INDEX NOVEL

いとしい人  〜 My Fair Darling 〜 〈 1 〉

 出会いがない。そんな言葉をよく聞くけれど、出会いは何処にでも転がっている。もっとも、その出会いを確かなものにするには、努力が必要だけれども。
 堤正樹(つつみ まさき)は、今、仏頂面の上司の手を引いて、トイレへ向かっている。
 上司と言っても正樹の直属の上司ではない。鬼塚幸一朗(おにづか こういちろう)は経理部の課長で、営業部の正樹とは接点がない。喫煙室でたまに顔を会わせるだけで、挨拶もろくにした事がなかった。なぜそれが、こんな事態になったかと言うと、正樹が鬼塚の眼鏡を踏んづけて壊してしまったからだ。別に故意に踏んだわけではない。これも、ひとつの出会い…と言うか、事故だ。
 正樹が同僚と社食で食事を済ませ、戻ろうとしていたところを鬼塚とぶつかってしまったのだ。
 前のめりになって倒れそうになる鬼塚の背中を目にして、咄嗟に彼の片腕を掴んで引っ張ったが、それが却って悪かった。鬼塚の身体は思ったよりも軽く、引っ張った勢いで鬼塚の身体はぐるんと反転し、遠心力によって彼の眼鏡は空を舞った。それだけでなく、鬼塚の手にしたお盆の上から皿や箸も舞い上がり、反射神経のいい正樹はそれを避けようと鬼塚の腕を放して後ろへ飛び退ったが、その足元へ転がった鬼塚の眼鏡を踏みつぶしてしまったのだ。
「あ゛っ……」
 声を上げたのは正樹だけじゃなかった。その場にいた誰もが思わずといった声を漏らしたが、その声が集中していた先は正樹の足元よりも、その前に立っている鬼塚の方にだった。正樹は慌てて眼鏡の上から飛び退いて、恐る恐る視線を鬼塚に向けたが、見た瞬間血の気が引いた。
 鬼塚は頭からみそ汁まみれになっていた。
「すいません! だっ、大丈夫ですか?」
 大丈夫な訳ないよなと思いながらも、一番最初に思ったのはやけどをしなかったか、というものだったから、それしか言葉が出て来なかった。幸い、辺りに散乱しているのはみそ汁のワカメくらいだったので、食後らしいと分かって少しだけほっとしたが、状況は最悪なままだ。
 鬼塚は前髪が長い上にみそ汁で濡れてしまっているので、鼻から下しか見えない。唇が薄く開いたまま戦慄(わなな)いているから、当然怒っているだろうと思われた。馬鹿野郎と、怒声の一声も来るかと身構えたが、開かれた唇から零れたのは、ため息のような呟きだった。
「面倒くせぇ…」
 正樹は聞き違ったのかと、その薄くて形の良い唇をマジマジと眺めてしまったが、顔の前にずいっと鬼塚の右手が差し出され「眼鏡、取ってくれ」と言われた。
「あっ、えっと、それが……」
 正樹は足元の無惨な眼鏡を眺め、しどろもどろになった。鼈甲(べっこう)色のおじいさんがかけるような分厚いフレームの眼鏡は、レンズだけでなく、レンズを繋ぐブリッジも折れてしまっている。もう、どうにもならない状態だ。
「…見えないんだ。取ってくれ」
 少し苛つきながらせっつかれ、正樹は覚悟を決めるとバラバラになった眼鏡を拾い上げ、鬼塚の手に載せながら「壊しちゃいました。すいません…」と頭を下げた。
 鬼塚は無言で盆を持った片手をぐっと正樹の腹に押し付けた。どうやら持っていろという事らしい。正樹が盆を受け取ると、鬼塚は眼鏡を両手でいじくるように確かめていたが、眼鏡が真っ二つになってしまった事実を知ると、しばらく茫然としていた。
 食事を終えた帰り際の社員たちが、野次馬根性丸出しで二人を遠巻きにしながら事の成り行きを窺っている。話し声はともかく、忍び笑いが聞こえるのが癇に障った。正樹はこの場をどう収集しようか頭を働かせた。
