INDEX NOVEL

いとしい人  〜 My Fair Darling 〜 〈 5 〉

※ 性描写があります。未成年の方はお読みにならないでください。

 翌朝、と言っても昼近くに、鬼塚は目を覚ました。まだ酒が残っているのか暫くぼうっとしてから、身体を反転して手で枕元を探った。どうやら、いつも枕元に眼鏡を置いているのだろう。だが、いくら探しても眼鏡は見つからない。
 それはそうだ。眼鏡は正樹が鬼塚のスーツの内ポケットに仕舞ったから、ある訳がない。いつ気がつくかと黙って観察していたが、一向に自分の存在に気づいてくれないので、正樹から声をかけた。
「そこには、ありませんよ」
 正樹の声に驚いた鬼塚は飛び起きて、見えない目を思いっきり細めて正樹を見詰めた。それから、辺りをキョロキョロ見回して両手で頭を抱えた。
「…俺は……」
「お店で酔っぱらって寝ちゃったんです。それで、俺の家に運びました。鬼塚さんの家(うち)、知りませんから」
「…それは、悪かった……」
 鬼塚は蒼白になると、俯いて頭を掻きながら謝罪した。
「頭、痛いんですか? 二日酔いした?」
「…いや、痛くはない。まだちょっと、酒が残ってるが……」
 あれだけ飲んで二日酔いにならないなら、やはり強い方なのだろう。そう言えば、息も昨日より酒臭くない。胃は弱くても肝臓は丈夫らしい。感心しながら「昨日の事、覚えてますか?」と聞くと、鬼塚の肩がびくりと震えた。俯いたままなので、はっきりした反応が分からない。
「全く、覚えてないんですか?」
「…覚えてる」
 小さな声だったがはっきりと言い切った。
「じゃあ、何でこうなってるか、分かりますよね?」
 正樹は鬼塚の体勢が整わないうちに攻略に出る事にした。知りたい事は山のようにあるが、物には順番があるのだ。まずは鬼塚の懐深くに入らなければ、胸にあるものは聞き出せないだろう。
「なんで、こうなってる…か?」
 鬼塚は言われた意味が分からないらしく、戸惑ったように小さく鸚鵡(おうむ)返しに呟いて、次の瞬間「はっ!」と息を飲んで自分の身体を抱きしめた。
「なっ、なんで? どうして裸なんだよ?!」
「だから、昨日、飲み屋で言ったでしょう? 俺はゲイなんで、あなたと恋人として付き合いたいんです」
 正樹は心中で舌を出した。昨日はそこまで伝えられなかったが、どさくさに紛れてそういう事にしてしまった。
「だ、だからって、いきなり、しないだろっ! 俺は、合意した覚えなんかないぞ!!」
 鬼塚はベッドの上に正座して、なぜか股間ではなく胸を隠すようにして涙目で抗議した。正樹はおかしくて笑いそうになる口元を押さえて真実を教えた。
「…してませんよ」
「へっ?」
「してません。意識の無い人を襲ったりしませんよ」
「じゃあ、なんで裸なんだっ!」
「服がシワになるから脱がせたんですが、自分のを洗濯するついでに、洗える物はみんな一緒に洗っちゃったんですよ。もう洗濯機の中で乾いてると思いますよ」
 それを聞くと、鬼塚は拍子抜けした顔をして、今更のように真っ赤になって俯いた。
「…せめて、Tシャツくらい、貸してくれ」
「そうですね…すいません。つい、願望が現れちゃって。あなたとこうして抱き合いたいと思っているから……」
 言いながら鬼塚の腕を取って引き寄せた。
「ちょっ、離せ!」
 軽い身体は簡単に正樹の胸に抱き込まれ、鬼塚は慌てて腕を振りほどこうともがいたが、体力維持のためと半分は趣味で筋トレしている正樹の筋力に、がり痩せの鬼塚が敵う筈がない。酒が残っているのもあってか、すぐに肩で息をしはじめた。
「そんなに嫌がらなくてもいいでしょう? 迷惑料代わりに抱かせて貰っても、罰は当たらないと思うけどな?」
