INDEX NOVEL

霙の降る夜に 〈 後 編 〉

「もう帰りなさいよ。外、また雨降って来たし、この寒さだとまた雪になりそうだし、もう電車もなくなっちゃうよ」
 社長にそう言われたけれど、俺は「はぁ」となおざりな返事を返してパソコンのキーを叩き続けた。俺の態度に呆れたようなため息が聞こえたけど、聞こえない振りをした。
 時間はもうすぐ夜の十一時だ。バイト先の旅行代理店からアパートまでは三十分あれば帰れる。けれど、俺は部屋に帰りたくなかった。
 今日は一ノ瀬くんの合格発表の日だった。
 賭の期限の日まであと一週間で、俺は二重の意味でソワソワしていた。それもこれも二月に入って私大の入学試験が始まってから、「俺、佐藤さんの大学を受けるんですよ」などと他人事のように告白されたからだ。
 一ノ瀬くんは自分の学校の大学を受けるのだとばかり思っていたし、彼は学年でも一、二番の成績だと紫苑くんから聞いていた。だから、俺の部屋に一日も欠かさず通い詰め、毎日のんびりしていてもそれほど心配しなかった。
 一度、何故推薦を受けないのかと聞いたら、「国立も受験するつもりだから。国立はね、腕試し。入れる範囲の大学を選んでるから大丈夫」と嘯いていたんだ。この大嘘つき!
 聞いた途端、頭から血の気が引いた。俺の行ってる大学は自慢じゃないけど『そんな簡単に受からないんだぞ!』と、胸の中で怒鳴りながら、慌てて彼の苦手教科の面倒を見る事にした。今更付焼刃だけどしないよりはマシだ。それこそ試験日前の一週間は、アパートに泊まらせて朝から晩までつきっきりで勉強させた。
 なのに、当の受験生には危機感も緊張感もなかった。俺の部屋で寝起きを共にしていた間、ひたすらニタニタしていたし、人が必死になればなるほど気も漫ろで、受験とは関係ない事を訊いてきた。
「結局、あれから佐藤さんの大事な人の事って、何か分かったんですか?」
「それは、今やってる問題とは全く関係がない…」
 俺が赤本片手に額に青筋を立てていてもどこ吹く風で、「七夕の頃、牧に『有力な情報』の話を聞いてから、ずっと気になってて…」と、シャーペンをクルクル回す気の散りよう。
 何故そんな事が気になるのかと訊いたら、「だって俺のライバルでしょう?」と恨めしげな目を向けてきた。ずっと勘違いしているのかと脱力したが、もう誤解を解く気も起きなかったし、教えたら勉強に集中する事を条件に教えてやった。
「苫狛江(とまこまえ)に住む彼の親戚の人に会えたんだ。やっと彼の名前も分かったよ。山崎正臣(やまざき まさおみ)さんっていうんだ。でも、本人には会えなかった。親戚の人も、今は何処にいるか居場所は分からないと言っていた。五年ほど前は大阪にいたらしいけどね。俺と会った当初は東京でトラックの運転手をしていたんだそうだ。だから今も、関西方面で運送関係の仕事をしているのじゃないかと言っていた」
「名前、分かったんですね…。じゃあ、関西の方を探すんですか?」
「はい、この件に関しては終わり! 俺は『有力な情報』については全て答えたよ。もう勉強に集中する事!」
 ブスくれた顔をする一ノ瀬くんを無視して、俺は勉強を再開させた。それからはずっと真面目に集中していたし、彼は頭の良い子だったから、難なくボーダーラインは越えたと思えた。
 それでも心配で心配で、試験の日は大学まで付き添って行った。彼は恥ずかしがっていたけれど、「大学に用があるからついでだよ」と嘘を吐くと「それなら…」と嬉しそうにしていた。
 こうして他の大学の試験も滞りなく全て終了し、あとは合格発表を待つばかりだった。程なくして、結果は彼の口から順次伝えられたが、彼はとても優秀で国立は疎か付属大学にも無事合格した。それでも本命はうちの大学だという。
 もし彼が落ちたりしたら…。やはり責任を感じないではいられない。
 俺は自分の事のようにどきどきして今日の日を迎え、朝から一日アルバイトがあったけれど、お昼に暇を貰って大学までこっそり見に行ったのだ。そこで、俺は彼の姿を見かけた。
