INDEX NOVEL

いとしい人  〜 My Fair Darling 〜 〈 2 〉

 社食のカウンター前に並ぶ社員をざっと眺めてから、正樹はフロアのテーブル席を見渡した。
 いない。今日も来てない。ため息を吐いて自分の食事を取るためにカウンターへ並ぼうとしたところへ「堤!」と声をかけられた。声の方へ顔を向けると、営業部の同僚、前田と山崎が仲良く並んで手を振っていた。
「なんだ…、お前らか」
「なんだ、じゃねーよ。席あっから、早く取って来いよ!」
 同じ課とは言え営業は外回りが多いから、今日のように月末でもなければ、食事時に三人一緒になる事は滅多にない。正樹も片手を上げて長い列に並んだ。
 食事はビュッフェ式と好きな総菜の皿を取って行く式に分かれていて、がっつり量を食べたい社員はビュッフェ式を選ぶが、いちいち自分で盛り付けるのが嫌な人間はカウンターへ並ぶ。こちらは定食になっているので、セットでみそ汁とご飯と漬け物が付いてくる。パンとスープのセットへチェンジ出来るが、煮魚などを選べば自動的に和式のセットになってしまう。
 今日のお勧めはカレイの煮付けと豚の生姜焼きだった。少し迷って、カレイの煮付けを選んだ。最近まともな食事を取っていなかったから、肉が好きだが仕方がない。それに納豆と水菜とジャコのサラダを取った。配膳のおばさんに「みそ汁は何にしますか?」と聞かれて、自動的に鬼塚の顔が浮かんだ。
「え〜っと……、豚汁で」
 鬼塚とぶつかった日、彼は和食、それも焼き魚か煮魚かを選んだのだろう。スープなら数種類あるのに、みそ汁はワカメと豆腐、あとは豚汁しかないから、何を選んでも結局残すしかなかったのだと思うとおかしかった。
 あれから一週間になるが、正樹はまだ鬼塚に会っていない。月末にさしかかって忙しい事もあるが、鬼塚は喫煙室にも食堂にも姿を現さなかった。
 総務部ならまだしも、経理部などへ営業の人間が行く用事は滅多にないから、居場所は分かっていても会いに行く口実がない。どうしようか思案のしどころだった。
 前田たちのテーブルへ行き、取っておいてくれた席に腰を下ろすと、あらかた食べ終えた前田が正樹の方へ身を乗り出して聞いた。
「なあ、なあ、堤ぃ、お前、何やらかしたの?」
「はぁ? 何の事だよ」
「またまた、とぼけちゃって〜〜」
「とぼけるも何も、俺が何したって言うんだよ?」
 何かミスをしただろうか? ざっと頭の中で仕事の報告書と上司の顔を思い浮かべた。特に何も言われていないが、何かクレームが入ったのだろうか。
「一週間くらい前、堤、ここで鬼塚さんとぶつかったじゃない? あの後、鬼塚さんが大変身しちゃったから、女子社員の間ですごい噂になっててさ。まあ、それは置いといて、経理部の女の子たちが『あの営業さんは、どうやって “ あの ” 鬼塚さんの髪を切らせたんだろう?』って、すごい知りたがってるんだよ……」
 主要部分を飛ばしがちの前田に代わって、仕事のできる山崎が説明した。
「どうやってって…、眼鏡が仕上がるまで時間があるから、散髪しましょうよって誘っただけだけど?」
「それで、あっさり?」
 そうだけど。豚汁を啜りながら目で肯定すると、「へぇ……」と、山崎は意外そうにしている。その反応が気になって逆に正樹が聞いた。
「山崎って、鬼塚さんと親しかったっけ?」
「いや、喫煙室で会うくらいで、よくは知らないよ」
「じゃあ、俺と同じくらいじゃん。何で “ あの ” 鬼塚さんなんて言い方……」
「こいつ、経理部の子と付き合ってんだよ! その子から、あの日の詳しい経緯を聞いてきてって、頼まれたんだと」
「は〜ん、なるほどね……」
 前田のひがみまじりの説明に、正樹は『えっ? 山崎って彼女いたんだ』と、少し前は山崎に粉かけてやろうかと思っていただけに、驚きながらも平静を装った。
