INDEX NOVEL

いとしい人  〜 My Fair Darling 〜 〈 8 〉

 鬼塚の家は、駅からほど近い住宅街の古い小さなアパートだった。
 集合ポストにも部屋にも表札がないから、部屋番号だけを頼りにチャイムを押した。インターフォンではなくただのドアチャイムだ。壁が薄いのか、外にいる正樹にも部屋で鳴っている音が聞こえた。なぜだか、ひどく緊張した。
 近くに児童公園があるのか、子どもの笑い声や遊具の軋む音が聞こえる。だが、建物からは何の気配もしない。いる筈なのに、静か過ぎて不安になってしまう。医者にでも行ったのだろうか。
 暫くして扉越しに「はい…」と訝しむような声がした。確かに鬼塚の声だった。ほっとしたものの、一瞬『宅配便です』と言おうかと躊躇して、それから素直に「堤です…」と名乗った。すぐに施錠を解く音がして、驚いた表情の鬼塚が顔を出した。
「お前…どうした? こんな時間に」
 驚くのも無理はない。今は午後四時半だ。日下部には退社後にと言われたが、あの後すぐに会社を出て来てしまった。
 日下部に発破をかけられて腹が据わったら、すぐにでも会いたくなってしまったのだ。それに、退社後なんてぐずぐずしていたら、また清水が暴走して先回りしかねないと警戒した。
「早退して来ました。入ってもいいですか?」
 言いながら、半開きの扉を強引に開いてしまうと、鬼塚が慌てて身体を引いたので、そのまま玄関へ入ってしまった。
「これ、お見舞いです。台所どこです?」
「えっ? おい、ちょっと……」
 正樹は駅前のスーパーで買った食料品の袋を挙げて見せると、戸惑っているパジャマ姿の鬼塚を追い立てて部屋の中へと上がり込んだ。
 トイレと風呂が並ぶ短い廊下を抜けると、奥は台所と六畳の和室になっていて、今まで寝ていたのだろう布団が敷かれてあった。
「日下部さんに聞いたんですよ。胃が痛いんでしょう? ほら、病人はさっさと寝てください」
 正樹の言葉で、鬼塚の疑問は氷解したようだが、驚きと戸惑いの表情が、今度は怒りと羞恥で赤く染まった。
「どいつも、こいつも、何でお前には喋っちまうんだ!」
「俺は、聞いて良かったですよ。まだ痛みますか?」
 憤っている鬼塚にはお構いなしに、顔を覗き込むようにして訊ねると、鬼塚は慌てたように顔を背けて「そんなでもない」と答えた。
「食事はとりました?」
 鬼塚は顔を背けたまま首を振った。正樹は続けて医者には行ったのか、腹は下していないのかと聞くと、鬼塚は拗ねた子どものように首だけ振って返事をした。
「医者には明日行きましょう。お腹を下してないなら食べなきゃ駄目です。台所、適当に使わせてもらいますから、鬼塚さんは寝ててください」
 強い口調で言い聞かせるように言うと、鬼塚は無言で大人しく布団に潜り込んだ。正樹はそれを見届けると、買って来た食材を冷蔵庫に仕舞いながら、部屋の中を観察した。
 六畳の壁側に大きな本棚が一架(か)とタンスが一竿、その間に挟まれるようにして、引き出しの上に大きめの仏壇が置いてあった。家具の隙間に出来たスペースは、布団を敷いたら終わりだ。狭さを軽減するためか、台所と和室を隔てる襖を取り払い、カーペットを敷き詰めてあった。
 どこかで見た事があるような懐かしさを感じるのは、部屋の作りもあるけれど、出入り口にかかったビーズの球のれんだとか、日めくりカレンダーだとか、昭和に逆戻りしたようなレトロなインテリアのせいだろう。液晶テレビとノートPCは別として、およそ趣味的な物がなさ過ぎて、三十代の独身男性の部屋と言うより、独居老人の部屋のように思えた。
 鬼塚は正樹に背を向けて横になっていた。本当に眠っているのか分からないが、声をかける気にはならなかった。もしかしたら、鬼塚は誰にもこの部屋を見られたくなかったのではないか。漠然と、そんな風に思った。
 台所はそれなりに調理道具が揃っていた。どれも使い古されて奇麗とは言いがたかったが、鬼塚が祖母と二人だけで暮していた事を思い出し、大事にしているのだろうと思うと涙が出そうになった。正樹は気を取り直してコートと背広を脱ぎ、食事の用意を始めた。
 市販品をアレンジして、しらすと青ねぎを入れた卵粥を作った。早くて簡単だから風邪を引くとよく作るメニューだ。その時は生姜も入れるが、鬼塚は胃を荒らしているので入れなかった。
 買って来たスポーツドリンクでは合わないだろうと、一緒に買って来たほうじ茶を入れようとしたが、冷蔵庫の上にあったポットが電気ポットではなく、ただの保温ポットなのに気がついて、やかんで湯を沸かしている間に鬼塚を起こそうとした。
「鬼塚さん…」
 どうやらしっかり寝入っていたようで、鬼塚は目を覚まさなかった。