 ごった返す掲示板の前で、一ノ瀬くんは可愛らしい女の子にしがみつかれていた。見間違えたりなんかしない。喩え後ろ姿であっても、どんな人混みに紛れていても、目には見えない目印がついているかのように、俺には彼がすぐに分かった。
 彼は惚けたような顔をして掲示板に見入っていた。隣の女の子は嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、一ノ瀬くんに頻りに話しかけては、しがみついた腕を揺さぶって惚けたままの彼の注意を引いていた。一ノ瀬くんは暫くそうして女の子にされるがままだったが、徐にあの麗しい笑顔で彼女に微笑むと、彼女の肩を抱いて何やら叫んだようだった。
 何を叫んだのか聞こえなかった。喧噪で掻き消されたのではなくて、彼の姿を見つけてから俺の耳は難聴になったみたいに遠くなっていた。それでも、合否などあの様子を見れば見当がついた。
 俺は静かにその場を離れ、真っ直ぐ事務所に戻った。その後は、感覚全てが鈍感になってしまって、まるで自分の体じゃないみたいに思うように動かなかった。
 お陰で遣る事成す事失敗ばかりした。顧客リストを消してしまったり、お客に入れたお茶を零してしまったり、盛大に腹の虫が鳴くまで、昼飯を食べ忘れていたのにも気づいていなかった。
 社長に「休憩しといで」と事務所を追い出され、仕方なく入った喫茶店でコーヒーとサンドイッチを腹に詰め込み、漸く今の自分の状態を分析する気になった。俺は確実にショックを受けていた。
 では、どうしてショックを受けたのだろうか?
 それは、彼が女の子にしがみつかれていたからだ。
 では、何故それがショックだったのだろうか?
 裏切られた気がしたんだ。彼は俺を好きだと言ったのに…。
 俺は自分の考えに可笑しくなって嗤った。言ったから…何だと言うのだろう?
 彼の気持ちに応える気なんかないくせに。喩え彼がやっぱり女の子が好きでも、賭なんか唯の暇つぶしで本気じゃなかったとしても、どんなに嘘つきで酷いヤツでも、そんなのどうでもいいし、その方が俺には都合がいい筈なのに…。
 どうして俺は、こんなにがっかりしているんだろう? どうしてこんなに…。
 尻ポケットに入れた携帯が震えた。俺はビクッとして反射的に携帯を取り出した。携帯は事務所を出るまでマナーモードにして鞄の中に放置していた。念のため持っては来たけれど、出る気にはならなかった。
 震えが止まり少し経ってから履歴を見れば、一ノ瀬くんの名前が並んでいた。昼に大学を出てから何度もかけて寄越したようだ。ズラリと並ぶ一ノ瀬くんの着信履歴を見ても、俺の気持ちの下降は止まらなかった。

 事務所に戻ると誰もいなかった。五時までいる筈の事務の原田さんも社長の姿も見えない。おかしいなと思っていると隣の部屋にいたらしい社長が戻って来て、俺を見るなり「どこまで油を売りに行ってたんだい」と苦笑いした。
 慌てて壁の時計を見上げると五時半を回ったところだった。ほんの一時間のつもりが実際はもう二時間も経っていたのだ。俺は平謝りにあやまって退社時間を延長した。そうして、頼まれてもいない夕食用の弁当を買いに行くと言ってみたり、流しの掃除をしてみたり、ああだこうだと理由をつけて居残りを続けた。
 昼一番に一ノ瀬くんから届いたメールには、大学に合格した事が書かれていた。俺の家庭教師のお陰だという礼の言葉が長々と続き、最後に『今日も部屋で待っています』と書かれていた。最後のメールは一時間ほど前に出されたもので、読む気になれず開けていない。
 俺が喫茶店で二時間もうじうじと悩んだ末に決めたのは、何の事はない、賭を終わりにしようという事だけだった。部屋に帰ったら待っているであろう一ノ瀬くんに、おめでとうの言葉と一緒に、賭の終わりを告げなければならない。
 彼と決別する。そう思うと椅子から立てなくて…どうしても帰る気になれなかった。
「何か悩んでる?」
 そう言って、社長はコーヒーの入ったカップを俺の前に差し出した。俺は質問には答えず礼だけ言って白い湯気の立つカップを受け取った。社長は自分の席に戻るとゆったりと椅子に凭れてコーヒーを飲んだ。