 山崎は少し照れたような顔をしたが何も言わなかった。否定しないところを見ると、真剣なお付き合いという事らしい。男も二十七歳を過ぎると、こうやって着々と身を固める準備を始めるのだと、正樹は胸の辺りがスースーするような虚しさを覚えた。
「なあ、なあ、あの人、ホントにそんなハンサムな訳? 俺まだ見てねぇし、俄には信じがたいね」
 前田が面白くなさそうに口を尖らせた。正樹は横目で前田を見ながら、俺だって見てねぇんだから、お前が見れて堪るかと思いながら答えた。
「…ああ。すげぇ男前…って言うか、奇麗は人だな。面白いし」
「面白いぃ〜? 嘘だぁ、インケンっぽいじゃん」
「それは前田の逆恨みだろう? いい人じゃないか、あの人。彼女も言ってたよ、『ぶっきらぼうだけど優しい』って」
 山崎が咎めるように言うと、前田は納得いかない様子で言い返した。
「でも、叩く事ないじゃんよ〜〜」
「人の物盗ったら、叩かれるくらいじゃ済まないだろ。それに、叩いたんじゃなくて払ったんだろ、あれは。なのに、碌でもない事しやがって…。お前、今度何か奢れよな!」
 正樹が漬け物を齧りながら睨みつけると、前田はぶつぶつと言い訳を始めた。
「盗るって、別にタバコを一本貰おうとしただけだろ? それに、堤とぶつかったお陰で、経理部以外の女子にも人気が出た訳で……」
 正樹と山崎に同時に睨まれて、前田は小さくなって下を向いた。
 半月ほど前、喫煙室でうたた寝していたらしい鬼塚のタバコを、前田が一本くすねたのだ。どうやら、寝ている間にタバコの箱が手から滑り落ちたらしく、足元に落ちていたのを前田が拾ってやったのだが、寝ていると思って一本くすねて鬼塚の膝に置こうとしていたところを鬼塚が目を覚まし、咄嗟に前田の手を払ったらしい。
 前田はこの事を根にもった。だが普通、至近距離で、知らない男が自分のタバコを持っていたら、誰だって驚くし、盗ろうとしていると思うだろう。実際に一本盗っているのだし、全くの逆恨みだ。
 このとき、正樹と山崎も喫煙室にいたが、二人に背を向けて仕事の話をしていたから、ぱしっ、と言う小気味良い音に振り向いて、初めて二人の姿を視界に捉えた。
「す、んません…返します……」
 一体どういう状況か分からなかったのだが、追求される前に前田が頭を下げたのを見て、正樹も山崎も全て察しがついてしまった。鬼塚は無言でタバコの箱を受け取ると立ち上がり、「それは、やる」と言って出て行ってしまった。不幸中の幸いは、このとき喫煙室にはこの四人しかいなかった事だろう。
 その後も、喫煙室で鬼塚と鉢合わせしたが、気まずい思いでいる正樹たちと違って、鬼塚は全然態度が変わらなかった。今から思えば、タバコを盗ったのが誰だったか、鬼塚は顔など覚えていなかったのだ。
 一週間前の食堂で、前田が “ 故意 ” に正樹の背中を押したのは、このときの仕返しだ。ちょっとコケてくれたら胸がすく。それくらいの軽い気持ちだったのだろうが、あんな大事になってしまった。巻き込まれた正樹にしてみたらいい迷惑としか言い様がない。
「ええ〜〜、知らなかった。事故じゃなかったの? 前田ぁ、お前、少しは心を入れ替えた方がいいよ。あの時だって、全部不問にしてタバコも恵んでくれた人に、そんなヒドい事するなんて…。きっと、ロクな死に方しないよ?」
 山崎は微妙に怖い諭し方をした。
「そうそう。だから、あの時の事は忘れろよ。俺も、何か奢ってくれたら帳消しにしてやるよ」
 正樹は食後のお茶を、ずずっと音を立てて啜ると、からかうように言った。あまり虐めても可哀想だし、本当は、押されなかったらあんな “ イイもの ” を見つけられなかったのだから、感謝しているくらいだ。ただ、前田には日頃から仕事でも尻拭いさせられているので、恩を売っておくくらいが丁度いい。前田は「はい…。心を入れ替えるから、給料日前は勘弁して」と顔を覆った。
