INDEX NOVEL

霙の降る夜に 〈 前 編 〉

 人生は、自分の努力次第で何とかなるものだ――そう信じてきた。それが覆されようとしている。ある年下の男によって。そいつの名前は一ノ瀬純(いちのせ じゅん)という。去年の夏休みに友人の柿原に紹介された高校生で、柿原の恋人牧くんの同級生だった。
 柿原には『電車の中で一目惚れした高校生を捜し出すにはどうしたらいいか?』と相談を受けた事があった。超がつくほどのイケメンで一見チャラく見える柿原が、そんな初心な相談をしてくるものだから吃驚したが、見た目はともかく、その中身は真面目で努力家で、同期の中では一番尊敬できる男だった。
 彼の真剣さを感じて、ちょっと感動してしまった俺は、調子に乗って自分の体験談を持ち出し「見つけるまで諦めるな」と焚きつけた。とても面倒な俺の教えに素直に従った柿原は、見事意中の人を探し出した。
 晴れて恋人同士になった柿原は、礼だと言って俺の好きなラーメンを奢ってくれて、ついでに、できたてホヤホヤの恋人を俺の目の前に連れて来てくれたのだが、驚いた事にその子は、とっても綺麗な顔をした十七歳の男の子だった。
 柿原はゲイなのだと告白した。別にそんな事まで明してくれなくても良かったのだけど、「ずっと友人として付き合って行きたい相手に、隠し事はしたくない」と真摯な顔をして言われては、受け入れない訳にはいかないではないか。そりゃ、ゲイだと聞いて驚きはしたけれど、もともとそういう垣根を意識しない自分には、人様の性嗜好がゲイであろうがバイであろうがどうでもいい話だった。
 あっちこっちでズルズルと麺を啜る音の響くラーメン屋の片隅で、一世一代の告白とばかりに緊張して顔を強張らせる柿原と、その隣で赤い顔をして瞬きを繰り返す牧くんが、何だかすごく可笑しくて可愛くて…。俺の中で二人の存在が特別な位置を占めるようになったのは言うまでもない。
 何度か三人で飯を食ったりして、牧くんとはずいぶん親しくなった。彼は聡明で優しい子だった。だから、そんな彼の友人だという一ノ瀬くんの第一印象は決して悪くなかった。イケメンの友人はイケメンなのか、というマーフィの法則的皮肉は感じたけれど、年齢の割に落ち着いた大人っぽい子で、俺が挨拶をしたら綺麗な笑顔で挨拶を返してくれた。けれど、牧くんと同じく仲良くなれると喜んだのは俺だけで、彼は俺が気に入らなかったようだ。
 会ってすぐなのに、俺は彼に何か悪い事をしたのかと訝しく思うほど、悉(ことごと)く絡まれて嫌な思いをさせられた。彼は柿原と牧くんのいない隙を狙って、巧みに俺の弱い部分をつついて来た。忘れかけていた劣等感を引きずり出され、長年の努力で培った脳天気の仮面は、いとも簡単にはげ落ちてしまった。
 一度苦手意識がつくともう駄目で、柿原と牧くんには言えなかったけれど、できれば、二度と会いたくないと思っていた。偶然だと思うけど、繁華街の本屋で声をかけられた時は、怖くて本気でパニックに陥った。落とした本を拾われて笑いかけられて、漸く落ち着きを取り戻したが、直後にバッサリやられてしまった。
 騙し討ちだ、と思った。彼の顔はとても美しくて、笑った顔は見る者を幸福な気分にさせた。その笑顔に思わず見惚れて気が緩んだ隙に「引き立て役」だなんて言われて…。そんな事は、誰に言われなくても自分が一番知っている。選りに選ってこんな美しい男に言われるなんてと思ったら、みっともなくも怒鳴り返してしまった。きっと彼の思う壺だっただろう。無様に逃げ帰って、小学生以来の悔し涙で枕を濡らした。
 夏の終わりに牧くんからの旅行の誘いに乗ったのは、『付き合い』以外のものではない。嫌で嫌で仕方がなかった。表に出さなかったのは、ちっぽけなプライドのなせる業だ。身構えてガチガチだった俺に一ノ瀬くんはどういうつもりか、拍子抜けするほど気さくな少年の仮面を被って接してきた。もしも彼がずっとそのままだったなら、今の自分たちの関係はもっと変わっていたかもしれない。けれど、一ノ瀬くんは、やっぱり一ノ瀬くんだった。
