INDEX NOVEL

Bitter & Sweet Chocolate
3月14日 〜 White day 〜 (4)

 拓朗が家に戻ったのは午後七時ぴったりだった。
 今頃映画館で、慎吾は田中を前にしてどんな思いでいるのだろうか。そう思うと申し訳ない気持ちで一杯だったが、仕方がないのだと自分に言い聞かせながら、拓朗はアパートの階段を上った。
 父と桐子が使っている202号室も、自分たちの部屋も玄関脇の流しの前の窓は暗く、不在を告げていた。父たちはホワイトデーにかこつけて外で食事をするつもりだと言っていたし、本来なら自分たちも映画を見てファミレスで食事をする予定だった。
 国領には慎吾と夕飯の約束があると言ったので、遊んでいる間くちにしたのはジュースだけだ。空腹を覚え、お腹に手を当てながら玄関の鍵を開けると、独特の匂のする自分の部屋の空気を吸った。
 不思議なことに同じアパートでも慎吾たちの部屋とは匂いが違う。どちらも嫌な匂いではないが、それが久住家と岩澤家という、個別の世帯の証なのだと思っていた。慎吾が移り住んだ今も、この部屋は久住の家の匂いがする。
 きっと自分の住む部屋は、この部屋以外の場所に住んでも、こんな匂いになるのではないかと思う。慎吾がこれから築いていく家庭も、きっと岩澤の家の匂いがするに違いない。
 真っ暗な台所を突っ切って、四畳半を抜けて六畳間の電気を点けた。開けたままのカーテンを閉めて台所へ取って返すと手を洗ってうがいをした。
 何か作ろうかと冷蔵庫を開けたが、空腹を感じながらも気力が湧かなかった。冷蔵庫の冷気を浴びてぷるっと震えると、ぱたりと扉を閉めて「疲れた…」と呟いた。
 国領は拓朗が足を踏み入れた事がない場所へ連れて行ってくれた。と言うか、連れ回された。最初、池袋へ行こうと言われたが、怖じけたように拓朗が首を振ると、じゃあ、と言って連れて行かれた先は巣鴨だった。
 “ おばあちゃんの原宿 ” などと呼ばれているけれど、お地蔵さんと反対側の駅の向こうは、細々した飲み屋が軒を連ねる “ オッサンのネオン街 ” だった。見知った街だけれど、こんな所は初めてくる。
 吃驚してキョロキョロする拓朗をよそに、国領は慣れた足どりで雑居ビルの中にあるゲームセンターに入ろうとする。拓朗は慌てて国領の腕を掴んで引っ張ると不安げに首を振った。

「大丈夫だよ。俺、いつもきてるけど、危ない事なんて今まで一度もないし」

 それでも眉間に皺を寄せたままの拓朗の肩を叩くと、不意に左手の方角を指さして見せた。

「ほら、あそこに交番もあるし」

 指さされた場所を見ると、確かに交番があってお巡りさんの姿も見えたが、逆に拓朗の心拍数ははね上がった。制服姿でこんな場所をウロウロしていたら咎められるのではと冷や汗が出たが、国領は、
「ねぇー。安心っしょっ?」と笑って拓朗を引きずってゲームセンターへ入った。
 生まれて初めて入ったゲーセンは意外に怖い場所ではなかった。自分たちと同じ制服姿の学生もいたし、女の子の姿もあった。まあ、みんなあまり真面目そうには見えなかったが。
 早速、国領が好きだという格闘技の対戦ゲームをしたが、何しろ初めてやるのだから要領が掴めないし、もともと鈍い方だから端から対戦になどなりはしない。
 ため息をついて口をへの字に結んだ拓朗に苦笑いすると、国領は拓朗の腕を取ってUFOキャッチャーの前へ連れて行った。国領は、「どれがいい?」と聞くが、可愛らしいぬいぐるみの山は女の子なら喜ぶだろうが、拓朗はどれも欲しいとは思わなかった。
 ひとつ、黒いペンギンが以前慎吾と観たアニメの主人公に似ている気がして、アレ、と指さしたが、クマのぬいぐるみの下になっていて、とても取れるとは思えなかった。
 国領は、「アレ?」と片眉を上げ「OK」と言うと、迷いのないタイミングでボタンを押し、一発で取って見せた。思わずすごいと歓声を上げる拓朗に、ニパっと笑いながらハイと黒いペンギンを手渡した。
 拓朗はそれほど欲しいと思わなかったのに、希望通り取ってくれたのが嬉しくて、顔を見上げてありがとうと囁くと、国領は何故か真っ赤になって頭を掻いた。
 それにしても、これだけ簡単に取れるようになるまで幾らつぎ込んだのかと、拓朗は呆れながら国領の顔を横目で見た。
 実際に見たのは初めてだけれど、このゲームの事はテレビなどで知っていた。やる人は商品を手に入れる事に血道をあげるのであって、手に入れた商品に執着はわかないものらしい。きっと国領も、一緒に遊びにきた女の子たちに気前よくあげてしまうのだろう。
 自分はこんな遊びにお小遣いを使えないけれど、これがみんなの普通の “ 遊び方 ” なのかなと、場違いな気分を味わった。国領だって普通のサラリーマンの家庭の子だと聞いているが、お金の使い方に躊躇いがない。
 百円、二百円とはいえ、勿体ないと思ってしまうのは、単に金銭感覚の違いなのか、身に付いた貧乏臭さなのか。貰ったペンギンのぬいぐるみを抱きしめて拓朗は小さく首を傾げた。
 その後はカラオケに連れて行かれ、J-POPのヒットチャートを聞かされた。
 国領は軽音楽部ではベースを弾いているから歌わないものと思い込んでいたが、男にしては少し高めの澄んだ美声の持ち主で、特にバラード系の歌が上手かった。普段は主に洋楽を聴いているらしいが、洋楽に疎い拓朗のために、テレビでよく見かけるアーティストの曲を選んでいるようだった。
「上手いねぇ」と感心して誉めると、「コーラスも担当しているけど声質が嫌いなんだ」と、恥ずかしそうに目尻を下げた。
 三十分も経つとワンマンショーに飽きた国領は、ちびちびとコーラを舐めながらモニターを眺めていた拓朗に無理矢理マイクを握らせた。歌った事がないから歌詞が分からないと尻込みすると、一緒に歌うからと言われ肩を抱かれた。
 いくら二人きりとはいえ恥ずかしさに泣きそうになったが、耳元で教えるように歌詞を囁く国領の声に励まされ、必死で声を張り上げているうちに、ここのところずっと思い悩んで沈んでいた気持ちが、少しだけ晴れたような気がした。
 一時間の最短格安料金で引き上げる事にしたが、ゲームセンターもカラオケも、連れてきたのは自分だからとすべて国領に奢られた。その代わり、来週また一緒にこようと約束させられた。
「タクちゃん、すんげー声かわいい」と国領はしきりに誉めそやし、デュエットしてねと目を細めた。
 歌が苦手な拓朗は内心どうしようかと狼狽えたが、二人で遊んでいる間、慎吾の事を思い出さずに済んだのは国領のお陰だし、楽しかったのは事実だったから、 「ゲーセンは嫌だけど、カラオケならいいよ。但し、今度は割り勘ね!」と割り勘を強調して了承したが、言葉半分でガッツポーズをしながらヤッターと大声を上げた国領の耳に、全部届いていたかは疑わしかった。

