INDEX NOVEL

七 夕

 今しがた降りた電車の熱い走行風を受けながらホームの階段を上ると、色とりどりの七夕飾りが目に入った。キラキラ光る素材で出来た吹き流しが、風に吹かれてゆらゆら揺れている。見ていると大きな風鈴のように涼しげで、さっきまでの不快な暑さがいくぶん軽減された気がした。
「七夕って今週末か。忘れてた」
 僕が一ノ瀬と待ち合わせをした地下鉄の改札口は、彼が大学に通う路線と、僕が利用する路線とが直結している駅で、他路線同士が同じ改札を利用出来るため広めに造られている。
 普段は期間限定の店が出ているのだが、今は七夕飾りの吹き流しや、利用客の願い事がたくさん吊り下げられた大きな笹、そして短冊を書くための机が用意されていて、まるで僕らの母校の昇降口を彷彿とさせた。
「あれから一年経つんだ。早いなぁ……」
 去年の今頃、僕はまだ高校生で大学受験を控えた身だった。無事大学に進学してもう半年を過ぎたが、附属大学とはいえ通学路も違う新しい学び舎(や)での生活は、慣れない事が多くてあっという間だった。それに、目前に控えた長い夏休みばかりに気をとられ、七夕の事など頭からすっかり抜け落ちていた。
 だって、恋人の良次さんと過ごせる夏休みは、今年で最後なのだ。彼は来年の春には社会人になる。休みは貰えても精々一週間くらいだろうし、会える日も更に限られてしまうだろう。だから、思いっきりベッタリ過ごそうと、沖縄に二人だけで旅行に行く計画を立てるのに余念がなかった。
「そうだ。せっかくだし、願い事しようかな」
 まだ一ノ瀬も来ていないし、ここなら何を書いても高校の時と違って、知ってる人に読まれる心配はないだろう。人がいたらやっぱり恥ずかしいけれど、今の時間帯は移動中のサラリーマンばかりで、短冊を見ている人も、書いてる人もいなかった。
 短冊の置いてある机の前へ移動すると、お菓子の空き缶らしいのに五色の色紙が入っているのも、学校と同じで笑ってしまった。何色にしようか迷ったが、うす桃色の短冊が笹に映えて見えたので、それを一枚手に取った。
 去年は一ノ瀬と一緒に、学校の昇降口の大きな笹に初めて願い事を書いた。でも、自分自身の願い事ではなくて、良次さんの親友の佐藤さんの事を書いた。別に読まれる心配をした訳じゃないけれど、その時の僕は心身共に満ち足りていたので、特に願う事がなかったのだ。でも、今年は……
「よう! 牧、お待たせ」
「うわっ!」
 突然肩を叩かれ、僕は思わず身を竦(すく)ませてしまった。
「何そんな驚いてんの?」
 当たり前だけど、一ノ瀬だった。口元に薄笑いが浮かんでいる。絶対驚かそうと足音を忍ばせて近づいて来たくせに! 慣れっこになっているとは言え、ぬけぬけと吐(ぬ)かすヤツの顔が忌々しくて軽く睨みつけた。
「別に!」
 ふんっと鼻で息を抜いて、僕は一ノ瀬を無視してさっさと短冊に向かいペンを取った。
「へぇ、七夕か。懐かしいな。この駅、なかなか風流な事をする」
 後ろで一ノ瀬が感心したような声を上げた。一ノ瀬も母校の笹を思い出したのかと思わず口元が綻んだが、横から手を伸ばして缶から青い短冊を手に取ったのを見て、僕は吃驚してしまった。
「俺も書こうかな」
「えっ? 書くの?」
「悪いかよ」
「別に…」
 僕は慌てて悪くないよと言ったものの、人って変われば変わるものだと、感慨深く一ノ瀬を眺めてしまった。
 だって、中学の時も高校の時も、毎年飾られる昇降口の七夕飾りを「子どもっぽい」と、いつも小馬鹿にして遠目に眺めていたくせに。去年だって、僕が押し付けたから渋々願い事を書いたのだ。それも、僕と全く同じ『Sさんの願い事が叶いますように』って。
 そうだ。あの願い事は、一体どうなったのだろう?
