INDEX NOVEL

いとしい人  〜 My Fair Darling 〜 〈 6 〉

 休み明けの午後六時十五分。
 前田と山崎を引き連れて、エレベーターで経理部のフロアへ降りて行くと、山崎の彼女と清水が、帰り支度を整えてホールで待ち構えていた。本当は経理部を覗いて、ひと目鬼塚を眺めたかったが、二人にさっさと乗り込まれて叶わなかった。
 こんな大人数で買い物をする羽目になった事に対して、清水は何も言わなかったが、道中前田が話しかけると、心なし正樹を睨むようにチラ見するので、前田には完全に見込みがないなと、心の中でため息を吐いた。
 買い物の後で食事をする予定は、清水に全く内緒という訳にもいかないから、山崎の彼女から伝えて貰った。清水は先輩を立てて了承してくれたのだが、ほぼデートがメインになってしまったから睨まれても仕方がない。清水のお守りは山崎カップルに任せて、正樹は鬼塚の事を考えながら黙々と目的地を目指した。

 鬼塚には、昼間一度だけ顔を会わせた。
 午後三時のタバコ休憩に、住吉が教えてくれた屋上へ行ったのだ。果たして、鬼塚は入り口付近の手すりに凭れて、ぼうっとタバコを吹かしていた。
 誰も来ないと油断していたらしく、正樹を見るとぎょっとしたが、すぐに『出たな』と言う顔で「ふんっ」と鼻を鳴らした。
 週末の出来事で、正樹に対して免疫が出来たのだろう。警戒しているようでいて、拒絶の態度は見られない。もう赤面したり挙動不審な態度が見られないのは残念な気がしたが、確実に鬼塚の懐に近づいている手応えを感じて嬉しかった。
「鬼塚さんは、飲み屋といい、ここといい、良い場所を知ってますね」
 笑いながらタバコを取り出して近づくと、しっ、しっ、と手で追い払う仕草をされた。
「ひどいなぁ……」
 苦笑いすると、鬼塚は近づく正樹と自分の間に、つま先でさっと地面に見えない線を引き、「こっから入って来んな」と言った。
『あんたは、小学生か?』と心の中で突っ込みを入れた。土曜日には中学生レベルだと思ったが、三日経ったら小学生に落ちていた。可笑しくて腹の辺りがムズムズしたが必死で堪えた。
「付き合ってんだから、それはないでしょう?」
 無視して肩先が触れ合う距離で隣りに立つと、鬼塚は半歩横へ移動してそっぽを向いた。
「じゃあ、半径五十センチで許してやる」
「三十センチにしてください」
「ヤダネ」
 鬼塚に合わせて小学生レベルの会話を交わしながら、自分も鬼塚の事は言えないなと自嘲した。正樹も、学校へ行くのが待ち遠しい子どものように、休みが終わるのを指折り数えて待っていたのだ。今朝など、すぐに経理部へ押し掛けて顔が見たいと思ったが、清水がいるので諦めた。
 会社での鬼塚は、ぶっきらぼうで無口でニヒルな性格を装っているようだが、正樹の前ではその仮面が被れないらしい。素の鬼塚は、ぶっきらぼうなのは変わらないが、言う事もやる事も子どもっぽくて、貴公子然とした見た目とのギャップが激しかった。
 正樹にとっては、そんな幻滅しそうな姿も惚れた欲目で可愛いとしか映らないが、鬼塚は外見と中身の落差を自覚しているらしく、「お前が側に来ると、調子が狂う…」と困ったように頭を掻いた。
 自分を避けて逃げ回っていたのは、嫌われているせいではないとほっとしたが、正樹も他の連中、特に清水には、こんな可愛い鬼塚を見せたくはないから、人前で会うのは止めようと思った。
「ここなら二人きりだし、別にいいでしょう? 経理部へはもう顔を出したりしませんよ。親睦会の段取りは終わりましたから」
「ふん……」
「その親睦会ですけど、鬼塚さんは不参加ですよね?」
「ああ。行かねー……」
