INDEX NOVEL

いとしい人  〜 My Fair Darling 〜 〈 4 〉

 例の店は、新宿の歌舞伎町にあった。
 正樹たちの会社から新宿まで地下鉄で一本だから、疾っくに誰かが見つけていそうな場所なのだが、木製の引き戸の上に『辻村』と書かれた看板があるだけのちょっと “ 通 ” っぽい店なので、若い連中には入りにくい雰囲気がある。
 ネットで調べた限りでは、一見さんお断りというほど敷居の高い店ではないらしい。ただちょっと変わってるのが、決まったメニューがない事だ。酒の銘柄だけはずらずら書かれていたが、料理はお尋ねくださいとの事で、呑兵衛以外にはやはり敬遠されそうだ。
 定時で会社を出たから、当然鬼塚より先に店に辿り着いた。鬼塚が会社を出た時にメールをしてくれるよう住吉に頼んでおいたので、正樹は店の前を二往復してから下調べしておいた近くのコーヒーショップに入った。
 電車に乗っている間にメールは受け取っていた。住吉は成り行きを楽しんでいるようで、協力を惜しまなかった。正樹は鬼塚が店に着いて、少し落ち着いた頃合いを見計らって入るつもりだった。ゆっくりブレンドを飲み干してから深呼吸すると、鬼塚がいるであろう店へ向かった。
 柿渋が施された引き戸は、見かけより案外軽くて思いっきり扉が開いてしまった。慌てて中を見回すと、まだ七時を過ぎたくらいだからか、店の中は閑散としていた。
 細長い店内は奥へ奥へと個室が伸びているようで、そちらから笑い声や話し声が聞こえる。見えるのは入り口の真ん前のカウンター席だけで、カウンター奥の壁一面が家具のような作りの冷蔵庫になっていて、日本酒や白ワインの瓶がぎっしりと並べられているのに目が引かれた。
 気後れしていた正樹に、濃紺の作務衣(さむえ)を着た店員が「いらっしゃいませ!」と威勢良く迎えたので、そのカウンターの隅に腰掛けていた客が振り向いて、ばっちり目が合ってしまった。
 鬼塚だった。意中の相手はぎょっとしたように目を見開いたあと、ぱっと顔を背けて知らない振りを決め込んだ。
「あっ、知り合いがいたので、相席したいんですが」
 正樹が笑顔で店員にそう言うと、店員は「どうぞ」と身体をずらして正樹がどこへ行くか窺っている。正樹は真っすぐ前に進んで、鬼塚の後ろに立った。
「こんばんは。鬼塚さん」
 声をかけると、それを見た店員は、「ああ、鬼塚さんのお知り合いですか?」と親しげに声をかけて、正樹の脱いだコートを受け取ってくれた。
「はい、会社の…」と答えると、「じゃあ、日下部さんともお知り合いなんですか?」と言うので、そうだと答えると「じゃあ、サービスしないとね」と朗らかに笑った。
 やはり二人は常連客なのだろう。店員だと思った若い男はどうやらオーナーのようだ。厨房の入り口から、枯草色の作務衣を来た男の子が盆に酒と摘みを乗せて忙しそうに出て行くのが見えた。他にも同じ色の作務衣を来た女性が二階へ上がって行った。
 オーナーは壁のフックにコートをかけると、「うちは、お酒はメニューがあるんですが、食事は日替わりの摘みしかないんですよ。そこの壁に書いてあるんで、その中からお願いします。メニューにないのも、食材があれば作りますから、リクエスはお気軽にどうぞ」と笑った。
 正樹は「面白いですね」と返事をしながら、鬼塚の隣りに腰を下ろした。正樹はメニューをざっと見て、新潟の地酒 “ 久保田 ” と焼き鳥を頼んだ。
 オーナーはオーダーを入れに行き、やっと二人きりになれた。カウンターに肘をついた鬼塚は、固まったようにじっとして何も言わない。正樹は横目で鬼塚を観察しながら声をかけた。