 彼の家の別荘に泊まった夜、二人きりの部屋に閉じ込められて、あろう事か、「好きです」と言われてキスされた。キスなんて、中学二年生の時初めて付き合った女の子として以来だ。それだって、触れ合うだけの可愛いモンだった。なのにあいつ、舌まで入れやがって!! 二度目のキスが男と、しかも、あんな小悪魔みたいな奴とだなんて…。もう、もう、悪夢としか言いようがない。無我夢中で彼の顔を殴りつけその腕から逃れたのは言うまでもない。
 あれからもう一年以上彼には会っていないが、時々メールが来る。意外とまともな内容だから返事を返してはいる。五回に一回は会いたいと書かれているが、どういうつもりか彼の真意はよく分からない。また俺をからかいたいのかも知れない。そう思うと腹が立つけれど、会わなければどうという事もない。
 そうして漸く、嫌な思い出が記憶の底に沈み始めた頃、再び悪夢が訪れたのだった。
 

 アパートのドアの前の薄暗がりから「佐藤さん…」と呼びかけられた時、俺は心臓が止まるかと思った。
 アルバイトの帰りだった。通りからアパートの玄関先に人影があるのを認めて、最初はてっきり、隣の部屋の女ったらしを訪ねて来たストーカーの女の子だと思った。
 その娘の事は何度も見かけていて、来る度に隣人と言い争いをしていた。結局警察沙汰になり、俺の所にも刑事が聴取に来た。暫くして迷惑をかけた詫びだと菓子折を持って訪ねて来た元凶男は、何故だかとても自慢げに「裁判を起こした」と話していた。だから、彼女はもう訪ねて来ないだろうと思っていた。
 また来たんだ…と怖くなり、成る丈その人影から視線を逸らしてドアの前まで辿り着いた。背を丸めて隠れるみたいに素早く鍵穴に鍵を差し込んだ時、忘れもしない少しハスキーな声が「佐藤さん…」と俺を呼んだ。瞬間、嘘だろうと縮み上がったけれど、生憎、都合の悪いことを空耳として聞き流せない質の俺は、止せばいいのに振り向いて声の発信元を確かめた。
「お久し振りです。一ノ瀬です。良かった帰って来てくれて…。俺、もう凍えそうだったんですよ」
「な、な、な、なんで…こ、こ、が」
 名乗られなくても分かっていた。でも認めるのが怖かった。彼は俺の住所を知らない筈だ。それがどうしてここに、俺の目の前にいるのか。頭の隅に柿原の顔が浮かんだが、あいつが教える筈がない。じゃあどうしてだと、またしてもパニックに陥ってみっともなく吃る俺に、一ノ瀬くんはあの綺麗な笑みを浮かべて答えた。
「何でここが分かったか、ですか? 自分で調べました。簡単ですよ、そんなの。ちゃんと説明しますから、部屋に上げて貰えません? ずっと待ってたから寒くって…。トイレ貸してください。もう、漏れそうなんですよね…」
「あっ、う、うん…」
 媚びるような、それでいてちょっと恨めしげな声で「トイレ貸して」などと言われたら、条件反射で慌てて部屋のドアを開けていた。途端にしまったと思ったけれど、彼は俺の背中を抱えるように押しながら玄関に入って来た。
「ちょっと!」と振り向いて怒鳴ると、「トイレどこです?」と切羽詰まった秀麗な顔が目の前にあった。俺は思わず、「あっ、そこのユニットバス…」と台所の右側を指さした。
 一目散に駆け込む一ノ瀬くんの背中を見送って、俺はため息を吐いて部屋に上がった。出会いしなから太刀打ちできない状態だったけれど、悔しいかなやっぱり彼のペースに嵌っている。部屋に上げてしまった以上、暫く居座られるに違いない。俺は諦めて電気とヒーターのスイッチを入れ、水を入れたヤカンを火にかけた。
 トイレから寝室兼用の居間に入って来た一ノ瀬くんは、「おかまいなく」と言いながら紺色のダッフルコートを脱いで部屋の隅に置くと、ヒーターにくっつくようにして腰を下ろした。寒かったと言ったのは嘘ではないだろう。もう夜の十一時を回っている。季節は小雪(しょうせつ・十一月二十二日頃を差す節気)を過ぎた。このところ深夜は特に冷え込む。彼は いつからあんな所で待っていたのだろう。聞くのが怖い気がしたが、聞かない訳にはいかない。