 とにかく眼鏡は弁償するとして、その前に、ずぶ濡れの鬼塚を何とかしなくてはいけないだろう。自分の予備のワイシャツをロッカーに入れてあるから、それを貸せばいい…などと考えていると、鬼塚がボソリと呟いた。
「…どうせいつかは……面倒くせぇ……」
 意味が分からないが、それくらい怒っているのかも知れない。
 とにかく気を鎮めてもらおうと、「弁償します」と改めて頭を下げると、「いい…。それより、手、貸してくれ」と右手を差し出された。
 えっ、と思ってその掌を見ていると、鬼塚はまた苛ついたように「見えねぇ、つっただろ」と言って、差し出した右手で自分の前髪を持ち上げると、思いっ切り目を細めて正樹の顔を覗き込んだ。それこそ、鼻と鼻が触れ合うくらいの至近距離で見つめられ、息を飲んだ。
『この人、すごい美形だ……』
 喫煙室で顔を合わせてはいたが、まともに見たのは初めてだった。いつもボサボサの前髪と、厚ぼったいフレームに顔の大半が隠れていたから、こんな奇麗な顔をしているなんて思いも寄らなかった。新鮮な驚きと同時に鬼塚に対してとてつもない興味を覚えた。
「ここまで近づかないと、輪郭と色しか分かんねぇんだよ。いつまでもでもこんな姿でいたくない。悪いが、トイレまで連れてってくれ」
「分かりました……」
 もとよりそのつもりでいた。故意ではないが、こんな姿にさせたのは正樹のせいなのに、鬼塚は怒りもせず『悪いが』と断りさえしている。きっと人が良いのだろう。なのに、言葉遣いが汚い。そして何の脈絡もなく発せられる、「面倒くせぇ…」という台詞。
 この人、面白い。
 正樹は新しい遊びを見つけたときのように、胸がわくわくするのを感じた。
「ちょっと待っててください」
 そう鬼塚に断りを入れると、正樹はくるっと振り向いて、後ろで周りの野次馬と同じように成り行きを眺めていた同僚の前田(まえだ)に、「片付けといて」と空のお盆を押し付けた。
「何で俺がぁ?」
 前田は抗議したが、正樹はすかさず言い返した。
「そもそも、お前が俺を押したのが悪いんだろうが! わざとだったろ。分かってるんだぞ……」
 ドスを利かせた声音で耳打ちされ、前田は顔色を無くして大人しく頷いた。
「さあ、行きましょう」
 正樹はうやうやしく鬼塚の手を取ると、食堂をあとにした。

 着替え用にワイシャツを貸すつもりで、ロッカールームから一番近いトイレまで連れて行こうと思っていた。少し距離はあるが、同じ階にあるから大丈夫だろう。何処へ行くか説明しなかったが、鬼塚は小さな子どものように正樹に手を繋がれて大人しく歩いていた。
 鬼塚は見えないと言っているけれど、正樹は用心して横目で盗み見るように鬼塚を観察した。
 とても無口な人だ。それは喫煙室の態度からも窺える。正樹も無口なタイプだ。営業以外では極力無駄口はききたくない。それでも営業の性か、二人でいるのに会話が無いと気を遣うものだ。それが鬼塚とは特に気詰まりな感じはしない。存在感がないせいだろうか。
 今はいつものように前髪に隠れて顔が見えない。頭が鼻の高さくらいだから、身長差は十センチといったところか。遠目でも細い人だと思っていたが、近くで見ると思った以上に首も腰も細くて心配になるくらいだ。さっきだって、そんなに強く引っ張ったつもりはなかったのに、あんなに簡単に身体が回転してしまうのも頷ける。握っている指も細くて、気をつけないと折ってしまいそうだ。これでは抱きしめても楽しくないだろう。