「それにしても、そんな大変身したのに、俺も鬼塚さんの事、まだ一度も見かけてないんだよ。あんな事があっても平気で喫煙室に来てたのに、全然来てないみたいだよ」
 山崎が首を傾げると、前田も同意した。
「変身ついでに、タバコもやめたんじゃねぇの?」
「ええ〜〜、あの人、すごいチェーンスモーカーだったよ? そんなすぐやめられるかなぁ?」
「どうだろ…でも、社食にも来てないよな……」
 全員が見かけていないのなら、本当に禁煙しているのかも知れない。否、金がないとか、眼鏡代がキツかったとかじゃないだろうか。でも、あの人は課長だから、そんな訳ないだろう。
 では、メシ時にいないのは? まあ、社食も全員が利用する訳じゃない。毎日来るとも限らないから、もともと会える確率は低いのだ。それだと、営業と経理のフロアは違うから、自分から会いに行かない限り絶対に会えないじゃないか。
 正樹は頬杖を付いて唸りながら、ぐるぐると考えを廻らせていた。山崎はそんな正樹を訝しげに眺めていたが、よそ見をしていた前田が突然、「あっ」と小さく声を上げて山崎の肘を突ついた。
「なあ、お前の彼女、清水さんと仲良い? あっ、別に仲良くなくても、同じ部署だから話はするよな? あのさ、できたらさ、紹介してもらえないかなぁ……」
「清水さんって、まさか……」
「うん、ほら、あそこの柱の前のテーブルでお喋りしてる、一番可愛い子だよ」
 聞き覚えのある名前に、正樹も釣られて山崎と一緒に前田の指差したテーブルの方を見た。
「あっ……」
 正樹と山崎が同時に驚きの声を上げた。その二人の反応に前田が焦ったように訊いた。
「えっ? 何? 堤も狙ってるとか? うそぉ! 先に目を付けたのは、俺よ? お前相手じゃ勝ち目ねぇよ〜〜」
「馬鹿、そんなんじゃない……」
 正樹は否定したが、目は彼女に釘づけだった。思った通り、鬼塚とぶつかったとき、跡を追ってタオルを持って来てくれた社員だ。そう言えば、あの時のタオルを一枚預かったままになっている。
「あ〜…、同期じゃないから仲良いかは知らないけど、確か後輩みたいだから、紹介は、してもらえると思うけど……」
 山崎の歯切れの悪い言い方に、「けど、何?」と前田が突っ込む。
「あの子さぁ……。よくここで、鬼塚さんと一緒にごはん食べてたよ」
「えっ?」
 今度は前田と正樹が同時に驚いた。
「何ソレ!?」
「何でそんな事知ってんだよ!?」
 前田の台詞に被せるように正樹が山崎に詰め寄った。山崎はその勢いに目をぱちくりさせながら、しどろもどろに説明した。
「あ〜…、彼女とここでランチデートしてたらさ、彼女らが近くのテーブルに座ってたんだよ。俺は全然気づかなかったけど、彼女が二人の方を見て『根性あるなぁ』って呟いてさ、『何の?』って聞いたら、アタックしてるらしいって…。まあ、鬼塚さんは相手にしてないみたいだから、『根性ある』ってセリフに繋がってるんだけど。それからちょっと気になって、鬼塚さんがいるときは、ついつい目がいっちゃってさ……」
「いつも二人で食べてるのか?」
 正樹が尋問するように訊くと、前田も身を乗り出すようにして山崎を凝視している。山崎はなぜか姿勢を低くして声を潜めながら言った。
「いやいや、大抵は一人だよ。でも誰かと一緒の時は、あの子か、え〜っと、確か日下部さん…かな、と一緒」
「ホントに、あのガリガリが好きなのかなぁ……」
 前田は恨みがましい声で山崎に言った。
「ガリガリでも全然スタイル良いし、超がつく美形だからな……」
 正樹が思わず呟くと、前田は「やっぱ、あの人、天敵だ〜〜」とテーブルに突っ伏した。山崎は、どうどう、と馬を宥めるように前田の背中を叩いては撫でしながら、「だから、鬼塚さんは相手にしてないってさ」と慰めた。