「一体いつから待っていたの? それに、どうやって住所を調べた? 俺に何の用があるの?」
 ヒーターにくっついている一ノ瀬くんに、インスタントコーヒーを入れたマグカップを手渡しながら矢継ぎ早に問いかけた。一ノ瀬くんは苦笑して俺の質問に一つ一つ丁寧に答えたが、その内容は俺を恐怖に落とし入れた。
 彼は学校をサボって俺の大学へ押しかけ、俺の出席している講義を突き止めて俺の後を着けていたのだという。つまり、ストーキングしたのだ。
「でも、朝から晩まで張り付いていた訳じゃありませんよ。いつ柿原さんに見つかるかと思って冷や冷やしてたから、しょっちゅう見失ってたし。でも、講義中に貴方と親しげに話していたご友人に『預かりものがあるから届けたいんだけど、住所知ってる?』って聞いたら、快く教えてくれて…。だから、思ったより簡単に分かっちゃいました」
「そのうすら馬鹿は何処のどいつだ?! 個人情報だろう? 簡単にバラしやがって、制裁を加えてやる!!」
 あまりの事にかっと来て怒鳴ると、一ノ瀬くんはしーっと人差し指を唇の前に当てて「大声出すと近所迷惑ですよ? 佐藤さんって、意外とキレやすいんですね」と呆れたような声を出した。『何もかもお前のせいだろう!』と怒鳴りたかったが、確かにここのアパートは壁が薄いので、ぐっと堪えて深呼吸した。
「わかった…。住所の件は分かった。それで、そこまでしてここに来た目的は何? 俺に一体何の用がある?」
 最後はほとんど威嚇するように詰問した。もう外聞なんか気にしてられなかった。この小悪魔は一体何を企んでいるのだろうか?
「去年の夏、最後に会った時の事、覚えてます?」
 一ノ瀬くんは急に神妙な声で尋ねた。忘れる訳がない。俺は頷いて返した。
「じゃあ、俺が言った事も覚えてますよね。俺、貴方の事が好きなんです。あの時はうやむやになっちゃったから、きちんと気持ちを伝えたくて来ました。佐藤さん、俺と付き合ってください」
 彼の台詞が脳に正しく伝達されるまで優に一分はかかった気がする。じっと俺を見詰める一ノ瀬くんの顔がやけに大きく感じて我に返ると、正に目の前に彼の端正な顔が迫って来ていた。悲鳴を上げて飛ぶように後ずさると手に持っていたカップからコーヒーが零れた。
「あっ、ちっ!」
 慌ててカップをコタツテーブルに置くと、いつの間にか一ノ瀬くんが濡らした台ふきんを手にしていて、服に零したコーヒーを拭ってくれた。
「そんなに慌てなくても…。意外にキレやすくて、結構粗忽者なんですね。いろいろ発見する事が多いな…」
 俺の服や手を拭いながら面白そうに呟かれ、俺はまた頭に血が上った。
「君のせいだろう? き、君は、また俺をからかいに来たんだろう? 分かってるんだ。だって君は、ホッ、ホッ、ホ…」
 別に笑っている訳じゃない。柿原がホモだと知ってから、その言葉を簡単に口にしづらくなっていた。
「俺がホモかと聞かれれば、YESでしょうね。男の貴方が好きなんですから。正確に言えばバイセクシャルだと思いますが…。佐藤さん、俺はからかう為にストーカーするほど粋狂な人間じゃありません。真剣なんです。信じてください」
「信じられない…」
 この時、気にかける論点が本来そこじゃないだろう事に、俺は全く気がついていなかった。彼の今までの所行に対する怒りが俺の理性を曇らせていたのだろう。彼の気持ちが真剣か、そうでないかの議論の前に、『男に告白された』という事実をどう受け止めるのか、という部分が俺の頭からすっかり抜け落ちていた。
「信じて貰えないのは…今までの、自分の言動のせいだって事は充分承知してます。すみませんでした…。時間は巻き戻せないから謝るしかできないけど、本当に真剣なんです。どうしたら信じて貰えます?」