「嫌に決まってんだろ! 迷惑料って何だよ?」
 体力はなくても口は減らないと見えて、聞き捨てならないとばかりに言い返して来た。
「昨日の払いは誰がしたと思ってるんですか? タクシー代もね。それに、ここまで担いで来たのも俺ですよ? この間の礼もまだして貰ってないのに。可哀想だなぁ、オレ……」
 耳元で、これ見よがしに言ってやると、鬼塚の動きがピタリと止まった。
「悪い……」
 素直に謝られて苦笑した。てっきりいつものように「そんな事を頼んだ覚えはない」とでも言うかと思っていた。
「昨日の払いは全額出すから。タクシー代も。迷惑料はもちろん、この間の礼も合わせて、お前が欲しい分だけ金を払うよ……」
「俺は、金が欲しい訳じゃありませんよ」
 その言われ方では、まるで恐喝しているみたいじゃないかと、ぴしゃりと否定した。
「じゃあ、どうしたら……」
 鬼塚が困ったような声を出したので正樹は苦笑を深めた。策略を廻らせるのは好きだが鬼畜な訳ではない。
「だから、さっきから言ってるじゃないですか。付き合ってくださいって。俺との事を真剣に考えてください」
 懇願するように言うと、鬼塚は深く首を垂れてポツリと呟いた。
「…それは、駄目だ……」
「なぜ? ホモじゃないから? インポだから? でも、それは嘘でしょう?」
「嘘じゃない。俺は……」
 鬼塚は言い辛そうに口籠り、それから意を決したように口を開いた。
「いい歳をして、男どころか、女とも…出来なかったんだ。もともと性欲がそんなにないし、いざって時にちゃんと機能するのか、自分でも分からない」
「じゃあ、今、試して見ればいい」
「えっ?」
 驚く鬼塚の頭を抱えて上向かせた。鬼塚が見えると言った位置で見詰め合う。鬼塚は目を見張り、すぐに頬が紅潮した。そこには恥ずかしいからだけではない、かつての恋人たちも浮かべていた見覚えのある表情が読み取れた。
 昨夜の寝言を聞いていなければ、ぬか喜びしていたところだ。それは自分に似た誰かの幻がさせているだけだ。正樹は自分の感の良さを呪いながら言った。
「あなた、俺の事、嫌いじゃないでしょう?」
 正確に言えば、『俺の顔、嫌いじゃないでしょう?』だが、言いたくなかった。
 鬼塚の瞳が動揺したように小刻みに動いた。どんどん赤みを増す顔を見ながら、前髪を切らせたのは失敗だったと自分でも後悔した。この人は、嘘が吐けないのだ。顔を隠すのは筒抜けの感情を隠すためでもあったんだろう。
『俺の顔は、そんなに “ 兄さん ” に似てますか?』
 喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。代わりに「好きでしょう?」と言いながら口づけて、そのまま押し倒して鬼塚の身体に乗り上げた。
 身体の自由を奪われた鬼塚は目も唇も硬く閉じて抵抗したが、唇を吸い上げながら舌先で舐め続け股間にも手を伸ばすと、途端に身体が震えて悲鳴を上げた。
「んんっ、……やっ、め……」
 開かれた口の中へ舌を潜り込ませ、怖じけた舌を絡め取った。経験がないからこんな濃厚なキスは初めてなのだろう。驚いて目を白黒させると正樹の肩に置いた指にぐっと力が入った。絡めた舌を優しく愛撫してやると、喉の奥から「んっ、んっ……」と喘ぎが漏れる。
 初めて感じる他人の舌の感触に意識が奪われているせいか、股間の防備が手抜かりになっていた。その隙に、優しく掌に包み込んでやんわりと揉んでやった。鬼塚のそこは反応しているものの、まだ濡れてはいなかったから、傷つけないようマッサージするように揉み込んだ。『機能するかわからない』と言っていたそこは、正樹の手の中であっと言う間に勃起した。 
