INDEX NOVEL

ねがいごと

 朱色の短冊を手に虚空を薮睨みしたまま、牧 紫苑(まき しおん)は一心不乱に願い事を考えていた。俺はその横顔を眺めながら、人は変われば変わるものだと改めて感慨を深めた。
 俺たちの通う学校では毎年七月一日になると、中等部と高等部を繋ぐ昇降口に七夕の笹が用意される。吹き抜けのホールの中央にある有名な彫刻家の作だという厳つい青年のブロンズ像を囲むように、中等部の各学年用の笹が三本と、同じく高等部用の笹が三本立ててある。笹の横に設置された丸テーブには、お菓子の空き缶に入った五色の短冊とマジックペンが用意され、いつでも願い事が書けるようになっていた。
 入学当初、中学高校にもなってずいぶん幼稚な事をさせるものだと思っていた。今時の生徒が真面目に短冊なんて書くものかと嘲っていたが、このひょろひょろと細い笹の枝は、幼稚部と初等部の生徒が作った色とりどりのお飾りと共に、毎年煩悩を書き連ねた短冊で重くしな垂れていた。
 願い事の大半は成績の向上を願った内容だけれど、中には恋愛成就とかふざけた内容のものや、病気治癒など真面目なのもある。読んでいるとなかなか面白ものがあるが、自分の願い事などとても書く気にはならなかった。
 牧も俺と一緒で、いつもは冷めきった目つきで笹を眺めていたくせに、下校しようと入った昇降口で笹を見た途端、いそいそと丸テーブルに近づいて浮かれた笑顔を浮かべながら、「はい、一ノ瀬(いちのせ)の分」と真っ赤な短冊を俺の目の前に突き出しやがった。
 勢いに押されて受け取ったものの願い事などない俺は、何を書こうか真剣に考え込んでいる牧の横顔を眺めながら、こいつが去年から付き合い始めた “ 恋人 ” の事を考えていた。

 昨年の六月だった。唐突に「『にらめっこ』に勝てないのは何故か?」と聞かれた。
 詳しく話を聞けば、牧はその当時電車の中で誰彼構わず『ガンをとばして先に目を逸らせた方が負け』という、非常にくだらない遊びに凝っていた。殆どの場合は牧が勝つのだが、一人だけ何度やっても勝てない相手がいるという。真顔で「なんでだろ?」と尋ねる馬鹿さ加減に心底哀れを感じた俺は適当な事を答えてやった。
 その後「どうだった?」と結果を問うと、妙に切なそうな顔で「惨敗で終わった」と答えた。それから暫くの間、牧は全く元気がなくて、普段の俺なら気にも止めないのだが、あの時は見るからに萎れているのが気になって仕方がなかった。
 牧と俺は、中学入学からずっと同じクラスだった。高等部に進学してもその腐れ縁は続き、結果的に他の連中より仲が良かった。内面的にも外面的にも似ているところが多い、というのもあった。
 互いに片親で、家に金だけはあったから、愛情以外のものは腐るほど与えられて育った。少々性格は陳ねこびたが、知能指数とプライドが高かったお陰でぐれたりはしなかった。何にも興味を持たず、何にも関わろうとせず、有り余る暇な生きている時間を、牧はくだらない空想をする事で紛らわせ、俺は無駄な知識を増やす事で紛らわせていた。
 そんな同属の好(よしみ)で手を差し伸べてやろうかと、自分でも珍しい事を考えて様子を窺っていると、ある朝、牧は梅雨の晴れ間のようなカラリと晴れた顔で登校し、驚いている俺に向かって「恋人ができた」とほざきやがった。
 どうやら、あの『にらめっこ』で連敗していた相手を好きなり、恋煩いで傷心していたらしい。オマケにもっと俺を驚かせたのは、その相手が “ 男 ” だった事だ。
 牧自身、その事実に戦いて自分で見切りをつけようとしたらしいが、相手が自分を求めて捜し出してくれたのだと、嬉しそうに事の経緯を語る牧を見ながら、やっぱり俺は余計な事はしないに限ると考えを新たにした。
 それからの牧は、傍目にも驚くほど性格が変わった。よく笑い、よく喋るようになった。某芸能事務所のアイドルかと見紛うほどの整った顔に似合わず愛想のない無口だった奴が、今では嬉々として “ 恋人 ” の惚気話をする。
