INDEX NOVEL

〜 春 分 〜

※ ご注意:リバ要素あります。

 それは自然な動きだった。
「純、ついてる」
「ん? どこ?」
 佐藤の言葉を受けて、一ノ瀬くんが佐藤の方へ顔を寄せる。佐藤は少し笑いながらナプキンを掴むと、一ノ瀬くんの口の端についたパスタのソースを拭ってやった。一ノ瀬くんはありがとうと言って微笑むとアイスティーを一口飲み、佐藤はナプキンを小さく畳むと自分のパスタ皿の下にすっと差し込んだ。ごくごく当たり前の食事風景…といった二人の動き。どこかで見た事があるよう…な?
 ガチャン、と大きな音がした。目の前の二人の姿に釘付けになっていた俺は、はっとして音のした隣に視線を移すと、茫然として前を見詰める紫苑がいた。大きく鳴り響いた金属音は、紫苑が食べていたカレーのスプーンを取り落とした音だった。
「あっ、大変!」
 佐藤が慌ててメニュー立ての側にあったナプキンを何枚かわしづかみにして紫苑に差し出したが、紫苑は無言で佐藤と俺を見比べた後、上目遣いにじっと俺の顔を見詰めた。『拭いて』とその目が訴えている。俺は一瞬たじろいだが、すぐに佐藤の手からナプキンを取ると、紫苑のセーターについたカレーを拭い取った。
「染みにならなければ良いけど…」
 佐藤は紫苑に渡した筈のナプキンを俺が受け取った事は気にする風もなく、カレーのついた紫苑のセーターばかり気にかけていた。俺は慎重にカレーを拭き取りながら佐藤が何も気づかない事にほっとしていた。
「あっ、大丈夫です。帰ったらすぐクリーニングに出しますし」と紫苑が笑って答えると、「ああ、だったらTホテルのクリーニングに出せばいいよ。綺麗に落としてくれるぜ」と一ノ瀬くんがニヤニヤしながら言った。
「あれ? 泊まり客以外でもお願い出来たっけ?」
「お前のお袋さん、いつも部屋キープしてんだろう? この際だから柿原さんと泊まってくればイイじゃないか。いっつも牧の家でばかりなんだろう? 場所が変われば新鮮だし、お楽しみのついでにクリーニングに出せば一石二鳥」
「新鮮ねぇ…。う〜ん、そうだなぁ…そうしようかなぁ」
 高校を卒業したばかりの子どもの会話とは思えない内容に、俺と佐藤は絶句して顔を見合わせた。
 俺たち庶民と違いこの未成年たちはセレブの生まれだ。特に紫苑の母親は、クラシック音楽に疎い俺でも知っている高名なピアニスト。Tホテルの部屋を常にキープしていてもおかしくはないけれど、彼らは国内最高峰のホテルをラブホテル並の扱いで、逢瀬を楽しむついでにクリーニングを出せばいい…などととんでもない会話を交わしている。
 俺は居たたまれずに俯いた。この強引な話題の振り方…一ノ瀬くんは絶対わざと煽ってる。
「ちょっと、二人とも…」と佐藤が周りを気にしながら顔を赤らめて注意した。
 ここはファミレスの中だし、家族連れの多い時間帯だけれど、ちらちらと俺たちを眺める視線が跡を絶たない。俺としてもその手の話題は極力避けたかった。
「あっ、ごめんなさい」と紫苑は佐藤に謝ってから気遣わしげに俺を見た。俺は苦笑いして「いいよ」と答えたが、一ノ瀬くんは悪びれた風もなく「俺たちも泊まろうよ」と佐藤の耳元で囁いた。その直後、一ノ瀬くんは「いってぇ〜」と呻いて左膝を擦った。どうやら佐藤に何やら『お仕置き』をされたらしい。佐藤は素知らぬ顔をしてコーヒーを飲んでいる。
 その様子に俺と紫苑は顔を見合わせ笑い合った。どうやらこの二人は、俺が心配するより上手く行っているらしい。俺はほんの少しだけ肩の荷が下りた気がした。

「なんか、いい雰囲気だったよね。佐藤さんと一ノ瀬…」