『惜しい。顔はすごい好みなのに……』
 正樹は先ほど拝んだ鬼塚の顔を思い浮かべた。細められる前に一瞬開かれた瞳は、奇麗なアーモンド型をしていた。睫毛も結構長くて、優しい顔立ちだが女顔というほどでもない。それは凛々しい形の眉毛と、口元から顎にかけて尖っているのが、男らしく感じるからだ。とにかく、真性ゲイである正樹にとって、性的にそそられる顔立ちだったのだ。
『まあ、ノンケだろうから、期待はできないけど……』
 そう思いつつ、鬼塚は男の正樹に対して臆面も無く手を差し出して来たし、今だってガッチリ手を繋いでいるが、厭そうな素振りが全くない。これはちょっと期待できるのではないだろうか。身体が細いのなんて些細な問題だ。これから幾らでも太らせればいいのだと、内心でほくそ笑んだ。
 正樹の頭には、ノンケだから駄目、という自戒の念はない。それは、振られた時に自分を慰めるためのもので、相手に少しでも受け入れる素振りがあれば、臆せず攻める方だった。成功率は三割ほどだが、もともと勝ち目のない相手なのだから、恥じる事ない勝率だと思っている。正樹の思考は常にポジティブシンキングだった。それが、自分を支える信条でもあった。
「あのっ、すみません!」
 邪(よこしま)な物思いに耽っていたところを後ろから急に呼び止められて、正樹は心臓が飛び出しそうになった。平静を装って振り返ると、面識の無い女子社員が、タオルを抱えて立っていた。
「これ、使ってください。それと、トイレだと冷水しか出ないでしょう? 寒いから給湯室を使われた方がいいですよ」
 恐らく鬼塚のところの社員だろうが、彼女は正樹にタオルの束を手渡した。
「…その声は、清水か?」
 鬼塚がそう声をかけると、清水と呼ばれた社員はケラケラ笑いながら返事をした。
「そうです。課長、頭にワカメついたままですよ。部長には事情を説明しておきますから、奇麗に落として来てくださいね」
「…ああ、すまない」
 鬼塚はばつの悪い顔をしながらも礼を言った。頭を下げて歩き去る清水を、正樹は何となく落ち着かない気持ちで見送った。
「鬼塚さんって、慕われてるんですね」
 やっぱりそれなりにモテるんだと、感心したように言うと、「そんなんじゃない。あれは…からかいに来たんだろ」と面白くなさそうに答えた。
 清水に言われた通り、トイレの少し手前にある給湯室で鬼塚は頭を流した。その間に正樹はロッカールームへ行ってワイシャツを取って来た。頭を拭いている鬼塚に着替えるように勧めると、最初は固辞したものの「みそ汁臭さいですよ」のひと言で、諦めたように袖を通した。
 正樹がゲイである事など夢にも思っていない鬼塚は、当然の事ながら正樹の前で惜しげもなく裸体をさらしてくれた。残念ながら上半身だけだが、まあまあ目の保養になった。骨と皮ばかりかと思ったが、意外とそうでもなかったし、色白で乳首も奇麗な桜色だった。役職についているから年上だとは思うが、肌の張りは保たれている。年はさして違わないのかも知れない。だったら、見た目と違ってかなり仕事が出来るのだろう。
 両手を持ち上げるとさすがに肋骨が標本のように浮かび上がるので、やはりどうにか食べさせたいと思いながら、肌の上に直接ワイシャツを羽織る鬼塚を見て正樹は慌てた。
「あっ、鬼塚さん、セーターとかは?」
「そんなもん、もともと着て来てない」
「寒くないんですか?」
 寒さよりも、色っぽく素肌が透けて見える方が気になった。この人、まさかこのまま仕事を続けるつもりじゃないだろうな。
「会社の中は寒くないだろ。帰りはコートがある」