「何か悩みがあるんだろう? ここんとこ、退社時間になるとすっ飛んで帰っていたくせに、今日に限ってぐずぐずして帰らないし、何より佐藤くんには珍しく何をやってもボロボロって感じだしねぇ…。原田さんとも話してたんだよ、恋の悩みかねぇって。帰りたくないなら泊まってもいいけど、夏と違ってここのソファじゃ風邪を引くからね。悪いけど、僕と一緒に寝て貰う事になるよ? まあ、ダブルだから十分寝られるけど、いいの?」
 悪戯っぽく笑う社長の三浦一成(みうら かずしげ)さんは、まだ三十五歳の若さでこの小さな旅行代理店を経営している。お喋り好きな原田さんから聞いた話では、三ヶ月前に離婚したばかりなのだそうだが、本当は二年も前から別居状態で、俺がアルバイトを始めた時には既にこの事務所に一人で住んでいた。
 神田駅に近い雑居ビルで一階から三階まで飲食店が入っているが、その上はマンションタイプの賃貸事務所だった。他にも個人経営の会計事務所など小さな会社が幾つも入っている。社長は五階に二部屋借りていて、大きいこちらを事務所に、隣を資料室兼住居として使っていた。
 俺と社長は旅先で知り合った。
 俺が沖縄の小さな島の史跡巡りをしていた時、社長もその島で『一週間でダイビングの免許を取得する』というツアーの添乗員をしていた。宿が同じだったので自然と挨拶を交わすようになり、ダイビングの客やインストラクターさんも交え、一晩飲み明かしてすっかり意気投合した。
 経営者とはいえ小さな旅行代理店だから、社長は営業もツアーコンダクターも全て自分でやっていた。その陽気でバイタリティ溢れる姿は俺を魅了し、話していると元気を貰えた。東京に戻って早速事務所を訪ねると「手伝ってくれよ!」と肩を叩かれ、俺は即座に頷いた。それからずっと週二日だけ、雑用と社長や他の社員の連絡係をしている。
「同房するのが嫌だったら、悩みをぶちまけてスッキリして帰ったら? 早くしないとホントに雪になりそうだよ?」
 優しく促す社長の言葉に甘えて、俺は一ノ瀬くんとの経緯を話した。
 もちろん本当の事なんて言える訳ないから、話の中では一ノ瀬くんは女性になっている。こんな話、離婚したばかりの社長に話すのは気が退けたけれど、社長はうんうんと相づちを打ちながら俺の話を興味深く聞いてくれた。
「あー…ちょっと待って。え〜っと…最初はどうあれ、今は一緒にいて楽しい訳でしょう? なのにやっぱりその子と付き合えない…と思う究極の問題点って何処なの?」
 俺は返答に困った。それは一ノ瀬くんが『男』だからだ。性格は…この際問題にはならない。でも、説明の中で一ノ瀬くんは『女』になっているから問題なんか存在しない事になる。
「えっと、身体が…弱いので…。その、子どもが出来にくいみたいで…」
 相手が男である場合、困る点を煎じ詰めたらこれしかない。俺はしどろもどろに答えた。
「ああ、そうか…。遊びじゃなくて、将来も見据えてのお付き合いなのね? う〜ん、子どもねぇ…。佐藤くんは長男だものね。人によっては…大きな問題なんだよね…」
 社長は顎を擦りながら遠くを眺めるような顔をしたあと「じゃあ、決まりだ」と呟いた。
「付き合わない方が良いと思うよ。そのまま断って正解だよ」
 はっきりと迷いなく言い渡された回答に、俺は頷けないでいた。
 一ノ瀬くんとの事は、ゲイである柿原も、牧くんでさえ反対しているようだった。俺が一ノ瀬くんの受験の面倒を見る事に、柿原は反対こそしなかったけれど、大学で俺を見る度に何か言いたげな顔をしていた。
 誰もが同じ事をいう。たぶんそれが正しいし、自分だってそう思う。なのに素直に頷けないのが、自分でもよく分からなかった。
 社長はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべて「不満そうだね…。可愛いなぁ、佐藤くんは…」と、からかうように笑った。
「もう、認めちゃいなよ。佐藤くんはさ、その子の事を好きになっちゃったんだよ」