「ねぇ、一ノ瀬。去年の願い事は叶ったの?」
 僕が興味津々で尋ねると、一ノ瀬はギクリと身体を強張らせ僕を横目で見た。最近伸ばし始めたという鬱陶しい前髪の隙間から、切れ長の目がギロリと睨んでいる。すっごい怖いんだけど。
「まだ…叶ってない」
 ボソっと呟いて一ノ瀬は短冊に向き直った。
 やっぱりそうかぁ……。余計な事を訊いて悪かったとは思うけど、せっかくコンタクトをつけてるのに目を細めて見るクセ、怖いから止めて欲しい。何だか高校の時より凄みが増した気がする。
 でも、叶ってないなら、佐藤さんは例の人に会えていない訳だから、一ノ瀬にとっては良い事なんじゃないのかなあ? それに、短冊にこそ素直に書かなかったけど、佐藤さんの恋人になるって願望は成就した訳だから、そんな顔しなくてもいい筈なのに。
 一ノ瀬は何か考え込むように目の前の壁を眺めていた。そこには画用紙を繋ぎ合わせたポスターが貼ってあり、色鉛筆で書かれた可愛らしい織り姫と彦星が手を繋いで天の川を渡っていた。どうやら近所の小学生の作品らしい。一ノ瀬はじっと眺めているけど、彼の目にその絵はきっと映っていない。
 まあ確かに、好きな相手の事ってほんのちょっとした事でも、もの凄く気になるものなんだよね…。一ノ瀬って、本当に佐藤さんの事が好きなんだなって思ってしまった。
 だって、格好からしてぜんぜん違うもの。最近の一ノ瀬は佐藤さんの好みに合わせて、ちょっとワイルドな感じのアメカジでまとめている。今日も紺系のブロックチェックの半袖シャツと洗いざらしのブラックデニムに、足元は編み上げのミッド丈ブーツなんて、カッコいいけどすごく暑そう。しかも、シャツと中のTシャツは割と人気のブランド品だ。
 ちなみに僕は、白のニットセーターにハーフ丈のカーゴパンツとサンダルで、夏全開スタイル。シルバーのネックレスもつけてみた。誕生日に良次さんにプレゼントしてもらったんだけど、高校の時はアクセ禁止だったから大切に仕舞ってあったやつだ。今日はこれから行く場所に合わせて、大人っぽくコーディネートしてみた。
 僕らはこれから、新宿にある『夢二』ってパブに行くんだ。オーナーがゲイでお客さんもそっちの人が多いらしいけど、なんと、女性も入れる普通の店で、二丁目じゃなくて三丁目にあるんだって。
 一ノ瀬ってノンケだったくせに、やたらそっちの知識が豊富だから、ずっと不思議に思ってたんだよね。だから、「佐藤さんにいろいろチクってやる」って脅しをかけたら、その店でオーナーに相談に乗って貰ってるって白状したんだ。そんな所をどうやって見つけたのかは言わなかったけど、まさか高校を卒業する前から通ってたなんて、さすが一ノ瀬はやる事が違う。
 当然、僕はそこへ行きたいと頼んだ。最初はすごく渋ってたけど、「二人には内緒だぞ」って約束で、連れてってもらう事になったんだ。
 佐藤さんだけじゃなく良次さんにも内緒って事は、本当にバレたら困ると言う事だ。何でだろうと思ったら、年齢を誤摩化しているからなんだって。まあ確かに、パブだから未成年はダメだよね。おまけにあの二人は本当に真面目だから、バレたらすごく怒られそうだ。
 行く前に、「できるだけ “ 二十歳以上に見える ” 格好で来い」と念押しされたけど、最近の僕はもう子どもに見られる心配はないくらい、ゴツくなったと思うんだけどなぁ。
 話が脱線したけど、まあ、こんな感じでおしゃれに気を使っている一ノ瀬だけど、昔は学校のみんなと外で会う時なんか、休日でも制服で来てたんだ。私立だったしダサイ制服じゃなかったけど、入れる場所が限られるじゃない。だから私服でって念押しすると、今度はホストみたいな色物のシャツと黒のソフトスーツとか着て来るんだよね。
 修学旅行に持って来た私服も似たり寄ったりだったから、先生に没収されて自由行動の日も制服で過ごす羽目になってたっけ。一緒の班の連中が嫌がって、結局一ノ瀬はひとりで行動してたけど、今から思うとそれが狙いだったんじゃないかと思う。
 なぜって、初めて佐藤さんと良次さんと四人で海に行った時、一ノ瀬はごく普通の格好をして来たんだもの。僕はてっきり制服か、ラメ入りのパンツでも履いて来るかと思ってたのに。きっと僕らクラスメートは、一ノ瀬におちょくられてたんだ。
 一ノ瀬は頭が良くて授業もサボったりしないし、毎年決まって学級委員に選ばれてたけど、決して真面目な訳でも、責任感がある訳でもなかった。おまけに結構意地が悪くて、身勝手で、誰とも迎合しない。そんなだから、一ノ瀬とはクラスの中で一番気が合った僕でも、本当は何を考えてるのかよく分からなかったんだ。
 それがねぇ……。今や相手に合わせる事を覚えた上に、怒られると素直に頭を下げて(それだけでも驚きだけど)何でも言う事を聞いちゃうんだよ? 恋人が初恋の人を探している事に動揺して、七夕の願い事を一生懸命考えたりしちゃうんだよ?