「…大丈夫、みたいですよ? 男の俺に触られても立派に勃ってますから、俺とはセックス出来ると思いますよ」
 ゆっくり味わうように唇を離すと、勝ち誇ったように言ってやった。
 自分では自覚がないだけで、あんたは立派なゲイだ。女には興奮しないから、今まで出来なかっただけだ。
 そうは思っても、敢えて口にはしなかった。最初から自分の嗜好を受け入れられる人間はそうはいない。鬼塚にショックを与えたくはなかった。
「…自然、現象……」
 鬼塚が悪あがきのようにそう言ったので、「あり得ないでしょう?」と鼻で嗤ってしまった。
 身体は精神と直結している。正樹だって嫌いな相手には勃起さえしないのに、心に忠実な鬼塚なら尚の事、何とも思っていない相手に触られて勃起する身体なら、インポだと悩んだりしてない筈だ。
「俺だってね、あなたが俺の事を、生理的に受け付けないとか、嫌いだって言うなら諦める事も出来る。でも、俺の顔を物欲しそうな顔で見たり、俺に触られて勃起するんだから、ただ駄目だと言われて『ハイそうですか』なんて、簡単に引き下がれませんよ。俺を受け入れないなら、納得できる理由を教えてください」
 ただ、嫌いだと言うのは受け付けない。そう詰め寄ると、鬼塚は辛そうな顔をして目を逸らせた。
「…もう、独りになりたくないんだよ」
「えっ?」
 意味が分からない。聞き返すと「お前、モテるんだろう?」と言われた。昨日も飲み屋で聞かれたなと思いながら、「…ええ、まあ」と答えると、「だからだよ」と面倒くさそうに言った。
「え〜っと、待ってください…。それって、俺がモテるから、あなたと付き合っても、またすぐ誰か新しいのが出来て、あなたを独りにするから、最初から付き合わないって事…ですか?」
「そうだよ。だから、好きとか嫌いとか関係なく、俺は誰とも付き合えない」
 何だそりゃと、虚をつかれて一瞬絶句したが、まるで中学生みたいな恋愛観だと思ったら、おかしくなって吹き出してしまった。鬼塚はぎっと睨みつけて、「わかったら、こういう事は止めてくれ」と正樹の胸を押し返した。
 しまったなと内心焦った。押しに弱いからと言って、舐めてかかってはいけない。この人が本気になったら、眼鏡屋で別れた時のように完全な拒絶を食らう。
「それじゃ、納得出来ません」
 正樹は身体を押し付けて鬼塚の抵抗を止めた。
「だってそうでしょう? まだ付き合ってもいないのに、俺が浮気するとか決めてかかられたら、堪ったもんじゃない」
「お前、モテるって言っただろう?」
「…言いましたね」
「今まで独りだった訳ないよな? 彼氏がたくさんいたんだろう?」
 嫌な流れだと思った。正樹は慎重に口を開いた。
「たくさんはいませんが、確かに、過去に恋人として付き合った人はいます。今はいませんよ。だからあたなを口説いてるんです。いつだって本気で恋して来たし、誠実に付き合いました。結果、別れる事になりましたが、互いに納得して出した答えです。だけど、ずっと続けて行きたと思っていたし、始まる前から別れる事なんて考えたりしませんよ?」
「でも、別れた。誰とも続かないんじゃ、俺とだって別れる事になるかもしれん。俺は、お前の過去の彼氏として、名を連ねる気はない」
「続くか続かないかなんて、付き合ってみなければ、誰にも分からないでしょう?」
「ああ、分からないな。そんなにムキにならなくても、別にお前を責めてる訳じゃない。それが人間だ。だから俺は、最初から誰とも付き合わないんだ」
 苛々した。こんな会話、いつまで続けても不毛な堂々巡りだ。
 あまりの頑さに切れそうになったが、思いとどまった。三十五歳になるまで、この中学生みたいな恋愛観に固執させる何かが、過去の鬼塚にあったのだろうと想像するのは簡単だった。