「えっ? 俺が?」
「そう、佐藤くんが。だって、止めた方がいいって分かっていながら、悩んでるんでしょう? 君がはっきりしない理由はね、断ったらその子が可哀相だから躊躇してるんじゃないよ。好きになっちゃったから断れないし、好きになっちゃったから、君以外の男と一緒にいただけでやきもち焼いちゃうんだよ」
「や、やきもち?」
 素っ頓狂な声を出した俺を、社長はさも面白い物を見るような目で眺めた。
「そうだよ〜。やきもちだよ。俺の事を好きだとか言ってて何だよってね。信じて欲しいって事で賭をしたのに、裏切られたって早合点しちゃった訳でしょう。そんでボロボロになってんじゃ、もう君の負けだわ。観念しなさい」
「でも…もし、もしそうだとして…。信じて…付き合って、もし、裏切られたら…」
 心の中で、社長の言う通りだと思う気持ちと、この先また、出会った頃のようにからかわれて傷つくのが怖いと思う気持ちが鬩(せめ)ぎ合っていた。
 そうだ、怖いという気持ちが一番強い。だって彼は宣言したんだ、俺を『抱きたい』って。
 彼を受け入れるって事は、それこそ今まで信じてきた価値観が、百八十度ひっくり返されるような経験を強いられる事になる。その挙げ句、失恋…なんて事になったら、とてもじゃないけど元の自分に戻れる自信がなかった。
「裏切られる…ねぇ。そんなの、生きてる間はずっとだよ?」と社長は穏やかな笑みを浮かべて俺を見た。
「だってさ、俺の仕事を見てご覧よ。君に旅行のアンケートハガキをまとめて貰ってるから知ってるだろう。旅行中はあんなに楽しげに喜んで、『次回も是非お願いする』なんて調子の良い事を言っておいて、帰って来てからアンケートを取ってみれば、値段が高いだのガイドが悪かっただの、言いたい放題だろう? 君と初めて会った時の…ダイビングのツアーの事、覚えるかい?」
「はい、もちろん」
「あの中の、一番はしゃいでた若い子がいただろう?」
 俺は頷いた。俺と同い年の社会人の男性で、最終日の宴会の時、社長の友人でもあるインストラクターさんと随分盛り上がっていた。
「あの子なんて、あれから半年くらいしてからかな…。島で購入した機材一式を引き取って貰えないかって言って来た。まるでこっちがムリに購入を勧めたみたいな言い方で、全額じゃなくてもいいから返金して欲しいってね。事情を訊くと、免許なんて取ってから一度も潜りに行く機会がなくて無駄だったとか、自分は会社の人に誘われて流されただけだとか色々言ってたけど、結局は車を買うために金が足りないって話だった。途中で馬鹿らしくなって俺が買い取ったよ。ローンの残り分の金額でね。驚いた? でも、結構いるんだよ。そんなものなんだよ、人間って」
 俺が驚いて目を剥いていると、社長は戯けた様に肩を竦めた。
「旅行に行くと、日常と掛け離れた経験が出来るだろう? 海外旅行なんて特にそう。うちの会社は他じゃ滅多に経験できないような企画を立てているから、現地でちょっとしたカルチャーショックを受けて、大げさに言うと、今までとは違う自分になれたような気になったりするのさ。でも、そんな気になるだけ。本当に中身が変わる訳ないから、普段の生活に戻ると、あれは何だったのって事になる。それをまた経験したくてリピーターになる人もいるけど、夢から覚めて現実とのギャップを感じる人は不満としてぶつけてくる事もある。別れた女房にも言われたよ、『貴方は偽りの時間を売る詐欺師みたいなもんだ』ってね」
「詐欺師って、そんな…」そんな事ありませんと否定しようとしたら、社長は笑いながら俺の言葉を遮った。
「彼女の言葉は半分当たってる。俺の仕事は何か形になって残るようなものでもないし、あってもなくても良いようなモノだろう? 道楽に近いと自分でも思う。そんなくだらない事に血道を上げてる阿呆な旦那に、ほとほと愛想が尽きたんだろうね」
 そう言って手に持ったカップを眺める社長が、とても寂しげで弱々しく見えた。いつも前向きでバイタリティに溢れる社長も、こんな風に自分の生き方に迷ったりするのだと親近感を感じたけれど、その顔が『無駄な事ばかりしている』と言った “ あの人 ” と重なって胸の奥が痛くなった。