「何でここが分かったか、聞かないんですか?」
「…住吉、だろ」
「当たりです」
「前に一緒にいるのを見たから……」
 話の途中でオーナーが戻って来て、正樹の前におしぼりとお通し、そして升(ます)に入った山盛りの酒が注がれたグラスを置いた。盛切(もっき)りというらしいが、飲み方がよく分からない。
「これって、升から飲むのが正解ですか?」
 素直に訊くと、鬼塚は初めてまともに正樹を見て面倒くさそうに言った。
「決まった飲み方はないが、酒がこぼれるから先にグラスから飲んで、こぼれた分を升からグラスに注いで飲むと無駄がない」
「へぇ……」
 正樹は早速こぼれそうになみなみと注がれた酒に口をつけ、それからグラスを鬼塚に捧げ持つと、鬼塚はため息を吐いて自分のグラスを持ち上げた。
「お疲れ様です」
 カチリと触れ合わせると、鬼塚が一気に煽ったのでちょっと吃驚したが、すぐにおかしくなって喉で笑うと、自分も一口飲んでほっと息を吐いた。冷えていてのどごしがいい。日本酒に詳しくないが、クセがなくて飲み易いと思った。
「あ〜…美味い。ここ、いいですねぇ。ホント、隠れ家みたいで落ち着く」
「誰にも言うなよ」
「はい。言いません」
 笑いながら言うと、鬼塚は胡散臭そうに、ふんと鼻を鳴らしてまた酒を煽った。そのぐいぐいとした飲みっぷりに、本当に酒が強いんだなと感心した。見ると、鬼塚の前に升はなかった。ボトルを注文したからだろう。鬼塚の前には青森の地酒 “ 田酒(でんしゅ) ” の大吟醸が置かれていた。摘みは子持ちししゃものみ。肉より魚が好きらしい。
 鬼塚は散髪したてと違い、髪は相変わらずボサボサだったが、もう顔は隠れていないから年齢よりも若く感じた。もっとも、また横を向いてしまったから、眼鏡のツルで顔の表情は窺えない。
 正樹は住吉と決めた親睦会の事を話した。関係ないと無視されるかと思ったが、鬼塚は聞いていないようでいて、時折「ふん」と鼻を鳴らす。返事のつもりらしい。律儀な人だと思った。
 もし自分なら、勝手に押し掛けて一方的に話す相手など黙殺する。住吉に言われて自惚れる訳ではないが、鬼塚の態度を見ていると自分でも嫌われてはいないと思う。
 鬼塚は前を向いたまま、ひたすら手酌でがんがんグラスを空けていた。間が持たない気持ちがそうさせるのだろうが、いくら酒に強くても大丈夫なのかと心配になった。
 案の定、正樹の酒のおかわりを聞きに来たオーナーが、「鬼塚さん、ペース早いよ。相変わらず全然食べてないのにさ。また、胃をやっちゃうよ」と心配そうに注意した。
「…うるさい。日本酒は米から出来てんだから、飯の代わりだ」
 鬼塚はボソリと呟いてトイレに立った。フラフラしている危なっかしい背中を見送っていると、「そんな強くないクセに…」とオーナーが小さな声で呟いた。
「えっ?」
 しっかり聞こえて思わず聞き返すと、オーナーはしまったと言う顔をして、口の前に指を立てて言った。
「あっ、内緒ね! あの人、そんなにお酒強くないんですよ。いつも一人の時は二杯くらいしか飲まないの。日下部さんと一緒だと安心しちゃうのか深酒する事もあるけど、気をつけてるみたいで滅多に酔うほど飲まないの」
 知り合いだと思っているからオーナーの口が軽い。
「日下部さんの前では、酔っぱらうって事ですか? どんな感じになるんですか?」
 今でも甘えたり、恋人同士のような会話を交わしたりしているのだろうか。勝手な妄想で胸が苦しくなった。
「そうね〜…普段は無口なのが嘘みたいによく喋るし、笑い上戸になるかな。泣き上戸よりいいけど、酔うと結構……」