 そう言えば、自分と一緒の時は寝ている事が多いなと、少し可笑しくなりながら声をかけ続けると、寝惚けているのか「ん…起きるよ、恭(きょう)兄さん…」と返事をした。
 ドキリとしたものの、さすがに二度目ともなるとそれほど動じない。それでもムカつくのは変わりないので、鬼塚の顔を片手で上からぐっと鷲掴みにした。頬を指で押すと、鬼塚の唇がアヒルのくちばしのように突き出した。
「冷めるから、寝惚けてないで、早く起きてください。俺は、そんなにお兄さんに似てますか〜〜?」
 言いながらぐっ、ぐっと、指に力を入れると、鬼塚のアヒル口がぱくぱく動いた。
「うっ、がっ!」
 鬼塚が呻きながらぱっちり目を開けたので、ぱっと手を離した。
「出来ましたよ。冷めるから起きてください」
「う…ん……」
 のっそり起き上がって鬼塚は眼鏡をかけると、自分の両頬を撫でた。ちょっと痛かったのかも知れない。正樹は知らん顔で、脇に寄せてあった卓袱台(ちゃぶだい)を布団の側へ移動させ、粥の鍋や茶碗の用意をした。
 鬼塚は何か言いたげにしていたが、正樹が「はい、どうぞ」と言うと、「…いただきます」とだけ言って粥を食べ始めた。その間に、正樹はやかんのお湯をポットに移し、ほうじ茶を入れると卓袱台に運んだ。
「俺、ご挨拶がまだだったので、いいですか?」
 仏壇に線香をあげたいと言うと、鬼塚は正樹を見詰めたあと、「どうぞ…」とだけ言った。
 正樹は仏壇の前に立つと、ローソクに火を点けて線香をあげ、お鈴を鳴らし手を合わせた。
『鬼塚さんは、俺が面倒見ますから…』
 気が早いかと思いつつ、心の中で鬼塚の家族に誠心誠意許しを請うた。礼をして離れようとした時、隣りの本棚に飾られていた写真立てが目に入った。夫婦の間に挟まれるように、高校生くらいの男の子と小学生の男の子が写っていた。
「あの写真、ご家族ですか?」
 正樹の問いかけに、鬼塚は「うん…」と頷いた。特に何も言わなかったので、正樹は仏壇のローソクの火を消すと、本棚の前に移動して写真立てを手に取った。
 手札サイズに全身が写ったものだったので、顔は小さくしか写っていないが、小学生が鬼塚だろうとすぐに分かった。驚いたのはどちらかと言うと、その隣りに並んでいる父親と思しき若い男性の存在で、今の鬼塚にそっくりだった。
 そして、高校生の男の子が、先ほど『恭兄さん』と呼んだ兄なのだろう。その顔を眺めて、確かに自分と感じが似ていると思った。母親らしき女性は、どちらとも似ていない気がしたが、奇麗で優しそうな人だった。
「堤……」
 後ろから鬼塚の緊張した声が正樹を呼んだ。嫌な予感がして返事の代わりに「お粥、美味いでしょう?」と言った。
「俺、独り暮しが長いから、料理は自信ありますよ」
 言いながら、写真立てを元の位置に戻して鬼塚の側へ行くと胡座かいた。
「ああ…美味かった。ありがとう」
 鬼塚は申し訳なさそうに小さく頭を下げた。鍋の中は全然減っていなかった。茶碗にもまだ半分残っている。
「食欲ない?」
「うん…。いっぺんには入らないから。また、後でいただくよ」
「じゃあ、六時くらいに温め直して出しますね」
「いや! 堤、もう自分で出来るから……」
「俺、今日は帰りませんから。少しずつでも、それ、全部食べて貰いますからね」
 もう帰れと続くだろう言葉を、きっぱりと拒絶した。
「もう決めたんで、何を言ってもききませんよ」
「…泊まるったって、布団ねぇぞ」
 鬼塚も正樹につられてムッとしたように言い返した。
「だったら、一緒に寝りゃあいいでしょう。付き合ってんだから」
「はあぁ?」
「別に寝るだけで、何もしやしませんよ。それに、アンタは俺と一緒でも、眠れないとかないでしょう?」
 実証済みだとばかりに言ってやると、鬼塚は赤くなりながら「だって、明日会社があるだろう!? 同じネクタイで行くつもりか?」と言うので、「アンタの貸して貰えば済む話でしょう?」と返してやると、鬼塚はぐっと詰まって口を噤んだ。
「それに、ここから俺の家まで近いから、朝一度戻ってもいいし。そんな事より、俺はアンタの身体が心配なんですよ」
「近いなら帰れよ! 心配なんて、してくれなくていい」
「いい訳ないでしょう!?」
 鬼塚が触れ腐れたように言うのを、声を荒げて叱り飛ばした。
「俺は、アンタの事が好きなんですよ! 好きな人が病気なら心配だし、側にいたい! そんなの当たり前の事でしょう? いい加減 “ 中二病 ” みたいな事言ってないで、自分の気持ちに素直になったらどうですか!?」
「中二病…って…何……」
 鬼塚は一瞬きょとんとした顔をしたが、急に真っ赤な顔になって怒鳴った。
「お前、日下部さんに何吹き込まれたか知らないが、俺は独りだって平気だし、大体、付き合うってのも、お前が一方的に決めた事で――」