 人の考えを変えさせるには、論理より互いの信頼がものを言う場合が多い。論破されると感情が邪魔をして、素直になれないからだ。ただ、信頼を得るには時間が必要で、今はこの不毛な会話を強引にでも終わらせた方がいいと思った。
「鬼塚さんには確固たる理由かも知れませんが、あなたも認めた通り、いつまで続くかなんて未来の話は、誰も証明できない訳ですから、俺を納得させる理由にはなりません。よって、俺はあなたが何と言おうと、今日から恋人として側にいさせていただきます!」
 そう宣言すると鬼塚はぎょっとした顔をして、「何、勝手に決めてるんだよ!」と怒鳴ったけれど、「あなたは俺に、借りがあるんですよ?」と迫ると、ぐっと口を噤んだ。
「そんな怖い顔しないでください。何もいきなり身体の関係なんて強要しませんよ。まずは、一緒に食事に行ったり飲みに行ったり、渓流釣りにでも行きましょう。そして、俺がどんな人間か、よく知った上で答えをください」
 鼻先の触れ合う位置で鬼塚を見詰めながら心を込めて伝えた。鬼塚は赤くなって慌てたように口を開いたが、およそ肯定ではないだろう答えを聞く前に、正樹はキスでその口を封じた。
 鬼塚はまた舌を入れられると思ったらしく、目と口を閉じて抵抗した。正樹はすぐに唇と離すと、注射を我慢している子どもように顔をしかめている鬼塚に向かって囁いた。
「あなたに拒否権はないですよ。ああ…、あと、いきなり関係を迫ったりはしないけど、キスと触るのは許して貰いますよ? その代わり、昨日の払いもお礼も、もう必要ありませんから」
 言いながら、わざとらしく鬼塚の股間を扱いてやった。既に萎えかけていたが、触れた途端に反応したので、笑いそうになるのを必死で堪えた。この人の身体は、心と違って分かりやすい。
 鬼塚は、怒りの籠った紅潮した顔で正樹を睨みつけたが、全く迫力に欠けていた。身体の事は、触っていれば分かってしまうのだから、虚勢を張った姿が逆に可愛く思えてしまう。
 先走りが溢れて扱き易くなったから、感じているのは間違いない。静かなのは悪態を吐きたくても、快感のせいで声が出せないのだろう。身体が自由にならない分、疼きを逃す術がなくて眉間に皺を寄せ、苦しげに首を振り始めた。
 その苦悶の表情にそそられて、正樹の股間も熱くなった。
「『付き合う』って、ひとこと言えば、手を離してあげますよ」
 そんな気はさらさらなかったし、今更言われても困るだろうと思いつつ耳元で囁くと、鬼塚が「あぁっ…」と小さく喘いだ。股間にくる色っぽい声だった。
「…でも、もう出しちゃいたいでしょう?」
 正樹も興奮して声が掠れた。鬼塚は耳が弱いようで耳殻(じかく)にキスすると、「くうっ…」と呻いたあと歯を食いしばったが、同時にカリの下のくびれを撫でながら鈴口を刺激してやると、降参したように首を縦に振った。
 正樹は精一杯冷静な振りをして「付き合うって事? それとも、いきたいの?」と囁いたあと、扱いていた手をピタリと止めた。
「あっ、やっ、止めんな〜〜」
 鬼塚は短い悲鳴を上げた。正樹はすかさず「じゃあ、『付き合う』って、言って?」と耳の穴を舐めながら囁くと、肌が震えて粟立った。密着しているから身体の変化がつぶさに分かる。
 ああ、楽しいと思いながら、もう一押しと裏筋を指先でゆっくりと撫で下ろすと、鬼塚が耐えられないと言った感じで、「つきあうっ!」と叫んだので、「約束ですよ?」と言いながら、お望み通り自分が達する時に一番感じるやり方で扱き上げてやった。
「ンン〜〜ッ」
 鬼塚は息を詰めて喉の奥で唸ると、震えながら正樹の手の中に放出した。全部出し切るまで搾り取るように扱いてやると、刺激が強かったのか仰け反って悲鳴を上げた。