 紫苑が紅茶をカップに注ぎながら呟いた。紅茶から立ち上る白い湯気を眺めながら俺も佐藤たちの様子を思い返していた。
 ファミレスで食事を終えた後、俺たちは早々に解散した。春休み終盤の週末、もうすぐ桜も開花を迎え新しい季節がやってくる、そんな浮き立つ気分の宵だった。時間はまだまだ宵の口で本来なら飲みに行きたい所だが、佐藤が帰ろうと切り出した。
 佐藤はこの四人で繁華街をうろつくのを好まなかった。理由は男女問わず声をかける輩が現れて断るのに苦労するからだが、それだけじゃない理由を知っている俺は無理に引き留める事も出来ず、大学が始まればいつでも機会はあると自分を慰め、二人と別れて紫苑の家がある成城へ向かった。
 成城の紫苑の家は灯りが消えていた。紫苑の母親は演奏旅行中で六月まで不在だが、いつもは住み込みのお手伝いさんが紫苑の帰宅を寝ずに待っている。その出迎えも今日はない。俺が泊まる日は早めに休むよう紫苑が申しつけているからだ。
 お坊ちゃんと言っても、雲の上の生活をしている訳でもないは紫苑は一通り家事が出来る。それを教えたのは当のお手伝いさんだからか、手がいらないと言われれば素直に離れの自室へ引き籠もってくれる。それでも彼女は母屋の合い鍵を持っているので、いつこちらへ来るとも限らない。誰もいないと分かっていても、鍵のかかる(しかも防音になっている)紫苑の部屋へ入るまで緊張を緩められない。
 一ノ瀬くんが言った通り、俺たちの宵越しの逢瀬は紫苑の家ばかりだ。留守とは言え家族が暮らす家へ泊まるのはかなり抵抗があるが、俺は実家暮らしだし、外泊は紫苑のお手伝いさんが許可してくれない。彼女は紫苑の母親から固く言い含められているし、赤ん坊の時から世話して貰っている彼女に紫苑は頭が上がらないから仕方がない。
 だから、俺たちが体を合わせた回数はそれ程多くない。もしかしたら、佐藤と一ノ瀬くんたちよりもしていないかも知れない…。今やあの二人は半同棲状態なのだから。紫苑はそれが羨ましくて仕方がないらしい。
「最初はどうなるかと思ったけど、僕たちが心配するより上手く行っているみたいだし」
 淹れてくれた紅茶を飲みながら「う〜ん…」と曖昧に返した返事を紫苑が聞き咎めた。
「何か気に入らない事でもあるの?」
「ちょっと…一ノ瀬くんの独占欲の強さが問題だなと思って…」
「うん。それは僕もちょっと思った。好きな人を独り占めしたい気持ちはよく分かるけど、まさか、あの一ノ瀬が『あんなになっちゃう』とは夢にも思わなかった。でも、すごくぴったりな人を見つけたなって思うよ? 一ノ瀬はずっと孤独だったから、あんな風に甘やかしたり、叱ってくれたりするお母さんみたいな人が欲しかったんじゃないかな」
「それ、佐藤が一番言われたくない形容詞じゃないか? “ お母さんみたいな ” ってさ。まあ、確かに佐藤の面倒見の良さには、父性より母性を感じるけどね。お母さん子ってだけあって、雰囲気なんかお母さんによく似てる」
「そうなの? 佐藤さんはお父さん似だから “ チビデブハゲ ” になるって悩んでるんでしょう?」
「うん、まあ、顔はお父さん似かも知れないけど、顔以外はお母さん似だと思う。何度か彼ら母子(おやこ)と食事をした事があったけど、背格好から喋り方までソックリだと思ったよ。細くて小さくて可愛らしいお母さんでね、最初はてっきりお姉さんかと思ったんだ。だから少なくとも “ デブ ” にはならないと思うよ」
 そう、あのファミレスでのシーンをそのまんま佐藤母子で見ていたのだ。あの時感じたのは既視感(デジャヴュ)。
「じゃあ、何で “ チビデブハゲ ” になるって思い込んでいるんだろう?」