「はあぁ? 今更蒸し返しますかねぇ? 日下部さんには俺の事『好きだ』って言ったんでしょう? なのに、何で俺にはそういう事言うかな?」
 言われた内容に唖然として鬼塚は口をぱくぱくさせていたが、やがて「あんの、クソじじぃ…」と呟いて片手で顔を覆った。
『ほら見ろ。やっぱり、本当の事なんて、本人の口からは訊き出せないじゃないか!』と、正樹は心の中で悪態を吐いた。日下部には内緒だと言われたけれど、どうせバラされるのなんか、あの無責任男は承知の上だった筈だ。あとで責められろと、とぼけた日下部の顔を思い出して舌を出した。
 鬼塚は卓袱台に肘を付き、その手で口元を隠しながら、つぶつぶと言い訳を始めた。
「それは…だな……俺の好きってのは、お前が言ってるのと、少し意味合いが違ってて……」
「どう違うんです?」
 分かってて、わざとらしく訊いてやった。
「どうって……」
 鬼塚は考えあぐねているのか忙しなく瞳を動かしていたが、いきなり頭をガリガリ掻くと開き直ったように怒鳴った。
「どうって、お、お前こそ、どうなんだよ? ゲイだからとは聞いたけど、だからって、どうして俺なんだよ!?」
 はぐらかそうとしているのが見え見えだ。正樹は目を眇めて鬼塚の顔を見ながら、「顔」と答えた。
「はっ? 顔?」
「そうですよ。アンタの顔に、ひと目惚れしたんです。アンタは嫌がるかも知れないけど」
 言い終わらないうちに鬼塚の顎(あご)を掴んで覗き込んだ。鬼塚は真っ赤になってその手を離そうと掴みかかって来たが、正樹の握力に敵う訳がない。至近距離から見詰め合ったまま、正樹は言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「顔の好みって、けっこう重要なポイントですよ。大抵の人間が恋に落ちる理由なんて、九十パーセントは顔だと思いますね。顔の美醜は人の好みに依るので重要性は分かりませんが、まあ、俺の場合はメンクイなんで重要でした。でも、決め手はそのあと何の脈絡もなく出て来た『面倒くせぇ』って、あのひと言です。俺はアレにやられました。『何なんだ!?』と思いましたよ。アンタはね、やる事なす事こっちの想像の斜め上を行ってるし、『変な人だな』って気になり出した時には、もう完全に惚れちゃってたんですよ。……で、アンタはどうなんですか?」
「お、俺は……」
「『好き』の意味合いが、俺とどう違うんです? アンタだって、俺の顔が好きでしょう?」
「違う。顔なんて…好きに…なってない……」
 慌てて否定する鬼塚に、正樹はため息を吐いて「じゃあ、俺のどこが『好き』だと思ったの?」と訊いた。途端に、鬼塚は口を噤んで辛そうに俯いてしまった。
「まあ別に、そんな事はどうでもいいんです。今は、アンタの好きが俺と違ってたって構わない。最初から、すぐに答えをくれとは言わなかったでしょう? 時間がかかっても、俺と同じ『好き』になればいいだけの事です。付き合って、俺という人間を知った上で、それでも好きになって貰えないなら、仕方ありません。きっぱり諦めますよ。だから、その時上手くいかなかったからって、アンタは傷つく必要ないし、すっぱり忘れてくれたらいい。もっと気楽に考えてよ……」
「そんなの…無理だろ! 好意を無下にされたら…お前だって、清水だって、誰だって傷つかない訳ないだろう? 俺だって平気じゃいられないよ!」
 五年前の女性の事を思い出しているのか、泣きそうな顔で言い募る鬼塚を安心させるように、鬼塚の顔から手を離して出来るだけ穏やかに言った。
「大丈夫ですよ。まあ、無傷って訳にはいかないけど…大抵の人間は、失恋の痛手には耐えられるように出来てます。特に、俺と清水さんに関しては、抗体が出来てるだろうから、心配いりませんよ」
 問題はアンタの方でしょうね…と、卓袱台に両肘付いて顔を覆ってしまった鬼塚と、本棚の写真を見比べて悩ましく思った。
 鬼塚が、自分の兄に恋愛感情を持っていたのは、十中八九間違いないように思う。恐らく鬼塚が思春期の頃だろう、二人の間に何が起こったのか、或は何も起こらなかったのかは、もう鬼塚しか知り得ない事だ。
 それでも、失恋の痛みにこれだけ敏感なのを見ると、鬼塚の一方通行だったか、玉砕したかのどちらかだったのではないだろうか。どちらにしろ、未だにその想いを引きずっているのは確かだし、気持ちを整理出来ないでいるのは、相手がこの世にいないからだろう。
 鬼塚が他人の恋慕を拒絶する理由が、この辺から来ているとすれば、未だ兄への想いが強くて、他の誰かを受け入れる余裕がないからだと思う。なのに、鬼塚は正樹を『好き』だと思った。それは正樹が兄に似ているが故の事で、身代わりだから『好き』の意味が違うと言いたいのだろう。