「いや、寒いでしょう!」
 せめてカラーシャツならまだマシなのだが、他のを貸そうにも正樹は白しか持っていない。しかも、ロッカーに置きっぱなしでもいいような安物だから生地も薄い。経理部は女性が多いのだから、乳首が透けて見えるのはマズいだろう。と言うか、こんな姿、誰にも見せたくない。
「ねぇ、鬼塚さん、半休取りましょう!」
「何で?」
「何でって、今日はもう、眼鏡ないから仕事できないでしょう? 弁償しますから、これから眼鏡を作りに行きましょう!」
「そりゃ、眼鏡は作りに行くけど、別に今すぐじゃなくていい。仕事は顔を近づければ何とか見えるから、退社後に行くよ」
 鬼塚は濡れた髪をわしわし拭きながら、どうでも良い事のように答えた。黒い髪の隙間から、好みの顔がちらちら見える。正樹は下っ腹がむずむずするのを感じた。
「退社後は、俺、付き合えませんよ」
 少し意地悪い気分になって言うと、鬼塚はそっぽを向いて「…誰も、そこまでは頼んでない」と言った。
 か、可愛くない…。初めてむかっ腹が立った。手を引いてもらわなきゃ、ここまで辿り着けなかったくせに!
 そう喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、落ち着けと自分に言い聞かせた。鬼塚の言う通り、確かに頼まれたのはトレイへ連れて行く事だけだ。もともとは自分が悪いのだし、ここで短気を起こして鬼塚を放り出しても良い物か?
 否、この出会いを、そう簡単に捨ててしまうのは惜しいじゃないか。よく考えろ…。
 正樹は徐(おもむろ)にポケットから仕事専用の携帯電話を取り出すと、「すみません、電話がかかってきたので」と嘘を吐いて給湯室を出た。そして、鬼塚に話し声が聞こえないだろう距離まで移動すると、総務部へ電話をかけた。
「お疲れ様です。営業部の堤です。すみませんが、経理部の日下部(くさかべ)部長の携帯番号を教えていただけますか。経費の事で至急伺いたい事があるのですが、今、出先なもので番号が…」
 総務の女性は何の疑いも無く事務的に番号を教えてくれた。難なく鬼塚の上司の番号を手に入れると、すぐに電話をかけた。もちろん、半休願いを取り付けるためだ。
 日下部は未登録番号であろう堤の電話にもすぐに出てくれた。簡単に自己紹介すると、すぐに何の用件か察したようだった。清水が言葉通り事情を説明していたお陰で、眼鏡を作ってやらないと仕事にならないようだからと理由を説明すると、本人からの願い出ではないのに、日下部はあっさり認めてくれた。
 それから自分の上司に電話を入れ、土曜に半日シフトするから休みたいと掛け合うと、こちらも前田から経緯を聞いていると見えて、あっさり許可してくれた。鬼塚には半休の許可を取った事を教えるつもりはなかった。言えば、どうせごねるだろうから。
 首尾は上々と正樹が鼻歌まじりで給湯室へ戻ると、鬼塚が心許なげにシンクに凭れていた。よく見ると身体が小刻みに震えている。それはそうだろう。廊下や給湯室は経費削減で暖房は切られている。その上、鬼塚の髪は濡れたままだ。寒くない訳がない。
「お待たせしました。さあ、行きましょう。こんな所にいたら風邪を引きます」
 鬼塚は正樹の声を聞いて顔を上げると、ほっとした顔をして薄く微笑んだ。その顔に、心臓が鷲掴みにされるのを感じた。正樹は小さく咳払いをすると、使わなかったタオルを鬼塚の肩に掛けてやってから、鬼塚の手をぎゅっと握って歩き出した。
