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【エピローグ】 夢の跡

 ボロボロ涙を流しながら目を開くと、見覚えのある白い天井が見えた。
 明るくて眩しいし、泣いていたせいかぼやけて見える。目をしばたくと、視界の隅に叔父と祐輔の顔が見えた。途端に、叔父はほっとしたように微笑み、祐輔は泣きながら抱きついてきた。
 重くて声を上げようとしたが、出なかった。身体に力が入らない。ため息を吐くと叔父の声が聞こえた。
「祐輔、尾木(おぎ)先生に電話して、すぐに来てもらいなさい」
 祐輔は慌てて部屋を飛び出して行った。軽くなってほっとすると、隆は叔父の清治へ目を向けた。
「おかえり、隆。戻って来てくれて…よかった……」
 叔父の声は震えていて、その瞳は潤んでいた。
“ カピタンの桶 ” でこちらの様子を覗いた清志郎から、二人が憔悴していたと聞かされていたけれど、本当に心配をかけてしまったのだと、「……ご…め、なさい」と謝罪を口にしたが、はやり声が出なかった。
「無理に喋らなくていいよ。二週間も寝たきりだったんだから」
 叔父は隆の頬を撫でて、「まずは、元気にならなきゃね。話はそれからだ」と微笑んだ。

 月読みの石が閃光したあの日から、隆は昭和十六年で約二ヶ月半を過ごした筈だったが、こちらで眠っていたのは約二週間ほどだと聞かされた。
 清治と祐輔の目の前でいきなり昏睡状態に陥ったあと、救急車を呼ぼうと騒ぐ祐輔を制し、清治は近所のかかりつけ医で親友でもある尾木医師に診察を頼んだ。
 結果、特に重大な所見は見当たらず、脳の病気でもないようだとの事だった。それでも、念のため大きな病院へ入院させるよう勧められたが、清治は暫く家で様子を見たいと尾木に往診を頼み、「危ないと思ったら即刻入院させる」との条件付きで、専属の看護士一人と点滴だけで、隆は命をつなぐ状態になった。
 昼は祐輔と看護士で、夜は清治が見守る中、隆はただひたすら眠り続けた。二週間を過ぎ、もうそろそろ入院させた方が良いと尾木医師に警告された頃、祐輔曰く、「夜中に “ 怪奇現象 ” が起きた」その翌日、隆は目を覚ましたのだった。
 目を覚ましたと言っても、点滴だけで二週間も寝たきりの状態だったので八キロも痩せてしまい、起き上がる体力もなくなっていたから、結局は尾木医師のところへ入院しなければならなかった。
 いきなり固形物は食べられないので、重湯から時間をかけて普通の食事へ戻し、少しずつ歩行訓練をして自力で家へ戻れたのは四日後だった。
 入院している間に精密検査も受けたが、その結果は少々尾木医師を悩ませた。心配していた脳に異常は見つからなかったが、では、どうして突然昏睡状態に陥り、二週間も意識が戻らなかったのか。また、夏だというのに足に凍瘡(とうそう)の症状があり、体中に点々と鬱血の跡があるなど、重大ではないにせいよ説明のつかない不可解な症状だらけだった。
 隆の足を治療しながら悩ましい顔をする尾木医師に、清治は「重大な疾患がないのなら、原因を追求しなくても構わない」と慰めるように言ったが、清治の事を子どもの頃から知る尾木医師は、フンと鼻を鳴らして「だから入院させたがらなかったのか」と胡散臭そうに呟いていた。
 家へ戻ると祐輔が堰を切ったように隆の寝ていた間の話をし出したが、その中で興味深かったのは月読みの石の変化だった。
「お前が倒れた時、あの石は両手じゃないと持てないくらい大きかったのに、段々小さくなっていったんだ……」
 石は清治が陶器の入れ物に一旦は仕舞ったものの、取り出して隆の机の上に置いたのだそうだ。最初は誰もその変化に気づきもしなかったが、ある時看護士が不思議そうに、「この石、もっと大きくなかったですか?」と言うのを聞いて小さくなっているのに気がついた。
