INDEX NOVEL

Bitter & Sweet Chocolate
3月14日 〜 White day 〜 (5)

 乱暴に扉を開けた慎吾は、今度は壁が揺れる程大きな音を立てて閉めた。一体どこから走り続けてきたのか、校内マラソンなどしてもいつもはケロッとしているのに、ぜいぜいと肩で息をしながら三和土に靴を脱ぎ捨てた。
 そのままの勢いで問い詰められると思ったが、予想に反して慎吾は何も言ってこない。流しの水を勢いよく出してコップに注ぐと、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。
 拓朗は金縛りにあったように動けずにいたが、背中に神経を集中して、慎吾の一挙一動を窺っていた。慎吾は、はぁーと盛大な息を吐くと、どすどすと階下から苦情がしそうな足音をさせて、拓朗のいる六畳間にやってきた。拓朗の鼓動は早鐘のように鳴り冷や汗が背中を伝うが、布団の上で両腕を抱く自分の手に力を込めて、必死で平静を装った。

「お前…何考えてんだよ。何であそこに田中がいるんだ。ちゃんと説明しろ…」

 慎吾も勤めて冷静を装っているが、語尾が震えていた。

「説明も何も、あれが僕からのホワイトデーのお返しだよ」

「ふざけんなっ! 本当の事を言えっ!」

「ふ、ふざけてなんかいないよ。田中とのデート。それが僕のプレゼント――」

「お前が考えた事じゃねぇだろっ! 大方、田中に頼み込まれて断れなかったんだろっ!!」

 ずばり言い当てられてぐっと詰まった。違うと否定しないと負けてしまうのに二の句が継げない。映画館で田中の姿を見た時に、何もかも見透かされてしまったのかも知れない。否、田中が喋ったのかも知れない。どちらにしろ聡い慎吾を騙すのは至難の業だ。口調や態度が尊大で無神経に見えるけれど、感情の機微にとても敏感なのだから。
 拓朗はどうしていいか分からずに唇を噛んだ。もともと深い考えがあってした事じゃない。それを慎吾との関係を清算する手段として利用しようとしたにすぎないから、バレていたのなら何の意味もない。それでもここまできたのだから、『慎吾が嫌いになったから田中に押しつけた』のだと、嘘でも何でも、采を投げてしまえばいい。別れ話を切り出せばいい。なのに、言えない。嘘がつけない。

「そうなんだろ?」

 確信したような落ち着いた口調だった。釣られて拓朗の頭も落ち着いてくる。そうだ。慎吾相手に下手な芝居をした所で適う訳がない。
 拓朗は慎吾の方へ身体を向け居住まいを正すと、意を決して口を開いた。

「そうだよ。田中に慎吾と二人っきりで話す機会を作って欲しいって頼まれた。
 慎吾が好きだから、告白したいって…。そう言った田中に、チケットを渡したのは僕だよ。
 僕の方から渡したんだ」

「お前…」

 慎吾は驚いて目を見張った。

「だって、やっぱりおかしいもの…。ずっと、ずっと考えてた…。
 僕たち男同士だよ。しかも兄弟だ――」

「義理だろうがっ! 戸籍上の、紙切れ一枚の約束事に過ぎないだろ!」

「でも、普通じゃない!」

「普通?! 普通って何だよ。世間の常識ってやつか?
 そんなの、俺らは端から普通じゃねぇじゃねぇか!」

 慎吾はフンッと鼻を鳴らした。そう言われれば反論のしようがない。
 慎吾の父親は始めからいなかった。認知さえされていない私生児だし、自分の母親は男を作って出て行った。お互い普通とは言えない家庭の子どもだ。
 だからこそ、『普通じゃない』事は怖い。理屈ではないのだ。
 拓朗が入ったばかりの小学校を転校し、慎吾の住むアパートへ越してきたのは、母親の噂話が広がっていじめを受けたからだ。浅はかで残酷な同級生たちは、“ 不倫 ” の意味すら知らないくせに、口さがない親の口調丸写しの心ない言葉を投げつけた。
 慎吾が私生児という事で、そうした目にあったとは聞いていないが、時折口にする、
『他人に隙を見せるなよ』
 という言葉を聞く度に、慎吾の心の闇を感じた。慎吾は他人を簡単に信用しないが、それが何処に由来するのか察するのは容易だった。
 拓朗や慎吾のような境遇の子どもはどこにでもいるが、世間は一様に『普通じゃない』ことを善しとしない。本人の人格など関係ないのだ。それが、理不尽な扱いを受けた拓朗の実感だった。