 出し切ってぐったりした鬼塚の様子に、ちょっとやり過ぎたかなと反省しつつ、謝るのは違う気がして「気持ち良かった?」と聞くと、鬼塚は怠そうに目を開けて「この、嘘吐き…、鬼畜ヤロー……」となじった。
 まあ、悪態が吐けるくらいなら大丈夫だろうと、浅い呼吸を繰り返す唇に宥めるようなキスをすると、鬼塚は重そうな瞼を何とか開いて、本当に面倒くさそうに小さな声で言った。
「…もう、お前って、めんどくせぇ……。ねむ、い……」
 そうして目を閉じると、まるで風船の空気が抜けるように息を吐き、また眠りに落ちてしまった。
 正樹はその寝顔を見ながら、自分の熱く猛った股間をどうしようか迷った。この場で処理するのが躊躇われたからだ。昨日も同じ部屋にいながら、風呂場で鬼塚の裸体を想像して抜いたけれど、寝ている本人の身体を見ながら扱くのは、もっと滑稽な気がした。
「意地悪の代償だな」
 自嘲して、正樹は仕方なくトイレへ行ったが、手に着いた鬼塚の飛沫を利用して、自分のものを慰めた。鬼塚の出した物だと思うと興奮した。鬼塚が兄と交わっているのを想像してもかなり熱くなったが、自分には割と変態的な要素があるのかも知れない。
 新たな性癖の発見だったが、そうした要素も含めて、自分は “ 堤正樹 ” という男なのだと思った。
「俺は、あんたの “ 兄さん ” になる気はないから……」
 言いながら、恥じらうような戸惑うような鬼塚の顔を思い浮かべて、高みへ登り詰めた。

 再び眠りについた鬼塚は、なかなか目を覚まさなかった。
 正樹は鬼塚の眠るベッドの足元までコタツを引っぱり寄せて、持ち帰った会社の仕事をしていた。新しい商品のパンフレットが出来上がったばかりだったので、商品の資料と合わせて今後の売り込み方を検討していた。こうしたじっくり考えなければならない案件は、会社でやるより家の方が効率が良いから、駄目だと思ってもつい持ち帰ってしまうのだ。
 大体、休日と言っても今は恋人もいないし、ジムで筋トレする以外特にやりたい事もないから、正樹にとっては家での仕事は暇つぶしに近かった。たまに独りでフラリと映画や買い物に行く事もあるが、誰か相手がいないとつまらないと感じてしまうから、人恋しい性格なのだと自分でも思う。ただ寝ているだけでも、鬼塚が側にいるというだけで、何か満たされるような気がした。
 だから余計、“ お一人様の男 ” と聞いていた鬼塚の『独りになりたくない』との台詞には驚いた。鬼塚の過去に一体何があったのか。正樹は知りたくて堪らなかった。
 日が傾き始め、そろそろストーブを点けるかと立ち上がった時、ベッドから鬼塚の声がした。
「いま…何時だ?」
「もう夕方です。四時少し前」
「寝過ぎた…。起こせよ、もう……」
 文句を言いながら、鬼塚はのっそり起き上がって欠伸をした。
 特に機嫌が悪いとか、よそよそしい態度は見せなかったので安堵したものの、まさか全部忘れてしまったんじゃないだろうなと、それはそれで焦ってしまったが、布団を胸まで引き上げて、裸を見られないようにしているから、全部覚えてるんだなと思わず苦笑してしまった。
「ごめんなさい。ずっと一緒にいたかったから、わざと起こしませんでした。だって、起きたら帰るって言うでしょう?」
 笑いながらそう言うと、鬼塚は頭を掻きながら「当たり前だ」とそっぽを向いて言った。
「一緒って…俺は、寝てただけだろ……」
「それでもいいんですよ。側にいられれば」
 言いながらストーブのスイッチを入れに行き、電気を点けてから鬼塚の方を見たが、そっぽを向いたままなので、どんな表情(かお)をしているか分からなかった。それでも、「ふん…」と答えるよに鼻を鳴らす音が聞こえたので、やっぱり律儀な人だなと微笑ましい気分になった。