 オーナーは話の途中で急に口を噤み、チラリと視線を流したので、鬼塚が戻って来たのが分かったが、正樹の隣りに腰を下ろした鬼塚は、すっかり人が変わっていた。
「…お前さあ、俺に何か用があって来たんじゃねーの?」
 鬼塚はそう言うと、眼鏡を外してカウンターに置き、正樹の方を向くように椅子に横座りして壁に凭れ掛かった。
「はあ……」
 戸惑いながらもチャンスだと思い、チラリとオーナーの顔を見ると、なぜか頑張れと言うような視線と頷きを寄越して席を外してくれた。
「用と言う程でもないです。ただ、あなたと、もっと話がしたいと思って……」
「そんで、こそこそと俺の事を嗅ぎ回ってたのか?」
『うわ。バレバレだ』と思いつつ、違和感を覚えた。この人、人の動向を気にするような人だったろうか。喫煙室では泥棒の顔すら覚えてなかったくせに。どうにも読めないなと焦りながら、話をどう転がせば自分の得たい回答を引っ張り出せるだろうかと、頭をフル回転させながら口を開いた。
「そうですね…。情報は集めました。あなたは逃げ回ってて捕まらなかったから、仕方ないでしょう?」
「しょうがねーだろ……」
 逃げ回るという言葉に引っかかったらしく、ばつの悪い顔をして呟いた。
「あなたの奇麗な顔に、騒ぐ連中が煩(わずら)わしいからですか?」
「そうだよ。大体ぜーんぶ、お前のせいだぞ! どいつもこいつも、顔なんかでコロっと態度を変えやがって、うるっせぇったらない。それは、お前もだがな!」
 その物言いにカチンと来た。そりゃ、その顔に惹かれたのは否定しない。だが、それで態度が変わったなんて言われる覚えはない。
「その言い方は変でしょう? 俺がいつ、あなたの顔で態度が変わったって言うんですか? あなたにぶつかってから、俺の態度がどう変わってるんです?」
「変わっただろ、明らかに! 喫煙室にいる時と、つぶかった後じゃ、えらい違いじゃないか。お前だって、俺の顔を拝む前は俺と話がしたいなんて、これっぽっちも思わなかっただろう?」
 どうだとばかりに言い切られて、正樹は絶句した。それはそうなのだが、鬼塚の言った別の部分で胸が高鳴ってしまった。
「あなた、俺の事、前から知ってたんですか?」
「ああ。喫煙室でいつも一緒になってただろうが。ぶつかった時も、声で分かった」
「…じゃあ、前田の事も?」
 あのとき山崎はいなかったが、前田はいたのだ。もしかしたら、事故じゃないのも分かっているのだろうか。だとしたら、泥棒事件があった後、分かってて無関心を装っていたのかと恐れ入ったが、鬼塚は眉間に皺を寄せ「…前田? 誰だ、それ?」と言った。
「俺とよく一緒にいるヤツです。あんまり背の高くない、童顔の……」
「…ああ。大きいのと、小さいのがいたな。小さいのが前田ね……」
 確かめるように呟く口元を見て、笑いそうになって口を押さえた。
 やっぱり、覚えてなかった。どうでもいいのだ、前田の事など。では、自分はどうして、鬼塚に認識されていたのだろうか。それは、良くも悪くも特別に興味を持たれている証ではないだろうか。
 チャンスだと思うと心臓がバクバクした。この人に回りくどい方法は効かない。押しが弱いのも分かっている。だったら、一か八かに出てみよう。
「俺だって、鬼塚さんの事は、ちゃんと前から知ってましたよ。けど、喫煙室ではお互い親しくなる切っ掛けがなかったんだから、仕方がないでしょう? でも、その切っ掛けが出来たんだから、どんな理由だろうと、そこから始めたいと思うのは普通の事じゃないですか」