「俺は、京都でお前にこの石を見せられたから、大きくなってるのは分かってた。だから、小さくなってるのに気がついて、もしかしたら、最初の大きさまで戻れば、お前の意識が戻るんじゃないかと期待してたんだ。だけど、元の大きさくらいになっても目を覚まさないし…。もっと小さくなって消えてしまったりしたら、お前も死んでしまうんじゃないかって、気が気じゃなかった……」
 幽霊なんかいないと言い切るリアリストの祐輔が、隆が眠り続けたのは、あのおかしな石のせいだと信じているのが意外だった。
 震えながら話す祐輔を見て、それくらい心配させたのだと申し訳なく思ったが、今なら自分の言う事を信じてもらえそうな気がして「石、光ってたでしょう?」と聞くと、何を言ってるんだと言う顔をして「一度も光らなかったぞ」と言った。
「光らなかった? 本当に?」
「ああ、石は光らなかったよ。でも…幽霊が、出た……」と青い顔で言った。
「幽霊?」
「うん…まあ、幽霊だか妖怪だかは分からないけど、突然天井に顔が現れて…。消えたと思ったら、そのあと腕がにゅっと出てきてさ。父さんが石を渡したら、消えちゃったんだ……」
 清志郎の言った事は本当だったのだ。そして、こちらの時間でその翌日、隆は目を覚ました。こうもはっきりと自分の目で目撃してしまっては、祐輔にも怪奇現象を否定する事は出来なかったようだ。それでも、石は光ってないと言い張った。
「結局あれって、何だったんだろう? 父さんにすごい似てた気がするんだけど……」
 祐輔は気味悪げに呟いたが、年を取ってからの祖父の写真しか見た事がないのだから、誰だか分からなくても仕方がない。祖父の清志郎だと教えてやろうかと思ったが、上手く説明する自信がなくて口を噤んだ。
 自分が見たものは取りあえず許容できても、他人が体験した話までは信じてくれない気がした。隆の身体が眠っている間、意識だけタイムスリップして過去の世界にいただなんて、それは夢でも見たんだろうと言われるのがオチだ。
 けれど、清治には全てを話そうと決めていた。訊きたい事も山程ある。信じてもらえようがなかろうが、自分の経験した事を話さなければ、訊きたい事も説明できない。そして、清治なら自分の知りたい事を知っていると確信していた。
 叔父が休日と決めている水曜日の午後、退院して以来隆の傍を片時も離れない祐輔に、欲しいものがあるからとお使いを頼んで家から追い出し、清治と二人だけになると今まで自分の身に起こった事を、全て詳細に打ち明けた。
 月読みの石を京都の不思議な骨董屋で手に入れた事。石を使って前世の事を夢に見ていた事。石を取り上げられそうになった日から、過去のこの家で若い頃の祖父と、落合という祖父の美校の友人と、二ヶ月半ともに暮らしていた事。
 そして、祖父が “ カピタンの桶 ” を使って、清治から石を受け取って来てくれたからこちらへ戻って来られたと。もちろん、落合と恋人として過ごした事などは伏せたが、清治は隆の身体にあった鬱血を見て、尾木医師に妙な目配せをしていたから、何か感じとっていたかもしれないが。
 清治は隆の話を黙って興味深げに聞いていた。時折はっとしたような表情を浮かべはしたものの、特に驚いたり呆れたりする様子は見せなかった。
 その冷静な態度に却って隆の方が訝しく感じて、「俺が、過去に行っているって、知ってたの?」と尋ねると、清治はう〜んと唸ったあと、「知ってた訳じゃないが、途中からそうかもしれない…と、気がついた」と不思議な事を口にした。
「やっぱり叔父さんも、清志郎…お祖父さんと同じで、何か “ 見える ” の?」
 待ってましたとばかりに最初の疑問をぶつけると、清治はまたう〜んと唸りながら、「まあ、見えると言えば、見えるかな…。でも、父のように、はっきり見えはしないんだよ」と白状した。
 姿は見えないが、所謂(いわゆる)、オーラが見えると言う事らしい。