 煙を吐き出しながら答えた鬼塚に、正樹は清水の事を言うべきか迷って、結局止めてしまった。忠告しようにも何と言っていいか分からなかった。『清水さんがあなたを狙ってる』とか、『俺と付き合ってるんだから、コクられても断れ』なんて、格好悪くて言いたくない。
 話を振っておいて何も言わない正樹に、鬼塚がそれがどうしたと言う顔で見ているのに気がついて、「俺は参加するんですが、あなたがいかないなら、止めとけば良かったなって…」と、煙を吐き出しながら適当に答えた。
「別に、行きゃいいだろ」
「でも、バレンタインデーだから鬼塚さんとデートしたいじゃないですか。プレゼントもあげたいし」
 正樹の言葉は予想外のものだったらしく、鬼塚は慌てた様子で煙を鼻から吹き出した。
「俺は、甘いものは苦手だぞ」
 いらないとか、嫌だと言わなかったのが意外で、思わず口元が緩んでしまった。
「酒をプレゼントしようと思ってましたよ。それから魚の旨い店で夕飯なんて、いいでしょう?」
「…だったら、別に十四日じゃなくても、『辻村』で飲めばいいじゃないか」
 鬼塚は照れくさそうに小さな声でそう言った。正樹は嬉しくて胸がいっぱいで返事に詰まった。
「じゃあ、そうしましょう……」
 何とかそう答えると、正樹も照れ隠しにタバコを吹かした。
 本当の事を言えば、今日は鬼塚に会える喜びと同時に、夜の買い物の事を思うと憂鬱な気分だったから、鬼塚のこのひと言で、すっかり調子が上向いたのだった。
 足元の問題は、どちらかと言うと前田だった。脈がない事をどう本人に気づかせたら良いのか。諦める事はないと煽った以上、正樹はそれなりの責任を感じていた。

 目的の日本酒専門店は、銀座駅の出口を上がってすぐの一等地にあった。その割に、見た目は酒屋と言うより立ち飲み屋で、親しみやすい店構えだった。
 中へ入るとネットで調べた通り、店長が全国から集めたという選りすぐりの名酒が、日本酒だけでなく焼酎も合わせて八十銘柄もあり、目移りする程だった。そのため試飲のセットがあって、一銘柄五勺(ごしゃく・約900ml)ずつ、三銘柄を選んで六百円で飲める上、モツ煮やスルメ、蒲焼きの缶詰などちょっとした摘みもあって、仕事上がりのサラリーマンで店内は程よく賑わっていた。
 それにしても沢山あり過ぎて、日本酒に詳しくない身では、どれが良いか全く以て分からない。
 清水に「どれにしますか?」と訊かれて肩を竦めると、酒好きの前田が良い所を見せようと、一生懸命清水に講釈し始めた。正樹は頑張れよと心の中で励ましながら、自分は店員にお勧めを訊ねた。
 金曜日に鬼塚が飲んでいたのは田酒の大吟醸で、季節限定品だったから当然この店には置いてない。田酒の通年ものはあるので、これでいいかなと思ったが、違う種類で美味しいのがあれば、その方が良いかも…と迷った。
 店員に「辛口か、甘口かなど、好みはお分かりですか?」と聞かれ、清水に聞かれないよう小声で「田酒って、辛口ですか?」と聞くと、「辛口です。でも、優しい感じですよ」と言った。
 同じ感じが良いのならと、店員は “ 黒龍(こくりゅう)” と、“ 奥飛騨(おくひだ)” という酒を勧めた。どちらもすっきりした辛口で飲みやすく「ほのかな酸味がワインのようで人気がある」との事だった。
 試飲を頼むと、高い酒なのでセット価格では提供出来ないと言われ、困ってしまった。酒は弱い方ではないが、さすがにグラス二杯も飲む気にならない。思わず山崎の方を見ると、「ああ、手伝ってもいいよ」と言ってくれたので、一杯ずつ頼む事にした。
 回し飲みすれば一人分の摂取量は減るし、最終的に購入さえすれば、飲み方などとやかく言われる事はないだろうと、「お前も手伝えよ」と前田に声をかけると、「私も手伝います」と清水が答えたので慌ててしまった。