 俺の手を握って、いっそ麗しいほどの愁眉で頭を下げる一ノ瀬くんを茫然と眺めながら、塵のように積もった鬱積が巻き上がり、もやもやと胸の中を漂うのを感じた。こいつを、このすかした色男を虐めて遣りたい…。
「百日…否、九十日でいいよ。三ヶ月間、俺の所に通って来たら信じてあげるよ…」
 ほんの微かな揺らめきが、俺にこう言わせていた。
 一ノ瀬くんは虚を突かれた顔をした後、ニヤリと笑って「百夜通(ももよがよ)いですか?」と聞いた。「知ってるの…?」と俺が驚いて彼の顔を見ると、片眉を釣り上げてちょっと小馬鹿にしたように頷いた。
「小野小町の元へ通った深草少将の話でしょう? 有名じゃないですか」
 だったら、結末だって知っている筈だ。俺の言いたい事も分かる筈なのに。
「三ヶ月でいいんですか? 俺は百日だって構いませんよ。現代のこの東京で、雪に嵌って死ぬような事はありませんからね。その賭、乗りますよ。その代わり、三ヶ月通いとおしたら恋人になってくれるって、今、この場で確約してください」
 俺は慌てた。大いに慌てた。自分で賭を持ち出した後に、景品の内容に気がつくなんて何たる大馬鹿だろう。
「こ、恋人って…。それは、と、友だち? じゃ…駄目なの」
「駄目ですよ。俺は貴方と友だちになりたい訳じゃありません。普通のカップルみたいにデートしたり、キスもセックスもしたい。俺は貴方を抱きたいんだ…」
 瞳には好色な色が浮かんでいた。俺はカッと来て手を振り上げたが、易々と腕を掴まれ動きを封じられた。息を呑む俺の目を覗き込みながら、一ノ瀬くんは打って変わった真摯な面持ちで囁いた。
「言ったでしょう? 貴方が好きです。真剣なんです。何度でも言いますが、からかう為にストーカーするほど粋狂な人間じゃありません。まして、この受験の時期に。俺の本気を見せてあげます」
『受験』の単語に、頭に上った血が一気に引いた。そうだった! 一ノ瀬くんと牧くんは受験生だった。今から三ヶ月って言ったら最後の月は受験の真っ只中じゃないか。どっと汗が噴き出した。『今のなし、賭はなし!』と言おうとして口を開きかけたが、それより早く一ノ瀬くんの手が俺の口を覆った。
 青くなる俺の顔を見ながら一ノ瀬くんは厳かに「もう賭は成立してます。取り消しは認めません」と宣言し、俺の人生を左右するとんでもない賭が始まったのだった。

「どうするつもり?」
 久し振りに会った柿原は開口一番そう言ってため息を吐いた。
 柿原とは三年になってから同じ講義が減っていたから、最近はあまり一緒にいなかった。ゼミも違ったから時々こうして学食で落ち合ったりしていたが、冬至を過ぎ冬休みに入った今日は特に約束はしていなかった。
「…どうするも、こうするも…」ない、の言葉は口の中で消えた。
 賭が始まって今日で三十一日目だった。一ノ瀬くんはあの翌日から毎日夜の十時に俺のアパートへ通って来た。風が吹こうと雨が降ろうと、それこそ時報のように正確に俺のアパートのチャイムを鳴らし、俺は渋々彼を迎え入れた。
 彼は部屋に上がるとまずカレンダーに印をつけ、俺の入れたコーヒーを飲んで帰って行く。そうして着々と約束の三分の一をクリアした。こんな事なら百日にしとくんだったと本気で思った。彼女とクリスマスのデートだと浮かれる男が多い中、俺は毎日男に言い寄られてるなんて、気持ちは落ち込むばかりだった。
 柿原には賭の話はしていなかったから、事の仔細は牧くんから聞いたのだろう。牧くんからも昨日携帯にメールが来ていた。文面は柿原と一緒で、『どうするつもりですか?』だった。牧くんは当然一ノ瀬くんに聞いたのだろう。今頃賭の事を暴露するとは、ヤツめ勝算がついたとでも言いたいのだろうか。
 メールには『今は説明できない』とだけ書いて返信した。だって、本当に答えようがない。全ては一ノ瀬くん次第なのだ。冷静に考えれば考えるほど、馬鹿な事を言ったものだと自己嫌悪に陥るだけだった。ムカムカして食べ残したチャーハンをレンゲで掻き回していると、柿原が「彼と付き合う気、あるの?」と静かに尋ねた。
