから両手で顔をごしごし擦った。
「……前言撤回。未来の事なんて、聞かない方がいいわ…。それ、清志郎に話したかい?」
「いいえ!」
「うん。言わない方がいい。きっと混乱する…。と言うか、俺のが衝撃受けたわ。辞めたなんて信じらんねぇ、もったいない……」
「妬んでるのに、惜しむんですか?」
 隆には自分の事のように残念がる落合の言動が不思議だった。落合は虚を突かれた顔をした後、ボソボソと歯切れ悪く答えた。
「だって、才能あるのは認めてるから。純粋に、もったいないと思うよ。それに、俺とは違って…戦争をかいくぐって、生きながらえたんなら、思う存分絵が描ける時間があったって事だろう?」
「そんなに生きて、絵が描きたいと思うなら、どうして従軍画家を引き受けたんですか?」
 ずっと続いているいじけた物言いに、さすがに腹が立った。生きていたいなら、人を羨む前に危険な場所へなど行かなければいい。胸に蟠(わだかま)る思いが溢れ出し、つい責めるように言うと、落合はばつが悪そうに目を伏せた。
「それ、清志郎に聞いたのか?」
「はい」 
 頷くと、落合は降参というように両腕を上げてため息を吐いた。
「だってさ…、今のままじゃ、絵を描くよりも、毎日食ってく方が切実なんだよ……」
 そう言うと、落合は文机に置いてあった紙挟みを開いて隆に見せた。
「これ、今やってる仕事。人の紹介で何とかありついた。児童書の挿絵を描いてるんだ」
 それは水彩画で、下半身が魚の少女が描かれていた。どう見ても人魚姫のようだが、人間になった人魚姫は着物を着ているし、黒髪なので違和感がある。首を傾げると、「下手、かな…」と心配そうに聞かれ、慌てて「すごく奇麗です」と答えた。
「髪が黒いから、ちょっと不思議で…」と疑問を口にすると、落合も「俺もどうかと思うよ」と同調して肩を竦めた。
「戦局が厳しくなったからね。だったら、今時分、人魚姫って自体がどうかと思うけど、王子を助けたのは姫なのに、横から出て来た女に取られちゃっても恨む事なく、自身の純愛を貫いて自害したところが良いんだってさ……」
 自害と聞いて、特攻隊の事が頭に浮かんだ。童話の物語が、自分の好きな人の絵が、戦争賛美のプロパガンダに使われるのだろうか。
 暗い気持ちで眺めていたが、そのうちに自分の考え過ぎだと気がついた。落合の絵には汚れた気持ちを救ってくれるような、清廉(せいれん)とした美しさがあった。
「黒髪でも、奇麗です。海の色も奇麗。柔らかい雰囲気で、明るい色づかいが、俺は好きです」
「……ありがとう」
 落合は照れたように礼を言ったが、すぐに「でもね、これは食うため。絵が描けりゃ、なんでも良かったんだ」と自嘲気味に微笑んで、自分の出自(しゅつじ)を語った。
 落合は、京都の宮大工の三男坊として生まれた。祖父も父親も、神社の建設を依頼されれば何処へでも移って行ったので、先祖の地は分からない。十二歳になったら親戚筋の浮世絵の彫師(ほりし)に弟子入りする事が決まっていたが、近所の教会で見た宗教画に魅せられ洋画家を志した。
 家は裕福ではなかったが、長男が既に家業を継いで収入もあったので、その長兄の口添えで画塾へ通うのを許された。画塾では一番絵が上手かった。師匠は落合の才能を認め、家族を説得してくれたお陰で、上野の美校へ入学する事ができた。