 誰かとこうした時間を持つのは、本当に久し振りだった。鬼塚には「モテる」と答えてしまったから、たくさん恋人がいたように思われたけれど、こうして一日一緒の時間を過ごした相手はそうはいない。一番長く続いた人でもたった二年だった。
 それは親に勘当された当時付き合っていた年上の男だったが、正樹が就職活動に入ると彼の方から距離を置こうと言われた。今思えば、親に見捨てられた孤独感から、知らず知らず頼り過ぎてしまったのかも知れない。「重い」と言われたのは正直ショックだった。
 それ以来、一年以上続いた相手はいない。いつだって本気で惚れて果敢に攻めては来たけれど、付き合い始めると相手の負担にならないよう気を遣うあまり、距離を縮められずに終わる事が多かった。だから、鬼塚に対しては遠慮なく踏み込みたいと思っていた。それに何より、なり振り構わず踏み込んでいかなければ、全然相手にされないのだから仕方ない。
 鬼塚がずっと一緒にいろと言うのなら、喜んで側にいる。けれど、所詮は口約束だ。簡単に口に出せば、鬼塚は絶対に自分を受け入れないだろうと思った。
 正樹はベッドの端に腰掛けて、「お腹空いたでしょう?」と、顔を背けている鬼塚に話しかけた。こうもそっぽを向かれると、やはり自分が行った無体な仕打ちに怒っているのだと分かったが、本当に子どもっぽい所があると、逆におかしくなってしまう。
「着替え持って来ますね」と言ってベッドから腰を上げると、鬼塚の方から腹の虫が鳴る音が聞こえて、どうにも我慢出来ずに笑い出してしまった。鬼塚は慌てて真っ赤な顔を正樹に向けると、「何も食ってねーんだから、鳴るに決まってるだろ!」と開き直って言った。
「じゃあ、美味しい洋食屋に案内しますよ」
「今度は俺が払うからな…」
 鬼塚が顔に似合わないドスをきかせた声で言うものだから、笑いを堪えるのに必死で「はい。ごちそうさまです…」と言うのが精一杯だった。
 すっかり日が暮れた頃、小さな洋食屋へ鬼塚を連れて行った。
 独りなら安くてがっつり食べられる食堂へ行くが、人が一緒ならゆったりした店の方が落ち着く。パン屋の二階にある店に続く狭い階段を上り、ドアベルのついたガラスの扉を押して入ると、店の中はガランとしていた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
 美人だが愛想のないウエイトレスの台詞を聞きながら、窓際のソファ席へ鬼塚を案内した。
「誰もいないな……」
「時間が早いせいもあるけど、いつも空いてます」
「…美味しい洋食屋、じゃあないのか?」
 美味しい店は混んでいるという思い込みがあるのか、鬼塚が声を落として聞いたので、「美味いですよ。でも、高いんです」と言うと、鬼塚は呆れたような顔で正樹を見たあと、テーブルのメニュー立てに差してあるメニューをチラリと眺めたが、すぐに「なんだ…」と、ほっとしたようにため息を吐いた。
「脅かすなよ……」
「量の割には高い、と思いますよ。俺は平社員ですから」
 本格フレンチを、コースではなく定食で出す店だから、パンかライス、それにスープとサラダとコーヒーがついて千五百円前後という値段は、決して高くはないが、成人男性にしてみれば量が少ないのだ。だからこの店の常連は、女性か中年夫婦が多い。
「どれが美味いんだ?」
「そうですね。お勧めはB定食の若鶏のオレンジソース煮ですね。俺は豚のカツレツにしますけど」
「魚は? 白身魚のパイ包み…しかないのか?」
「確かムニエルもありますよ」