「 “ コンプレックスの固まり ” だからって言ってたよ…」
「佐藤さんが?」
「そう。とてもコンプレックスが強いから『自分自身がそれを認める事で乗り越える』のが信条なんだって。あんなに可愛い顔しているのに、自分を不細工だと思い込んでるんだ。そんな事ないと否定しても、『お前に言われると嫌味かと思うよ』って返されちゃうから、もう言わないけど。そんな下地に煩わされない自分を作り上げるっていう努力の上に、いつでも明るい元気な佐藤がいるんだよ。でも、本当はもっとそのままの自分に自信を持って欲しいんだけど…」
 知らず知らずため息が出ていた。大学に入って間もなく友人になった佐藤は、明るくて元気でいつでも人の輪の中心にいた。佐藤と一緒にいるのはとても居心地が良かったが、それは人の顔色や場の空気を読むのが上手く、自分を殺して人を立てる事に徹しているからだと気がついた。友だちなのに俺の前で気を遣うなと言った時、佐藤はとても困った顔をして無理をしている訳じゃないと言った。
「ちょっと恥ずかしいけど…俺の尊敬する人って、父よりも母なんだ。俺が人の世話を焼くのが苦にならないのは、理想としている母の影響なんだと思う。だから、無理して気を遣っている訳じゃないから気にしないで。でも、そんな風に言ってくれたのは、柿原が初めてだ…。ありがとう」
 そう言って恥ずかしそうに笑う佐藤の顔を今でも覚えている。可愛いと思った。可愛くて堪らなく好きになった。でも、どう見ても佐藤はノンケだと分かったし、一人っ子でお母さんが好きって男に執着するのは不毛な事だと、一年かけて諦めた。すっぱり諦めてしまえばさほど苦もなく傍にいられた。それ以来、佐藤は大切な大切な俺の友人だった。それを…。
 ストーカーの執念で佐藤を手に入れた一ノ瀬くんは、俺と紫苑の前で恋人宣言して以来、佐藤を独り占めして離さなかった。春休み中なのもあるが全然佐藤に会えない。今日だって、佐藤が前から観たがっていた写真展のタダ券を入手して、一緒に行かないかと誘ったら漏れなく一ノ瀬くんが付いて来た。しかも、わざわざ紫苑も誘って…。
 ああ、佐藤と二人きりで会ったのはいつだったろう? 確か、佐藤の一ノ瀬くんへの気持ちを聞かされた時だよな…忌々しい…。
「大丈夫なんじゃない? そんな心配しなくても、もう一ノ瀬がいるから!」
 不機嫌そうな声音が走り抜けた。佐藤への物思いに囚われていた俺は「一ノ瀬がいるから!」という部分しか聞き取れなかった。
「紫苑?」
 驚いて紫苑を見ると、ちょっと涙目で俺を睨みつけていた。あっ、ちょっとヤバいかも…。
「良次さんが心配しなくても、一ノ瀬がちゃんと毎日言い聞かせてるんだって! 佐藤さんは可愛いって、大好きだって! だから、良次さんは二人の事にとやかく首を突っ込まなくてもいいんです!」
「首を突っ込むって、俺は別に…」
 見透かされている事に焦るが、何食わぬ顔で否定した。それが更に紫苑の逆鱗に触れたのか、指を突き立てられて「嘘つき!」と叫ばれた。
「今日だって、また『一ノ瀬なんて止めろ』とか忠告しようとしてたんでしょう? だから僕たちに内緒で会わないかなんて誘ったんでしょう? 良次さんがいくら心配したって、止めたってね、あの二人は惹かれ合ってるの! 佐藤さんはちゃ〜んと一ノ瀬が好きだから、夜な夜な色んなもの突っ込まれても健気に耐えているんです! だからもう、良次さんがちょっかい出す隙なんてないの!!」
 離れのお手伝いさんにも聞こえてしまうのでは、と思うくらいの絶叫にも面食らったが、その内容にも狼狽えた。
「夜な夜な、突っ込む?!」
 しかも、色んなものって、アレ以外の何なんだ? もしかして、あいつ…!