 では、それでも良いと言う正樹を拒否する理由は何か。身代わりでは正樹に対して誠実ではないからだろうか。
 違う。それは鬼塚が最初から言い続けている。正樹を本気で好きになってしまう事が怖いのだ。
 好きになって別れる事になったら、或は、兄のように死んでしまったら…。そんな怖い思いをするくらいなら、最初からないものと諦める方がマシだと思っているのだ。
 ぶっきらぼうだから淡白そうに見えるが、惚れたら一途で自分からは離れられないような、情熱的な人なのかも知れない。寂しがりやだと言うから、独りになるくらいなら『死んだ方がマシ』だと思った事もあったのではないだろうか。それを、『独りでいた方がマシ』に置き換えさせたのは、日下部や住吉がいたお陰かも知れない。
 現実的に言えば、人は寂しくて死んでしまう事などない。
 それは、人は生きて行く上で、大なり小なり幼い頃から出会いと別れを繰り返し、傷ついたり癒されたりして成長するからだ。そうして大人になるまでの間に、大抵 “ 慣れ ” という抗体が出来るから、別れに痛みを感じても、やがては耐えられるようになる。
 しかし鬼塚は、人の “ 死 ” という究極の別ればかりを経験してしまったせいで、抗体が出来ていないのだ。傷つかないために他者を拒否するのは、自己防衛なのだろう。
 それでも、人は必ず誰かを好きになる。そういう生き物なのだ。
 いくら別れに慣れるとは言っても、誰だって独りになる寂しさも怖さも知っている。進化する筈の人間が、そうした感情を捨て去らないのは、きっと、また誰かを好きになるために必要だからだ。もちろんそれで、愛する人を失った悲しみが消えるものでは無いだろう。けれど、また誰かを愛し、愛される事で、その悲しみを乗り越えて行く事が出来るのだ。
 正樹はここまで考えて、さっきから全てを拒否するように動かない、鬼塚の細い身体を眺めてため息を吐いた。
 鬼塚の考えを変えさせるのは、日下部が言うほど簡単な事ではない。始めは、どうやって鬼塚を籠絡するか、そればかり考えていた。けれどもう、正樹は考えるのを止めてしまった。
 ただ、自分の気持ちをぶつけるだけだ。それで駄目なら、諦めるしかないと腹を括った。
「まあ…どのみち、俺も清水さんも、このままだと失恋しちゃう事になるんですよね。ねえ、鬼塚さん、俺たちがアンタを諦めて、また新しい恋を始めるにはね、完全に失恋しないと駄目なんですよ。だからアンタは、俺たちを受け入れられない、本当の理由を言わなきゃいけないんだ」
 正樹は鬼塚に近づくと耳元で囁いた。
「アンタ、好きな人がいるでしょう? だから、他人の好意なんて受け入れられないんだ」
 てき面だった。鬼塚は、ばっと顔を上げ、瞠目したまま正樹を見詰めた。不意打ちのせいか、精神的に消耗しているからか、隠す事も誤摩化す事も出来ないらしかった。
「知ってますよ。誰だか言ってあげましょうか?」
 ビクリと震えて見る間に顔色を無くしていく鬼塚を尻目に、正樹は立ち上がると本棚から写真立てを取って戻った。鬼塚は近づく正樹から逃げようとしたが、立ち上がる余裕はなく、座ったまま後ろへ後ずさった。正樹はその後を追って鬼塚を壁際に追い込んだ。
「アンタの好きな人は、この人でしょう?」
 兄の姿に指を当てて写真立てを突きつけると、鬼塚は両手で耳を塞ぎ、立てた膝に頭を押し付けて顔を隠した。正樹は構わず、手で塞いだ耳元で大きな声を上げた。
「認められないんですか? 兄弟だから? 普通じゃないから? 大丈夫ですよ。俺なんか、男にしか欲情しないホモですよ。それに、恋をしてる人間なんて、みんな普通じゃないんだから。昔から言うでしょう? お医者様でも草津の湯でもって。病気なんですよ。昨日の清水さんなんか、すっげーアブナかったでしょう? だから、アンタが自分の兄貴を好きだからって、おかしな事じゃないんですよ! いい加減、認めたらどうなんですか?」
「だったら、何なんだよ!!」
 鬼塚は耐えられないと言った調子で叫んだ。
「認めたからって…何になるんだよ! もう、兄さんは、いないのに……」
 鬼塚の声は怒りに震えていた。正樹を睨む奇麗な形の瞳は、うさぎのように赤くなっている。
 そうだ。怒ればいい。面倒くせぇと呟きながら我慢などしないで、全部吐き出してしまえ。
「そうです。もう、いないんですよ。だからって、忘れろなんて言わない。好きなままでいい。だけど、アンタは認めなくちゃいけないんです」
「な、にを……?」
「もう、いないから、寂しいんだって!」
「違う…」
「違いませんよ。寂しいんです。だから、『もう独りになりたくない』んでしょう?」