「…俺は、始めたいなんて思ってないねぇ〜」
 か、可愛くない…。まるで小さな子どもみたいに舌を出す姿にイラっとしたが、多少酔っぱらっているから仕方がないと心を鎮めた。
「あのねぇ、恋なんて、最初っから両思いで始まるなんて事、滅多にないんですよ。片方の思いを徐々に受け入れて、時間をかけて成就する恋もあるんです! 何でもかんでも、端から切ってっちゃったら、何も始まらないでしょうが!」
「話が飛んでる…意味が分からん。恋ってなんだ? どこの話だ?」
 酔っぱらっているようで、頭はちゃんと回っている。正樹は感心しながら鬼塚の顔に自分の顔を近づけた。
「あなた、と、おれ、の話です」
 一番最初に顔を見合わせた時のように、鼻と鼻が触れ合う距離で鬼塚の目を見つめながら、強調するように言った。
 鬼塚は眼鏡を外していたから、こんな至近距離まで近づいた事に気づかなかったようで、正樹の顔をはっきり視界に捉えると息を呑んで瞠目し、後ろへ下がろうとして壁に頭を打ち付けた。そのぶつかった弾みで鬼塚の顔がそのまま前に出たものだから、避け損ねた正樹の顔と当たって、キスしてしまった。
「あだっ」
「痛っ」
 結構強くぶつかったので、互いにすぐ顔を離して声を上げた。
「おまっ、顔、近けぇよ!」
 鬼塚は叫びながらおしぼりで口元をごしごし拭った。正樹も口元を押さえ、ちょっと傷つくなぁと思いながら「すいません…」と謝ったが、鬼塚の顔は首から顔から真っ赤になっていて、おしぼりを握る手すら赤みを帯びていた。どうやら、この酔っぱらいは、正樹の言っている意味を正確に聴き取っているようだ。
 キスは不可抗力による偶然だけど、鬼塚の身体は心にとても忠実らしい。鬼塚ゲイ説の信憑性がますます深まった。
「鬼塚さん、俺の言った意味、わかりましたか?」
「おまっ、馬っ鹿じゃないのか? 俺は男だぞ」
 慌てふためいてそう言う反応を注意深く観察した。果たして鬼塚はどっちだろう。
「俺は、男が好きなんです」
 聞いた瞬間、鬼塚はきょとんとした顔をして、自ら顔を近づけて正樹の顔をしげしげと眺めた。
「お前、モテるだろう?」
 それは、男にだろうか、女にだろうかと考えた。どちらにもモテるから「…ええ、まあ」と頷くと、「じゃあ、何で男が好きなんだ?」と心底不思議そうに好奇心丸出しの顔で訊いて来た。
 この人、読めない。
 正樹は心で唸りながら「男にしか、勃起しないんですよ」と直截(ちょくさい)に答えた。鬼塚は酔いで半眼になっていた奇麗な形の目を大きく見開いたが、しばらくしてから近視の人らしく目を細めて正樹を見つめると、「なら、仕方ないな…」と答えた。
 この人、本当に分からない反応をするなと思った。もし、ノンケだとしたら、自分の父親と同じように普通は「変態だ」と答えるだろう。ゲイならば、自分と同類と認めたと言う事だろうか。
「それは、どこにつく『仕方ない』なんですか? 男が好きな事に対して? 俺があなたを好きな事に対して?」
「男が好きな事に対して…に、決まってるだろう。お前のウワサは、社食でよく耳にしてたからな。女性に人気があるのに、『絶対なびかない』って……」
「俺も、鬼塚さんのウワサを聞きましたよ? モテるのに『一生独りでいたい』って……」
「それ、住吉だろ! 住吉以外言う訳ない!」
 あのお喋りめと憤る鬼塚に、正樹はズバリと訊いた。
「その理由は、鬼塚さんも『男が好き』だから、ですか?」
「はああぁ?」
 鬼塚は素っ頓狂な声を上げて、「違う! 俺はホモじゃない!」と怒鳴ったから、正樹は慌てて鬼塚の口を手で押さえた。