「ああ、舌平目ね。じゃあ、これにしよう」
 本当に魚が好きなんだと感心していると、蝋人形のようなウエイトレスが水とおしぼりを運んで来た。それぞれ自分の分を注文してウエイトレスが下がると、鬼塚がキョロキョロし始めた。どうやら灰皿を探しているらしい。どうしてウエイトレスに聞かなかったのかと思ったが、やはり鬼塚は潜在的に女性が苦手なのかも知れない。
「残念ながら、ここは禁煙です。我慢出来ないなら、向かいの量販店に、喫煙所がありますけど」
「いや、平気だ。我慢できる」
 鬼塚は手を拭いたおしぼりを奇麗に畳んでテーブルの端に置くと水を飲んだ。それから、正樹が無造作に戻したメニューをきちんと差し直した。几帳面な性格らしい。観察しながら何気なく「鬼塚さん、魚が好きですよね。だから、渓流釣りとか行くんですか?」と聞くと、鬼塚は少し間を置いてから言った。
「じいさんばあさんに育てられたから、いつも魚ばかり出て来た。好きかと聞かれたら好きなんだろうが、改めて考えた事はないな」
「じゃあ、渓流釣りはお祖父さんの影響ですか?」
「…いや。釣りは兄貴の影響だ」
 聞いた途端、正樹は心臓が跳ね上がった。疑惑の中心人物が、こんなにあっさり話題に出て来ると思わなかったから、不意打ち過ぎて話をどう繋げば良いか分からなかった。
「おっ、お兄さんがいるんですか?」
 正樹の質問に、鬼塚は目を伏せて何も答えなかった。やはり触れてはいけない領域なのかと思いつつ、再度挑戦してみた。
「俺は一人っ子だから、お兄さんがいるなんて羨ましいです……」
「…もう、いないよ」
 小さな声だった。聞こえてはいたが、まさかという思いで「えっ?」と聞き返してしまった。
「死んだ」
「あっ…すいません。余計な事を聞きいてしまって……」
「いいんだ、気にするな。俺が最初に言ったんだし、もう昔の事だ。面倒くせぇからついでに言っとくが、両親も祖父母も疾っくに鬼籍(きせき)に入(い)る。だから、俺は正真正銘の独り者だ」
 洒落ている訳ではないようで、顔は笑ってはいなかった。
 さらりと言われたけれど、聞いた正樹の方はショックを受けた。『独りになりたくない』と言った意味を理解して、胸に鋭い痛みが走った。
「それは……」
 言いかけた時、ウエイトレスが料理を運んで来たので、話はそのまま途切れてしまった。
 鬼塚は特に気まずい様子もなく、「ああ、美味そうだな」と言って食べ出したので、そのまま黙って食事をした。
 鬼塚と食事をするのは二回目になるが、昨夜はひたすら飲んでいるだけだったから、まともに食べている姿は初めて見た。余程お腹が空いていたと見えて、鬼塚は美味そうに無心に食べていたが、ナイフとフォークを器用に操っていて、テーブルマナーが身に付いているようだった。年寄りに育てられたと言うから、躾けに厳しい家庭だったのだろうか。
『着るものが違ってたら、どっかの御曹司顔負けだな』と思った。髪をきちんと整えて、一流ブランドのスーツでも来ていたら、雑誌に載るような “ 実業家 ” に見えなくもない。
 この人は、一体どういう人生を送って来たのだろう。惹かれているから興味が尽きない。それでも、亡くなった家族の話を聞くのは気が引けた。きっと住吉なら知っていたのだろうから、事前に聞いておけば良かったと後悔したが、聞いた所で同じ部署の清水ですら知らないのだから、やはり教えてくれなかっただろうと自嘲した。
 それに、住吉に鬼塚の事を聞いたとき、自分で聞いて見ろと言われたのだから、知りたければ直接鬼塚に聞くしかないだろう。だったら……。
「俺も、家族はいませんよ」