 冷蔵庫の扉に頭をくっつけて暫くぼうっとしていた拓朗は、ため息をついて押入のある六畳間へ行くと布団を敷き始めた。
 楽しく高揚した気分でいられたのは、アパートが見える直前までだった。こうして一人で暗い部屋にいると、慣れない事をした疲れがどっと押し寄せた。

「デートしてるみたいだね」

 国領はそう言って嬉しそうに笑った。
 初めてやった事ばかりで、ゲームもカラオケの相手もまともに勤まったとは思えない。誘った手前、自分と一緒で退屈ではないかと心配だったからほっとしたけれど、“ デート ” との言葉に胸が締めつけられた。本当だったら今頃、慎吾と “ 初デート ” をしている筈だった。
 もしも、映画に行っていたらどうだったろうと考えた。慎吾とは一緒にいても、いつも各自好きな事をしていて、勝手なもの思いに耽っている。ふと喋りたい時に話し掛け、返事が返ってくる。そしてまた自分のしたい事をする。
 デートをしていても、きっといつもと同じだろうと思った。映画を観るという日常の延長線上の出来事。どきどきなんか何処にもない。そう言ってしまうと、国領の言う『好きだと思う』セオリーにはほど遠い気がした。
 お互い空気みたいに、ただ側にいる。でもそれが、拓朗にはごく自然で一番心地良かったから、“ 他人(ひと) ” と時間を共有するとは、こんなに気を使って疲れるものなのだと身に沁みて感じた。
 敷いた布団の上にぺったり腰を下ろすと、拓朗は早く横になりたいと思った。慎吾がいつ帰ってくるのか分からないが、自分が寝てしまっていたら、言い争いは避けられるかも知れないという、都合のいい考えも頭を掠めた。
 着替えようと丸まった灰色のスウェットを手に取った時、不意に今朝の慎吾の手の感触を思い出し、ゾクッと肌が粟立った。
 拓朗は朝触られるのが一番感じてしまって嫌だったから、慎吾が目を覚ます前に起き出すようにしていた。でも今朝は、慎吾が起きるのをじっと待っていた。これが最後だと思ったからだ。
 早朝、薄いカーテンを通して青白い光が部屋をぼんやり照らし出した頃、背後でもぞもぞと動く気配がして、背中から両腕が回され引き寄せられた。ぴったりとくっついた背中からじんわりと熱が伝わる。首筋にため息のような吐息を感じ、柔らかい感触が項に吸い付いた。布の上からまさぐっていた指が、確かな意志をもって少し乱暴にスウェットの中へ入ってくる。
 拓朗は息を殺してじっとしていた。そうしないと声が出る。自分よりも遙かに大きくて熱い手のひらが、胸と下腹を同時に柔らかく撫でて――。

「んっ…」

 拓朗は自分が上げた声に驚いてはっと目を剥いた。ぞわっと総毛立った後、下半身が僅かに昂っているのを感じた。

「うそ…」

 自分の反応が信じられなくて無意識に自分の身体を抱きしめた。こんな事は初めてだった。
 エッチな気分になった訳じゃないのに、何で…、そう思った時、鉄の階段を凄まじい音を響かせて駆け上がってくる足音がした。
 ビクっと拓朗の全身が震えた。身体の中心に感じた熱も、一気に鎮火して寒気すら感じた。
 帰ってきた…。
 苛立たしげに乱暴に鍵を開ける音を聞きながら、戸口に背を向けたまま拓朗はゴクッと唾を飲み込んだ。

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