「しーっ、しーっ、鬼塚さん、声がでかい!」
 言いながら周りを見たが、テーブル席から遠いせいか、誰も気づいてはいないようだ。オーナーだけは遠くから心配そうに首を伸ばしていたが、こちらに来る事はなかった。かなり気を使ってくれているのか、オーダーの酒を作る以外でカウンターに入る事もなかった。
「じゃあ、なぜ『一生独りでいたい』のか、教えてくださいよ」
 言う義務なんかないのだが、正樹の秘密を知ってしまったためか、鬼塚はすっかりテンパってしまったようで、視線を泳がせながら逡巡していた。答えを促すように正樹が顔を近づけると、またキスされるとでも思ったのか正樹の胸を押し返して、内緒話をするように掠れた声を絞り出した。
「俺は、男どころか、女にも勃たないから、ムリなんだよ!」
「はっ?」
 今度は正樹が聞き返すと、鬼塚が赤くなって俯いたので、正樹は慌てた。
「いや、えっと、不能…じゃない、ED(勃起不全)って事ですか?」
 声を潜めて聞くと、鬼塚は医者には行っていないから分からないと答えた。
 ゲイじゃなくて、ノーマルのインポテンツだから『独りでいたい』のか!?
 予想外の事に焦ってしまい、次の言葉が出て来なかった。最悪だと思いつつ、とにかく傷つけないように注意しながら、「全然駄目、なんですか?」と聞くと、鬼塚は俯いて首を振った。
「…自慰なら、できる」
「じゃあ、問題ないんじゃ……」
 ほっとして言うと、でも、と口籠った。
「でも?」
 優しく先を促すと、「疲れた時じゃないと出来ない」と言った。
 それって、所謂『疲れマラ』と言うヤツだろうか?
「あ〜〜…分かりますよ。残業の徹夜明けとかに、やりたくなるって事ですよね?」
「いや、うちの部署は、そんな滅多に徹夜ないから。考え事し過ぎた時になるんだよ」
「考え事、ですか?」
 仕事が忙しくて目が回るなんて事はしょっちゅうだが、考え事をし過ぎた経験などないから、そのシチュエーションが分からない。思わず首を傾げてしまった。鬼塚はヘラっとして、「しかも、おかずが女じゃなくてさぁ……」と怖い事を言い始めた。
 そのとき鬼塚は、ノートパソコンとタブレット、どちらを買おうか大いに迷っていた。金がない訳ではないが、丁度そのころ冷蔵庫が壊れて散在した後だったので、両方買うのは躊躇われた。
 どちらかひとつと決めて、家電量販店で説明を聞き実物にも触ったが、似て非なるものなので一概に決められない。店員の態度も今ひとつだったし、ネット通販にしようと買わずに家に帰り、底値の店が分かるサイトで値段を調べ、口コミを読み漁った。
 しかし、決められない。いっその事、両方買うのを止めようかと思ったが、やっぱり、どうしても欲しかった。欲しいとなると意地でも欲しい。そのうち、悩み過ぎて疲れてしまった。
「モニターをじーっと見てたら、したくなってさ……」
 気がついたら、しこしこ股間を扱いていた。
「頭の中で、ノートとタブレットが交互に出て来てさ、『私を買って〜〜』って、クルクル回ってるんだよ」
 正樹はその図を想像して額を押さえた。
「シュール…ですね」
「俺、やっぱりどっちも欲しくてさ、究極の選択ってのは、興奮するもんだな……」
 この人、からかってるんだろうか、と思う。でも、テレビで見た事があるのだ。無機物に恋する人間がいると。そのテレビ番組では、確か『エッフェル塔と結婚した』とかいう女性が出て来た。まさかな、と思いつつ、この人ならしそうな気もする…。
 横目で鬼塚を見やると、鬼塚はズルズルとずり落ちるように正樹の肩に凭れて、見上げるように顔を覗き込んで来た。