「ああ、大丈夫だよ。お前には、まだチャンスがあるよ。鬼塚さん、変身しちゃったからライバルも増えちゃっただろうし、今がアタックかけるチャンスかもよ?」
 正樹もニヤニヤしながら言った。山崎は『どうだろう?』と言った顔をしたが、口は挟まなかった。前田は目を輝かせて正樹の顔をじっと見た。
「そうかな?」
「そうだよ」
「でも、どうしよう…。好きな人いるのに、いきなり『付き合って』じゃ、すぐ断られちゃうよなぁ……」
「俺が探りを入れてやるよ。彼女の気持ちがどんなもんなのか。その上で、作戦立てようぜ」
 正樹がそう言うと、山崎と前田は顔を見合わせた。
「協力してくれるって事?」
「ああ。その代わり、俺、今から彼女を茶に誘うけど、誤解すんなよ? 探りを入れるためだからな? 俺は彼女に興味はないからな?」
 正樹は前田に指を突きつけて、念押しするように告げると席を立った。
 えっ、と目を丸くしている二人を尻目にして、正樹は清水たちがいるテーブルに行き、営業スマイルで声をかけた。
「清水さん、この間はどうも、堤です」
 清水を始めテーブルにいた四人の女子社員は、正樹を見て一拍置いたあと、一斉に「あーーっ」と驚きの声を上げたが、正樹はその反応に、大して驚かなかった。そこにいたのは全員経理部で、山崎が教えてくれた『あの営業さん』は自分の事だと分かっていたから、恐らく今まで自分の事をウワサしていたのだろうと想像がついた。
「すいません、くつろいでるところを。清水さん、この間貸して貰ったタオル、一枚預かったままなんでお返ししたいのと、ちょっと鬼塚さんに渡して貰いたい物があるので、すいませんが退社時に営業に寄って貰えますか?」
 別に渡す物なんてない。タオルだけならいらないと言われるかも知れないから、鬼塚の名前を出したのだ。彼に気があるなら絶対頷くだろうと思った。案の定、清水は二つ返事で了承した。
 こうして清水に会う約束を取り付けて、正樹はあんぐりと口を開いて様子を窺っている前田たちの所へ戻った。
「行くぞ」と声をかけ、正樹は自分のお膳を持ち上げると下善口へ運んだ。二人もあたふたと席を立ちその後に倣(なら)った。
「し、清水さん、何だって?」
 前田が心配げに訊いて来た。
「帰り際に営業に寄ってもらう事になったから、お前もちょっと挨拶しとけよ。そのあと、ちょっと彼女と話してみるわ」
「ふ〜ん……」
 納得したのか、不満があるのか、前田の微妙な返事を聞き流して、正樹は清水に会ってからの事に考えを廻らせていた。
 タオルを渡された時は思わなかったが、言われてみれば前田の言う通り、確かに可愛い。
『やっぱり、慕われてんじゃないか。嘘吐きだな……』
 鬼塚の顔を思い出して、胸の中がチリッと痛くなった。
 営業の仕事でも同じ事だが、相手を落とすには、まず、その人となりを知らなければ、作戦だって立てられない。なのに、正樹は鬼塚の事を何ひとつ知らない。本当は鬼塚に直接会いたいし、訊きたい。でも、捕まらないのだから、人の口から訊くのでも、この際は仕方ない。
 それに、悪い芽は早めに摘んでおかないと……。
「まあ、俺に任せとけ」
 エレベーターを待ちながら、前田に向かってニッカリ笑って請け負った。

 午後六時過ぎ、正樹は定時で仕事を切り上げ、清水と会社の一階にあるコーヒーショップで向かい合った。
 清水が営業部へ顔を出したとき彼女はまだ制服を着たままで、どうやら堤の渡したい物を受け取って、取って返して鬼塚に渡すつもりでいたらしい。正樹は内心慌てたが、おくびにも出さずに「わざわざすいません」と礼を言いながらさり気なく前田を呼んで、清水に紹介した。