「だから、父が廊下に鯉が泳いでると言った時など、見えはしなくても、廊下からゆらゆらと陽炎みたいに気が立つのは見えていたし、色の感じから、善いもの善くないものの区別はついた。お前が持っていたあの石は、ひどく禍々(まがまが)しい光を放っていたから、すぐに遠ざけようと思ったんだが、気づくのが遅かったね……」
「じゃあ、お母さんも、見えるの?」
「否、姉さんは見えない。でも、気配は感じるみたいで、この家から早く出たがっていた」
「この家のお稲荷さんに、“ ハク ” って名の、白狐(びゃっこ)がいるのも知ってるの?」
「ああ。父から聞いていたし、白に近い銀色の塊が、家の中を走り抜けるのを見た事があるよ。滅多に見ないけど、隆が家に遊びに来るとフラフラ出て来ていたから、ああ、お前は好かれてるんだなと思ってた。怖がるだろうから言わなかったけど」
「今も、いるんだ…」
 隆が呟くと清治は頷いたが、「祐輔が家を継いだら、いなくなるかもしれないけど、それはもう、仕方がないね」と少し困った顔で笑った。
「隆は、祐輔よりも片桐の血が濃く出たみたいだね。だから、あの石が光るのが見えたんだろうけど、普通の人にあの石の光は見えないと思うよ。それでも、祐輔も姉さんと一緒で気配は感じるらしくて、石を仕舞わずに机の上に置いた時、すごく嫌がっていたね。尤も、最初小さかった石が大きくなったのを見れば、誰でも気味悪く感じるだろうけどね」
「でも、小さくなったんだよね。お祖父さんから石を渡されたとき、元の大きさになってた」
「石からお前の方へ、気が流れていた。だから僕も祐輔と同じ事を考えていて、石が元の大きさ戻れば、お前の意識は戻ると思っていた。だから入院もさせなかった。なのに、お前は一向目覚めないし、どうしようかと思ったいた矢先、父が顔を出したんだよ」
「お祖父さんが天井から顔を出した時、声とか聞こえたの?」
「否、聞こえなかった。最初は面食らってね〜。あんまり若いんで、最初は父さんだって気がつかなかったし、おお、僕にも遂に見えてしまったかと、さすがに腰を抜かしそうになったよ」
 戯けたように言う清治に、「じゃあ、どうしてお祖父さんが、石を欲しがってるって分かったの?」と訊くと、「父さんの遺言…ではないけど、言ってた事を思い出したから」と、昔を思い出すように遠い目をして言った。
 祐輔と隆が生まれると、清志郎は安心したように亡くなってしまったが、息を引き取る間際、「十五年後に会おう。息がもたないから、早く石を渡してくれよな」と言ったのだ。
 清治には訳が分からなかった。もともと変な事を言う人だったが、意識が混濁していたのだろうと、さして気に留めないようにしていたが、忘れる事も出来なかった。
「だから、この事だったんだと気がついて、急いで石を……」
「ちょっと、待って!」
 隆はただならぬ事を聞いたと、慌てて清治の言葉を遮った。
「清…お祖父さんは、俺たちが生まれる前に亡くなったんじゃないの?」
 そう母に聞いていた。すると、清治はきょとんとした顔をして首を振った。
「否、生まれた年に亡くなったんだよ。続けて孫が二人も生まれたし、七十七歳の喜寿(きじゅ)のお祝いをしたばかりだったから、お母さんがすごく悲しんで…。だから、よく覚えてる」
 歴史が、変わってる……。
 隆は震えた。清志郎は隆に言った通り、自分たちの顔を見るまで寿命を伸ばしたのだろうか。それとも、自分が向こうへ行ったせいで、歴史が少し変わってしまったのだろうか。
 隆の顔を見ながら、清治は「お陰で色んな事を思い出したよ」と感慨深そうに言った。
「“ カピタンの桶 ” を使って父さんが会いたがっていた子って、お前の事だったんだなぁ……」
 清治が高校生になったばかりの頃、清志郎は息子を見てはため息を吐き、どこか遠くを眺めるような目で物思いに耽る事が多かった。そして、蔵に籠っては古い陶器の洗面器を前にして何時間も考え込んでいた。
 あんまり様子がおかしいので、清治は母親にせっつかれ、どうしたのかと塞いでいる理由を尋ねた。すると清志郎は、「会いたい子がいるんだ。これを使えば会えるとは思うが、ちょっと怖い気がしてな」と答えた。