 健気と言うか、何か…、かっ、可愛いかも……。
 僕は口元が緩みそうになるのを誤摩化すように「ふ〜ん」と返事をしてから、
「じゃあ、今年は何にするの?」と聞いた。
「お前は?」
 まだ願い事が決められないんだろう。直ぐ様そう聞き返されて、僕は思わずペンを握り締めて力みながら答えた。
「『早く一緒に暮せますように』っだよ!」
 それを聞いた一ノ瀬が「ふ〜ん…」と余裕の表情で同情の視線を送って来た。む〜か〜つ〜く〜。
 そう、僕と良次さんは付き合いこそ長いけど、どちらも都内の自宅暮しだから、お泊まりだってままならない。その上、僕を大切に思ってくれる優しい恋人は、周囲にバレないようにと、かなり慎重な付き合いを心がけている。
 そんな訳で悔しいけれど、どちらも一人暮らしの一ノ瀬と佐藤さんの方が、まだたった四ヶ月の新米カップルのくせに、相当濃厚なあれやこれやを経験しているのだ!
 一ノ瀬がどうにも妬ましい僕は、どんな無茶な理由をつけてでも、一刻も早く良次さんとベッタリ過ごせる場所が欲しかった。だから、良次さんが就職したのを機に独立したいから…との理由で一人暮らしを始めるのが、一番手っ取り早いと考えたんだ。
 本音を言えば、すぐにでも一緒に暮らしたい。だけど、当然まだ無理だから、良次さんは僕の気持ちを汲んで、その方向で進めてくれてる。
 けど、物事には順番がある。まずは先立つもが必要なのだ。
 お金は良次さんのお兄さんが立て替えてくれると言ってくれたらしいけど、彼は家族には迷惑をかけないようにしたいと、目下レストランのアルバイトに勤しんでいる。
 既に内定を貰っているから心配ないと、大学の授業がない日の昼間は、ほとんどアルバイトを入れているものだから、良次さんに会えない今の僕は、暇で暇で仕方がないのだ。
 もちろん僕だって、夏休みになったらアルバイトをするつもりで探してる。本当は今すぐにだって始めたいのだけど、『学生の本分はお勉強』という母親から長期休暇以外のバイトはダメだと、きつくお達しが出ているからお手上げなんだ。
 だって、今ここで下手に反抗なんかしたら、外泊の許可が下りないかもしれない。じっと我慢の子でいるしかないのだ。だからこそ、一ノ瀬の自慢げな態度は、僕を怒らせるのに充分だった。
「何その態度? いくら半同棲状態とか言ったって、一緒に暮らそうって誘いは、無下に断られ続けてるくせに!」
「良次さんに聞いて知ってるんだぞ!」と、怒りに任せて言い放つと、一ノ瀬はぐっと詰まった後
「そうなんだよ……」と項垂れたので、僕はまたまた吃驚して、怒りがどこかへ吹っ飛んでしまった。
 一ノ瀬がこんな素直に頷くなんて! さっきみたいに睨むか黙秘すると思ってたのに。しかもガックリ項垂れちゃったりして、こんな姿を同級生が見たら「真夏に雪が降る!」と大騒ぎしそうだ。
 とてもプライドが高い一ノ瀬は、滅多に落ち込んだ姿など見せたりしない。
 覚えているのは、二年の時の夏休みに一ノ瀬の別荘で佐藤さんと喧嘩した後と、その翌年の正月に佐藤さんだけ集まりに顔を出してくれなかった時だ。それと…良次さんに佐藤さんに会えないかと、取り次ぎをお願いして断られた時だけだ。
 やっぱり、化けの皮が剥がれて来てるんだろうか?