「人間はね…佐藤くん、常に揺れてるんだよ。大雑把に分ければ『良い』方と『悪い』方、その間を弥次郎兵衛みたいにユラユラ揺れ続けている。気持ちが悪い方へ傾いている時は全てが悪く感じるし、良い方へ傾いている時は何でも楽しく感じる。クレームをぶつけるツアー客とも妻との事も、結果が全てだと言うなら、否定されればそれまでの話だけど…でも、俺はそうは思わない。彼らと一緒にいた時間が全てが悪かった訳じゃない。共有していた時間は掛け替えのないもので、忘れられない輝くような瞬間が幾度もあったよ。それに、ツアー客の何人かは…本当に何人かには、人生の掲示や癒しを受けたと言ってくれる人もいる。そうして心から喜んでくれる人が一人でもいれば、俺はそれで充分だと思ってる。だから、何があっても裏切られたなんて思わないし、へこたれもしない。それは、佐藤くんなら分かってくれると思うけど。違う?」
「いいえ。違いません…。よく分かります」
 そうだ、俺には分かる。
 自分が信じてやって来た事が結果的に駄目になったとしても、全てを否定する必要はない。無駄な事など一つもないと、そう信じて生きて来た。そう “あの人” ――山崎さん に教えてもらったから。
 大きく頷く俺を見て、社長は目尻に皺を寄せて嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「だったら、付き合って見るといい。君に少しでもその子を好きだと思う気持ちがあるなら、駄目になる事なんて恐れずに、自分の気持ちを信じればいい。『人には添うて見よ馬には乗って見よ』だよ。もっともっと深く付き合えば、駄目だと思う相手の究極の欠点すら愛しくなるかもしれないよ? 勿論、相手のある事だから上手く行くとは限らない。駄目になったら当然傷つくだろう。でも、それはお互い様だ。それに、喩え駄目になったとしても、俺は君なら、必ず乗り越えられると思うよ」
 社長の言葉で、霧のように立ち込めていた蟠りが、スッととけた気がした。代わりに現れたのは、生意気な顔から急に恥ずかしそうに笑う一ノ瀬くんの顔だった。
「俺、帰ります! すいません、片付けもしないで!」
 会いたいと思った瞬間、椅子に縫い付けらていた腰が浮いて玄関に向かって走り出していた。後ろから「傘持ってけよー」と笑う社長の声が聞こえた。俺は傘立てにさしてあったビニール傘をつかむと、雨から霙になりかけた深夜の夜道を駆け出した。

 最寄り駅からアパートまで走り通した。傘なんてさしても、走っていては無駄な行為だった。霙交じりの雨がほとんど全身を濡らして、冷え切った指先が痺れるように痛かった。
 それでも、走らずにはいられなかった。もうすぐ十二時を回ってしまいそうだったからだ。
 アパートの外観が見えた時、咄嗟に自分の部屋の窓を見たが灯りが点いていなかった。俺はもう帰ってしまったのではと不安になりながら玄関前の廊下に走り込むと、ドアの前に蹲る人影に気がついて悲鳴を上げそうになった。
「さ、とう…さん?」
 俺の足音に顔を上げたのは一ノ瀬くんで、どうしてこんな所にいるのかと、驚きと息苦しさで言葉を発する事も出来ない俺に、「よかった!」と喚いて抱きついてきた。
 霙に濡れて冷たくなった俺の身体と同じくらい冷たい一ノ瀬くんの腕に抱かれて、俺は暫く整わない息を切らしてじっとしていた。
「アルバイト大変だったんですか? あんまり遅いし、事故にでもあったのかと思って何度か電話したけど出ないし、俺も鍵を忘れちゃってここで待つしか出来ないし…。また隣の人に怒られるかと思ったけど、幸い留守みたいだから、ここでずっと待ってました」
「こ、ここで…? ごめ、ん。遅くなって…」
「いいんです。良かった、何もなくて。それに、日付が変わる前に帰って来てくれて。佐藤さん、身体冷たいです。早く中に入りませんか?」
 俺は慌てて鍵を開け部屋へ入った。直ぐにヒーターとコタツのスイッチを入れお湯を沸かした。急いで濡れた服をスウェットに着替え、一ノ瀬くんにも残してある彼の部屋着に着替えるよう促した。