「どっちでイッたと思う?」
 酔ってトロンとした瞳で、ニヤニヤ笑いながら訊いて来る。その辺のオッサンだったら殴ってる所だが、これだけ奇麗な男だと楽しそうだな…と見惚れてしまう。つい、まともに答えてしまった。
「……ノート?」
「ブーッ、ハッズレ〜〜!!」
 耳元で嬉しそうにでっかい声を上げてゲラゲラ笑い出したので、正樹は耳を押さえて肩を竦めたが、カウンターから呆れたように「それ、嘘でしょう?」とため息を吐くオーナーの姿が目に入って、『いつからいたんだ?』と息を飲んだ。
 鬼塚は嬉しそうにオーナーを指差して「アッタリ〜〜」と叫んだ。
「まったくも〜。あんた、ホントに酒癖悪い……あっ!」
 言葉の途中で短く叫んだオーナーに釣られて隣りを見ると、鬼塚の身体が傾げてイスからずり落ちそうになっていた。慌てて抱きとめると、鬼塚はぐうぐうイビキをかいて眠っていた。
「はぁ……」
 正樹が呆れたようにため息を吐くと、オーナーが肩を竦めて「ホント、酔うと子どもっぽくなるって言うか、ちょっとタチが悪いんだよね……」と苦笑いした。
「タクシー呼べますけど、どうします? 鬼塚さんちって、どこだったっけなぁ……」
 オーナーは勘定場で鬼塚の住所を調べて戻って来た。年賀状やバースデーカードを出すので、常連の顧客リストがあるらしい。
「中野坂上だから結構近いけど、乗せちゃえば降りられるかな?」
「あっ、僕が送って行きます。家もそんなに遠くないので」
 ぶつぶつひとり言ともつかない事を言っているオーナーに正樹が申し出た。
 もとから、あわよくばと期待していたし、週末を選んだのもそのためだ。まさかここまで見事に寝落ちするとは思わなかったが。
 それを聞くとオーナーは、待っていたくせに「あっ、頼めます? すいませんねぇ」と、こちらもタチの悪い笑顔を見せた。
 タクシーが着くと、鬼塚を背負って表通りまで歩き、タクシーに乗り込んだ。細いから重くはないが、オーナーがわざわざ鞄を持って送ってくれて助かった。
「懲りずにまた来て?」とウィンクされ、この人、お仲間かも知れないと思いながら、正樹もにこやかに「はい。是非」と礼を言って別れた。
 運転手には「高円寺の駅前まで」と頼んだ。ここからなら自分のアパートの方が近い。五千円くらいかなと、財布の中身を思い出してため息を吐いた。
 店の勘定も正樹が払った。鬼塚が水のように飲んだ酒はかなり値が張って吃驚したが、ぼったくりではなく、季節限定ものだから高いらしい。「もったいない飲み方してたよね」とオーナーも困った顔をしていたが、それが『懲りずに』の台詞に繋がっている。明日にでも銀行で下ろさないと手持ちの金が足りなくなる。
 さあ、このツケをどうやって払って貰おうか。
 隣りで正樹に凭れながら、すやすやと気持ち良さげに寝こけている鬼塚の顔を見た。眠っていると更に子どもっぽく見えるが、先ほど見せていた艶(あだ)っぽい顔がチラチラと重なって、改めて『この人、面白い…』と、堪らずにクスクスと笑い出してしまった。明日、鬼塚が起きたとき、どんな顔をするか想像すると楽して仕方なかった。
 タクシーの運転手が、「何か良い事ありました?」と聞いたので、「うん…。イイものが見れたんで」と答えながら、気味悪く思われるほど笑い続けた。

 タクシーを降りると鬼塚を背負い、正樹は自分のアパートへ帰り着いた。
 高円寺駅から歩いて五分という立地にあるアパートは、大学生の頃から借り続けてもう十年目になる。古いし、線路に近いから騒音もあるが、その分家賃が少しだけ安い。それに、上の階に住んでいる大家に世話になったので出るに出られない、というのもある。