 この堅物にもそんな相手がいるのかと、清治は同じ男として感心したが、それをそのまま母親に伝えてしまったものだから、焼きもちを焼いた母親は “ カピタンの桶 ” を真っ二つに割ってしまった。
「どう見ても無機物には感じない、おかしな気を発している洗面器の前で、『会いたい』なんて言うのだから、その相手は生きてる人じゃないんじゃないかと母にも伝えたけど、あの人は父さん一筋だったから、例え相手が幽霊でも許せなかったみたいだ」
 清治はそう懐かしそうに笑ったが、隆は “ カピタンの桶 ” がもうこの世にない事を知ってがっかりした。一度使って駄目だったから無駄かもしれないが、自分も桶を使って清志郎や落合に会えるのではないかと期待していたから、夫婦喧嘩の犠牲になったなんて悔しい気がした。
 それにしても、清治の昔話は驚きだった。隆にとってはひたすら優しい印象しかない祖母に、そんな激しい一面があったなんて、結構尻に敷かれていたのかなと、清志郎の取り澄ました顔を思い出して少し笑った。
 祖母は、清志郎が骨董屋を営む傍ら開いていた書道教室の教え子だった。
 二人が知り合った時、祖母は二十六歳で小学校の先生をしていた。字に自信がなくて清志郎の教室を訪ね、二十四歳も年の離れた清志郎に人目惚れして、押し掛け女房になった。清志郎は既に五十を過ぎていて周囲から猛反対されたが、祖母は意志を曲げなかった。
 夫婦はたいそう仲が良く、すぐに二人の子どもにも恵まれた。祖父にべた惚れだった祖母は、祖父が亡くなった七年後、跡を追うように六十歳の若さで他界した。
「そんな事もあったから、父から母に内緒で、ある人に渡して欲しいと手紙を預かったんだけど、『誰に渡すの?』って訊いても、『渡す時期が来たらすぐに分かるから、それまで預かってて欲しい』と言うばかりで困り果ててたんだ。やっと、誰に渡せばいいのか分かったよ」
 ようやく肩の荷が下りると清治は笑った。
 隆は興奮し、今すぐその手紙が欲しいと清治に飛びついたが、「その前にやる事があるだろう?」と清治は首を振った。
「宿題、まだ全部終わってないんだろう? 終わるまでお預けだよ」
 呆れたように言われて、隆は慌てふためいた。長かった筈の夏休みは、もうあと一週間しか残っていなかった。殆ど手をつけていなかった宿題を終わらせるには、祐輔に泣きついて丸写しさせて貰うしか方法がない。
 祐輔に「お願い」と頼むと、「もとよりそのつもりだったよ」と言いながらも、もう骨董品は買わないと約束するならと条件がついた。どうしようか迷ったが、清治から清志郎の手紙を貰う方が優先だと考え、渋々祐輔の条件を飲んだのだった。
 それから四日間丸写し作業に没頭し、清志郎の手紙を受け取る事が出来た。
 清治は手紙を渡す時に、清志郎が残した商品記録簿に、月読みの石の名前があったと教えてくれた。売れたのなら売却と書かれている筈が何の記載もなく、蔵の中にそれらしい石は残っていなかったと言った。
「石がひとりで京都まで歩いてったんじゃないか?」
 清治は呑気に冗談を言ったが、隆は清志郎から護符を貼った荷物だけ消えた話を聞いていたので、とても笑う気になれなかった。

 隆は自分の部屋で受け取った手紙と対峙した。封筒はかなり厚みがあり、中に何か入っているようだった。いざ手紙を手にすると、隆は急に怖くなった。
 一番知りたい事 ―― 落合の消息が、最悪な形で書かれていたら ―― そう思うと、恐ろしかった。
 過去にいた時、自分だけが未来の出来事を知っていた。けれど、その未来に戻った途端、自分は何も知らない状態になってしまったのだ。
 今、隆を支えているのは、落合に会う事だけだ。その望みが途絶えてしまう事になったら、これからどうしたらいいのだろう。
 半日悩んで、知らなければ先へは進めないのだと結論を出し、恐る恐る封を切った。