 台所に立ってコーヒーを入れていると、セーターとジーンズに着替えた一ノ瀬くんが、「風邪引きますよ」と言いながら濡れた俺の髪をタオルで拭ってくれた。
「走って帰って来てくれたんですね…」
 耳元で囁かれ身体が熱くなった。君に早く会いたかったからだよ…と心の中で答えたものの、好きかもしれないと意識すると急に恥ずかしくなって耳まで熱くなるのが分かった。
 誤魔化すように「鍵、忘れたの?」と問いかけながら彼の分のコーヒーカップを手渡して、自分のカップを手にさっさとコタツへ潜り込んだ。一ノ瀬くんも俺を追うようにコタツに入り外で待っていた理由を語り出した。
「今日、合格発表を見に行こうとしたら、妹が訪ねて来たんです。今までの大学の合否は全部報告してあって、お祝いをするから向こうの家に来るようにって言われてたんですけど、ずっと無視してたら『迎えに来た』って言って。俺は行くつもりなかったから、今日が本命大学の合格発表で、結果を見るまで行かないって答えたんです。そしたら一緒について来ちゃって…」
「えっ? じゃあ、あの子は妹さんなのか?」
 思わず聞き返していた。三つ年下の兄弟がいるのは聞いていたけど、弟か妹かまでは聞いていなかった。そう言えば何だか雰囲気が似ているとは思った。だから可愛い子ってだけじゃなく、気になったのだけど。
 昼間の光景を思い出している俺に、一ノ瀬くんは訝しげに「そうですけど…。佐藤さん、合格発表、見に来たんですか?」と聞いた。
 はっとして顔を上げると、確信に満ちた嬉しそうな瞳がこちらを見ていた。顔から火が出そうだった。俯いて赤い顔を隠したが嘘は吐けなかった。
「うん…。バイト先に暇を貰って見に行った。そしたら…君が女の子に抱きつかれてた…」
「妹です! 俺、少し自信なかったから、自分の番号を見つけたら嬉しくて、ちょっと浮かれていつもの自分じゃないような事してたかもしれませんけど、一緒にいたアレは、本当に妹ですから!」
 必死で言い募る一ノ瀬くんに俺が笑って頷くと、ほっとしたような顔をして話の先を急いだ。
「あいつ、合格だったら一緒に家に行くもんだと思っちゃったんですね。どうしても大事な用事があるから行けないって断ったら、臍を曲げて強硬手段に出たんです。急にしおらしくなって『じゃあ、お昼だけでも』って言うからファミレスに寄って食事したんですけど、俺がトイレに行ってる間に俺の鞄を持って帰っちまったんです。財布と携帯はマフラーに包んで椅子に置いてありましたけど、鍵とか一切持って行きやがって…。部屋に入れなければ仕方なく向こうの家に来ると思ったんでしょうね。そうは行くかってんですよ。温情出して財布を残してったのはあいつの甘さですね。ここの鍵もキーケースにつけてあったんで持ってかれちゃったから、九時までファミレスで粘ってそれから来たんです。だから外で待ってたのは正味二時間くらいです」
「それなら、妹さんと一緒に行けば良かったのに。折角お祝いしてくれるって言ってたんだろう? 俺の所は帰りに寄るだけで良かったんだし…」
 俺は苦笑いをした。腹違いとは言え、よく似た思考に兄妹の絆を感じた。疎遠なように感じたけれど、やはり血を分けた家族なのだろう。俺が心配しなくても、少なくとも兄妹の間は上手く行っているのだ。
 彼の傍にいるのは俺だけしかいないなんて、とんだ思い上がりだと虚しい気分になった。
「行く訳ないでしょう? 誰より先に祝って欲しかったのは、佐藤さんです。俺、まだ何も言われてない。大学、合格しましたよ?」
 小首を傾げて祝いの言葉を強請る一ノ瀬くんに、俺は笑っておめでとうと言った。彼は嬉しそうに頷いてありがとうございますと礼を言った。
「佐藤さんのお陰です。俺、こんなに必死になったの、生まれて初めてです。これで、一年間だけだけど一緒の大学に通える。努力した甲斐があったなって、すごい満足してます。俺、佐藤さんに出会ってから、今までの怠惰な自分から変われた気がする。少しずつだけど、先の事いろいろ考えるようにもなったし…」