 彼氏との時間を何より最優先にしているから、相変わらず付き合いは悪いままだったが、一気に親しみやすくなった牧の変化を、クラスメートは一様に歓迎しているようだった。
 面白くないのは俺だけかと内心でふて腐れていたら、宙にも舞いそうなほど浮かれていた牧がまたしても鬱ぎ出した。何があったか知らないが好い気味だと、今度こそ余計な事はしないとそ知らぬ振りを続けていたが、感情を明け透けにするようになった牧は、負のオーラを撒き散らしてはばからなかった。
 結局その鬱陶しさに負けて、渋々どうしたんだと聞いてやると、牧は恨めしげな目を向けて「エッチしてくれない」と宣った。
 瞬時に硬直した俺を尻目に、切々とキス以上の事をしてくれないと訴える声をどこか遠くに聞きながら、『恋とはげに恐ろしきもの哉…』と、体中総毛立ったのを今でも覚えている。
「うじうじ考えてないで、本人に訊けばいいだろ…」と、やっとやっと答えた俺に牧は素直に頷いた。
 それからすぐ夏休みになり、俺は独り涼しい部屋に籠もり平穏な日々を過ごしていたが、うざったいほど熱い太陽と同じくらい明るく連絡を寄越した牧に海へと誘われた。彼氏と初エッチができた牧は、今までのアドバイスの礼がしたいし、その彼氏を紹介したいと言うのだ。当然二の足を踏んだが、車(あし)と食費は持つからと丸め込まれた。
 こうして俺は約束の日に行った待ち合わせの喫茶店で、生まれて初めてホモの男を見たのだった。
「はじめまして、柿原良次(かきはら りょうじ)です」
 そう自己紹介した年上の男は、俺の偏見を覆す精悍な感じのする男前だった。

「か〜けた!」と言った牧の声で我に返った。俺は慌てて「何を書いたんだ?」と聞くと、牧は短冊を俺の目の前にぶら下げた。
「Sさんの願い事が叶いますように…って、なんじゃこりゃ。Sって佐藤さん? 何で自分の願い事じゃなくて、佐藤さんなの?」
「う〜ん…だって、いつも元気印の佐藤さんが最近元気がないって、良次さんがすごく心配してるからさ。僕の願い事は叶っちゃったから、代わりにね」
「元気ないって、例の事に関係してる訳?」
「そうみたい…」
 言いながら牧は自分の書いた短冊を手の届く限り一番高い場所にある枝に結びつけた。俺は初めて佐藤さんに会った時の事を思い出していた。
 佐藤さんとはあの海に行った日、柿原さんと一緒に紹介された。柿原さんの大学の同期で、一番仲の良い友だちだと言った。
「佐藤幹生(さとう みきお)です。今日はよろしく」と爽やかな笑顔で挨拶した彼は、その人懐こい大きな瞳以外、俺たち四人の中で一番凡庸な感じの男だった。
 既に佐藤さんと顔見知りになっていた牧は、気を使ってわざわざ後部座席に俺と座り、柿原さんの個人情報は既に聞かされていたから専ら佐藤さんの特殊な趣味 ―― 鉄道を愛し旅をする ―― その切っ掛けになった小学生の頃の冒険譚を聞かされた。
 海に着くまでの長いドライブの間、あの何に対しても無関心だった筈の牧が、まるで我が事のように「佐藤さんは今も、そのヒッチハイクさせてくれた人を探してるんだって」と目を輝かせて語るのを、俺は虫酸が走る思いで聞いていた。
 佐藤さんは時々振り向いて、照れたような困った顔をしていたが、俺と目が合うと親しみの隠った笑顔で微笑んだ。俺はその瞬間、猛烈な憤怒を覚えたが、心とは裏腹ににっこりと微笑み返した。
 この人は、俺の一番嫌いなタイプだと思った。凡庸な幸福を全部その手に持っていて、その余裕が笑顔になって滲み出ている。鬱陶しい。実に鬱陶しい。
 俺はこの時、牧が牧でなくなってからずっと感じていた鬱憤を、この人で晴らす事に決めたのだった。
 何故か、牧を変えた張本人である柿原さんには、特に何の感慨も持たなかった。彼がこちらが負けを認めるほどの美男子だったせいかも知れないし、ホモだったからかも知れない。この人はこんなに整っているのに欠けている。そんな親近感を覚えこそすれ、憤りは全く感じなかった。
 佐藤さんに対する最初の躓きを思い出して、胸に苦いものが込み上げた。
