INDEX NOVEL

いとしい人  〜 My Fair Darling 〜 〈 7 〉

 翌日、正樹が出社すると前田がすぐにやって来て愚痴り出したが、とても聞いてやる気になれず「もう、諦めろ!」と一喝して、さっさと外回りに出てしまった。
 正樹が鬼塚と日下部を追い掛けた後の事は、山崎からメールを貰って知っていた。
 地下鉄の出口から鬼塚たちが出て来た所を見ていたのは、正樹だけではなかった。スマホを眺めていた山崎以外、全員が目撃していたのだ。正樹が二人を追い掛けるのと同時に清水も駆け出したので、止める間もなかったらしい。
 結局、山崎カップルは二人がかりで、前田に清水を諦めるように諭したらしい。山崎の彼女が友だちを紹介するからのひと言で、何とか愚痴は止まったようだが、『暫く清水さんと鬼塚さんの悪口を聞かされそうだよ』とのぼやきで締めくくられていた。
 正樹は鬼塚の様子が気になって、出先から住吉にメールを入れると、『本日は風邪のためお休み。清水の様子も変なので、ちょっと気になるんだけど。昨日何かあったのかしら? 本当に風邪なら良いんだけどね』と返事が返って来た。
 営業回りには到底身が入らなかったので、午後から会社に戻り、屋上で一人タバコを吹かしながら、片手でスマートホンを弄んだ。
 鬼塚の電話番号もメアドも住所も、個人情報は手に入れてはいたけれど、いざとなると連絡を取るのが躊躇われた。清水の事をどうするつもりですかなんて、聞きたいけれど追い詰めてしまいそうだし、本人が一番悩んでいるに違いない。
 清水の様子が変なのは、自業自得だから仕方がない。風邪との事だが、同じ職場の自分と顔を会わせたくなくて、ズル休みしているのかも知れないと、猜疑心に捕われているのじゃないだろうか。
 自分の時も、それに近い思いはあった。昨日、朝一番に顔が見たかったのは不安もあったからだ。屋上(ここ)で鬼塚の姿を確認したとき、ほっとしたのを思い出す。そして、彼の態度が変わらなかったのが、何より嬉しかった。
 仮にズル休みしているなら、いい大人のする事ではないけれど、胃潰瘍で入院した人だから弱い部分に出たのかも知れない。それはそれで、罪悪感に苛まれるだろうし、自尊心も傷つくだろう。本当に風邪なら風邪で、あの細い身体を思い出すと不安に思うほど心配になる。
 日下部に『返事はホワイトデーに』などと取りなされて、首の皮が繋がった感じではあったが、逆にこんな気持ちのまま一ヶ月も過ごすのは、自分なら地獄だろうなと同情した。
「はぁ〜……。やっぱ、同情してる場合じゃないだろうよ、オレ……」
 正樹の場合は弱みに付け込んで、騙すように付き合う事を了承させたが、それだって飽くまでも “ お試し ” なのだ。恋人になれるかどうか、決まった訳ではないのだから、立場は清水と変わらない。
「う〜〜……」
 短くなったタバコを投げ捨てると、頭を掻きながら唸った。これからどうしようか、決めかねて苛々した。
「あ〜〜っ、ポイ捨て! いけないなぁ……」
 突然、間延びした声が聞こえて、心臓が飛び出しそうになった。慌てて声の方へ顔を向けると、日下部が立っていた。
「こんな所にいたんだね。探しちゃったよ」
 ニヤニヤしながら近づいて来る。昨日今日で、日下部の印象は、“ 似非(えせ)無責任男 ” から、似非が、取れてしまっていた。黙って立っていたら、それこそ上品でアダルトなオジサマと言った風情だが、喋ると地に落ちる感じだ。だが、以前経理部を訪ねた時は、こんな雰囲気は感じなかった。使い分けているのだろうか。