 先の事、という台詞に胸が締め付けられる。さっきから、俺の気持ちはユラユラ揺れている。一ノ瀬くんを好きだと思った。付き合いたいと思った。でも、ちょっとした事で、俺の気持ちは簡単に揺れる。社長の言ったように弥次郎兵衛のようだ。
 一ノ瀬くんには、あの可愛らしい妹や立派な家族がいる。俺だけなんてのはただの勝手な思い込みだ。男が恋人なんて事になったら、唯でさえ危うい家族との関係が本当に切れてしまうかもしれない。何より、彼の隣には彼女のような可愛い女の子が良く似合う。どう考えても、自分のような冴えない野郎は似合わない。
 将来、そう遠くない将来、俺はハゲの出っ腹中年になるのだ。その時になって捨てられたら、俺はやっぱり立ち直れないと思う。社長、駄目です。俺、どうやっても怖いです。
「だったら、もうこんな事、止めようよ…」
「えっ? 何言ってるんです?」
「大学も合格したし、これから先の事を考えてるなら、こんな馬鹿な賭、もう止めよう」
 どうしてですかと叫んで、一ノ瀬くんは俺の両腕を掴んだ。瞠目してもなお麗しい顔が迫ってくる。堪らずに目を閉じた。一ノ瀬くんは俺の身体を焦れたように揺さぶった。
「佐藤さんから賭を止めるって事は、どっちみち俺の勝ちになるって事ですけど、いいんですか?」
「このまま続けたって、君が勝つのなんか目に見えてる。賭は…君の勝ちだよ! でも、俺は…チビだし、不細工だし…。何より男だし、子ども生めないし! 前にも言ったけど、チビデブハゲの中年男になるんだよ! 今も必死に育毛剤とか使ってるけど、もう薄くなってる気がするし…。柿原みたいな格好いいヤツとか、牧くんみたいに可愛い子ならいざ知らず、俺みたいなのが隣にいて、恋人だなんて…一体誰に言えるんだよ! 君には、妹さんみたいな…綺麗な女の子が似合ってる…」
 言いながら、涙が出て来た。頭が熱くて、涙のせいだけじゃなく景色が歪んで見えた。一ノ瀬くんは俺の腕から手を離すと俺のおでこに手を当てて顔を上向かせた。
 俺は泣いてる顔を見られたくなくて慌てて顔を背けようとしたが、もう一方の手で顎を捉えられ、ばっちり赤ら顔を見られてしまった。
 一ノ瀬くんは俺の顔を見て息を呑んだあと、「熱がある…」と呟いた。
「なんか…佐藤さんらしくない、支離滅裂な事言ってるなと思ったら熱がある。風邪引いちゃったんですね…」
 そう言って、クスクス笑いながら俺の頭を抱き寄せた。俺は慌てて腕の中から逃れようとしたが、ぎゅっと抱きしめられて身動きが取れなかった。
「俺、自惚れはそう強い方じゃないと思うけど、さっきから佐藤さんの言ってる事聞いてると、俺が嬉しくなるような内容に聞こえて仕方ない。要約すると、賭はあと一週間あるけど、止めてもいいんですね? 分かりました。不戦勝で、俺の勝ち。だけど、佐藤さんは男だから子どもが生めない。お互い様です。俺も生めません。その点は貴方に申し訳ないけど、諦めてください。俺は子どもは欲しくありませんから、気遣い無用です。そして、将来 “ チビデブハゲ ” になるから、俺の隣にいるのが恥ずかしいんですね? 問題ありません。俺は、外見で貴方を好きになった訳じゃない。それに、どうして恋人を誰かに見せる必要があるんです? 大体、佐藤さんは不細工なんかじゃありません。可愛いですよ。自分じゃ分からないかもしれないけど、俺も、柿原さんも、牧も、みんな言ってますよ。佐藤さんは可愛いって。特に目がいい。生き生きしていてとても魅力的だ」
「そんなの、初めて言われた…」
「これからは、もっと言ってあげます。貴方がどれだけ魅力的で素敵な人か。俺にとって、どれだけ必要な人か。毎日毎日、言い聞かせてあげますよ」
 何だかとても嬉しくて、また涙が出て来た。力を抜いて目を閉じると柔らかいものが瞼に触れた。ちょっと冷たくて気持ちが良かった。それが段々下に移動して唇に触れた。俺はやっと我に返って、思いっきり両腕を突っ張って一ノ瀬くんの唇から逃れた。
「だから! だから、俺は、は、初めてなんだよ!」