「結局、探し出せそうにないんだろ?」
 願望と嫉妬が入り交じった複雑な気分で吐き捨てると、牧はムッとして言い返した。
「そんな事ない! 今度は凄く有力な情報が手に入ったんだって。でも、会うのが怖いんだって…。僕には分かるような気がするよ」
「何で怖い事がある? ずっと、そのために探し続けていたんだろう?」
 俺の台詞に牧はため息を吐きながら頭を振った。
「委員長って頭いいし博学だけど、そういう事はからっきし駄目だね…」
「ちゃんと分かってるさ。けど、俺はあの人に、きちんとケリをつけて貰わないと困るんだ」
「何それ? ケリをつけるって…委員長、何かすごく誤解してない?」
 目を丸くする牧を無視して、俺はマジックペンを手に取った。

 海に着いて海パン一丁になった佐藤さんは、見かけと違って鍛えられた肉体をしていた。ひょろ長いだけで生っ白い俺の身体とは全然違う。思わず見詰めてしまった俺の視線を受けて、「旅費を稼ぐのに、肉体労働しているから自然と筋肉ついちゃうんだよ」と恥ずかしそうに言った。
 はっきりした人生の目的と楽しみを持ち、行動全てに意味のある有意義な日々を送る人。そう思うと憎悪は更に深くなり、俺は徹底的に佐藤さんを虐めてやろうと思った。
 散々っぱら泳いで海の家で昼食を取ったあと、佐藤さんと二人だけになったのを見計らい、俺は無邪気を装いながら言ってやった。
「俺、例の人の話聞いて思ったんですよ。そんなに頑張ってお金貯めても、俺にはその使い道を誤ってるようにしか見えない。佐藤さん、口で言うほどその人の事、真剣に探してないでしょ」
「えっ? そんな事ないよ…。な、なんで?」
 佐藤さんは何を言い出すんだと面食らった顔で、丸い目を更に大きくした。俺は「だってさぁ…」と言いながら貧弱な白い自分の足で黒い砂を蹴り上げた。
「人を本気で探すなら、俺だったらプロに頼む。金はかかるだろうけど、貴方が今まで旅行に使った金を合わせたら、ずいぶんな金額になるでしょう? 自分の楽しみを兼ねて人捜しなんて、俺から見たら真剣みが足りないよ?」
「でしょう?」と言って同意を求めるように微笑むと、大きく開いた瞳が見る間に翳って「そう、かな…」と呟いたきり黙ってしまった。
 その後も彼の思い出を傷つけるような嫌みな言葉を吐き続け、仕舞には佐藤さんの顔から笑顔が消えた。柿原さんと牧に話しかけられれば空元気を出して変わらないよう努めていたけれど、俺の方は殆ど見ようとしなかった。その様子が可笑しくて、自然と顔が緩んでしまうのを誤魔化すのが苦しかった。
 長く俺と一緒にいる牧には、佐藤さんの元気の下降が俺のせいだと気づかれたようで、帰りの車中でも虐めてやろうとした俺を助手席に座らせると、自分と佐藤さんで後部シートを陣取って早々に居眠りを始めた。
「ああいう態度を最初に許してると、ずっと尻に敷かれますよ」と柿原さんに忠告したが、彼はバックミラーに映る二人を眺め「それでもいいよ」と目を細めて笑った。
 俺は終始上機嫌で柿原さんに話しかけたが、彼は頷くだけで殆ど口をきかなかった。さすがに話題が尽きて沈黙が流れると柿原さんは前を向いたまま、「寝てていいよ」と素っ気なく言った。俺は柿原さんにも佐藤さんを虐めた事がバレているのを感じた。
 海から帰った後、佐藤さんとは(勿論、柿原さんとも)もう会う事はないと思っていたけれど、運命というべきか、参考書を買いに行った本屋で偶然の再会をした。佐藤さんは旅行雑誌の棚の前で熱心に立ち読みをしていて、俺が傍に来た事に全く気づいていなかった。
 近づいて、よくよくこの人の横顔を見てみると、それなりに整った顔立ちをしている事に気がついた。背が低いから見劣りするけれど、海で見た通り均整の取れた綺麗な体つきは服の上からでもよく分かる。今日の出立ち、濃紺のポロシャツと麻のボトムの組み合わせはこの人に似合っていて悪くない。中身は鉄道オタクだけれど、俺に負けず劣らず博識で人を楽しませる術を知っていた。