「営業部に行ったら、タバコ休憩に行ったって聞いたのに、喫煙室にいないし、君の社内携帯の番号消しちゃったもんだから、コンビニにまで探しに行っちゃったよ。総務に聞いてもいいけど嘘吐くの面倒だし、あとはここかなと思って来てみたら、ビンゴだったね〜」
 久し振りに屋上に上ったと言う日下部に、「タバコ、吸ってたんですか?」と聞くと、「そう、昔はね。二番目の奥さんが嫌いだったから、止めたんだよ」とさらりと言われたが、逆にドキリとしてしまった。そう言えば日下部の奥さんは三人目だとの噂を思い出し、余計な事を聞いたと気まずい思いで、「そうですか」とだけ相づちを打った。
「あの、俺に何か御用ですか?」
 さっさと用件を済まして欲しかった。そんなに探しまわる用件など、あまり良い内容に思えなかったし、とぼけた顔をして何でも知っていそうな日下部が苦手だった。
「ああ、堤くんにお願いがあってね。今日、仕事が終わったら、鬼塚くんの所へ寄ってやって欲しいんだ」
「えっ?」
 予想外の事に驚いて聞き返すと、日下部は苦笑いしながら説明した。
「鬼塚くん、病欠しててね。私が電話を受けたので『風邪』と誤摩化したが、昨日の事で胃に来ちゃったらしいんだ。あの後、我々は飲みに行ってね、気をつけたつもりだが、飲ませ過ぎたかも知れない。様子を見に行ってくれないかね」
「…どうして、俺が、頼まれるんですか?」
 そんな事を日下部から頼まれる筋合いが無い。鬼塚から自分の事を聞いたのだろう。一体どこまで知っているのかと、警戒心が先に立った。
「嫌なの? じゃあ、仕方ない。私が行くとしようかね……」
「行きます! 俺が行きます!」
『付き合ってる』だとか、『好きなんだろう』とか、もっとストレートに切り込んで来るかと思っていたから、子ども騙しに乗せられた気がした。この人、絶対知っていてからかってると思った。
「そう? 良かった。血を吐く程じゃないみたいだから、やわらかくて栄養価の高いものを食べさせてやってね」
 血など吐いたらどうなるのだろう。聞いただけで自分の胃も痛むような気がした。
「わかりました。あの…、他に気をつけたり、してあげられる事って、何かありますか?」
「そうだね…。タバコと酒は厳禁。君も彼の前では我慢してね。辛いとか酸っぱいとかの刺激物も駄目。コーヒーや濃いお茶も駄目だよ。あと、熱すぎるのも冷たすぎるのも駄目。まあ、それくらいかな……」
 よく知っているなと感心しながら、一時一緒に暮らしていた事を思い出し、胸が焼けるように熱くなった。このままだと自分も本当に胃に来そうだと、我慢出来ずに日下部に訊ねた。
「日下部さんは、鬼塚さんの病後の面倒を見ていたと聞きました。ただの上司と部下にしては、行き過ぎるように感じますが……その、何か特別な関係が…お二人の間に、あるんですか?」
 だらだらと、『あんた達は同性愛の関係か?』と訊いたのだが、このとぼけたオジさんに通じるだろうかと、窺うように日下部を眺めていると、日下部はきょとんとした顔で正樹を見返したあと、「ああっ! ああ、ああ…」と、唸りながら何度も頷いて、カラカラと笑い出した。
 呆気に取られている正樹の前で、日下部は一頻り笑った後、「久し振りに聞いたねぇ…」と呟いた。
「そうそう。当時もね、『日下部は離婚してホモに走った』とか言われたけど、もしかして、清水くんも誤解して先走っちゃったのかねぇ」
 笑いが残る顔で戯けていたが、正樹は笑わなかった。
「違うんですか」
「うん。私は根っから女性が好きでね。いくら鬼塚くんが奇麗な顔をしていても、胸もお尻もないんじゃ、ちょっと無理だね〜」
 あったら平気なのかよと心の中で突っ込みながら、「じゃあ、何で一緒に暮らしたりしたんですか?」と忌々しい思いで訊いた。