 何だが頭がグラグラ揺れた。どうやら本当に熱があるらしい。ゼェゼェ息を切らしながら一ノ瀬くんを睨みつけると、彼はしれっとした顔で「分かってます。それも全部、俺が教えてあげます」と言った。
「いっ、いきなり、前みたいな凄いのをされたら、嫌だ…」
「はい。徐々に段階を踏んでね。約束します。でも、佐藤さんも約束してください。最後までさせてくれるって。大学合格のお祝いも含めて、俺の誕生日に佐藤さんをください」
 俺は回らない頭で考えた。こいつは策士だ。乗せられたらヤバイ事になる。でも、今までの経験から到底彼には勝てない気がした。諦め半分で「たっ、誕生日って、いつ、なの?」と聞くと、「三月十六日です。早生まれなんです」と答えた。
「…あと、一ヶ月後?」
「そう。ちょうどいい時期だと思いますけど」
 何がちょうどいいのか分からなかったけど、今すぐじゃなければ良いような気がした。何より、頭が痛くてこれ以上考えたくなかった。「いいよ」と答えたのか答えなかったのか、はっきりとは覚えてない。それっきり、俺の意識がなくなったからだ。
 それから一週間、インフルエンザにかかった俺を、一ノ瀬くんは毎日欠かさず見舞いに来て甲斐甲斐しく看病してくれた。感染するといけないからと拒んだけれど、人の言う事なんか聞きやしない。俺の風邪が治ってからも学校が自由登校になったのを良い事に、約束の九十日どころか百日欠かさず通いとおした。
 そうして、進路の報告を兼ねて久し振りに会った柿原と牧くんの目の前で、俺は『恋人』として付き合う事と、『誕生日のプレゼント』―― 何を求められているかは当然誤魔化した ―― を確約させられた。
 牧くんは百日通いとおした一ノ瀬くんを見直したらしく、俺たちが付き合う事を単純に喜んでくれたが、柿原はとても複雑な表情(かお)をしていた。
 後日、俺の気持ちをきちんと説明したら漸く安心した様子で、「困った事があったら相談に乗るよ」と言ってくれた。
 俺は柿原の気持ちが嬉しくて、本当に良い友人に恵まれたと心から感謝して礼を言ったが、気持ちだけ受け取るだけになりそうだ。だって、困った事なんて既に発生しているのだけど、とてもじゃないけど相談出来そうにないもの。
 何故って? それは…。

「ちょっと! も…やっ、やだぁ〜」
「ん…。もうちょっと我慢して? もう二週間ないんだし、当日痛い思いをしたくないでしょう? 今日はもう少し頑張ろうね?」
「あっ、あっ、うふ…ん…」
 身体の中で蠢く異物感に耐えられず、背中から俺を抱きかかえている一ノ瀬くんに涙目で懇願するけれど、相変わらずちっとも言う事を聞いてくれない。俺は隣人に聞こえないよう、布団に突っ伏して声を殺して耐えるしかない。
 柿原たちに恋人宣言してから、一ノ瀬くんは俺の抗議も何の其の、部屋に泊まり込んで俺の『調教』に勤しんでいる。一ノ瀬くん曰く、正しく愛し合うための訓練と、『誕生日のプレゼント』の準備なのだそうだけど…。一体、何処で仕入れてくるんだか得体の知れない道具を持ち込んで、連日あれやこれや…とても口に出来ない事をされている。
 痛い事はされないし、どうしても駄目となれば止めてくれるから耐えられるけれど…これって、本当に必要な行為なんだろうか? 恋人同士って、みんなこんな事をしているのか? オマケに、これがどうにも…気持ちイイから困りものなんだ。
 本当は柿原に聞いてみたい。お前たちもこんな事してるのかって。でも、そんな事…聞けるもんか! 嗚呼、俺はこの先どうなっちゃうんだろう? 自分の人生なのに、ホント儘ならない…。
 啓蟄(けいちつ)を迎えてもまだまだ寒い弥生の夜、人肌の温もりに包まれる幸せを感じながらも、こうして俺は狂おしい日々を送っている。

 (了)


NEXTは18禁ページです。18歳未満の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

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