 しかし、美校には落合より上手い連中がいくらでもいた。井の中の蛙だったと打ちのめされたが、世話になった人への恩返しを胸に、粘り強く新文展への出品を続けた。けれど入選を果たせないまま卒業を迎え気持ちは焦っていた。
 錦を飾れないなら東京に留(とど)まって仕事を見つけようと思ったが、挿絵の仕事をおこぼれで貰うのが関の山で、来月から下宿代も払えない状態だった。もう兄の支援は受けられない。清志郎は「出世払いでいいさ」と言うが、そんな訳にはいかない。
 それに、このままでは絵の具だって手に入らない。配給制と言いつつある所にはあるのだが、全ては金の絡む話だ。絵の具がなければ絵は描けない。絵が描けなければ金にもならない。どこまで行っても悪循環だ。
 だから、従軍画家の推薦を受けた時は喜んだ。戦争画だろうが何だろうが、思い切り絵が描ける。描けば描いただけ買い上げて貰える。それに、誰でもなれる訳じゃない。名誉な事だと舞い上がりもした。軍から依頼が来たと言えば実家にも顔が立つ。
「でも、それだけが理由じゃない……」
 落合は躊躇いがちに隆を見た。神妙な顔で見つめ返すと、落合はフッと微笑み「未来じゃ…戦争はしてないの?」と聞いた。
「全くない…とは言えません。でも、日本は…平和です」
 戸惑いながら慎重に考えて答えると、落合はほっとしたように「だったら、良かった」と囁いた。
「今まで学生は二十六歳まで徴兵を猶予されていたのに、ここへ来て一気に徴兵猶予の対象が狭くなった。この分じゃ、早晩(そうばん)男は年寄りと子どもと病気のヤツ以外、みんな戦地に送られるだろう。だったら、従軍画家になった方が、幾らかマシに思えた。戦地には行ったきりではなくて、絵を仕上げるために戻って来られると聞いていた。本当は…非国民と言われようと、戦争になんか、行きたくない…。俺は、死ぬのが怖いんだ。情けない……」
 項垂れる落合の肩に手をかけ「そんな事ない…」と言うと、落合は少し顔を上げ「清志郎に言われた…」と呟いた。
『そんな風に絵と向き合うのは、芸術を志す者に有るまじき行為』だと清志郎は言った。
『従軍画家としての本来の目的、戦意高揚のための絵を描く “ 志 ” があるなら、行くのもいいだろう。藤田(※)さんも小磯(※)さんもその気で行くのだろう? きっと素晴らしい戦争画を仕上げる事だろうよ。だけど、お前はどうなんだ? みんなが命を張ってる戦場に、そんな気持ちで臨んでいいものか?』
 全てが中途半端……そうかも知れないと思う反面、金の苦労のない坊ぼんのお前に何が分かる、という思いもあった。そして、自分にはない物を持つ清志郎に、嫉妬心を掻き立てられた。
「清志郎が入選した絵のモデル、アレ、人間じゃないんだって。生霊…とか言ってから、妖怪でもないらしいけど…。どっちにしても、俺たちには見えない特別な “ モノ ” なんだよ。でなけりゃ、あんな震えが走るような絵を描ける訳がない…って、そんな風に思っちゃうんだ。情けねぇ……」
 目に見えないものを信じてないとか、気味が悪いから嫌なんじゃない。自分にはどうやっても見えないから、悔しいのだ。見えるものなら見てみたい! あんな風に描いてみたい!