「あの時の鬼塚くんは、精神的にも落ち込んでいてね、誰かが側にいた方が良いと思ったんだよ。私も離婚したばかりで寂しかったし、彼の世話をする事で気が紛れた。お互いそういう状況だったんだよ。時間が経つにつれ彼の気持ちも落ち着いて、きちんと食べるようになったし、私には今の家内が現れたので、同居を解消した訳だ。もう五年も前の話で、当時の事を知ってる人間も少なくなったから、気にも留めてなかったが……」
 日下部は一旦言葉を切ると、正樹の顔を意味深な目で眺めたあと、「まあ、こんなライバルが現れちゃ、清水くんが焦ってしまったのも無理ないか……」と、やれやれと言った調子で肩を竦めた。
「えっ、ライバルって……」
「うん。鬼塚くんから聞いたよ。君は彼に『恋人になりたい』って、言ったんだって?」
 やっぱり話したんだと、何だか裏切られた気がして奥歯を噛み締めた。
「鬼塚くんも、『君の事が好きだ』って言ってたよ」
「えっ?」
 それこそ、心臓が飛び出しそうなほど驚いた。あんまりあっさりと聞かされたので、嬉しいと言うよりも、なぜこの人に喋ったのかと解せない気持ちが強かった。
「昨日は、珍しく鬼塚くんの方から飲みに誘われてね。私の行きつけの銀座の店に行く事にしたんだが、ついでに買い物に付き合って貰ったんだよ。妻の誕生日プレゼントを探してたんだが、なかなか良いのが見つからなくて、彼を引っ張り回して三軒目に入ったデパートで、君たちに会ったんだ。偶然とは恐ろしいね〜。清水くんにしてみたら、君というライバルの出現に鬼塚くんのホモ疑惑が再浮上した所に、そのメンツが雁首揃えてるのを見て、テンパっちゃったんだろうねぇ。お陰でますます鬼塚くんの悩みが増えた訳だ」
「鬼塚さんがあなたを誘ったのは、俺の事を相談するためですか?」
「そうだよ。君に『辻村』を知られてしまったから、銀座にしたのが裏目に出たんだ」
「あの人、何て……」
「さっきも言ったが、君の事が好きだそうだよ」
「じゃあ、何で?! 何で、あなたに相談する必要があるんですか?」
「それは、彼の口から聞いた方がいいと思って、彼の所へ寄るように――」
「聞く勇気がありません!」
 日下部の台詞を遮った。確かに、真実は本人が知っているだろう。人の口から聞けば真実は変質してしまうかも知れない。だがその真実を、鬼塚がすんなり話してくれるとは限らない。それに、鬼塚に直接聞くにしても、日下部が聞いた真実と、自分が聞く真実に整合性を求めたかった。
 正樹の切羽詰まった様子に、日下部は腕を組んでしばし考えを廻らせていたが、「私の口から聞いた…とは、言わないでくれよ?」と前置きしてから言った。
「君の『好き』と自分の『好き』は違うから、このまま君と付き合って行くと、君を傷つけるかも知れない…と言っていた。その結果破綻(はたん)して、また独りになるのが怖いんだ…とね。私が聞いた限り、君と彼の『好き』は同種だと思ったよ。でも、何しろ鬼塚くんは、私からしたら天然記念物かと思うくらい奥手だからねぇ。もしかしたら、彼が恋愛感情を抱いたのは、君が初めてなんじゃないかな? だから余計に、駄目になってしまうのが怖いんだよ」
「初めてでは、ないと思いますよ……」
 正樹は鬼塚の兄の存在を思い出しながら暗く呟いた。
「私には、そうは見えんが…」と日下部が首を傾げたので、鬼塚の兄への気持ちは秘密のままなのを知った。それはそうか、と思う。近親相姦なんて、ゲイである以上に禁忌(タブー)だ。
「あなたは、何てアドバイスされたんですか?」
「『好きなら、付き合った方がいい』と言ったが、清水くんの事も出て来てしまったから、首を縦には振らなかったよ」