 鬼塚は自分のフロアまで連れて行ってくれるものと思っているのか、素直に手を握られて歩いた。その手は冷たかったが、エレベーターに乗る頃には正樹と同じ体温になっていた。時刻は午後二時近くになっていて、エレベーターには誰も乗っていなかった。だから手を離さなかった。
「…ありがとう。助かった」
 右隣の少し後方から、ぽつりと鬼塚の声がした。振り向くと、下から見上げるように見ている鬼塚と目が合った。
 鬼塚の顔は髪で隠れてはいなかった。恐らくは輪郭しか見えていないだろう瞳に映る自分の顔を見ながら、この人、わざとやってるんだろうかと訝しんだ。
 また意地の悪い気分になって、正樹の顔が彼に見えるだろう距離まで顔を寄せると、唇に鬼塚の吐息が触れた。そのままキスしたい衝動に駆られたが、どうしようか、一瞬の躊躇の隙に鬼塚の身体が後方へ遠のいた。咄嗟に、逃がしてなるものかとぐっと手を握りしめたが、折れてしまいそうな細い指の感触にすぐに力を緩めた。
「どういたしまして。でも、先に営業のフロアへ寄らせてください」
 目的の階へ着いてエレベーターの扉が開くと同時に、正樹は鬼塚の手を離し背中を押して降りるように促した。頷いて素直に誘導される鬼塚の耳元に、声には出さずにささやいた。
『逃がさない。絶対あんたを手に入れる』
 さあ、それには一体どうしたらいいだろうか。正樹はわくわくしながら、また頭を働かせた。

 結局、正樹と鬼塚が会社を出たのは暫く経ってからだった。鬼塚は強引に半休を取らされたのを知ると、正樹の予想通り行かないとごねた。
 それを見越して先に営業フロアに寄り、帰り支度を整えていたから、正樹は気長に構えていた。それが思ったよりあっさり決着が付いたのは、日下部が口添えしてくれたお陰だ。
「仕事に支障を来(きた)すと言うのなら、今日眼鏡を作ってしまって、また明日からいつも通り過ごせるようにするのが、堤くんの言う通り、最善策だと思うがね」
 優しく諭すような日下部の言葉に、鬼塚は渋々と言った風情ながらも了承し、やっとこ駅前の眼鏡屋に向かったのは、午後三時を過ぎた頃だった。
 正樹は社内と同じように手を繋ごうとしたが、打って変わって鬼塚は頑に拒絶した。
「外で、いい年した大人の男同士が手を握って歩いたら、絶対変に思われるだろうが!」
「ホモだと思われても、別に良いじゃないですか。それに、腕を引っ張っても、肩を抱いて歩いても、変に思われるのはきっと同じだと思いますよ。あなたは見えてないんだから、変な視線を感じるのは僕だけです。仕方ないと諦めてください。どうせ眼鏡屋に着くまでの辛抱なんだから」
 へぇ、ホモだと疑われる心配をするなんて、こんな身なりに気を配らない人でも、世間を気にする目があったんだと、喋りながら冷めた視線を浴びせたが、鬼塚は見えているみたいに困った顔をしたあと「…肘を貸してくれればいいんだ」と言った。
「えっ?」
「目の不自由な人を誘導するときは、誘導者の肘の上辺りを持ってもらうんだ。肩でもいい。手を取る必要はないんだ」
 じゃあ、なぜ最初からそう言わなかったんだと突っ込みたかったが、言わなかった。さっき鬼塚は『外で』と言った。彼の中では社内は対面を気にする場所ではないのだろう。それに、言われなかったから正樹は鬼塚の手を握れた。自分にとって都合が良かったんだから、それでいいじゃないかと気持ちを切り替えた。
「……詳しいんですね」
「学生の頃、ボランティアをしていた」
「へええぇ〜〜……」