「違う!」
 悲愴な面持ちで鬼塚は首を振り続けた。
 自信たっぷりに迫りながら、全てはハッタリ。当てずっぽうだった。別に、鬼塚の気持ちと違ってたって関係ないのだ。正樹はただ、鬼塚自身に『寂しい』と認めさせたかった。
 独りが寂しいのは鬼塚だけじゃない。正樹だって、あの日下部ですら孤独を恐れている。独りで平気な人間など、どこにもいないのだ。だから我慢したり、意地を張ったりしないで、差し出すこの手を素直に握って欲しかった。
 だが、相手は何せ中学生で成長が止まったみたいな鬼塚だから、この意地っ張りは無理にでもねじ伏せないと、認めないだろうと思ったのだ。これが吉と出るか凶と出るか、一か八かの賭けだった。
「違わない! アンタ、俺に訊いたでしょう? 『寂しくないか』って。ええ、独りは寂しいですよ。だから俺は、アンタを好きになった! 『面倒くせぇ』って呟くアンタをね。俺もアンタに訊きたかった! アンタは、本当に独りで平気なんですか? 寂しくはないんですか?!」
「…さ……」
 鬼塚は震える手で縋るように正樹の胸ぐらを掴んだ。
「さび…し…い…」
 ひと声絞り出したあと、「寂しいよっ!」と、爆発したように怒鳴った。
「寂しいに決まってるだろ!! 独りでなんて、いたくねえよっ! チキショー! 馬鹿野郎っ!」
 正樹の胸を拳で叩きながら、子どものような罵詈雑言と、「寂しい」と繰り返して泣き喚いた。
「みんな、俺を置いて行きやがって! 独りにしやがって、馬鹿ヤロー〜〜」
 絞り出すような叫びに、自分で追い込んでおきながら正樹の方が耐えられなくなって、鬼塚の頭を自分の胸に抱き込んで慰めるように頭を撫でた。
 鬼塚は抱き込まれて叩いていた手が自由にならなくなると、もう片方の手を正樹の背中に回して何度か叩いたが、そのうち興奮より先に息が切れたようで、はあはあ肩で息をしながら正樹のワイシャツをぎゅっと握りしめた。
 ただ息をするだけで静かになった鬼塚の、波を打つ薄い背中を撫でながら、正樹は心の中で『無理矢理言わせてごめんなさい』と謝った。
「俺も、寂しいです。だからアンタと一緒にいたい。ずっと、アンタの側にいたい。俺、アンタより先には、絶対死なないから。浮気なんてしないし、一生大事にする。だから、俺と一緒にいてください……」
 正樹は鬼塚の髪に口づけて告白した。鬼塚が多少自分に気があるとは言え、これだけ追いつめたのだから拒否される可能性もある。賭けの結果がどう出るか、祈るような気持ちだった。
 鬼塚は正樹の胸に顔を押しつけたまま、無言で呼吸を整えていたが、暫くして「面倒くせぇな…」と呟いた。
「えっ?」
 聞こえてはいたけれど、思わず聞き返した。すると、鬼塚は本当に面倒くさそうに、「面倒くせぇから、一緒にいてやる…」と言って、目を閉じてしまった。
「鬼塚さん……」
 鬼塚らしい返事だと苦笑して、ほっとしながら細い身体を抱きしめると、その身体が急に重く感じた。慌てて様子を窺うと、喚き疲れたのか鬼塚は抱きついたまま寝息を立てていた。
 酔った時もそうだったが、意識のない身体は重いのである。座った状態で抱きつかれているから起き上がる事も出来ず、正樹はさきほどの鬼塚のように、座ったまま足の力だけで後ずさりして、鬼塚の身体を布団まで運んだが力尽き、鬼塚を抱いたまま一緒に横になって天井を見上げた。
「疲れた……」
 こんな疲れた告白は初めてだと思いながら、大きく息を吐き出した。
 静かだった。古い目覚まし時計の規則正しい秒針の音と、すぐ側の鬼塚の寝息だけしか聞こえない。自分の住む高円寺みたいに、電車の走る音もしなければ、酔っぱらった若者たちの叫び声も聞こえない。静か過ぎて、自分はここでは眠れないかも知れない。
 日が暮れて、ベランダの窓から日差しが消えて行く。見上げている天井が、玄関の方から徐々に暗くなるのを眺めているうちに、ジワジワと胸の奥から込み上げるものがあった。嬉しさと、同じくらいの切なさ。
「はは、はははは……」
 可笑しくて笑った。笑いながら涙が溢れたが、どうしてかは、自分でも分からなかった。
 自分の胸の上で安らかな呼吸を繰り返す、鬼塚のいとしい身体を抱きしめて、正樹は泣きながら暫く笑い続けていた。

「では〜ただ今より、バレンタインデー特別企画と致しまして、三葉シャッター営業部と経理部の親睦会を開催致しまーす。かんぱ〜い!」
 バレンタインデーの午後七時。
 会社近くの居酒屋に営業部十一名、経理部十三名という大人数が集まり、住吉の乾杯の音頭で親睦会は始まった。
 掘りごたつ式の座敷に、経理部の女性社員と営業部の男性社員が向かい合って座る図は、さながらお見合いパーティーだと正樹は苦笑してしまった。