 あんなに超絶美男子の傍にいなければ、結構モテるタイプだろうなと思いながら、俺は思いっきり佐藤さんの肩を叩いて「こんにちは!」と笑いかけた。
 佐藤さんは吃驚して竦み上がると、脇に挟んでいた本を取り落とし慌てて俺の方を振り向いた。
「ごめんなさい、驚かしちゃいました?」
 何食わぬ顔で落とした本を拾うと、言葉もなく怯えたように見詰める佐藤さんに差し出した。佐藤さんは一度空咳をすると、いつもの人の好い笑顔を浮かべ、驚かした俺に「ありがとう…」と礼を言って本を受け取った。
 俺はその愚鈍さにまたしても腹が立った。
「佐藤さんってさ、海でも思ったけど、柿原さんのいい引き立て役だよね。あの人と一緒にいて恥ずかしくなんないの?」
 俺を見る佐藤さんの瞳にカッと怒りが湧くのが見えた。
「なっ、何も、君に言われなくても、そんなことっ ―― 」
 佐藤さんはひゅっと風をきるような音をさせて息を吸い込むと、そこら中に響き渡るほど大きな声で叫んだが、途中で真っ赤になって言いかけた言葉を呑み込んだ。そうして俺をきっと睨むと逃げるように走り去ってしまった。
 俺は茫然と彼の消えた先を眺めていたが、腹の底から沸々と笑いが込み上げて、爆笑しそうになるのを口を押さえて堪えた。
 堪らなく嬉しかった。彼は自分を分かっていた。自分の見た目が平凡である事に、ちゃんとコンプレックスを感じていたのだ。きらきらと輝く瞳で元気いっぱい、興味いっぱい、生きている事すべてが楽しくて、そんな小さな事を気にしませんと言った自信に満ちた顔の裏側で、矮小な身体と見た目に引け目を持っていたのだ。
 それは、俺たちがどんなに外側で恵まれていても、満たされない気持ちを持て余していじける姿よりも、更に哀れで惨めったらしく感じて愛しかたった。可愛くて愛しくて、俺はもう一度佐藤さんに会いたいと切実に願った。

 俺は夏休みの終盤になって牧に連絡を取り、もう一度みんなで会おう、できれば泊まりで出かけないかと持ちかけた。俺の所行を疑っていた牧は返事を渋っていたが、伊豆の別荘でゆっくりしようと言うと乗り気になったのか、一応聞いてみるけど期待しないでと言いながらも請け負ってくれた。
 待つこと三日。期待半分諦め半分で返事を待っていたけれど、27、28日の二日間なら皆の都合が良いとの吉報があった。俺は小躍りして別荘に乗り込むとあちこち掃除して準備を整え、みんなの到着を待った。
 夏の終わりの青空を背負って、海に行った時と同じ水色の柿原さんのキューブが三人を乗せて到着した。
 いったい牧はどう言って佐藤さんを丸め込んでくれたのか、彼は車を降りて俺を見ると少し強張った顔をしたけれど、律儀にお世話になりますと頭を下げて挨拶してくれた。
 その日は一切、嫌味な事は口にしなかった。近くの観光コースへ案内し、にこやかにホストとしてゲスト三人を歓待した。そうしてみんなを安心させてから今回の悪巧みを実行に移した。
 酒を飲めない俺たちに気を使った大学生の二人は、明日のテニスの予定を考えて早々に寝ることを提案し、俺は待ってましたとばかりにそれぞれの部屋に案内した。ゲストルームが四部屋あるにも関わらず、二部屋しか使用できないと嘘を吐いて。
「ごめんなさい。長く使って無かったので、他の部屋は物置と化しちゃってるんですよ。だから向こうの部屋は柿原さんと牧で、俺と佐藤さんはこっちの部屋で休みましょう。ベッドはちゃんと二台ありますから、安心してお休みください」
 そう言って微笑むと、柿原さんは困った顔をして佐藤さんを眺め、牧は真っ赤になり、佐藤さんは青い顔をして下を向いた。俺が笑顔で促すと、みんなそれぞれ言いたい事を腹にしまって大人しく部屋へと入って行った。
 各部屋についている欧米仕様の浴室で佐藤さんに先にシャワーを使ってもらい、交代で俺がシャワーを浴びて出てくると、既に佐藤さんはベッドに潜り込んで俺に背中を向けていた。照明は落とされていて、中央の珈琲テーブルに置いたランプだけが暖かい光を放っていた。俺にはそれが佐藤さんの優しさを体現しているように感じた。