「…ない」
「じゃあ、どうしてそんな馬鹿な賭を持ち出したのさ? 紫苑が言うには、一ノ瀬くんはもうすっかりその気でいるみたいだぞ。まあ、無理もないけど。合い鍵まで貰ったんじゃ、賭の意味もないんじゃないかと思うし…」
 心底呆れたような口調でため息まで吐かれ、俺は情けない思いで一杯になった。確かに自分のやっている事はそう誤解されても仕方がないけど、合い鍵に関しては事情があった。このまま呆れられるのが嫌で、しどろもどろに弁解を試みた。
「だって…。合い鍵は仕方なかったんだ。隣人に注意されちゃって…。知ってるだろ? 隣のストーカーされてた女ったらし。その人に、ドアの前に誰か立ってると、またストーカーの彼女がいるみたいで怖いから、何とかしろって言われちゃったんだよ。俺、週二日アルバイトしてるだろ? 月曜は決まっているけど、もう一日は決まってなくて、連絡貰ってから出てるのね。だからどうしても週に一度は一ノ瀬くんをドアの前で待たせる事になっちゃったんだ。遅くなるってメールしても良かったんだけど、それじゃ賭の意味がない気がしたし、寒い中待たせて嫌気が差せば諦めてくれるかなと思って、わざと遅く帰ったりしてた。そしたら、ドアの前で隣人と一ノ瀬くんが睨み合っててさ…。隣の人、一ノ瀬くんが毎日来てるのも知ってて、『友だちなら、合い鍵渡しとけ』って…」
 その時の事を思い出すと、本当に情けなくなって声が尻つぼみになった。
 あの日、帰宅するとアパートのドアの前で隣人と一ノ瀬くんが言い争いをしていた。驚いて慌てて間に割って入ると、隣人は有無を言わさず俺の腕を掴んで少し離れた植え込みの陰に引っ張って行き、声を潜めて耳打ちした。
「あいつ、あんたのコレか?」
 目の前に突き出された親指を見て、俺は目眩がしそうだった。何で小指じゃなくて親指なんだと思いながら、ブンブンと思いっきり首を振って否定した。
「でも、ここんとこ毎日来てるだろう? まさか、あんたもストーカーされてんのか?」
 それは半分当たっていたが、大げさにしないようもう一度首を振って否定した。
「本当か? まあ、どうでもいいけどさ。友だちだったら合い鍵でも渡しとけよ。ドアの前に立ってられると怖いんだよ。もう、トラウマなのよ。とにかく止めてくれ!」
 そう言われたら、もう合い鍵を渡すしかないじゃないか。俺たちの会話が聞こえていたのか、振り返ると一ノ瀬くんは嬉しそうな顔をして笑っていた。
「それじゃあ、まあ仕方ないか…。でも、このまま行ったら一ノ瀬くんが交通事故にでも遭わない限り、賭は彼の勝ちなんじゃないの? なのに佐藤は付き合う気がないんだろう? 本当にどうするつもり? 大体、どうしてこんな事になったの?」
 滅多にない責めるような柿原の口調に、俺は泣きたくなった。
「どうするって…、どうしたらいいのか俺の方が聞きたいよ。はじめは勝手な事ばかり言う一ノ瀬くんを、ちょっと困らせて遣りたいと思ったんだ。だから賭の話を…。皮肉のつもりだった。百夜通いなんて叶わない事の代名詞みたいな話だし、遠回りな断りのつもりだったんだ。なのにあいつ、その話の結末だって知ってるのに、『その賭、乗った』とか言って、半ば強引に始めちゃったんだ…。けど、始めたところですぐ根を上げると思った…まさかこんなに続くとは思ってなかったから、お前にも話さなかったんだ」
「俺が見た限り、彼はそういう話に喜んで食い付きそうなタイプだと思うけど…。なぁ、その百夜通いの結末って、どうなるんだ? 小野小町が言い寄る男に言った話だっていうのは聞いたけど、俺も紫苑もその話の結末を知らないんだ。叶わない訳?」