 実際、自由参加なのに独身者ばかりが集まる結果となり、そのため幹事の正樹と住吉は席から閉め出され、同じ座敷とは言え隅っこの六人がけの席で、集団お見合いを眺める羽目になった。
 まあそれでも、ずっと意気消沈気味だった前田が、可愛い女子社員と組み合わせて貰ったお陰で、すっかり元のテンションを取り戻しているし、前田から散々清水の悪口を聞かされて辟易(へきえき)していた山崎も、肩の荷が下りたような晴れやかな顔で彼女と話しているから、これでも良しとするかと、微笑みながら皆の様子を眺めていたが、横から「…で、どうなったのかな〜」と間延びした声がして、一気に気分が急降下した。
 正樹の隣りにはなぜか日下部がいて、住吉との既婚アダルト組に挟まれているのだ。まさか、こんな事になろうとは、正樹だって居酒屋に来るまで夢にも思わなかった。
 欠席と聞いていた日下部は、正樹たちが到着する前からちゃっかり居酒屋の座敷に鎮座していて、「スポンサーになってあげようと思ってね」のひと言で参加権を獲得し、正樹を取っ捕まえたのだ。
「今日は朝から、君たちの事が聞きたくて聞きたくて、仕事が手に付かなかったよ〜」と、日下部はニヤニヤしながら正樹の顔を覗き込んで来る。
「何で俺が、あなたに報告しなくちゃならないんですか?」と突っぱねると、わざとらしく肩を竦めて「それは無いだろう?」と言った。
「君には色々と情報提供してあげたじゃないか。私は橋渡ししたつもりなんだけどなぁ。ねぇ、住吉くん?」
「そうですねぇ。堤くんが部長に話してあげる義務があるのか知りませんが、私は、知る権利があると思いますよ。ねぇ、堤くん?」
 左右から交互に詰め寄られ、正樹は下を向いてビールのグラスを握りしめた。
 日下部には勝手にお節介をやかれただけだし、まあ、多少は助かったけれど、存在がムカつくので無視する事にする。だが、住吉の意見は否定出来ない。確かに協力して貰った。しかし、どこまで話していいものやら、自分でも分からなかった。適当に誤摩化そうとしても、横から日下部に突っ込まれれば、ゲイだとバレてしまうだろうし。と言うか、もうバレているだろうけれど……。
「今日、ずーっと鬼塚くんを観察してたけど、普段とちっとも様子が変わらないから、見てても面白くなかったし。それに引き換え、清水くんはソワソワしちゃってさ、どうしたんだろうね、アレ〜」
 正樹の懊悩(おうのう)を尻目に「気になって眠れなくなっちゃうから、わざわざ聞きに来たんだよ」と言う日下部が本気で憎らしかった。
 思わず露骨に睨みつけると、住吉が「まあ、まあ」と宥めるように正樹のグラスにビールを注いだが、「私もちょっと気になったんだけどね…」と聞きたそうにソワソワしている。正樹はため息を吐いて、ぐっとビールを呷った。
「それは、鬼塚さんが清水さんを食事に誘ったからですよ」
 だから今頃、清水は鬼塚と二人きりで会っている筈だ。
「ええっ? そうなの!?」
 驚いた二人が同時に叫んだものだから、ステレオ状態で正樹は慌てて耳を塞いだ。
「何で、そうなるの?」と、日下部が純粋に疑問をぶつけて来たので、「バレンタインデーだからでしょう」と、正樹は肩を竦めて白(しら)を切った。だって、言える訳がない。ホワイトデーを待たずに、清水のプロポーズを断わるためだなんて。
「それで、いいの? 堤くんは」
 遠慮がちに聞く住吉に、正樹は「まあ、順番がありますからね。デートくらい譲ってあげますよ」と言うと、「男前〜」と返されて苦笑いした。
 はっきり言って、断ってくれるためだと分かっていても、二人きりにさせるのは嫌だった。本当は付いて行きたかったが、それだと鬼塚を信用してないみたいだし、ここは百歩譲って、今晩鬼塚の部屋を訪ねる約束をした。
 昨日、あれから鬼塚の胸の内を聞かせて貰った。その上で、恋人として正式に付き合う事になったのだから、正樹は鬼塚を信じて我慢しないといけない。しかし、いくら恋人になったとは言え、恋する男(ゲイ)にとって自分以外の異性、特に恋敵と会わせるなんて、かなりキツいものだ。
 正樹の苦笑いを余裕と見た住吉と違い、日下部は正樹のやせ我慢を見抜いているのか、ニヤニヤしながら美味しそうに日本酒の杯を傾けた。その顔に無償に腹が立って、コイツには絶対何も教えないと、心に固く誓いながら昨夜の事を思い出していた。
 あの後、寝入ってしまった鬼塚を起こしてお粥を食べさせたが、正樹にも一緒に食べるように勧められ、二人で小さな食卓を囲んだ。
 正樹は気まずくて堪らなかった。胃痛の鬼塚に追い討ちをかけてしまった訳だし、奇麗な目元がまだ少し赤く腫れているのが見ていて辛かった。けれど、鬼塚の方はどこか吹っ切れたようにさばさばしていて、気まずさに黙りこくる正樹とは逆に、無口な筈の鬼塚がぽつりぽつりと自分から話した。