 何も言わず黙って静かにベッドに入ると、微かにため息を吐く音が聞こえた。俺は可笑しくなってクスリと鼻を鳴らすと「起きてるんでしょう?」と頑なに拒絶している背中に話しかけた。
「少し話をしましょうよ。折角縁合って友だちになれたんだから」
 俺がそう嘯くと、「君は俺が嫌いだろう? 友だちだなんて思ってないくせに」と佐藤さんは即答した。
「それは誤解ですよ。俺は貴方の事が好きですよ。気に入ってます」
「…とてもそうは…。思えないよ」
 くぐもっていた佐藤さんの声がはっきり聞こえるようになった。目だけ動かして佐藤さんを見ると、タオルケットを鼻まで被った状態で困惑した瞳をじっとこちらに向けていた。
「ホントですよ。ただちょっと気になる事があって。失礼な事訊くようですけど、貴方もやっぱりゲイなんですか?」
「な、な、な、なに、言ってる…」
 佐藤さんはがばりと飛び起きると真っ赤になって吃りながら怒鳴った。
「しーっ! 大きな声出さない。向こうに聞こえちゃいますよ」
 そう言うと、佐藤さんは口元を押さえて見えるはずのない牧たちがいる部屋の方角を眺めた。
「貴方が十年以上も一人の男の人を探してるって言うから、てっきりそうなんだと思って」
「違う! 俺は違う! ただ、彼に会って言いたい事があるだけで!」
「別に、そんな力いっぱい否定しなくてもいいじゃないですか。佐藤さんは柿原さんの事、友だちだとか言いながら、本当は気持ち悪いとか思ってないですか?」
「そっ、そんな事、思ってないよ!!」
「そう? 知ってます? あの二人、もうやっちゃってますよ。あっ、誤解しないでくださいね。俺から聞いた訳じゃありませんよ。牧が自分から教えてくれたんです。俺は絶対、牧は女役だと思っていたけど、男同士ってすごいですよね。どっちもできるんですってさ。すごく、良いらしいですよ。どっちも。俺は逆立ちしたって女の快感なんぞ分からないだろうと思ってたけど、それに近いものがあるんでしょうかね?」
 これは嘘でも何でもない。夏の初めに牧から海へ誘う電話を貰ったとき、アドバイスしてやったんだから結果を教えろとごねたら、牧はあっさり白状した。俺は女体の神秘も知らないでお釜を掘られた牧に甚く同情した。
「お前、この先一生、童貞のまま過ごすつもりか?」
 大きなお世話と知りつつも、改めて男同士の不毛な関係を見直す事を勧めると、牧はしれっとした声を出して、「僕、もう童貞じゃないモン。良次さんにさせて貰ったよ」と事も無げに言いやがった。俺はそこで、人間の心と身体の神秘を今一度再認識したのだった。
 佐藤さんの反応は全くなかった。俺は仰向けに寝たまま喋り続けていたので、佐藤さんがどんな格好で聞いているのか分からなかったが、余りにも静かなのに気づき、まさか寝たんじゃあるまいなと佐藤さんの方を見遣ると、彼はまるで怪談話を怖がる子どものように、耳を両手で塞いで目をギュッとつぶっていた。
 俺はそっと起き上がってベッドを出ると、足音を立てずに佐藤さんの傍に近づいた。そして耳を塞いでいる手の手首を握ると力を込めて耳から外させた。佐藤さんは驚いて目を見開くときっと俺を睨んで叫んだ。
「やっぱり君は意地悪だ! 俺をからかって喜んでるだけなんだろ?!」
 俺は佐藤さんの手首を握ったまま顔を覗き込み、しーっと言って黙らせた。
「こんなの、ただの猥談に過ぎませんよ。貴方がホモじゃないって言うなら、どうしてその人に会いたいのか、本当の事を教えてくださいよ」
 俺が真剣な目で尋ねると、佐藤さんは身体から力を抜いて「君には、きっと分からないよ…」と呟いた。

 俺が手を離してベッドに腰かけると、佐藤さんはそのまま仰向けに倒れ込んで柔らかいマットレスが大きく揺れた。佐藤さんはばつの悪い顔をして目を閉じるとおでこを擦り、何かを思い出すような調子で「俺は将来、チビ、デブ、ハゲになるのさ」と呟いた。
 脈絡のない話に俺は首を傾げたが、今の佐藤さんからはそんな未来の姿は想像できなかった。