「コイツ、前田って言って、うちの部の “ お祭り男 ” (幹事)なんですよ。実は前から経理部の女性は奇麗な人が多いから、懇親会したいって話が出てて、できたら、こいつと一緒に計画立ててやってくれませんか? 面倒な事はコイツがやりますから、心配しなくても手間は取らせませんから……」
 口からでませである。前田は隣りでぎょっとしたような顔をしたが、足を蹴って目配せすると慌ててコクコク頷いた。清水は前田に会釈はしたものの、居合わせた他の男性社員も席からちらちら窺っているし、気詰まりなのか困ったように下を向いてしまった。
「私は…そう言うのは、ちょっと……」
「ああ、そうですよね。ちょっと話が急でしたよね。この話は、また改めましょう」
 あっさり退いてやると、清水はあからさまにほっとした顔をし、前田はガックリと項垂れた。そんな前田に正樹が「俺、行ってくるわ」と耳打ちすると、前田は頼むぞと言うよう正樹の肩を叩き、清水に会釈して自分の席へ戻って行った。
「あの、堤さん……」
 清水が催促するような視線を向けたので、ああ、と頷いてタオルを差し出した。
「タオル、ありがとうございました…それでね、清水さん、まだこれから仕事されるんですか?」
「あ、いいえ。もう帰ります」
「だったら、少しお時間いただけますか? 実は、鬼塚さんの事でお伺いしたい事があるんで、下の店でお茶しませんか?」
 清水は戸惑った様子でしばらく考えていたが、「分かりました…。じゃあ、支度して来ます」と了承したので、十分後に来てもらうように頼んで正樹は先に店へ向かった。
 一階は以前はショールームだったが、今はチェーンのコーヒーショップとコンビニになっていた。
 正樹たちの勤める会社は、シャッターの製造販売、施行を行っている。業界では中堅で都心に十二階建ての自社ビルを有しているが、不況の風はどの業界でも例外なく吹き荒れているから、正樹たちが入社した頃から五階から下にテナントを入れ、一階は店舗と無人受付とエレベーターホールだけになった。当然、正樹の会社に受付嬢なる職はなくなった。
 今の時間はどちらの店にも残業用の軽食を買いに来る社員が多いから、本当は別の店に行きたかったが、仕事が残っているので遠出するのが億劫だった。それに、誰かに見られて清水とウワサになった所で痛くも痒くもない。困るのはむしろ清水の方だろう。
 カウンターでアメリカンを買い灰皿を手にしたが、きっと清水はタバコを嫌うだろうと、戻して禁煙席に座った。禁煙席は入り口付近の窓際が多い。できるだけ奥の、窓に背を向ける位置の椅子に深く凭れて、コーヒーを一口啜ると鬼塚の事を思った。
 今頃何をしているだろうか。素顔を見る前と後とでは、私生活のイメージが全然違っていた。前はオタクっぽかったよなぁ…などと物思いに耽っていたせいか、清水が店に来てもすぐには気がつかなかった。
「お待たせしました……」
 コートも脱がないまま椅子に座った清水に「飲み物は?」と聞くと、「いりません」と言うので、正樹は無言で立ち上がりブレンドを買って清水の前に置いた。財布を出そうとする清水に、「頼んで来て貰ったんですから、これぐら奢らせてください」と言って微笑んだ。
 清水は恐縮して礼を言い、漸くコートを脱いだ。彼女の私服は、思ったよりも派手な色合いのものだったが、長い黒髪が清楚な印象の割に、目鼻立ちのはっきりした彼女の顔によく似合っていた。
「堤さん、あの、私、好きな人います」
 すぐに本題に入ろうとした正樹よりも早く、清水がいきなりそう宣言したので、正樹は面食らって絶句した。
「だから、どなたか紹介するとか、そういう話ならお断りします」
 やられた…と思った。先手を取られた。可愛い顔して侮れない。落ち着け。様子を見ようと自分に言い聞かせ、他意のない笑みを見せて「ああ…、前田の事なら、気にしないでください」と顔の前で手を振った。