 正樹は日下部の返答に少し戸惑って、「日下部さんは、根っからの女性好きなのに、男同士の恋愛を…肯定するんですか?」と訊くと、日下部は「だって、私の事ではないしね」と戯けたように言ったが、すぐ真顔になって付け足した。
「世間的にはどうこうあるだろうが、私個人としては、一緒に生きて行く相手が男だろうと、女だろうと構わないと思うんだ。性別じゃなくて、その人が互いにとって必要かどうか。大切なのは、それだけだと思うよ。だから、彼を『もう独りじゃない』と安心させてくれる相手なら、君でも、清水くんでも良かったんだが、清水くんでは駄目なんだよ」
「なぜ、そう思うんですか? 鬼塚さんが、女性は駄目だと言ったんですか?」
「いいや、そうは言ってない。私の見解だよ。鬼塚くんは自分から好きにならないと駄目なタイプだと思うんだ。要は好みが決まっていて、それ以外は受け付けないのさ。私みたいな受け身体質で間口が広ければ、今ごろ疾っくに結婚してた筈だよ。彼は寂しがり屋だからね」
「それなら、俺だって自分から言い寄った口ですよ?」
 なのに、見込みがあるのかと目で問いかけると、日下部は面白いものを見るような目つきで正樹を見ながら言った。
「君といる時の鬼塚くんは、親しい人間にしか見せない表情をする。これは住吉くんとも意見が一致している。その上、私は彼の口から『君が好きだ』とはっきり聞いたんだ。可哀想だけど、清水くんの出る幕はないんだよ。そりゃあ、私だって可愛い部下同士が一緒になってくれたら嬉しかったが、こればっかりは仕方ない。まあ清水くんは、これから先いくらでも相手が現れるだろうが、鬼塚くんの場合は、君を逃したら本当に独りを通しそうだからね。ここは、君の方から躊躇(ちゅうちょ)している鬼塚くんを、押して押して押しまくって、彼の考えを変えさせて欲しいんだ」
「考えを変えさせる?」
「そう。君は、彼が結婚しない理由を知っているかね?」
「天涯孤独で……もう、独りになりたくないから、ずっと一緒にいられる保証がないなら、最初から独りでいるっていう話ですか?」
「そうだ。寂しがり屋たるが故に出た言葉だね。誰にも知られたくないらしくて、しつこく聞かれると『結婚なんて面倒くさい』と言っているがね。住吉くんも知らないらしい。まあ、ちょっと思春期の子どもみたいな言い分だから、恥ずかしいのもあるんだろう。初めてそれを聞いた時、天涯孤独の身の上なら、逆に早く家族が欲しいものだろうと不思議だったが、彼のように幼い時から相次いで大切な人を失うと、喪失感が刻み付けられてしまうのかもね」
「…よくご存知なんですね、鬼塚さんの事。やっぱり、ただの上司と部下には思えませんが……」
 鬼塚が誰にも言わない本心を知っているのだと、自分たちの特別親しい間柄を自慢されて癪に触った。嫌味を込めて言うと、日下部はわざとらしく勿体ぶった調子で答えた。
「そりゃあ、私は彼が入社した時から目を掛けているからね、いろいろ私生活の相談事も受けている。それに普段は口が堅いが、酒を飲ませるとお喋りになるから、聞き出すのなんて簡単なんだよ」
「まさか、昨日飲ませ過ぎたのって……」
 根掘り葉掘り訊き出そうとして飲ませ過ぎたのかと非難の目を向けると、日下部は胸の前で『まあまあ』と言った具合に手を振りながら、「反省してるから、わざわざこうして君に頼みに来たんじゃないか…」と嘯(うそぶ)いた。
「それに、彼は昔から手の焼ける部下でね、ついつい深く関わるようになってしまったんだよ……」
 日下部は懐かしそうに、入社当時からの鬼塚の過去を語りはじめた。