「そう。深草少将は九十九日目に、雪に埋もれて小町の元へ行けなかったんだ。俺も知らなかったよ。去年の冬、京都へ行った時たまたま欣浄寺(ごんじょうじ)の近くに行ってね、宿の人にあそこには『少将の通い道』っていうのがあるって説明してもらったから、記憶に残ってただけなんだ。深草少将は欣浄寺の近くに屋敷があったんだって。『願いある者がこの道を通ると願いも失せる』って言われてるんだってさ。きっと一ノ瀬くんなら、その事も知ってるんじゃないかな。俺、火に油注いじゃったのかな…」
「負けず嫌いな感じだしね、逆に燃えちゃったんだな…」
 柿原はそう言って肩を竦めた後、思い出し笑いをした。
「俺はまた…百日通うって、『ニュー・シネマ・パラダイス』かと思った」
「ああ、映画の? 俺はそっちのが知らないな。そのうち観ようと思っててまだだ。それにもそんな話があるんだ? それも叶わないとか?」
「否、叶う。百日通って恋人同士になれる。けど…」
 柿原は手に持った空の紙コップを潰して、視線落とした。「けど?」と先を促すと柿原は苦笑いして先を続けた。
「身分違いだって、彼女の家の人に反対されて引き離されるんだ。彼は…一ノ瀬くんは分かっているのかな? 男同士なんだって事。佐藤は…彼が男だから、やっぱり、駄目なんだろう?」
 俺は居たたまれなくなった。ゲイの柿原に、『男だから付き合えない』と言うのは辛かった。黙って俯いていると、「だったら、断れ」とキッパリ言われた。
「このままずるずる賭を続けていたって、佐藤の答えが決まっているなら早いうちに止めた方がいい。一ノ瀬くんが本気なら猶の事、断るのは早い方が傷は浅く済む。俺は、薄々彼の気持ちを知っていたけど、あの通りなかなか本心が掴めない子だろう? それに、そんな事を伝えた所で、佐藤が困るだろうと思ったから黙ってたんだ。もし、一ノ瀬くんがゲイだったら…まあ、応援したかもしれないけど。あの子、女も大丈夫なんだろう?」
「バイとか言ってた…」
「だったら気にする事はない。はっきり断りな。俺は、それが一番良いと思うよ…」
 柿原は優しく諭すように言った。俺は俯いたまま小さく頷いた。

 季節はあっと言う間に大寒を迎えた。柿原に忠告されたにも関わらず、賭は未だに続いていた。何故かと言えば、仲良くなってしまったからだ。一ノ瀬くんと。
 合い鍵を手に入れた一ノ瀬くんは予備校の講習を受けた後、そのまま真っ直ぐ九時には俺の部屋に来た。俺が在宅の日は、俺が用意した夕食を一緒に食べ帰って行く。バイトがある日はコンビニで買った弁当を食べ、学校の課題や受験勉強をして俺の帰りを待っていた。
 最初は嫌われていると思っていたから怖かったし、どう接していいのか分からなかったが、「好きだ」と言った言葉通り、まるで犬みたいに柔順に懐いてくれば、どんな大型犬だって可愛くなるのが人間ってものだろう。
 彼は躾の行き届いたボルゾイといった風情があった。あまり見慣れないからちょっと怖いけど、すごく綺麗で触ってみたくなるような。おまけに犬なら喋れないけど、一ノ瀬くんは当然喋る。食事を一緒に取りながら毎日毎日少しずつ彼の身の上話を聞くうちに、すっかり…絆されてしまっていた。
 彼は孤独な少年だった。母親は彼が幼い頃、離婚して出て行ったきり会っていないそうだ。再婚して子どもが二人もいるらしい。父親の方も再婚し、こちらも再婚相手との間に子どもがいる。俺はてっきりその新しい家族と一緒に暮らしているのだと思っていたが、マンションで一人暮らしをしている。彼は「俺はこんな性格だから駄目なんですよ」と言って笑った。
「父親が再婚したのは、俺が中学三年の時で丁度受験期だったし、やっぱりね、嫌だったんですよ。新しい母親ってのが。だってその人、俺の母親と離婚する前から関係があって、子どもも俺と三つしか歳が違わないんですよ。父親はずっとそっちの人と暮らしてたから、俺の方が妾の息子みたいだった。籍を入れるタイミングだって、そっちの子が私立中学を受験する事になって、慌てて入れた訳ですよ。俺の事なんぞ全く視野に入れられてない。どうでもいい人間な訳です。母親だって、一ノ瀬の家は資産家だから俺の将来を考えて置いて行ったらしいですけど、それも親戚に聞いた話で、ホントは邪魔だったからだと思いますよ」