 紫苑は激情に任せてペラペラ喋ってしまった事に気がついて慌てて手で口を押さえた。
「何を、突っ込まれてるんだって?」
 目を眇めて問い質すと、紫苑は口を手で押さえたまま必死で首を横に振り続けた。
「一ノ瀬くんから聞いてるんだろ? あいつ、佐藤に何してるんだって?」
 三猿の言わざる状態で三人掛けのソファの端へ逃げる紫苑に躙り寄り詰問すると、紫苑は観念したように「調教…」と消え入る声音で呟いた。
「!!!」
 俺は声にならない悲鳴を上げて頭を抱えた。苦い後悔が迫り上がり胸が苦しかった。あの二人に肉体関係が出来た事は、今日の様子を見るまでもなく知っていた。
 一週間ほど前だったろうか、大学の図書館で佐藤を見かけた。声をかけようとしたが、その難儀そうな動作に凍り付いた。身に覚えがある腰を庇う動き、時折悩ましそうに吐く吐息や、その眼差しに今までなかった艶が含まれているのを見て取った時、佐藤の体に何があったかなど確かめずとも分かってしまった。
 俺は動揺してしまい声をかけるどころか、その場から逃げ出した。酷く後悔した。取り返しの付かないことをしてしまったようで胸が重く苦しかった。
 今日確かめたかったのは、体の事も心配だったけれど、普通の男からしたら自尊心を傷つけられるような行為をされた後でも、本当に気持ちが変わらずにいるのか確かめたかったんだ。結局本題に触れる事もなく、今日の二人の様子や紫苑の先ほどの情報から、俺の老婆心だったと分かったけれど…。
「そんなに、佐藤さんが心配?」
 紫苑の尖った声に顔を上げると、怒ったようなそれでいて不安に押し潰されそうな複雑な表情の紫苑と目が合った。その表情に驚いて「紫苑?」と呼ぶと、紫苑はソファの上に両足を上げてクッションと一緒に両腕で抱えた。
「分かってる。良次さんが佐藤さんを大事に思ってるのも、心配なのも。何しろ相手はあの一ノ瀬だし、僕だって心配だった。僕も佐藤さん好きだもの。それに、佐藤さんが柿原さんに『諦めるな』って言ってくれなかったら、今、僕たちは一緒にいない訳だし。でも、でも、何か…やだ…」
「紫苑…」
 紫苑はクッションに顔を埋め更に体を小さくした。もうすぐ大学生になる男が、幼い子どもが拗ねているような真似をしても気持ち悪いだけだろうが、不思議と紫苑だと愛らしく見える。
 電車の中で一目惚れしてからもう二年近く経つ。その間、成長著しい紫苑は最初の頃の可愛らしい風貌は陰を顰め随分と男らしくなったのだけど、俺の目には今だって唯ただ可愛く映る。こんなに愛しているのに、どうしたらそれが伝わるのかというのが、俺の最近の悩みだ。
 紫苑は嫉妬深い。いつも俺の『一番になりたい』というのが口癖だ。俺は博愛主義ではないけれど、物事に対して一番とか二番とかの順位をつけられない人間だった。強いて言えば、友人なら友人の枠、家族なら家族の枠、遊びなら遊びの枠という区分けの中で、好みの順位がつけられるくらいだ。
 例えば、大学の友人なら佐藤が一番だし、家族の中では兄貴が一番だ。そして当然恋人は紫苑で、彼が一番大切なのは言うまでもない。でも、それらの枠をなくして “ 最も ” というのは決められない。みんな同じくらい俺の人生で大切な人たちで、心の底から愛しているからだ。以前からそう説明を試みているけれど、紫苑は不服そうだった。