「ああ、いや、でも……」
 回し飲みするんですよ? と目で訴えると、清水は頷いて「私も買うんですから、飲まなければ分かりませんもの」と言った。
 それを聞いた前田は、邪(よこしま)な喜びににやけていたが、ふと思いついたように「日本酒好きなら、八海山とか越乃寒梅とか、定番でもっと辛口のがいいんじゃないの?」と横槍を入れた。
 選んだのはどれもフルーティーな感じのやつだと、余計な事を言うので、正樹は仕方なく「全部、俺の好みだよ」と素知らぬ顔で答えた。実際、フルーティーな方が好みだったが、鬼塚の好みを知っているからだと、清水の前で悟られてはならない。
 黙って聞いていた清水だが、前田が山崎と話している隙にそっと隣りに近づいて来て、「住吉さんに、聞かれたんですか?」と言った。
「まあ…リサーチはしました」
 そう取り澄まして答えると、清水は探るような視線を緩めて「取り入るの、上手いんですね」と、癇に障る事を言ってから、焼酎の棚の前で立ち話をしている山崎たちの方へ行った。
 正樹は『ムカつく女!』と、腹を立てながら用意された酒を試飲したので、どちらが美味いかよく分からなかった。山崎に回すと彼女も飲みたがったので、彼女の次に清水が飲み、最後に前田が嬉しそうにグラスを受け取っていた。
 どちらが良いかと意見を聞くと、当然答えはばらけてしまったが、清水は黒龍がいいと言ったので、正樹は奥飛騨を選んだ。もうどちらでも良いという気分だった。
 山崎の彼女は、この後の食事用に珍しいスパークリング清酒を選んだ。高かったがどうしても飲みたいと言い張り、山崎が「じゃあ、五人で割り勘ね」と正樹に目配せし、正樹は不参加なのにしっかり払わされたが、文句は言えなかった。
 それぞれプレゼント用の包装をしてもらい、支払いを済ませて外へ出た。
 店の前で山崎が予約した店の場所をスマホで検索し、正樹は電話がかかって来たフリをして、断りを入れてから少し離れた場所へ移動した。スマホをポケットから取り出して、さて、これからどうしようと思いながら、ふと目を向けた地下鉄の出口から、見知った顔が出て来て息を飲んだ。
 日下部に、鬼塚だった。
 地下鉄の出口は通りの向こう側だが、デパートの明るい照明を浴びた日下部の顔がはっきり見えた。隣りを歩く鬼塚は顔は見えなかったが、身覚えのある黒いコートを着た細い背中は、見間違えようがなかった。寄り添うようにして二人はデパートの中へ入って行った。
 胸焼けしたように胃から迫り上がるものがあった。危うく手にした日本酒の箱を握り潰しそうになって我に返った。もう清水になんぞ、かかずらわっていられない。
 正樹は二人の跡を追うために、「悪い! 用事が出来た!」と山崎に向かって手を振ると、信号の変わり始めた横断歩道を全速力で駆け抜けた。銀座の目抜き通りは夜でも人通りが多い。正樹の勢いに、すれ違う人の方が驚いて避けて行く。
 何の用事があって、銀座のデパートになんぞ来たのだろうか。買い物か、食事しかないだろうが、正樹は日下部と鬼塚を一緒にいさせたくなかった。理由なんかない。ただの嫉妬だ。見つけ出して強引に割り込んでやるつもりだった。
 デパートの入り口を入ると、さすがに足を止めて辺りを見回した。一階は化粧品と宝飾品売り場など婦人物が多い。肩で息をしながら、男同士の買い物なら紳士服売り場だろうと推察し、エスカレーターを目指そうとしてまた店内を一巡して見たとき、有名ブランド店の前で立ち話している二人を発見した。近寄ろうとすると、後ろからぐっと誰かにコートを掴まれた。
「うわっ!」
 吃驚して振り向くと、酒の袋を抱えて息を切らした清水が立っていた。
「清水…さん?」
 なぜ、ここに?