 んん? この場合の化けの皮って、どういう意味だろう?
 良い人が悪い人にって方向じゃなくて、人でなし(言い過ぎ?)から、可愛い恋する男に変貌したって事だから、今までは悪ぶっていただけって事だよね。
 何でそう思うかと言うと、例えば、一ノ瀬は僕に “ 恋人自慢 ” をするんだ。
 まあ、それはお互い様で、僕らは顔を合わせればいつでも、自分たちの恋人がいかに素晴らしいか、競うように語り合う。だって僕らは、男同士の特殊な恋愛をしているから、普通の人には気軽に話せない――。
 そう思ってたんだけど、どちらかと言うと、他の友人たちには自慢しづらいのだ。なぜなら日本人には、特に男には、謙遜の文化があるからだ。
 例えば僕が、「僕の恋人は、すごく気遣いがあって優しい人なんだ」って話をする。すると、
「俺の彼女はどっちかっていうと気が利かない方だな。でも、すごく良いヤツだよ」と返って来る。
 まず最初は貶(けな)す事を言って、その後フォローするように良い所を付け足すんだ。僕みたいに最初から全開で褒めちぎる男はまずいないし、そのうち、「牧って恥ずかしい事を平気で口にするよな」とか言われちゃう始末。
 これは母の影響も多分にあると思う。彼女は欧州での生活が長くて、
「日本人の男は嫌い。特に自分の妻を『愚妻』と呼ぶ男とは、同じ空気も吸いたくない」
 なんて言う人だ。彼女が僕にした教育は「女性は惜しみなく誉めなさい」って事だったけど、要は「私を誉めなさい」って事で、これには結構反発して思春期を迎えてからは誉めた事なんてない。
 でも確かに、自分の奥さんを愚(おろ)か呼ばわりするのは、謙遜を通り越してどうかと思う。だからと言って、僕は女の子と付き合った事がなかったから、貶した事もないけど、誉めた事もなかった訳で……。
 それが恋を知った今や、僕の恋人がどれだけ素敵な人かって、言いたくて言いたくて仕方がない。
 そして驚いた事に、一般的なフェミニズムなんて持ち合わせていないと思っていた一ノ瀬が、僕と同じ感覚を持ってたんだ。
 一ノ瀬は佐藤さんを誉める言葉を惜しまない。そして決まって僕の良次さんと張り合おうとする。自分を棚に上げて何だけど、まさか一ノ瀬がこんなになるなんて、夢にも思わなかった。
 だって、佐藤さんと知り合った当初は、彼に対してやたら攻撃的だったんだよ。それが、いつの間にやら好きだと言い出して(聞いた当初は耳が変になったかと思った)、受験を目前に控えて、佐藤さんの下宿に『百日通ったら恋人になって!』なんて、強迫めいた無茶な賭け(受験を目前にって所がミソだ。絶対計画的だったよ、アレ)を持ち出した挙げ句、まんまと佐藤さんを手に入れて、今や僕らが呆れるくらいにメロメロ状態だ。
 まあ、フェミニストと言うには、デリカシーが欠けてる所が一ノ瀬らしいけど。自慢を通り越して、僕に佐藤さんの褥の上でのあられもない姿を、猥談の延長線上でペラペラ喋ってしまうヤツだから。しかも、その内容はかなり際どくて、聞かされる度に良いのかしらと僕の方がドキドキしてしまうのだけど…。あんまり嬉しそうに話すから、つい耳がダンボになって聴くのを止められない。
 僕だって一人前の男だもの、やっぱりその手の話は好きな方だし、面白半分の興味…というより、ちょっと参考にしたりしている。なぜなら、いわゆる経験値なら四人の中で良次さんが一番だと思うけど、彼はとても普通を愛する人だから、一ノ瀬が口にするような事はした事がなくて、僕の中では未知の領域ばかりだからだ。
 知識は、件(くだん)の『夢二』で仕入れてくるみたいだけど、実際にそれを試してしまう一ノ瀬を心密かに『師匠』と呼んでいる。だって、聞いてると、アダルトビデオばりの過激な事もしてるんだよ?