「俺は親父にそっくりなんだ。だから、絶対にそうなる。SFじゃないけどさ、自分の未来の姿を知ってしまった怖さが分かる? 未来に何の価値も見出せなくなった。俺は最初、そんな言い訳をして、学校の勉強も運動もきちんとしなくなった。親にも先生にも反抗的で、すごく嫌な子どもだった。それを変えてくれたのが、彼だったんだ…」
 牧から聞いた話は、そんな内容だっただろうかと俺はまた首を傾げた。俺の心の声が聞こえたように、佐藤さんはフッと笑って静かに話し始めた。
「牧くんが話した通り、あの人は俺を『幸福駅』まで送ってくれただけだ。でも、彼に出会えたことが、俺を変える切っ掛けになったんだ。俺が北海道から帰ると、子どもに無関心だと思っていた父親が、酷く心配して俺を待っていてくれた。勿論、しこたま怒られた。でも怒られるだけじゃなくて、どうだったって、楽しかったかって聞いてくれた。それから父と色んな話をした。昔、父が凝っていた鉄道と若い頃行った旅の話。そんな話をしている父の顔はとても嬉しそうだった。聞きながら、俺は父にも若い頃の夢や希望があって、ちゃんとそれに向かって努力して、挫折や失敗や見直しもあって、今の父があるんだと分かった。努力して今のこの状態なのか、とは思わなかった。そんな風に思うと、『人間は無駄な事ばかりしている』と言った哀しそうなあの人の顔が思い出されて辛かったからだ。無駄なんかじゃない。父だって別に駄目な人なんかじゃないし、俺だって頑張ればきっとなりたいものになれる。喩えなれなかったとしても、努力して無駄な事などないのだと信じたんだ。それからの俺は努力したよ。勉強も運動も頑張った。やればやっただけ成果があって遣り甲斐があった。何のための努力か分かっているから、毎日が充実して楽しかったし、そう思う度、俺はあの人を思い出した。俺はただ…無駄なんかじゃないって、そう彼に言ってやりたいだけなんだ…」
 佐藤さんの言葉には説得力があった。佐藤さんと柿原さんが通う大学は六大学の一つだ。しかも二人ともストレートで合格し、佐藤さんに至っては奨学金も貰っている。そんじょそこらのオタクとは一線を画している。
「そりゃあね、一ノ瀬くんが言った通り、どうにもならない事もある。チビ、デブ、ハゲになる運命は変えられないからね。でも、言っとくけど俺は柿原の隣に並ぶ事を恥ずかしいと思った事はないよ。彼は俺の自慢の友だちだから、彼が引き立つなら冴えない顔も役に立つんだなと自慢に思うくらいだ。負け惜しみじゃないよ。今更僻んだって仕様がないもの。そりゃあ、君や牧くんみたいに格好良く生まれていたら、人生随分変わっていたんじゃないかと思う時もある。でもね、どんなにハンサムに生まれついても、努力しない奴は思うようには生きられないと思うんだ。俺は、逆にハンサムに生まれなかったから、努力する楽しみを知る事ができたのかもね。これも、あの人のお陰かな…」
 佐藤さんの言葉は一々ごもっともで、俺の心に深く突き刺さった。俺も、牧も、これまで努力らしい努力などした事はない。だから遣りたい事も、進みたい道も見出せないのか。否、恐らく牧は柿原さんに感化されて変わってきている。遣りたい事を見つけられるのも、そう先の事じゃないかも知れない。きっと、俺だけが置いて行かれる。そう思うと悔しくて、負け惜しみの礫を投げた。
「そんな事を告げるために、その人を探してるんですか? そんなのただの自己満足です。彼はきっと、もう貴方の事なんて忘れてますよ。それこそ大きなお世話だ!」
 そう言うと、佐藤さんはまた静かになった。俺はここに来て初めて、彼に対する罪悪感を感じて胸が痛くなった。佐藤さんは額に置いていた手で瞼を覆うと泣きそうな声で言った。
「…自己満足でも構わない…。忘れられないんだ、あの哀しそうな顔が。あれは十歳の時の俺の顔なんだ。俺の顔でもあり、父の顔でもあったんだ。彼が幸せだったらそれでいいけれど…もし今も、あんな哀しい顔をしているのなら…自己満足でも何でも、言ってやりたいんだ。ありがとうって、貴方に会えたから気づく事がいっぱいあったって。無理して北海道へ、幸福駅に行ったのも、無駄じゃなくて、貴方に会えた意味があったって……」