 そう思う間もなく、清水は正樹の横をすり抜けた。清水が見ている先は、正樹の向かう先と同じだった。清水は無言でそこへ向かって歩いて行く。
 はっと我に返った正樹もその後を追ったが、完全に清水に呑まれてしまっていた。ひどく思い詰めた重い空気が、清水の身体を渦巻いているように思えた。
 一体、何をしようとしているのか。正樹は不安に駆られて急いで清水の前に出ると、「清水さん、食事会は、どうしたの?」と言った。
「堤さんこそ、どうしてここに?」
「俺は、用事があって……」
「私もです。そこ、どいてください」
 有無を言わさぬ迫力があったが、正樹も負ける訳にいかない。
「用なんて、無いですよね? 食事に戻った方がいい。せっかくみんなが……」
「そんなの頼んでません。私がしたかったのは買い物だけです。なのにどうして、みんなして私の邪魔をするんですか?」
 清水は興奮して甲高い声を出した。閉店が近い筈だが、まだかなりの客が残っていて、二人のただならぬ様子に注目している客もいた。
 正樹は頭の隅で、このままでは不味いと思いながらも、この場を治める手立てが見つからなかった。二人の所へ清水を行かせたくないが、このままでは引きそうにないし、清水と向かい合うために背中を向けてしまったから、鬼塚たちがどうしているのかも分からない。もう、どこかへ移動してしまっただろうかと気が気じゃない。
「落ち着いてくださいよ。邪魔って、一体何の事です?」
「邪魔してるじゃないですか! 貴方も、住吉さんも、部長も――」
「どうしたんだい?」
 清水のヒステリックな声に被せるように、間延びした声が聞こえた。
 はっとして、二人して声のする方へ顔を向けると、その勢いに目を丸くした日下部が、二人の視線を受け止めて「私がどうかしたかい?」と訊いた。
「ぶ、部長!」
 清水が口元を押さえて日下部を見詰めた。正樹も動揺したが、これだけ派手にやり合えば気づかれるだろうとは思った。でもまさか、声をかけて来るとは予想外だった。
「清水くん、恋人同士でケンカかい? 止める気はないけど、こんな往来の真ん中でやるのは、どうかと思うよ?」
 ニヤニヤしながら日下部が言った。
 正樹は『やっぱりこの人、無責任男っぱい』と思いながら、「いや、違います! 恋人なんかじゃありません」とはっきり否定すると、「そうです! ぜんっぜん、違いますっ!」と清水も負けじと否定した。
 同時に思いっきり否定する正樹と清水の腕を掴んで、日下部は「ああ、そうなの?」と、どこかとぼけた返事をしながら、フロアの隅へと移動したが、そこには先客がいて、腕を組んだ鬼塚が呆れた様子で立っていた。
「課長!」
「鬼塚さん…」
 清水は日下部の腕を振り払うようにして、鬼塚の前に立った。
「…何やってんだ、お前たちは……」
 言いながら、鬼塚の目は正樹にだけ向けられていた。視線には少し拗ねたような色があって、鬼塚も清水の事を誤解しているのかと、正樹は焦って言い訳しようと口を開いたが、「課長!」と叫んだ清水の声に邪魔された。
 男たち三人が一斉に清水を見ると、思い詰めた表情の清水が鬼塚を凝視していた。
「課長に、お伺いしたい事があります!」と迫る清水に、鬼塚は「あっ、ああ……」と返事しながら半歩後ずさった。
「課長は、男性が好きなんですか?」
「ええっ?」
 直球だった。男たちはぎょっとして、またも一斉に驚きの声を上げたが、清水は意に介さず、「だから、独りでいたいと仰るんですか?」と突っ込んで来た。
 自分と同じ質問をする清水の姿に、正樹は自分のコピーを見ているようで目眩を覚えた。
「そんな訳あるか!!」
 鬼塚は速攻で否定したが、そう答えると知っていても正樹は少し傷ついた。しかも清水は、これ見よがしに正樹と日下部の顔まで見て、勝ち誇ったように「そうですよね」と言った。