 絶縁されてから学費以外の仕送りはなくなり、生活費は母親が内緒でヘソクリを都合してくれたが、そんなものでは到底足りなかった。アルバイトを掛け持ちしても、学生の稼ぎなどたかが知れている。いつも光熱費を優先して払ってしまうから、手渡しの家賃の支払いは遅れがちだった。
 家賃の安い所へ越そうとも思ったが、引っ越し資金自体がなく、悩んだ末に話せる範囲で事情を説明すると「いつでもいいよ」と待ってくれた上に、屋上の家庭菜園でとれた野菜をわけてくれたり、福引きで当たったからと洗剤をくれたりと親切にして貰った。
 今はもう家賃の滞納はないし、ひもじい思いもしていないけれど、未だにお裾分けは続いている。断ると大家のおばあさんが悲しそうな顔をするから、貰わない訳にいかなかった。
 もちろん、この部屋自体も気に入っている。二階の角部屋で窓が多くて明るいし、六畳が二間に台所も三畳ほどあり、一人暮しには贅沢なほどの広さがある。おまけに、隣りの部屋に隣接しているのは風呂場と台所なので、男を連れ込んでナニしていても、声を聞かれる心配がない。同じ家賃でこれだけの条件が揃った部屋を探すなど、とても出来そうにない。
 とは言え、これまで友人以外で男を泊めた事はない。大家に対しての気兼ねもあるが、正樹は節操無く誰かと寝るのを好まなかった。もし、そういう事態になる時は、ホテルで済ますようにしていたから、この部屋へ人を連れて来たのは、社会人になってからは鬼塚が初めてだった。
「あ〜、疲れた……」
 鬼塚を自分のベッドの上へ下ろして寝かせると、正樹は息を吐いて肩を回した。
 いくら鬼塚が軽くても、同じ背丈のある人間を背負って階段を上るのは難儀だった。情けなくも、たった十段くらい昇っただけで足元がふらついてしまい、部屋へ上がる時も玄関の僅かしかない上がり框(かまち)に躓(つまず)いて、たたらを踏んで大きな音を立ててしまった。幸い階下はフリーのデザイナーの仕事部屋で夜の間は無人だし、鬼塚も起きる気配はなかった。
 正樹はコートを脱いでガスストーブを点けると、うがいと手洗いを済ませ、皺にならないように鬼塚の服を脱がせた。
 鬼塚の下着は白半袖のアンダーシャツに灰色のトランクスだった。靴下は紺のナイロン。完全にオジさんスタイルだ。外見を気にしない鬼塚らしいなと思いつつ、身体が細いのでヒラヒラしたトランクスがどうにも貧相に見えて、つい、全てを脱がせてしまった。
 以前、給湯室で見たから知ってはいるが、白くて肌理(きめ)の細かい肌をこんなに間近で見てしまうと、忽ちあらぬところに熱が溜まる。鬼塚の身体は、顔に劣らず均整が取れていて美しかった。嘘か真か、無機物で勃起したという鬼塚の分身も、申し分ない色と形をしていた。
 寝ている相手を犯すほどに飢えてはいないし、プライドもある。それでも、好きな相手の無防備な姿を前にしたら、触りたい、キスしたいという誘惑に抗(あらが)えなかった。
 さっきから、あれだけ身体を揺らしても触っても起きやしないのだし、これくらい大丈夫だろう。
 正樹は鬼塚の頬を撫でて、折れそうに細いうなじからゆっくりと胸に向かって指を滑らせた。親指で小さな乳輪をなぞり、ヘソの窪みまで辿ったが、さすがにその下へは、あとが困る気がして思いとどまった。
 もう一度頬を撫でてキスしようと顔を近づけると、鬼塚が突然目を開いたので、すんでのところでじっと見つめ合う形になった。息を詰めて成り行きを見守る正樹の顔を、鬼塚はトロンとした瞳で見ていたが、突然ふっと笑うと「兄さん…」と呟いて手を伸ばした。