 俺は、その愛の告白のような言葉を聞いていたくなかった。佐藤さんの口から、他人を想う言葉など聞いていたくなかった。俺はその時はっきりと、自分の中に牧と同じく同性に恋する気持ちが芽生えていたことを確認した。
 俺は瞼を覆う掌を外させると、驚いて見開いた涙に潤む大きな瞳を覗き込んで言った。
「彼はもう、貴方の事など忘れてる。だから貴方も彼など忘れて、他のものに目を向ければいい。俺は貴方が好きです。好きだから、意地悪したんですよ」
 そう言って、俺は佐藤さんにキスをした。それも触れるだけじゃない、恐ろしく濃厚なやつを。
 佐藤さんはくぐもった悲鳴を上げながら口を閉じる事に必死になっていて、唇を離すとか手を上げるとか、他の対処法を考える余裕はなかったらしい。お陰でかなり長い時間、俺は彼の柔らかい唇を貪っていられたが、さすがに我に返った佐藤さんに顎の下から猛烈なアッパーカットを食らってベッドの下に転がり落ちた。
 佐藤さんは荒い息を吐いてベッドから飛び降りると、凄まじい音を立てて部屋から飛び出し、柿原さんと牧のいる部屋へ飛び込んだらしい。俺はきっと事に及んいるだろう二人が大声を上げるのではないかと思ったが、いつまで待っても静かなままで、朝になっても佐藤さんは俺の部屋に戻って来なかった。
 翌朝、部屋に乗り込んで来たのは憤慨した牧だった。
「ちょっと! どういうつもりだ?」と荒々しくタオルケットを引きはがして俺の顔を見るや悲鳴を上げて部屋を飛び出し、暫くするとタオルとアイスノンを両手に、柿原さんと佐藤さんを引き連れて戻って来た。二人とも怒ってはいたようだけど、俺の無残に腫れ上がった顎を見て溜飲が下がったのか、文句は言われずに済んだ。
 結局、テニスをする予定を取り止めて、俺は佐藤さんと一緒に近くの病院に顎の腫れを診て貰いに行った。俺の顎にアイスノンを当てたままでいてくれた佐藤さんは、「まあ、これで帳消しにしてあげるよ」と苦笑して俺の暴挙を許してくれた。
 佐藤さんは俺が好きだと宣言してキスした事を、あの二人には話していなかった。だらかこの事件は、今でも『口論の末の殴り合い』って事になっている。

 あれ以来、もう一年近く俺は佐藤さんに会っていない。お正月にみんなで会う話が出たのだけれど、佐藤さんは京都旅行の予定があって会う事が出来なかった。病院で交換して貰った携帯のアドレスに、時々メールを出すと律儀に返事を返してくれるが、『会いませんか』の誘いには決してYESとは言ってくれない。
 柿原さんに、反省しているから何とか会えるように取り計らって欲しいと頼み込んでいるが、薄々俺の気持ちに気づいているようで、「そのうちにね」とはぐらかされ続けている。それでも俺は、佐藤さんに会う事を諦めていない。何も知らない牧は、さすがに俺を哀れに感じたのか、最近では『仲直り』の方向で少しずつ協力してくれている。
「何て書いたの?」
 そう言って手元を覗き込む牧に、短冊を渡してやると「なんだよ、真似っこじゃん!」と言って唇を曲げた。
 確かに、短冊には『Sさんの願い事が叶いますように』と書いたけれど、牧のものとは180度意味合いが違う。俺は佐藤さんの願いが叶って、そして早くあの人を忘れて欲しいのだ。佐藤さんは、あの人との思い出に決着を着けないと先ヘは進めない人なのだと思ったから。どんな形でもいいから先に進められれば、俺の付けいる隙がきっと何処かに見つかるはずだ。
 絶対に、絶対に俺は佐藤さんを諦めない。
 牧と同じように、手の届く一番高い枝に短冊を括り付けると、牧が可笑しそうに笑った。
「何だよ?」と聞くと、「一ノ瀬が佐藤さんの幸福を願うなんて、一ノ瀬もずいぶん変わったな〜と思ってさ。きっと七夕の日は雨になっちゃうだろうね…」と俺を見上げて困ったように笑った。

 (了)

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