「独りでいたい理由は、別にあるんですよね。安心しました…」
 まるで胸のつかえが取れたように息を吐くと、すっかり険の取れた表情になって、買ったばかりの酒が入った紙袋を鬼塚に差し出して言った。
「二日も前ですけど、バレンタインのプレゼントです。私、課長が好きです。だから、『独りでいたい』なんて悲しい事を言わないで、私を側にいさせてください」
 まるっきりの、プロポーズだった。
 しかも、かつての恋人疑惑のある男と、恋敵と目される男二人がいる目の前で。清水の度胸と自信に、恐れ入って言葉も出なかった。
 呆気に取られて遣り取りを眺めている日下部と、鬼塚の順で視線を向けると、鬼塚も茫然とした顔で清水を見詰めていたが、正樹の視線に気づいた鬼塚は、助けを求めるように正樹を見た。
 正樹も困った。助けたくてもこの状態では、首を振るも何も全てが筒抜けでどうにも出来ず、ただじっと見詰め返すしか術がなかった。内心かなり焦ったが、正樹には鬼塚が突っぱねるだろうとの確信があった。
 暫く沈黙が続いたが、鬼塚は深呼吸すると俯いて、「清水、すまない…」と蚊の鳴くような声で言った。正樹は胸の中で安堵のため息を吐いた。
「まあ、まあ、待ちたまえよ。バレンタインの告白返しは、ホワイトデーと決まっているからねぇ」
 突然、横から日下部が焦ったように口を挟んだ。
「清水くんは、我々第三者がいる目の前で告白するくらいだから、口を挟まれるのは覚悟の上だと思うから言うが、結論は急いでないんだろう?」
 先ほどまでの間延びした感じが一切なく、割と突きつけるような強い口調だった。清水も仕事中のように姿勢を正して「はい。答えは急いでません」と頷いた。鬼塚は俯いたままその遣り取りを聞いていた。
「じゃあこれは、君の気持ちという事で、一応受け取っときましょう。ハイ、鬼塚くん」
 日下部は清水の手から紙袋を受け取ると、鬼塚に差し出した。鬼塚が仕方なくといった風情で受け取ると、日下部は鬼塚の肩をぽんぽんと宥めるように叩いた。その馴れ馴れしい仕草に、正樹はムッとしたが黙っていた。
「じゃあね、我々はこれから出かける所があるんで、お先に失礼するよ」
 そう言うと、日下部は叩いた肩を抱くようにして、さっさと鬼塚を連れ去ってしまった。清水は咄嗟に頭を下げたが、正樹は茫然と固まったまま動く事も出来ず、指を銜えて見送るしかなかった。割り込む隙も、その気力さえ残っていなかった。
 こうさせたくなくて二人の跡を追いかけた筈なのに、清水の乱入で全てが台無しにされてしまった。憤る正樹の横で、清水が「私も、失礼します…」と言った。
 正樹は横目で清水を見た。今までの勢いはどこへやら、告白で全エネルギーを使い果たしてしまったらしく、顔にも声にも生気がなかった。
「今日は、買い物に付き合っていただいて、ありがとうございました……」
 清水はそう言って会釈したが、正樹は喉が張り付いたようになって返事を返せなかった。返事がない事など気にする事もなく、清水は抜け殻といった風情でフラフラと帰って行った。
 その後ろ姿を見ていたら、清水に対する怒りは急激にしぼんでしまった。
 鬼塚に恋する気持ちは一緒なのだ。告白はしたものの、相手の返答の行方に、不安で遣る瀬ない気持ちになっているのが痛いほど分かる。
「余裕じゃん、オレ……」
 自分の方が少しは優位だと思っていなければ、同情だって出来なかったろうが、本当にそんな余裕があるだろうかと自嘲した。
 正樹は酒の包みを抱きしめたまま、誰もいなくなったフロアの隅の壁に凭れて、デパートの閉館を告げる『蛍の光』をただ茫然と聞いていた。

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