「でも、絵は…見たら描ける訳じゃない。見たものを、感じたものを、自分の中で昇華して、自分の内から沸き出すものを描いてこそ、芸術なんだから。清志郎は本物なんだ。すごいんだ……」
 落合は切々と芸術家としての苦悩を吐露した。
 慰めてあげたくても、隆には何と声をかけていいか分からない。言葉の代わりに肩をゆっくりと擦った。落合は顔を上げ隆の手を取ると両手で握り締めた。温かくて大きな手だった。
「俺と清志郎の仲が悪く見えたのは、俺のせいだ。俺が従軍画家に決まってから、ずっとぎくしゃくしてる。おまけに、俺、君の事……」
 落合は隆を見つめたまま口籠り、しばらく逡巡してから口を開いた。
「さっきの…清志郎の言葉で分かっただろうけど、俺は男じゃないと駄目なんだ。女は相手に出来なくて…。それで、その…、何で君と会った覚えがあると勘違いしたかって言うと、君は、とても俺の好みで……要するに、君を見初めてしまって……」
「えっ?」
 そんな遣り取りをしていたのかと、思わず聞き返してしまった。告白されているというのに、清志郎が落合の性癖を知っている事の方が驚きだった。
 落合は聞き返されてぐっと詰まったが、すぐに思い切ったようにはっきり告白し直した。
「君を、好きになったんだ! だからっ、どうして君が俺の事を知ってたのか、気になって気になって…。俺が君を知らなかっただけで、君は俺の事を知ってて、そういう風に想ってくれてたからかなあ…とか、そんな都合のいい事を思ったりして。だけど…、違ったんだよね。君はこの時代の人じゃなくて…、まだ信じらんないけど、清志郎の孫…なんだよね? あいつ、許してくれないだろうなぁ。怒ってたもんな…。そりゃ男が相手じゃ、やっぱり駄目だよなぁ……」
 勢いがあったのは最初だけで、だんだん声が小さくなり、最後は愚痴っぽい呟きになった。握った落合の掌は驚くほど熱くなっていて、その熱が伝染したように隆の身体も熱くなっていた。
 気持ちが伝わるとはこういう事なのだろうか。嬉しくて堪らなかった。やはり自分と “ 夢の男 ” は、いつどこで出逢っても、ひと目で惹かれ合う運命なのだ。
 でも、この時代の “ 夢の男 ” は少しネガティブな性格のようだ。このままだと清志郎に遠慮して、諦めてしまうかもしれない。そうなる前に、自分から気持ちを伝えようと決心した。
 夢の中では声が出せなかったから、男が喋るのを聞いているしかなかった。見せてもらった挿絵の人魚姫と同じだ。喋りたくて、もどかしくて堪らなかった。だけど今なら、「あなたが好きだ」と伝えられる。
 隆は項垂れてため息を吐く落合の手をぎゅっと握り返し、「俺も…」と口を開いた。
「清志郎さんの前では言えなかったけど、俺も、洋さんと一緒です。男じゃないと、駄目なんです。洋さんに会ってたのは、俺が見てた夢の中の話だけど、でも、あの石を使って夢を見続けたのは、洋さんに会いたかったからです」
「えっ?」
 今度は落合が狐に摘まれたような顔で聞き返した。
「俺もあなたに一目惚れして…。だから、会いたかった。夢でも何でも、あなたに会いたかったから、石を使い続けたんです。そしたら、ここに来ちゃったんだ」
「……じゃあ君は、俺のために、ここへ来たの?」
 落合の信じられないと言う顔が、見る間に破顔した。
 そうかもしれない。本当の事なんて分かる筈もない。けれど、会いたかったのは事実だ。
 隆が頷くと、握っていた手が外れて頬に添えられた。熱いのに緊張に湿った手のひらは、少し冷たくもあった。上目遣いに落合を見つめると、興奮した面持(おもも)ちの落合に「接吻してもいいか?」と聞かれた。
「……えっと、キス、のこと?」
「あっ、ああ…そうだよ。キス、していいかい?」
 頷くと、温かくて柔らかい唇が隆の唇を吸い上げた。すぐに離れてしまったが、隆は頭に血が上り目の前がぼうっとした。
「夢では何度もしてたけど、本当にするのは初めてだ……」
 そう囁くと、落合は真っ赤になって困ったような顔をした。
「これでもう、隆は俺のものだ。…けど、清志郎には内緒な? バレたら殺されそうだ……」
 言いながら、今度は少し長いキスをして、隆をぎゅっと抱きしめた。

※ 藤田嗣治、小磯良平ともに画家。従軍画家として戦地へ派遣され作品を残している。

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