 反射的にその手を取ると、鬼塚は自分からキスを強請るように薄く唇を開いた。頭の片隅で一体何が起きているのだろうと冷静に分析する自分と、目の前の状況を受動的に受け入れる自分に別れたまま、鬼塚の唇に触れるだけのキスを落としてやると、鬼塚は満足したように吐息を漏らして、またすやすやと眠り始めた。
 まるで狐に摘まれたような気分だった。
「風呂…入ろう……」
 正樹は頭を振って立ち上がると、鬼塚の身体に布団をかけて、脱がせたワイシャツと下着を持って風呂場へ向かった。
 この部屋で唯一不満のあるユニットバスに湯を張る間に、乾燥機付きの洗濯機に自分のと鬼塚の服を入れてスイッチを押した。これで朝は奇麗な状態で着せてやれる。洗剤を計ってスイッチを押すだけだから、湯船にはまだ半分しか湯が溜まっていなかった。
 正樹は我慢出来ずにそのまま風呂に入った。寒いが、湯を熱めに調節してシャワーを出しっぱなしにするればすぐに温かくなる。シャワーカーテンを閉めていても、トイレまで湿っぽくなるが致し方ない。湯船にしゃがみ込んで頭からシャワーを浴びながら、鬼塚が呟いた言葉を反芻した。
 あれは一体何だったのだろう。
「兄さん」とは誰か? 文字通り兄の事か? では、なぜキスを欲しがったのか?
「やっぱり、ゲイじゃないか……」
 兄と言うからには、女じゃないだろう。日下部の名が出なかったのがせめてもの救いだったが、鬼塚の謎は深まるばかりだ。得体の知れない鬼塚の過去を考えると、自然と股間に手が伸びた。頭を使うと『したくなる』と言った鬼塚の言葉は本当だと思った。
 あの身体は兄に…かどうか知らないが、男に抱かれる喜びを知っているのだろうか?
 正樹は答えの出ない不毛な思考に振り回されて、熱いシャワーのお湯に叩かれながら、その場で一気に抜いてしまった。もちろん、おかずは先ほど隅々まで眺めた鬼塚の裸体だ。見えない誰かに抱かれて喘ぐ鬼塚を思い描いて、あっという間に登り詰めた。
 出してしまうと一時的に頭が空っぽになる。漸く落ち着いて身体と頭をざっと洗った。そのままさっさと寝てしまいたかったが、クセの強い髪は乾かさないとひどい寝癖になるから、スウェットに着替えると湿気を飛ばす程度にドライヤーをかけて、鬼塚の隣りに潜り込んだ。
 社会人になった時にセミダブルに買い替えたベッドは、鬼塚ほど細い男とならそれほど狭くは感じなかった。壁際に寄せた鬼塚の身体と向かい合うように横になって、規則正しい呼吸を繰り返す鬼塚の口元を眺めた。
 眠気は一向にやって来ない。正樹はどうにも気になって鬼塚の後ろへ手を伸ばした。そのまま尻の谷間に潜む窄まりを撫でてて感触を確かめた。
 経験があるからと言って、そこの締まりがすぐに悪くなると言う事はないが、経験があるのと無いのとでは多少は違う。鬼塚のそこは硬かった。恐らく、あっても経験値は少ないだろう。
 何してるんだろう……。
 我に返って、何度目になるか分からないため息を吐くと、鬼塚の身体を抱いて布団に深く潜り込んだ。鬼塚の身体は温かかった。
 規則正しい心臓の音を聞いていると、気持ちが落ち着いて来る。誰かと眠るのは久し振りだった。風呂では温(ぬく)みきらなかった身体に、鬼塚の熱がじんわり伝わるのを感じながら眠った。

NEXTは成人向ページです。未成年の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

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