もう六月も半ばになったが、まだ彼に会えなかった。
他人に対して、こんなに執着したのは初めてかもしれない。会いたいと思う気持ちが俺を動かしている。
見つからなくて落ち込んでも、彼の、すぐに視線を外して俯く様や、最後に見た泣きそうな顔を思い浮かべて自分を鼓舞した。思い違いでなければ、その表情の意味は、俺が思っていることで間違いないはずだと。でもさすがに、こうも見つからないと自信をなくしかけた。
自分を避けているのかもしれないなどと被害妄想的なことを思うようになったころ、俺の乗車駅より二つ手前の駅から乗った電車の中で彼を見つけた。姿を見た時、大声を挙げそうになったのを必死で押さえた。あんなに探したのに、いざ見つかってみるとすぐに声を掛けられない。俺はサバンナで草食動物を狙うライオンみたいに、人陰から呼吸を詰めてじっと様子を窺った。
彼はつり革に捕まってずっと窓の外を眺めていた。髪が少し長くなって綺麗な目を隠してしまっている。何となく前より痩せて元気がなさそうに見えた。
しばらくそうして見詰めていたが、彼がすぐに降りてしまうことを思い出して近づこうと決心したとき、いきなりこちらを向いた。ぎょっとした様に目を大きく見開いて、そのまま動かなくなってしまった。
どうやら俺を覚えていてくれたらしいが、彼の心の中にどんな感情が在るのかは窺い知れなかった。生唾を飲み込んで、汗ばんだ手をジーンズにこすりつけた。今、自分に蹴りを付けよう。
俺は人を掻き分けて彼に近づいた。何を言おうか散々考えてきたのに、頭の中の台詞は、彼の顔を見た瞬間に消し飛んでしまった。
こうなったら当たって砕けろだ!
「どうして始発に乗らないの?」
俺の質問が唐突過ぎたのか、彼は瞳に驚きの色を浮かべただけで固まったまま動かない。
自分でも馬鹿だと思ったが、焦るばかりでどうしようもない。用意していたフレーズが断片的に頭に浮かぶ。それに縋り付いて言葉を繋げることしかできない。
「あの日、あんた俺のことずっと睨んでただろ? アレ、誤解だから」
彼は更に目を丸くして見詰めるだけだった。駄目だ。全然意味が通じてない。俺の思い違いなんだろうか? いや、言葉が足りなさ過ぎるだけかもしれない。
あれこれフル回転で考えていると頭が熱くなってきた。そう言えば今日はいつもより蒸し暑い。冷房が全然効いていないのかと思うくらい、後から後から汗が背中を流れていく。
俺は居たたまれずに視線を外す。もの凄く恥ずかしい。かっかする頭の隅で挫けそうになる自分がいる。でも今までの努力を無駄にしたくない。このまま引き下がれない。
思いつく限り話してみるしかないだろう。そう思って、もう一度彼を見た。
「アレ、ただのバイト先の人。たまたま朝一緒になっただけだから」
彼は惚けたような顔をしていたが、俺の言葉を聞いて顔色が変わった。瞳がゆらゆら揺れている。俺の思いこみじゃないよな。たぶん、そうだよな。
最後の賭けをする為に、空咳をして呼吸を整え呟いた。
「だから、もうあんな泣きそうな顔しなくていい。俺はあんただけ、見ていたんだから」
彼の顔にはっきりと変化が現れた。スローモーション映像が普通モードになったように、彼はいきなり瞬きをすると、うっすら頬を赤らめて下を向いてしまった。それは俺を見た時の彼のいつもの反応だった。
やっぱり、思い違いじゃなかったみたいだ。俺は安堵すると同時に明日からの自分たちを思い浮かべた。二人でまた始発に乗る。でも明日からは隣同士で座るのだ。想像すると楽しくて笑いながら俺は言った。
「明日は始発に乗るだろ?」
彼は前を向いたまま小さくコクリと頷いた。
明日、悪友に何か奢ってやろう。やっぱりラーメンがいいか? でもカミングアウトはもう少し先だな。
電車の窓には幾筋も雨粒が流れている。まだ梅雨明けは先だろうけれど、夏になったらみんなで海にでも行って、さり気なく紹介してみよう。
俺は自分の気の早さに少し呆れながら、自然と緩む自分の顔を幾度もさすった。
(了)