「そうだよ…。だから、怖い。普通じゃない事は怖い。僕、もう分からないんだ。
 慎吾の事、好きだけど…恋愛って意味で好きなのか分かんない…。
 どうしていいのか…もう、分かんない…」

 自分の気持ちを言葉にした途端、ぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。
 好きでも、仕方がない事もあるのだと思う。母は、『仕方がない』と諦めなかった。自分の気持ちに正直に従った。その結果がもたらしたものを、拓朗自身が一番よく知っている。
 このまま『普通じゃない』関係をずるずる続けていたら、近い将来、必ず父や桐子を傷つける事になる。もしも、同級生から向けられた汚いモノでも見るような視線を、大好きな二人から向けられたら…。
 ここに越してきてから、そうした悪意と無縁でいられたのは、慎吾が守ってくれたからだ。でも、その守護者の筈の慎吾が、今度は自分を “ 人でなし ” にしようとしている――。

「タク…」

 言葉もなく涙を溢れさせる拓朗の顔を慎吾はじっと見つめていたが、辛そうに顔を歪ませてゆっくりと口を開いた。

「それが、お前の返事か……」

 分かったと、ため息を吐き出すように告げると、戸口へ向かって歩き出した。玄関の前までくると立ち止まり少しだけ振り向いた。

「タク、俺な……。俺はお前の事、兄弟とか、友だちとか思ってない。
 最初はそうだったかも知れない。けど、今更そんな関係に戻れないんだよ…。
 なかった事になんかできない。元に戻るくらいなら、もう…」

 もう、と言った先は尻窄みになってよく聞こえなかった。そのまま靴を履くと慎吾は静かに出て行った。階段を駆け下りる軽快な足音がした後、拓朗の周囲から音が消えてなくなった。
 拓朗はじっとして動かなかった。否、動けなかった。代わりに耳をそばだてて外の気配を窺うが、階段を下りた後、聞こえる筈の慎吾の足音は聞こえなかった。近くを走る私鉄線の電車の音が、カタカタと安普請のアパートに響くだけだった。
 拓朗は慎吾の出て行った戸口を見つめたまま、どうしてか身体の力を抜くことができなかった。全身を緊張させ浅く呼吸を繰り返していたが、不意に、カツカツと足早に歩くヒールの高い音が耳を掠めた途端、腹の底から湧き上がる猛烈な焦燥に駆り立てられた。

「いやだっ!」

 拓朗は叫ぶと同時に戸口へ向かって走り出したが、布団が足に絡まってその勢いのまま前のめりに倒れ、畳に顎を強かに打ちつけた。痛みが脳天を突き抜けて息が止まる。じわっと涙が滲んだが、混々と溢れ出る焦りに身体が必死で動こうとする。震える手で布団を掴み匍匐前進で必死で戸口へ向かう。
 やだっ、やだっ、やだっ、嫌だっ! 行っちゃ嫌だ!
 胸の奥がチリチリと焼けつくように痛む。行かなきゃ、追いかけなきゃと逸る気持ちに追い立てられて心臓が早鐘を打って息苦しい。
 慎吾が側にいなくなるという事を、拓朗は唐突に覚った。愛とか、恋とか、そんな判別は無意味だった。慎吾をなくしてしまったら、息も出来ないほど苦しい。胸が千切れるほど哀しい。

「ひっく、ひぃぃっく…」

 震える程の切なさに、拓朗は俯せになったまま激しくしゃくり上げた。
 慎吾が好きだ。すごく、すごく好きだ。だけど…。
 胸に渦巻く想いとは別に、頭の隅に『もう遅い』と冷ややかな視線を送る自分がいた。
 お前は慎吾じゃなく、父や桐子を選んだんだ。『普通じゃない』事を恐れて、慎吾を捨てた。慎吾はもうお前を顧みない。友だちにも戻れない。兄弟にもなれない。お前は一番大事な人を失ったんだ。馬鹿な奴。バカなヤツ。
 拓朗は鼻を啜りながらゆっくりと身体を起こした。鼻が詰まって上手く息がつけないが、嗚咽はすぐに治まった。冷ややかな自分が、高ぶった気持ちを少しだけ冷静にした。
 先ほどとは逆に、くにゃくにゃと力が入らない身体で膝行りながら、ぐちゃぐちゃの布団の上に戻り、掛け布団を頭からすっぽり被ってまん丸く縮こまった。
 嫌な事があると、拓朗はこうして布団の中で丸くなる。それはひとつの儀式だった。