 鬼塚が新卒で入社した時、既に身寄りは祖母しかいなかった。当時の鬼塚は今よりはまだ前向きな青年で、両親と兄を相次いで亡くしたあと、代わりに育ててくれた祖父母のため、将来二人の面倒を見ながら働けるようにと、自宅で税理士事務所を開くという夢を持っていた。
 大学生の頃から税理士試験を受けていたのはそのためで、着々と準備を進めていたが、残念ながら祖父は大学卒業を目前にして亡くなり、祖母と二人きりになってしまった。
 入社二年目で税理士の免許は取れたが、鬼塚は端から社内での出世に興味がなかった。高齢の祖母の体調次第で、会社を辞めて介護に入るつもりでいたからだ。なのに、同期の中では断トツに仕事が出来たので、一番の出世頭と目されていた。
 性格は今と変わらず、ぶっきらぼうで誤解されやすく、男性社員から反感と妬みを買って敬遠されていた。反対に女性社員からは、少しぐらい変わり者でも美形で将来有望なら構わないと、熱い視線を送られていた。
 鬼塚だって人間関係に全く疎い訳でもないから、悩まなかった訳ではない。いっそ辞めてしまいたいと相談して来た鬼塚に、その頃課長だった日下部は、優秀な部下を手元に残しておきたくて、もう少し会社での経験を積んでから独立した方が良いと残留を勧めた。
 そうして騙し騙し引き止めて、鬼塚が三十歳を迎える少し前、課長に昇進する事が決まったが、それを知った男性社員がまとめて会社を去るという事件が起こった。その上、祖母が心筋梗塞で亡くなってしまったのだ。
 当然、鬼塚は塞ぎ込んでしまったが、更に追い討ちをかけたのが、当時付き合っていた経理部の女性社員との関係だった。
「ええっ!? 鬼塚さんって、付き合ってた事あるんですか? じゃあ、それって…鬼塚さんから好きになったって事じゃ……」
 ショックを受ける正樹に、日下部は慌てて首を振った。
「いや、清水くんと一緒だよ。彼女から猛アタックを受けて流された…という感じかな。住吉くんから聞いた話だと、食事に行くのが関の山で、結婚話を持ち出されると、『お祖母ちゃんの面倒を見てくれる人じゃないと駄目』って、かわしていたらしいけど、問題は消えたとばかりに迫られたらしくてね。鬼塚くんも独りになった心細さがあったんだろう。ホテルに連れ込まれて押し倒された…までは良かったけど、彼、全然反応しなかったらしいんだわ。彼女、とってもグラマーな美人だったんだけどね〜。もったいない……」
「胃潰瘍になったのって、まさか、出来なかったのを言いふらされたんですか!?」
 それはあんまりだと憤ると、日下部はまた首を振った。
「いやいや、彼女の方が傷ついちゃったんだよ。『私が女として魅力がないから、勃たなかったのね〜』って。美人で自信があった分、余計ダメージを受けたんだろうね。何さこんな男って、見切りを付けてくれたら良かったんだけど、悩んだ挙げ句不眠症になっちゃって、医者から貰った睡眠導入剤を、発作的にがぶ飲みしちゃったんだよ」
「えっ、自殺…したんですか?」
 想像を超えた話になっていて震えが走った。日下部はまたまた首を振った。
「いやいやいや、今はそうした頓服薬(とんぷくやく)を大量に飲んでも死ねないらしいよ。だけど、もちろん入院騒ぎになってねぇ、今度は鬼塚くんが血反吐を吐いちゃったんだ。堤くん、タバコ貰えるかな?」
「あっ、はい……」
 話の途中でいきなりタバコを求められ、慌ててタバコの箱を差し出すと、「すまないね」と言いながら慣れた手つきで一本抜いて口に銜えた。正樹がライターの火を差し出すと、スッと顔を近づけてタバコに火を点け、すぐに口から離して煙を吐き出した。
「久し振りに吸うと、くるね……」