「確かに、そういう話もしようと思ってましたけど、僕の話の本題は鬼塚さんの事ですから」
 そう言うと、清水は警戒を解いたように椅子に凭れかかった。
「実は、鬼塚さんに渡してほしい物って、まだ買ってないんですよ。この間の眼鏡、弁償するって言ったのに、半分しか出させて貰えなくて。だから、お詫びに何か買って差し上げようと思ったんですけど、どんな物がいいか鬼塚さんの好みが分からないから、相談に乗って貰おうと思ったんです。清水さん、鬼塚さんと親しそうだったから。でも、僕はあまり面識がないから、皆さんの前でお願いしずらくて…。何だか回りくどい事をして、すいませんでした」
「まあ、そうなんですか! 私こそ、すいません! あっ、急に恥ずかしくなって来た……。お、鬼塚さんの好きな物ですよね? えっと……」
 警戒心が一気に解けたようだ。なんだチョロいなと思いながら、正樹は鬼塚についての情報を集めにかかった。
 まずは、年齢。今年で三十五歳になる。正樹より八つも年上だった。結婚はしていない。実家の家族構成は不明。無駄口をきかない上に、自分の事を喋りたがらないから、清水も先輩からの情報に頼っているらしい。
 課長になったのは三十歳の時。昇進の早さに驚くと、清水は自分の事のように「入社二年目で税理士の資格をとれたんですよ」と自慢した。当然の事ながら行政書士の登録もしているそうで、その上宅建にも合格したと言うから、資格マニアなのかも知れない。
 意外な事に趣味は釣りで、車を飛ばして一人で渓流釣りに出かけるらしい。好きな物は酒。特に日本酒が好きだが、滅多に会社の飲み会には参加しない。誘っても殆ど拒否される。なのに、自分が参加しなくても気前良く金を出してくれるので、ケチではない。
 所謂(いわゆる)、おひとり様な男なのだが、例外は部長の日下部との関係で、彼から誘われたら断らないのだと言う。飲む時はいつも日下部と一緒。二人の行きつけの飲み屋があるらしいが、秘密の場所らしく誰も知らないと言う。
「日下部さんと仲が良いんですね……」
 へぇ、と思いながら先日経理部で会った日下部の顔を思い浮かべた。何度か見かけた事はあったが、マジマジ見たのはあのときが初めてだった。
 日下部は五十代後半くらいの、ロマンスグレーの渋い二枚目だった。“ 無責任男 ” というあだ名の背の高いコメディアンがいるが、彼の顔をもっと締まりを良くしたら日下部になるだろう。雰囲気も紳士的で、若い女性にもモテるだろうと思われた。
「ええ。日下部部長が離婚されてからしばらくの間、部長のお宅でお世話になっていたとか聞きましたから、公私ともにお付き合いがあるんだと……」
「ええええっ!?」
 聞き捨てならない事を聞いた気がして、驚きの声を上げて清水を見ると、その声の大きさに驚いたような顔をしていた清水が、あっ、と顔を赤らめて「違いますよ!」と否定した。
「その頃、鬼塚さんは胃潰瘍で入院して、退院後もどんどん痩せてっちゃったそうなんです。それで、部長は料理が趣味なので俺が食べさせるっておっしゃって、半年くらいお世話になっただけだそうです。部長もすぐ再婚されましたし…。今流行の……とは、違うと思いますよ」
「ああ…そう、ですか……」
 今流行のナントやらを、地で行く人間が目の前にいるなど、夢にも思わないのだろうなと腹の底であざ笑ったが、そんな事はどうでもいいのだ。問題は日下部だ。あの似非(えせ)“ 無責任男 ” と鬼塚の関係が猛烈に気になった。
 確かに日下部の左手には指輪が光っていた。たが、どうにも嫌な予感がした。頭の中で勝手に妄想が思い浮かぶ。鬼塚はゲイで、日下部の事を胃に穴が空くほど思いつめ、ついほだされた日下部は離婚を決意。しばらく一緒に暮らしたものの、所詮日下部は女が好きなフツーの男、蜜月はわずか半年で終わりを告げた……とか?