 でも、やっぱり悔しさを感じるし、したい盛りの中坊じゃあるまいし、良次さんに対して物足りなさを感じてしまうのも嫌で、ため息ばかり吐いて萎(しお)れる僕に、「お前が遣ってあげればいいじゃないか」と発破をかけるのも一ノ瀬なんだ。
「あの人、どっちも大丈夫なんだろう? だったら、お互い好きなようにすればいい事なんだから、遠慮する事ないじゃないか」
 そう励ましてくれる。だから、僕らは男同士の恋愛道を貫く有志として、大学が別になった今も頻繁に連(つ)るんでいる。一ノ瀬って、本当は優しいヤツなんだと思う。あんまりさり気なさ過ぎて見落としてたけど、本当は薄情だと思っていた高校の頃も、僕を励ましてくれたんだよね……。
「大学を卒業するまでの辛抱じゃない?」
 僕は励ますように項垂れた一ノ瀬の肩を叩いた。
「あと三年半もあるじゃねーか…」
「一ノ瀬の頑張り次第で、もっと早く説得できるかもしれないじゃない」
「う〜ん…頑張り、ねぇ……」

『佐藤には男の意地があるんだよ』

 良次さんが言うには、一ノ瀬は “ 誘い方 ” を間違った、という事らしい。一ノ瀬は「俺のマンションで一緒に暮らそう」と言ったのだが、佐藤さんにはそこが気に入らなかったらしいのだ。
「普通の男が “ 受 ” をしているって事だけでも、プライドに傷が入ってると思うよ。そこに、“ 俺のマンション ” とか言われて、カチンと来ちゃったんじゃないかな」
 良次さんはそう言うけど、親から譲られた財産なのだから、一ノ瀬の誘い方は何の問題もないと思う。
「だったら、一ノ瀬に家賃を払えばいいんじゃないの?」
 僕が不思議そうにそう言うと、良次さんは困ったような顔をして笑った。
「確かにそうすれば、少しは気分的に楽に感じるだろうけど、只のルームシェアって訳じゃないからね。恋人とは言え、相手はまだ親のスネをかじっている学生で、その上その親から与えられたマンションに同居するってのは、社会人としては気が引けるよ。やっぱり自立した上で初めて、そういう事ってできるものなんだと思うよ。だから、俺もこうしてバイトに励んでいる訳だし」
 そう言われると、喉元まで出掛かっていた「会う時間が欲しいから、もう少しバイトを減らして」ってお願いは、言えなくなってしまった。
 良次さんたちと僕らは、たった三つしか違わないのに、大人と子どもの違いを感じさせられる。
 大人になるって、単に成人の年齢に達すのとは違う事なんだって、あの二人を見てるとそう思う。だけどその差が、見えないミゾのように感じて、すごい焦りを感じる時があるんだ。
「あんまり “ しつこく ” しない…とかさ。佐藤さん、ぼやいてたみたいだよ〜」
 僕は自分で自分の気持ちを紛らわすように、努めて明るく言った。
「そっちの頑張り?」
 一ノ瀬は拍子抜けしたような声を出した。
 僕は舌を出して戯けて見せたけど、結構それもあるらしいよと、心の中で呟いた。だって、
「一緒に暮らしたら、俺、死ぬかもしんない…」って、佐藤さん本気で怯えてたらしいもの。
「ねえ、さっさとこれ書いちゃって、早く目的地に行こうよ。それで一ノ瀬は、オーナーに自制の仕方を教わったらいいんじゃない?」
「お前がそれを言うかぁ?」
 一ノ瀬は呆れたように言いながら笑っていた。僕も笑いながら、ペンを持ち直し『早く一緒に暮せますように。早く大人になれますように』そう書いて、出来るだけ高い場所の枝に短冊を吊るした。
 一ノ瀬も願い事を書くと、ちょっと離れた場所に短冊を吊るしていた。
「何を書いたの?」
 そう聞いたけど、一ノ瀬は笑うだけで教えてはくれなかった。でも、ちらっと見えちゃった。『一緒に暮せますように』って。他にも何か書いてあったけど、それは読めなかった。今年も同じ願い事かと苦笑したけど、口には出さなかった。
「行こうぜ」
 満足げに短冊を見上げた一ノ瀬は、そう言って先に歩き出した。その背中に『今年の願い事は、お互い絶対叶えようね』と、僕は無言で語りかけた。

 (了)

BACK [↑] NOVEL

Designed by TENKIYA