 俺は紫苑の肩を抱き寄せて髪に口づけた。付き合い出した当初は、これだけで機嫌が直ってくれものだが、最近はそう簡単にいかない。何の反応もない紫苑の髪にもう一度キスすると少しだけ顔を上げて俺の肩に凭れかかった。ずしっと感じる重みに愛おしさを噛みしめる。
 不安の芽は早めに摘み取ってしまわなければ、今までと同じ轍を踏む事になる。紫苑はかつての恋人たちとは違って、仕方ないと簡単に諦めてしまえる相手ではない。俺は胸の中にある思いを懺悔するように囁いた。
「ごめん、紫苑…。俺は、佐藤に対して責任を感じてるんだ」
 俺の後悔の滲む呟きに紫苑はばっと顔を上げ、「どうして?」と目を丸くした。
「どうして良次さんが責任を感じるの? だって、佐藤さんも一ノ瀬が好きだって言ってたんでしょう? 恋人同士になったのならセックスくらいするでしょう? 僕たちだってしてる」
 当たり前の事でしょうと言う紫苑に、俺は言葉を選びながら慎重に答えた。
「世の中には知らなくて良い事があるのに、俺は、それを佐藤に、否、どちらかと言えば一ノ瀬くんか…教えてしまったんだ。同性同士で愛し合えるなんて、彼らにしてみたら何処か遠くの御伽噺だったのを、俺が身近な現実として教えてしまったんだ。そうでなければ、一ノ瀬くんが佐藤に興味を持ったとしても、普通に友人止まりだったんじゃないかと思う。俺と紫苑の存在があるから、性別なんて一ノ瀬くんには大した垣根に感じなかったんだろう。彼の事なんか心配しやしないよ。バイになろうが、ホモとして生きようが好きにすればいい。けど、彼に巻き込まれた佐藤は、この先どうなるんだろう? 普通に女性との将来を考えていた筈なのに、俺が佐藤を…大事な友人を、こっちの道に引きずり込んだんだ。ずっと後悔してた。俺がゲイだって告白しなければ、佐藤を海に誘わなければ、一ノ瀬くんに会わなければ――」
「僕に会った事も、後悔してるの?」
 俺の言葉を遮って紫苑はじっと見詰めてくる。俺はその瞳から目を逸らさず、首を振って強く否定した。
「してない。する訳ない」
「じゃあ、もうそんな事考えないで。あの人たちの事は全部僕たちと繋がってる。そんな風に遡れば僕たちが出会った事も後悔しなくちゃならないよ。僕は後悔してない。良次さんに会えて良かった。好きになって良かった。諦めないでくれて良かった。佐藤さんが良次さんの友だちで良かった。あんなヤツだけど、一ノ瀬は僕を慰めてくれたよ。僕は良次さんが考えた事の逆を考える。そしてその奇跡に感謝してる。それに…」
 紫苑がクッションを捨てて俺の膝に這い上って来た。俺を跨いで座ると肩に手を置いて首一つ分高い位置から見下ろした。俺は紫苑の背中に両手を回して抱き寄せた。
「それにね、良次さんが二人を出会わせた事は事実だけど、それは単に切っ掛けに過ぎないよ。二人がこうなったのは彼ら二人だけの問題で、いくら僕らが止めたって、邪魔したって、惹かれ合う気持ちを遮る事なんて出来ないんだよ。実際、一ノ瀬にも止めるよう釘を刺したし、佐藤さんにだって止めるように言ったじゃない?」
「そうだけど…」
「佐藤さんは流されて見えるけど、ちゃんと自分の意志で、一ノ瀬と付き合う事を決めたんだと思うよ。でなけりゃ…セックスなんて出来ないもの。僕だってそうだよ」
「紫苑…」
 後悔に冷たく苛まれていた胸の底が暖かい安堵の光に満たされた。
 佐藤の事だけじゃなかった。紫苑の事だって最初は迷ったのだ。高名なピアニストの息子。そうでなくてもノンケの十七歳の男の子を、こちらの世界に連れて来ても良いものか。今だって、迷いがない訳じゃない。でも、紫苑は俺を望んでくれた。いつだって心から求めてくれた。