 前の晩は考え込んでいて殆ど眠れなかったとか、正樹がいると何でかよく眠れるとか、たわいもない内容だったが、素直な言葉で自分の気持ちを語る鬼塚に、正樹の方が戸惑ってしまう程だった。
 だから、どうでも良い会話の途中で、「兄の事、いつかは話そうと思うが、今はまだ…」と項垂れた鬼塚に慌てふためいてしまい、思いっきり首を振って「いつでもいいです!」と答えてしまって、後から少し後悔した。
 鬼塚は「ありがとう…」と言って微笑んだが、すぐに思い詰めた顔をして、「一つ、聞いてもいいか?」と言った。
「お前、いつ…気がついたんだ?」
 いつ、実の兄を兄弟以上に想っていると気づいたか。正樹は少し躊躇って、鬼塚を傷つけないように言葉を選びながら答えた。
「『辻村』で酔ったあなたを連れ帰った時です。あなたは寝惚けてて覚えてないと思いますけど、俺をお兄さんと間違えてキスを強請ったんですよ。それから、あなたの俺を見る時の顔つきで、何となく “ そう ” なんだろうなって……」
 説明している途中から、鬼塚は居たたまれないという顔をしていたが、「うん…」と頷いて、今度はあっさりと認めてしまった。
「間違えたんだと思う。三年前にお前が中途採用で入って来て、初めて喫煙室で見た時から、似てる…と思ってた。顔だけじゃなく、雰囲気も。それからずっと、お前の事を見てたから」
 さすがに複雑な心境だった。それでも、最初から自分に好意を持ってくれていたのだから、切っ掛けは何であれ嬉しいと思う事にした。
「喫煙室で、声をかけてくれたら良かったのに」
 “ たられば ” だけれど、そうしたら、つぶかって大事な形見の眼鏡を壊してしまう事もなかっただろうし、清水に邪魔される事もなかったのではないだろうか。
「見てるだけで良かったんだよ。声をかけるつもりは無かった」
 目を伏せて口元だけで寂しそうに微笑む鬼塚に、切なくなって正樹は鬼塚の手を握った。
「これからは、心置きなく眺めてください」
 そう言って笑いかけると、鬼塚も可笑しそうに笑った。
「俺、お前をずっと見てたけど、付き合って欲しいと言われた時は、正直、本当に困ったんだ。これまで、人とまともに付き合った事もなかったし、兄を好きだったけど、当時はまだ子どもだったから、自分でも漠然とした感じだった。だから、自分ではゲイではないと思ってた。兄への気持ちが  “ そっち ” なんだって、お前に会ってから今更のように意識した事もあって、どうしたらいいか分からなかったんだ。とにかく…疎いんだよ、その手の事に。だから清水の気持ちも、日下部さんや周りは薄々知ってたらしいのに、俺は言われるまで全然分からなかったから……」
 ちょっと胃に来た…と、恥じ入る鬼塚の手を慰めるように握りしめると、鬼塚は何かを決意したような顔で正樹に言った。
「明日、清水には断ろうと思ってる」
「えっ?」
「日下部さんに、ホワイトデーまで答えは保留にされたけど、俺の気持ちは決まっているから、ズルズル長引かせるのは、清水に悪いと思うんだ」
「そりゃ、断って欲しいですけど…何て言うつもりですか?」
 嫌な予感がした。
「好きな人がいるから、その人以外は考えられないって」
 やっぱりだ…と、内心慌てた。この人、極端過ぎる。
「それ、相手が誰だか絶対聞かれると思うんですけど、まさか、言うつもりじゃないですよね」
 と言うか、言わなくても俺だとバレるに決まってるんだけど、と咎めるように言った。
「言ったら駄目か?」
 窺うように覗き込まれ、今までとは逆に、正樹が真っ赤になって狼狽えた。正樹への気持ちを認めた途端、鬼塚は開き直ったような潔さがあって、正樹の方がたじろいでしまう。
「駄目ではないけど、ゲイだって告白する事になる訳ですよ? 清水さんが、それを言いふらさない保証はないし、下手すると会社に居づらくなりますよ?」
 嫌な事を言うけれど、人の口に戸は立てられない。おまけに同じ会社の社員が同性愛の関係だなんて、冗談ではなく会社を追われる可能性がある。カミングアウトとは、それほどリスクが高く覚悟が必要な事なのだ。
「…そうだな。俺はともかく、お前にも迷惑がかかるんだよな…」
「ああ、いや、それは互い様ですけど…。『好きにはなれない』じゃ、駄目ですか?」
「それで納得してくれるならいいけどな。お前、俺がそう言ったら、納得して諦めるか?」
「いいえ…」
 なんで俺に振るかなとドキドキしながら否定した。
「だったら、俺は何と言って断ればいい? 大体、お前が言ったんだぞ。すっぱり失恋するには、諦められる理由が必要なんだって」