 日下部はそう言うと、またタバコを銜えて腕を組み、手すりに凭れかかった。
 その一連の動作も、銜えたタバコの煙に目を細めて何事か考えている姿も、絵になる男だと見惚れてしまった。一から十までこの調子だったら、少し気障(きざ)過ぎて鼻に付くかも知れないが、無責任男が垣間見せるダンディな仕草ゆえに、かなりポイントが高い。計算尽くだとしたら大した男だと感心していると、タバコを指に移して煙を長く吐き出すと、また話の続きを始めた。
「鬼塚くんの方が、死にたそうだったよ…。退院してから三ヶ月休職させたが、生きる目的がなくなってしまったみたいで、すっかり廃人と化してしまった。彼女の事や職場の人間関係もあったけれど、一番の理由は、とうとう独りだけ取り残されてしまったという孤独感だろうね。私が一緒に暮らしたのは、そういう理由からだよ。私や住吉くんが話したがらない訳を、分かってもらえたかな?」
「はい……」
 頷きながら、鬼塚の抱えている孤独が大き過ぎて、自分が支えてやれるだろうかと、急に弱気になった。好きだから一緒にいたいという気持ちだけでは、鬼塚が納得しないのも分かる気がした。
 急に寒気を覚えて、無意識に両手で身体を抱えると、それを見た日下部は、タバコを地面に擦り付けて火を消し、正樹が捨てた吸い殻も一緒に摘んで拾い上げた。
「さすがに寒いね。そろそろ戻ろうか……」
 そう言うと、空いている手で正樹の肩をぽんぽん叩いて、出入り口へと向かうよう促した。
 日下部はエレベーターを使わず階段を降りながら、その後の鬼塚の話をした。
「休職している間に、彼の髪も髭もすっかり伸びてしまって、君に床屋へ連れて行かれる前の、冴えない鬼塚くんが誕生したんだよ。私も彼を食べさせるのが手一杯で、身の回りの面倒まで手が回らなかったし、好きなようにほうっておいたんだが、ある時、その姿で街をうろついたら、誰からも注目されずに済んだ事に味を占めたらしくてね、髪で顔を隠して、わざわざお祖父さんの形見の眼鏡までかけて、ださく変装した姿で復職した訳だ」
「えっ、その眼鏡って、もしかして……」
 自分が踏んで壊したヤツだろうか。階段の途中で足を止め、隣りの日下部に視線で問いかけると、日下部は頷いて「そう。君が壊した眼鏡がそうだよ」と言った。
「あっ…俺、そんな大切な眼鏡を……」
 お祖父さんの形見の眼鏡だったなんて…。正樹は取り返しのつかない事をしてしまったと、震える手で口元を押さえると、日下部は首を振って「彼は、怒らなかっただろう?」と言った。
「怒りませんでしたけど…面倒くせぇって……」
「彼の口癖だね。そして、呪文でもあるんだよ」
「呪文?」
「生きる事って、全て面倒くさい事ばかりだろう? 食べるのも、働くのも、人間関係も…。私だって思うよ。他人の事を考えるのも、自分の感情に振り回されるのも、うんざりするってね…。鬼塚くんは、そうした面倒くさい事に関わらないで済むように、あらゆるものから独りでいようと決めたんだ。でもそれは、社会生活を営む以上、無理な話なんだよ。だから、面倒な事に関わって心がさざ波立ってしまった時、『面倒くさいのは仕方ない。だから何が起こっても諦めろ』って、言い聞かせているのさ。きっと、その時の面倒くせぇは、『壊れちまったんだから仕方ない、諦めろ』って、自分に言い聞かせてたんじゃないのかな」
「それって…それって、ただ、我慢しているだけなんじゃ……」
「私もそう思う。だけど、いろいろと哀しい事があり過ぎて、諦めてしまった方が楽になると、変な方へ悟りを開いちゃったんだよ。そんなのは、錯覚なのにね…。私は離婚しているから、彼の気持ちは分かるつもりだよ。独りになるって、堪えるものだよ……」