『布団の中は安全だ。布団から手足をはみ出してはいけない。
 はみ出たところは意地悪な同級生や、噂好きの近所のオバサンに食べられてしまう。
 でも、布団から出なければ大丈夫。大丈夫。
 もう少ししたら、元気になる。怖くなくなる。
 次ぎに布団から出る時は、新しい自分に生まれ変わって強くなる。
 お母ちゃんなんか、いらない。いなくったって大丈夫。僕は、強くなるから』

 今まで、何度こうして布団を被ったことだろう。

『子宮回帰願望っていうんだぜ』

 中学生になっても布団を被っていた拓朗に、慎吾はからかうようにそう言った。

「狭くて暗いところが落ち着くっていうのは、まだまだ赤ん坊なんだぜ。早く大人になれよな」

 慎吾はいつも、お前には俺がいるだろうがと、布団を強引に剥ぎ取って泣いている拓朗の上に覆い被さると脇の下を擽った。拓朗が泣き止んでゲラゲラと笑い転げるまで擽り続けた。
 暗くて狭い悲しいもの思いから、もう慎吾は救いにきてくれない。布団を剥ぎにきてくれない。そう思うと、止まった涙が再び溢れ出てきた。

「慎吾なんか、いらない。いなくったって、だい、じょう、ぶ。
 ぼくはっ、だい、じょう、ぶっ……」

 声に出して言ってみる。仕方ないんだと言ってみる。僕はお母ちゃんにはならない。なってはいけない。いくら好きでも、意の向くままに生きて良い訳じゃない。周りの人を不幸にしてまで自分の幸せを追いかけるのは、“ 人でなし ” のする事だ。

「ひぃっく、うっ、くっ……」

 思いとは裏腹に、涙は止まってくれなかった。布団を剥いでくれる人がいない以上、自分でここから出なければいけない。なのに、手足を伸ばす事ができない。
 もう少し、あともう少し、そうしたら大丈夫だから。きっと――。
 抜け出せる。そう思った時、急に瞼が明るく感じた。布団の重みも感じない。腫れて重くなった瞼をこじ開けると、呆れたような困ったような複雑な顔をした慎吾が掛布団を掴んで立っていた。

「どう、して…?」

「声、聞こえた。いやだって、お前の声…」

 壁、薄いよなと、慎吾は苦笑いしながら拓朗の側で胡座をかいた。拓朗はばっと上体を起こすと腫れて赤くなった目を、目一杯広げて慎吾を見つめた。入ってくる音なんか聞こえなかった。こうして目の前にいるのが信じられない。
 慎吾は苦笑いを浮かべたまま拓朗の赤い鼻を摘んだ。

「下にいたんだ。少し頭冷やそうと思ってさ。こっちは十年越しなんだぜ。
 そう簡単に諦めるかよ。どうやってお前の気を変えさせようか考えていたら声が聞こえて。
 上がってくれば、お前はまた布団に潜り込んでるし。
 そんなに泣くくらいなら、どうしてもっと……」

 途中まで言いかけた台詞を呑み込んで、腕を伸ばすと拓朗の腕を掴んで引き寄せた。そのままのめるように慎吾の胸に抱かれると、耳元で「泣き虫」という声が聞こえた。
 胸元に顔を埋め思い切り慎吾の匂を嗅いだ。洗剤の匂いと、父とも自分とも違う、男の匂い。ほっとすると同時にぶわっと涙が溢れ出た。
 慎吾が好きだ。大好きだ。いらないなんて嘘。いなくなったら生きていけない。
 瞼の裏に母の顔が浮かび上がった。『周りの事とかどうでも良くなっちゃうんだよ』そう言った国領の声が耳元でする。
 本当に、どうでもいいと思った。慎吾がいてくれたら、それでいい。
 拓朗は慎吾の背中に腕を回してしがみつくと声を上げて泣き続けた。

NEXTは18禁ページです。18歳未満の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

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