 中には和紙の巻紙と、隆があげたお守りが入っていた。
 渡した時は紫に近い紺色だったお守りは、黒ずんで角が擦り切れていた。戦場でも肌身離さず持っていてくれたのだろうかと、指先で優しく撫でながら「神様、清志郎さんを守ってくれて、ありがとう」と呟いた。
 手紙を広げると、丸めた和紙ははらりとほどけて、まるで時代劇みたいだと思いながら目を通す。端から流れるような美しい筆文字が並んでいる。昔みたいに旧字体や難しい言葉は使われていないのに、達筆過ぎてすぐには読み進められない。
 絶対わざと草書体で書いたのだと思った。脳裏に、馬鹿だ馬鹿だと叱りつける清志郎の顔が浮かんで、おかしくて笑いながら涙が滲んだ。

 隆へ
 念願叶って赤ん坊のお前の顔を拝む事ができたよ。
 だが、思い残す事がないと言えば嘘になる。
 欲を言えばお前に直接伝えたいが、命は突うに尽きかけている。
 言いたい事は山と有って惑う程だ。
 あれから五十五年、あっと言う間のようで、やはり長かったよ

 亡くなる一年前に書かれたらしい手紙には、その後の二人の消息がしたためられていた。
 隆が消えたあと、清志郎は落合に隆が元の時代へ戻った理由を説明した。
 隆の魂だけが過去へ来てしまった為に、元の時代に置いたままの肉体が死んでしまったら、魂も消失してしまう危険があったのだと。落合は「そうか」と納得していたように見えたが、翌日、隆の描きかけの絵と荷物を持って、姿を消してしまった。
 早朝、誰にも告げずに立ち去ろうとしていた落合に、朝餉(あさげ)の支度をはじめていた梅子が気づき声をかけると、世話になった礼と「実家に絵を預けたいから予定を変えた」のだと言い、「みんな、どうか御達者で」と笑って出て行ったそうだ。
 それ以来、落合の行方は分からないと、隆に詫びる言葉が書かれていた。
 清志郎も十八年に招集され、満州での軍隊生活を余儀なくされた。何度か激しい戦闘を経験したが、五体満足で終戦を迎えられたものの、シベリアに抑留され、日本へ戻れたのは昭和二十二年の秋の事だった。
 日本へ戻ってすぐ、清志郎は落合の実家へ手紙を出したが、宛先不明で戻って来てしまった。そのあとは、清志郎も自分の生活を送るので精一杯だった。
 シベリアでの過酷な強制労働と、餓えと寒さで次々に仲間が亡くなるという熾烈な経験は、清志郎の精神を深く傷つけ、絵が描けなくなってしまっていた。
 それでも、いつ帰るとも知れない清志郎の帰還を、固く信じて家を守っていてくれた梅子たちのためにも、清志郎は思い切り良く画家の道を捨て去り、空き部屋を以前のように学生専門の下宿屋として梅子たちに任せ、自分は骨董屋と書道教室を開いて生計を立てる事にした。
 手紙には当時の心境が切々と書かれていた。

 毎朝目が覚めると「ああ、今日も自分は生きている」と確認する。
 そして、隣りで自分の代わりに冷たくなっている仲間を葬る日々だった。
 今でも、その時の夢を見ると決まってうなされる。
 命がある限り忘れる事はできないし、忘れてはいけないのだろうな。
 いつ、気力が尽きるかわからない日々にあって、私が生き残って来られたのは、
 隆が未来で待っている、ただその事だけを想っていたからだ。
 時に挫けそうになる夜は、隠し持っていたお前のくれた護符を握りしめた。
 命からがら日本に戻ってからも、日々食べて行くのに必死で、
 気がつけば人生も半ばを過ぎてしまっていた。
 焦れども、添い遂げたいと想える相手は見つからず、落合もいず、
 お前の事は夢だったのではないかと心弱く思う時、
 確かに存在していたと証明してくれるのは、徳一と梅子の二人だけだった。
 二人とも、いつかまた会えるだろうかと、お前にもらった護符を私と同様大切にしていたよ。
 残念ながら、徳一は私が妻を娶った翌年に、梅子は清治が生まれてすぐに亡くなった。
 私は、お前を返した事を後悔していない。自分の選択は正しかったと信じている。