 日下部は言葉を切ると、何かを思い出しているのか暫く虚空を眺め、それから微苦笑を浮かべた。
「だけどやっぱり…人は誰かと支え合って、ともに生きて行くべきだと思う。特に、彼みたいな甘ったれはね。そして、彼に応えられるのは、今のところ君しかいない。清水くんでは、五年前の二の舞いになるだけだろう」
 聞きながら、正樹はすっかり怖じ気づいてしまった。
「俺に…出来るでしょうか? 鬼塚さんの気持ちを受け止めきれるか、何だか自信がなくなりました……」
「そりゃまた…困ったな」
 日下部は絶句して正樹の顔を見詰めた。呆れたと言うより、心底困惑しているような表情だった。
「自信を付けて貰おうと思って与えた彼の情報は、逆効果だった訳かね? だけど、君は彼を好きなんじゃないのかい? 今の話を聞いただけで、もう熱が冷めてしまったのかい?」
「いいえ、違います! あの人が好きです! だから俺は『もう独りにさせない』と言いたかった。だけど未来の事なんて、何を言ったって、口約束にしかならないじゃないですか。俺だって、いつ死ぬか分からないし…。あの人を信じさせるにはどうしたらいいか、ずっと考えていますが、何も思い浮かばないんです……」
「信じさせるねぇ……」
 日下部は片手で顎を掴んで考えを廻らせていたが、唐突に「君は、プレゼンテーションにおいて、プレゼンターに一番必要な事は何か、当然知っているよね?」と言った。
「は? プレゼンテーション…ですか?」
 いきなり何を言い出すのかと、間抜けた声で聞き返してしまった。
「営業部のホープだそうじゃないか。なのに、そんな事も知らんのかね?」
「いきなり言われても…それが鬼塚さんの事と、どう関係があるんですか?」
 経理のアンタに馬鹿にされる覚えはないと、ムッとして言い返した。すると、日下部は腰に手を当てて、「関係あるさ。仕事も恋愛もそう違わない。最終的に、ハッタリかまして相手を丸め込むのは一緒だよ」と、自信たっぷりに言い切った。
「未来の事なんか、誰に分かるものかね。そんなのは当たり前だ。分かれば私だって二度も離婚してないよ。だが、君は彼を愛してるんだろう? だったら、『愛してるよ』って繰り返し繰り返し言い聞かせて、『俺を信じろ!』って丸め込むしかないじゃないか。言ったろう? 押して押して押しまくれって。言って分からないなら、行動で示すしかないんだよ。それこそ向こうが根を上げて『信じる!』って言うくらい、愛してやればいいんだ。それだけの事だよ。違うかね?」
『ハッタリかよ!? さすが無責任男!』と呆れながらも、聞きいているうちに初めて鬼塚の顔をまともに見た ―― たぶん、ひと目惚れした ―― あの時、『絶対、手に入れる』と決めた熱い想いが蘇って来た。
 正樹は「そう…ですね」と、苦笑いして頷いた。
「なんだい、覇気のない返事だねぇ? くどいようだが、君は、彼を愛しているんじゃないのかい? 違うんだったら……」
「愛してます!!」
 止めたまえと続くだろう台詞を遮った。日下部の小馬鹿にしたような表情を真っすぐに睨み返すと、ふっ、と日下部の表情が和らいだ。
「それだけ分かっていれば、よろしい。鬼塚くんは、君の事が好きだと言ってるんだ。余計な事は考えないで、彼の側にいてやってくれよ。清水くんの事は、私も対策を考えよう」
 日下部は頷く正樹を満足げに眺めてから、正樹の肩を叩くとその横をすり抜けて、鼻歌まじりに自分のフロアまで軽やかに降りて行った。

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