 もし鬼塚がゲイならば、簡単に正樹の手を取った事も頷ける。それでいて、外では神経質に人目を気にするって、それはもう立派なゲイだろう。
 百戦錬磨を自認している自分が見抜けなかったなんて、かなり悔しかった。それに、日下部の存在はとんだ伏兵の登場じゃないか。だが、取りあえず過去の事だし、ここであまり二人の関係に拘っても変に思われそうだ。
 正樹は訊きたいのを我慢して咳払いをすると、「胃潰瘍って、ストレスですかね?」と言った。清水は眉間に皺を寄せて首を振った。
「詳しい事は、鬼塚さんの同期の住吉さんって方と、日下部部長しか知らないと思います。もちろん二人とも話してくれません。ただ、その頃まではあんなに痩せてなかったし、身なりも今みたいにすっきりされてたらしいんです。だから、何があったんだろうって、気になってます……」
 正樹もかなり興味を引かれ「ふ〜ん…」と唸りながら腕組みしたが、ふと、引っかかりを感じて清水に尋ねた。
「今みたいに…って事は、鬼塚さんがあんなに美形だって、みなさん前から知ってたんですか?」
「ええ。さっき話した通り、以前は顔を隠してませんでしたし、先輩たちから『本当はとってもハンサムなのよ』って自慢げに聞かされてましたから。でも、はっきり見えなくても、毎日一緒にいたら分かりますし」
「ふ〜ん…出世頭で、あれだけ美形なら、少々難ありでも、さぞモテるでしょうね……」
 単なる率直な感想だった。ライバルは清水をはじめ、そこいら辺の女全部そうなのかと、うんざりしたような声音になったのは確かだ。それが清水の気に障ったと見えて、きっ、と睨みつけると爆弾を投げて寄越した。
「私は別に、顔で課長を好きになった訳じゃありませんから!」
「はぁっ?」
 呆気にとられて清水を眺めた。そんな事は聞くより前から分かっていたが、まさか宣言されるとは思わなかった。この女、牽制しているんだろうか?
 内心かなり動揺しながら清水を凝視したが、清水は見る間に茹でタコの様になって口をぱくぱくさせていた。どうやら自分の取り越し苦労らしい。思わずクスッと笑うと、清水は開き直ったように「そうですよ」と嘯(うそぶ)いた。
「私の好きな人は鬼塚課長です。すっごく、優しくて、誠実な人だから、好きになったんです」
「すっごく、言葉遣いが悪くて、ぞんざいな人に感じますけど、どの辺が優しくて、誠実なんですか?」
 いちいち強調しながら喋る清水に、正樹も同じ言い方でからかうように訊いた。清水が好意を持った、その根拠を知りたかった。
「鬼塚さんの態度は、あれは悪ぶってる “ フリ ” だと思うんです。『面倒くせぇ』が口癖なんですけど、うちの部署で、一番面倒見が良いのは課長です。確かに口が悪いから、最初は怖かったんですけど……。お恥ずかしいんですが、私はパソコンが苦手で、仕事を覚えるのが遅かったんです。エクセルなんて、わざわざ学校に通っててもチンプンカンプンで……でも、課長だけが『面倒くせぇ』って言いながらも、ずっと根気よく教えてくれました。今もミスははっきり指摘されますけど、頭ごなしに叱られた事はありません。それは私だけにじゃなくて、課長が本気で怒った姿って、まだ一度も見た事がないんです。きっと我慢強くて、とても優しい人なんだと思います」
「確かに、僕も怒られませんでしたよ。あんな姿にしたのにね。まあ、『面倒くせぇ』とは言われたけど」