 非難がましい目つきで言われ、「そりゃ、言いましたけど…」と口籠ると、「清水はお前が思うほど、性格悪くないから大丈夫だと思うがな…」と呟かれて、さすがにちょっとムッとした。
「そこまで言うなら、好きにすればいいでしょう。でも、覚悟はしておいてくださいね」
 眼鏡屋まで手を引いて行ったとき、世間の目を気にしていたのは鬼塚の方だった。なのに、相手が清水だからと気を許して、痛い目見ても知らないぞと、つい強い口調になってしまった。
 鬼塚は、はっとして困ったように口を噤んでしまったので、正樹はすぐに言い過ぎたと謝罪した。
「すいません…。自分たちの事なのに、あなたにだけ負担をかけるような言い方をしてしまって。やっぱり、断るのはもう少し先にしませんか? 俺も、良い断り方を考えますから」
「いいや…俺こそ、すまん。ちゃんと断るし、お前の名前を出したりしない。俺が隠れホモだって告白するから、大丈夫だ。もし、噂になってしまったら、俺は会社を辞めてもいい。覚悟するよ」
 鬼塚は正樹の手を握り、真っすぐ目を見て言い切った。そのあまりの男気に思わずクラリとしてしまい、正樹は何も言えなくなった。だか、少し自棄になっているのではないかと心配にもなった。
「あの…鬼塚さん」
「うん?」
 赤かった瞳は奇麗な色を取り戻して、正樹をじっと見詰めた。途端に胸がドキドキした。惚れた相手に見詰められる程、胸が高鳴るものはない。
 こんな気持ちは何年振りだろうと思いながら、「俺の事、好きですか?」と聞いた。
 鬼塚は瞠目し、さっと顔を逸らすと、ぶっきらぼうに「ああ…」と答えた。
「どこが好きなの?」
 急に冷たくなった鬼塚の態度に、別の動悸が混ざった複雑な胸中で、さっきは答えてくれなかったよねと恨めしく思った。鬼塚は相変わらず少しそっぽを向いていたが、「前向きなところ」と即答されて拍子抜けした。
「へっ?」
「俺と違って、前向きで自分に自信があるところだよ。あと、親から絶縁されて『寂しい』って、言っただろう?」
「言いましたね……」
 それは、後ろ向きな意見だと思うが…と首を傾げた。
「そんなお前なら、俺の気持ちを分かってくれそうだなって、思ったから……」
 好きだと思ったと、小さな声で答えた鬼塚を、正樹は思わずまじまじと眺めてしまった。
 そっぽを向いているのは、頬が赤いのを見られないための抵抗で、恥ずかしさに伏せた睫毛を振るわせる姿は、とても三十過ぎのオヤジとは思えない可憐さだった。
 さっきの毅然とした男らしい鬼塚も、格好良くて惚れ直したが、こちらの方が断然好みだ。
「キスして、いいですか?」
 思わず興奮して鼻息荒く言うと、鬼塚はぎょっとしたように振り返り、すぐに首まで真っ赤に染めて、「もう、面倒くせぇなぁ! いちいち聞くなよ…」と唸った。
 正樹は『出たよ、“ 面倒くせぇ ” 』とクスクス笑いながら、鬼塚の眼鏡を外させた。鬼塚は一瞬怯えたような表情を浮かべたが、正樹は安心させるように微笑んで、鬼塚の頬を両手で支えゆっくり顔を近づけた。
「好きですよ」
 言いながら、優しく触れるだけのキスをした。
 もっとすごいキスも無理矢理してしまっているけれど、もう焦る必要はないのだから、ゆっくり大事に進みたかった。
 すぐに唇を離すと「俺も…」と、鬼塚が答えてくれた。
 やっと言ってくれた…。そう思ったら感極まって涙ぐみそうになり、顔を見られないよう鬼塚の身体を抱きしめると、鬼塚も細い腕を回して正樹の背中を抱きしめてくれた。
『あぁ…もう、堪らん!!』
 その時の優しく背中を撫でてくれた感触が、今も背中に残っているようでゾクゾクした。
 暫く忘れられないなと、思わずため息を吐くと、耳元で「あ〜思い出し笑い! やーらしーいな〜」と間の抜けた声が聞こえた。
 はっとして目を開けると、顔の両側からニヤニヤした視線を感じて、顔から火が出そうになった。
 そうだ、親睦会の最中だった。この状況で、我を忘れて回想に耽ってしうとは何たる不覚。
「その顔を見たら、訊かなくても良い事があったと想像がつきました。まっ、とにかく、おめでとう!」
 住吉におめでとうと連呼されながら注がれたビールを、正樹は自棄になって一気に呷った。冷やかされてむかっ腹が立つのに、それを嬉しいと思ってしまうのだから、自分も相当おめでたい。
「俺、酌して来ます!!」
 グラスを空けると、これ以上恥ずかしい事を訊かれないように、正樹はそそくさと妖怪たちの元を逃げ出した。
 背中で二人の笑い声を聞きながら、幸せってこんな感じなのかなと、また独りでに笑顔を浮かべていた。もちろん、頭の中でいとしい人の顔を思い出しながら。

 (了)


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