 背中を抱く腕に力を込めると、紫苑の顔が近づいて鼻先に触れた。
「佐藤さん、すごく色っぽくなったよね。すごい嫉妬しちゃったよ…。今日一日、良次さんの頭の中、佐藤さんの事で占領されちゃってたでしょう。食事してる時だって、嫌らしい目つきで佐藤さんの事見ちゃってさ!」
 鼻先を触れ合わせながら紫苑は恨みがましい言い方をしたが、どこかそれを楽しんでいるような声音に響いた。
「嫌らしいって…誤解…んっ…」
 言葉の途中で唇が塞がれた。紫苑はゆっくりと気の済むまで俺の口腔を貪ってから唇を離すと、艶やかに濡れた唇でニッと笑った。
「僕も煽られちゃって、人の事言えないんだ…」
 キスの余韻に浸っていた俺はギョッとして紫苑を見た。まさか、佐藤に欲情したんだろうかと青くなると、紫苑は俺の耳元に唇を寄せて「今日、上になってもいい?」と囁いた。
「一ノ瀬から聞いてた佐藤さんの痴態が頭から離れなくて、あんな事やら、こんな事までされてんだろうかと、想像しながら佐藤さん見てたら堪んなかった。それが仕舞に、良次さんだったらどうなるんだろうって想像までいっちゃって…ちょっと不味い事になりかけちゃった。佐藤さんが『帰ろう』って切り出してくれてホント助かった…」
 瞬間的に顔が熱くなった。どんな想像したんだか考えるのも恐ろしい。あの野郎! 碌でもない事教えやがって…と胸の内で一ノ瀬くんを罵倒した。あの悪たれが一番の親友だなんて、本当にもう、始末に負えない。
「紫苑、それ…一ノ瀬くんから情事の模様を聞かされてる…なんて、絶対、死んでも、佐藤に言うなよ!」
 言ったら殺されるぞと震え上がると、紫苑はしれっとした顔で「大丈夫。殺されるのは一ノ瀬だから」と囁いた。
「ねぇ、そんな事より、挿れさせて?」
 欲情を滲ませた声音で強請りながら、シャツのボタンを外し胸の突起を摘んだ。電気が走るような刺激にあっと声を上げれば、透かさず唇を塞がれる。人の返事など端から求めていない態度が、どっかの忌々しい悪魔小僧と重なる。銀糸を引いて満足げに唇が離れた時には、俺の息はすっかり上がってしまって抵抗する気も失せていた。
 最近、紫苑はやたらと俺に挿れたがった。紫苑には黙っているけれど、最初に付き合った先輩がタチだったから、俺は別にネコでも構わないのだけれど、どうしてタチになりたがるのか分からなかった。俺が下手で(そんな筈はないけれど)負担が大きいから嫌なのかと言うと、そういう事ではないらしいし…。
「挿れてもらうのもすごく気持ち良いけど…。何か、一ノ瀬の気持ちがよく分かるんだ。好きな人を可愛がりたいの。自分の手で身も世もなく善がらせて酔わせて虜にしたい。自分から離れて行かないように…。一ノ瀬はね、ベタ惚れなんだよ佐藤さんに。だから、捨てられちゃうのを恐れてる。そして僕も…」
「紫苑、いいよ、抱いて。愛してるよ。俺の可愛い紫苑…」
 頭を抱き寄せ耳朶にキスしながら囁いた。
 みんな不安なんだ…どんなに愛し合っていても。だから『一番』になりたいんだね。でも、大丈夫だから。心の底から愛しているから。
 紫苑に気持ちが通じるように、もう一度心から愛してると囁くと、紫苑はちょっと震えて「嬉しい…」と微笑んだ。

 (了)

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