 そんな筈はないと言う俺に、一ノ瀬くんはどうでも良い事のようにぞんざいに答えた。
「慰めてくれなくてもいいですよ。確かに、貧乏人の義父のいる家に連れて行かれて虐待されて育つよりは、放置されていても、遣りたい放題させてくれる今の方が幸せだと思いますし。父親とは一緒に遊んで貰った記憶はないけど、俺が望むものは何でも買ってくれました。まあ、あまり変な物をせがんだ事もありませんけどね。大抵は本とかゲームとか、暇を潰してくれる物です。だって、お手伝いさんしかいないマンションに帰って来ても遣ることがなくて。宿題もすぐ終わっちゃうし。だから百科事典を『あ』から『ん』まで全三十二巻を片端から読み漁りました。俺が無駄に知識が多いのはそのせいです。百科事典を制覇するのって格好の暇つぶしになりますよ」
「友だちと放課後遊んだりしなかったの?」そう聞いた俺に、彼は片眉を上げて小馬鹿にしたような表情を作ると、「幸せそうなヤツの顔を見てると、虐めて遣りたくて仕方なくなるから」と言った。俺は漸く、なぜ彼に嫌われたのか理解できた気がした。
 俺は別に特別幸せな人間でもないが、彼に比べたら確かに幸せなのかもしれない。詳しくは知らないが、紫苑くんも一ノ瀬くんと家庭環境が似ているらしい。紫苑くんは母親と二人暮らしだが、ピアニストの母親は殆ど海外にいて一人で暮らしているのも同然なのだそうだ。
 では、俺と同じく平凡なサラリーマンの家庭に育った柿原が、どうして一ノ瀬くんに弾かれなかったかと言うと「ゲイだったから」だそうだ。どういうロジックなんだかと思ったが、自分が男を好きだと思う前は、ゲイの人を『欠けている』と感じたんだそうだ。
「俺も現金ですよね」と言って笑う一ノ瀬くんを、何とも言えない気持ちで眺めた。ちょっと捻くれてはいるけれど、話してみればそんなに悪い子じゃない。強がって憎まれ口を叩くけど本当は寂しいのだろうと思う。最近は帰る時に元気がなくて、その寂しそうな背中を見送るのが切なくなるほどだ。
 賭の事は早く止めるべきだと自分でも思う。けど今、俺が彼を拒んだら、彼はどうなってしまうのだろう。子どもにとって親は、無条件に愛してくれる存在だと思う。その二人から当然得られる筈の愛情を彼は貰えないで育った。今また自分が欲している愛情を拒まれたりしたら…。そう思うと怖かった。
 正直、彼の気持ちは重かった。どうして俺なんだろうと思う。自分で言うのも何だけど、俺は見た目も冴えないごく平凡な男だ。そんな俺のどこが好きなのだろう。友だちになりたいと言うのなら、今なら喜んでなるだろう。だけど、彼の望みは『恋人』だ。
 彼の事はもう以前ほど嫌いじゃない。懐いてくれて嬉しいし可愛いと思う。けど、何度考えてもそこで終わってしまうのだ。だって男と、キスも、セックスもするなんて考えられないだろう? そりゃ、一ノ瀬くんは綺麗な子だし、去年の夏にはキスしちゃった訳で…死ぬほど嫌って訳でもなかったけど…。
 俺ははっとして、何度も頭を振った。無理! ムリ! やっぱり無理! だって、俺は結婚したいし、両親に孫の顔だって見せて遣りたい。今まで全然モテた事ないけど、親父にだって親父が良いと言うお袋がいたんだ。どこかにきっと、俺を好きになってくれる女の子がいる筈だ。否、絶対いる! そう信じてる。
 結局、彼の気持ちを受け入れられなければ、傷つけてしまう事には変わりないのだから、心を鬼にしてきっぱり断ろうと思った。成る丈早く。そう思いながら、彼の顔を見ると言えなくて。できるなら少しでも傷つけない方法はないかと、そればかり考えて――季節は、立春を迎えていた。

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