 他人の内側を知りたいなら、まず自分の内側を見せる事だ。ムリにこじ開けるより効果がある事は、営業の経験からも分かっている。特に、類似点を見せるのだ。相手と似ている所が多いほど、警戒心を解くには有効だ。
「えっ?」
 鬼塚は食事の手を止めて、正樹の顔をまじまじと眺めた。
「…亡くなったのか?」
 いい辛そうに言う鬼塚に、正樹は首を振って「いえ、生きてはいますが、絶縁されて会ってません」と、何でもない事のように答えた。実際、もう何でもない事になりつつある。
「もう七年ですかね、音信不通ですよ」
「なんで、そんな……」
「俺が…ゲイだから、ですよ」
 他にお客がいなくても自ずと声が小さくなる。言いながら、やっぱり後ろ暗い生き方だなと、自分でも思ってしまう。
「そんな事、くらいで?」
 呆れ果てたような鬼塚の口調に、正樹は苦笑しながら答えた。
「世間一般の人、特に男親は、自分の息子がゲイだなんて、“ そんな事 ” くらいじゃ済まない問題みたいですよ?」
「だって、生きてるのに……」
「…そうですね。でも、生きてるからこそ、許せない事もあるんじゃないですかね……」
 世間に顔向け出来ないような息子は、いっそ死んでくれた方が親としては嬉しいのかも知れませんと、喉元まで出かかった台詞は、家族を亡くしている鬼塚に聞かせる内容じゃないと口を噤んだ。
 鬼塚は自分自身の事を回想していたのか、しばらく虚空を眺めてからポツリと聞いた。
「寂しくないのか?」
 それは、鬼塚が天涯孤独だと聞いたとき、正樹が言おうとしていた台詞だ。独りきりだと聞けば、誰でも思う常套句。
「そう、ですねぇ……」
 でも、改めて問われると、どうなんだろうと思う。正樹の両親は鬼塚のように本当に亡くなった訳ではないし、人数は少ないが学生時代の友人も、仲の良い会社の同僚もいて、優しい大家さんとの近所付き合いもある。日々の生活は、忙しくもそれなりに充実していて、寂しいなどと思う暇もない。だけど……。
「寂しいですよ」
 いつも、心に風穴が空いた感じはしていた。それは、同性愛者としての生き方を、両親に、否、大半の人間関係に於いても、受け入れてもらえないだろう孤独感だ。堤正樹という男の、嘘偽りない姿を受け入れてくれる人は、今のところ存在しない。恋人ならば嬉しいが、友人でも良いのに、そんな相手がいないのは、やはり寂しい事だと思った。
 鬼塚は、微笑みながら答えた正樹をじっと見詰めていたが、不意にテーブルの上の正樹の手を握ると、「そうだな…」と呟いた。
 そのあとは、会話らしい会話はしなかった。それでも、手を握られてから鬼塚の雰囲気が柔らかくなった気がして、それほど気詰まりな思いはしなかった。
 鬼塚はセットのコーヒーを飲み終えると、すぐに会計を済ませてしまったので、仕方なく店を出てそのまま駅へ向かった。
 賑やかな駅前に近づくにつれ、もうすぐ鬼塚と離れるんだと思うと名残惜しかった。子どもの頃、友だちとまた明日学校で会えると分かっていても、寂しくていつまでも手を振って見送った事を思い出す。もう疾っくの昔に卒業してしまった感覚だと思っていたのに、洋食屋で交わした会話が影響しているのかも知れない。
 一緒にいたって何をする訳でもないのに、ただ側にいたい。細くて、孤独で、不器用な鬼塚という存在が、愛おしくて堪らなかった。
 鬼塚は改札口で見送る正樹に「じゃあな」とだけ告げて、顔も見ないで中へと入って行った。
「気をつけて」
 三十過ぎの男にかける言葉ではない気もしたが、鬼塚は振り返りはしないものの片手を上げて、ホームへ続く階段を上って行った。正樹はその姿が見えなくなるまで、改札の側を離れなかった。

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