 だが、ただ一つの後悔は、落合にお前を元の時代に返す計画を内緒にしていた事だ。
 最後の夜、生木を裂くようにお前たちを別れさせた事、本当に申し訳ない事をしたと思う。
 私はお前のお祖母さんに出逢うまで、真に人を愛するという気持ちを知らなかったのだ。
 伴侶を得て子を授かり、大切な者に囲まれる幸せを感じる度、自分の愚かさに胸が痛んだ。
 あの時、落合にお前を返す計画を素直に話していたら、彼は迷わず賛成していただろう。
 落合はそういう男だ。そうとわかっていながら、私は故意に伝えようとしなかった。
 白状しよう。私は落合に嫉妬していた。想い合うお前たちを僻んでいたのだ。
 もし、あの時、落合と二人でお前を見送っていたら、
 落合は私の横で赤ん坊のお前の顔を見ていたかもしれない。
 済まない、隆。それでも、私にとっては、お前が無事でいてくれる事が最優先だった。
 その気持ちは今も変わらない。私は、お前の幸福を願って止まない。
 隆、この先、喩え落合に会える事がなくても、
 どうか、お前の人生を全うしてほしい。
 どうか、強く生きて行ってほしい。そして幸せになってほしい。
 いつか、お前の時代で出会う、愛する人のために。
 それが私の、最後の願いだ。

 涙があふれて手紙を濡らした。
 もう、落合には会えないのかもしれない。だけどそれは、清志郎のせいじゃない。誰のせいでもない。こちらに帰ると決めたのは自分だ。
 やはり、落合を探そうと心に決めた。喩え落合がもうこの世にいなかったとしても、二人で交わした約束だから。
 隆は涙を拭って手紙を丁寧に丸め直すと、お守りと一緒に机の引き出しへ仕舞って鍵をかけた。
 だが、そう決心したのものの、その日の夜から具合が悪くなって寝付いてしまった。前を向こうと思っても、悲しみは容赦なく気力を奪っていった。
 そのまま夏休みの最終日も、ベッドの中でゴロゴロしていた。
 平日だから清治は仕事に出かけていた。祐輔は隆が寝付いてから付きっきりだったが、宿題が残っている部活の仲間に泣きつかれ、すぐに帰ると言い置いて出かけて行った。
 祐輔には悪いが、隆は一人になれてほっとしていた。前はそれほど構われなかったから、自分が元気にならないせいだと分かっていても、祐輔の世話焼きは正直うざったかった。
 ベッドに寝転がったまま、壁にはめ込まれた萩の飾り彫りを眺めていたら、知らぬ間にポロポロと涙がこぼれて止まらなくなった。拭いもせず流れるままぼうっとしていると、不意にインターフォンのチャイムが鳴った。
 はじめは居留守を決め込もうと思ったが、宅配便にしてはしつこく何度も鳴らす上、「ごめんやす」と声まで聞こえた。もしかして、空き巣かもしれない。
 迷ったが、出た方が防犯になるかもと、寝間着のまま居間へ行き、「はい…」と返事をすると、「あっ、すんまへん。そちらに、染谷隆さんいはりますか?」と、聞き覚えのある声がした。
 古いインターフォンにはカメラが付いていない。けれど、声を聞いただけで、どっと心拍数が跳ね上がった。
 まさか、と思いながら震える声で「隆は、お、僕ですが……どちら様でしょうか」と尋ねた。
「あっ、隆くん、本人? 良かった〜、えっと、俺、落合っちゅうモンなんやけど…、その…京都でぶつかったの、覚えてへんかな。落としモンを届けに来たんやけど……」
「いっ、いま、行きます!」
 頭の中で、瞬時に記憶が逆戻りした。京都でぶつかったのは、月読みの石を手に入れた直後の人だ。人目惚れした最初の男。
 隆は早鐘のように鳴る胸を押さえて、玄関へ向かって駆け出した。
 落合と名乗った。…訳が分からない。夢かもしれない。でも、そんな事はどうでも良かった。
また、会えるなら。もう一度会えるなら……
 隆はどうしようもなく震える手で、未来に続く扉を開いた。

 (了)



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