 そう言うと、清水と顔を見合わせて笑った。たった半日で感じた鬼塚の好印象は、清水によって裏付けられた。正樹はますます強く鬼塚を手に入れたいと思った。この女には取られたくない。
 ひとしきり笑うと清水が真剣な顔を作って、「あの、私も堤さんに聞きたい事があるんですけど…」と言った。
「何でしょう?」
 内心動揺しながらにこやか答えると、「どうやって、鬼塚さんに髪を切らせたんですか?」と、ちょっと非難がましい口調で訊かれた。正樹は山崎に答えたのと同じ説明をしたが、やはり山崎と同じ納得していない様子で「今まで、誰が勧めても前髪だけは伸ばしっぱなしだったんですよ?」と、詰め寄られた。
「ああ、確かに長さは変えないでって、注文してたみたいだけど、行きつけの床屋じゃないから、勝手が違っちゃったんじゃないかな。この方が似合うって、マスターにお勧めされたみたいだし」
 そうさせたのは正樹だが、しれっとした顔で脚色した。ハサミを入れられたときの鬼塚は動揺していたが、本気で嫌なら止めろと言えた筈なのに、何も言わなかった。だから、正樹はそれほど罪悪感を感じていない。
「…眼鏡も、あれ、堤さんが選んだんですよね? 鬼塚さんだったら、絶対選んでないフレームだと思います」
 それは、その通りなのであっさり肯定した。
「ええ。でも、似合ってませんかね?」
 困った顔で窺うように尋ねると、清水は悔しそうに唇を噛んだ。
「…いいえ。ただ、経理部だけの秘密じゃなくなっちゃったのが、残念な気がして……」
 密かに眺めて楽しんでいた宝物が、白日の下に晒(さら)されたのが悔しいだけかと、女の卑しさを感じて虫酸が走った。
 これまでの経緯から察するに、鬼塚は押しに弱い。嫌だ嫌だと言いながら、強引な押しに流されてしまうタイプだ。良い様でいて、悪い。なぜなら、正樹の押しにだって簡単に落ちるのだ。ゲイならいいが、ノンケなら清水が女の武器で強引な手に出たら、ひとたまりもないだろう。鬼塚の弱点は、絶対に知られてはならない。
「そうですか。でも、鬼塚さんが “ 変わりたい ” と思った時期だったのかも知れないですよ。たまたま僕が、その牽引をしただけで……」
 言いながら席を立った。これ以上、清水から聞き出す事はない気がした。
「ありがとうございました。色いろ参考になりました」と頭を下げると、清水ははっとして、ぎこちなく微笑みながら「とんでもないです」と顔の前で手を振ったが、不意に真顔になって訊いた。
「あの、何を差し上げるおつもりですか?」
「う〜ん。やっぱり、日本酒の美味しいのがいいかなぁって、思ってますけど」と適当に答えると、「そのお買い物をするとき、ご一緒させて貰ってもいいですか?」と意外な事を言われた。
「えっ、ええ。構いませんけど……」
 なぜ、と目線で問いかけると、清水はにっこり笑って「堤さんは、センスが良いから」と言った。
「鬼塚さんにバレンタインの贈り物をしたいんですけど、いつも断られちゃうんです。でも、堤さんが選んでくれたら、きっと貰ってくれそうな気がして……」
「…………」
 どういう意味が含まれているのだろうか。咄嗟には判断できなかった。
 どちらにしろ、義理で渡すものとは違う意味を持つ、バレンタインの贈り物である事は窺える。それを、俺に選べと言うのか。
 正樹はギリッと奥歯を噛み締めたが、すぐに笑顔を作って、前田の時と同じように「おやすい御用ですよ」と請け負った。

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