 鬼塚の過去が意外過ぎて思わず正直な声を漏らすと、「どうせ見かけに寄らないよ」と、そっぽを向いて押し黙ってしまった。その子どものような態度に『やれやれ』と苦笑いしながら、知れば知るほど面白いと思った。もっと知りたいと思うが、なかなかに扱いが難しいお姫様は、話の続きをしてくれなかった。仕方なく、正樹から気になっていた事を聞いた。
「鬼塚さんって、みそ汁嫌いなんですか?」
 食堂でぶつかったとき、鬼塚は食器を下善口(さげぜんぐち)に返すところだった。食事を全て平らげていれば、みそ汁まみれになる事はなかっただろうに。
 正樹の質問に、肘のすぐ上を掴んでいた鬼塚の手に力が入った。
「そうだよ…きらい、なんだ」
「みそ汁が嫌いって、めずらしいですね。外国人みたいだ。でも、栄養あるから残さず食べた方がいいですよ」
 やっぱり子どもみたいな人だなと、心から朗らかに笑った。また、ぎゅっと強く掴まれたのでヘソを曲げたかなと思ったが、「…そうだな」としおらしく答えたので、今度は声を忍ばせて笑った。
 会社から最寄り駅までは十分とかからない。その手前にある眼鏡屋には、あっという間に着いてしまった。眼鏡屋の前で立ちすくんだ鬼塚の背中を押して中に入ると、落ち着いた壮年の店員が出迎えてくれた。チェーン店の安い眼鏡屋とは違い、作家によるオリジナルフレームも置いている個人経営の店で、隣りの眼科医と提携している。若い世代の客は少ないが割と繁盛していた。
 多少値が張っても鬼塚に似あう眼鏡をかけさせたかった。本当はコンタクトレンズに替えさせたかったが、会社を出る前に拒絶されていた。
「どうやったら、眼に異物なんぞ入れられるんだ!」
「僕も最初はビビリましたけど、慣れますよ」
「絶対に厭だ…面倒くせぇ」
「まあ、面倒くさいのは事実ですけど、使い捨てのもありますよ?」
「そんなの、もったいなさ過ぎるだろ!」
「確かにもったいないですが、人によってはタンパク質の付着がひどくて白く濁っちゃうから…」
「眼鏡でいい! 面倒くせぇ…」
「…そうですね」
 そんな遣り取りをして、口癖だけでなく心底面倒くさがりなんだなと呆れながらも、確かに慣れるとは言え、購入時に眼科医で少し練習しないといけないから、やっぱり鬼塚には無理だろうと、コンタクト路線はあっさりと諦めたのだ。
 店員に殆ど見えていない鬼塚の事情を説明すると、鬼塚のためにスツールを用意してくれた。鬼塚の眼鏡なのだから本人が選ぶべきだが、今までかけていたのと同じ野暮ったいのを選びそうだったので、正樹が片っ端から自分好みの眼鏡をチョイスして、座っている鬼塚にかけさせた。そして、鬼塚ではなく店員に意見を求めた。何故なら、鬼塚は洒落たデザインのものは速攻で却下するのだ。だから無視する事に決めた。
 正樹は店員に相談しながら、一時間かけてオーバル系の細い銀のフレームのものと、スクエア系の幅の細い黒縁のものと、デザイン要素の強いアンダーリム(下側にのみ縁のある)系の焦げ茶色のフレームを選んだ。
「さあ、この中から選んでください!」
 それしか選択肢は無いぞとばかりに強い口調で言い放つと、鬼塚は意外なほど素直にその三本をかけ比べて、スクエア系の黒縁フレームを選んだ。
 店員は一番値の張る「アンダーリムもお似合いですよ」と勧めたが、鬼塚は頑として譲らなかった。正樹も値段は別として、店員の勧めた眼鏡が一番似合うと思ったが、結局は鬼塚の好きな方が良いだろうと、「僕もそれが落ち着いてて良いと思いますよ」と賛成した。
 視力を計ってもらい、レンズを選んで金額が出ると、正樹が「弁償するから」と支払おうとするのを、絶対駄目だと言い張るので、「じゃあ、半分出させてください」と下手(したて)に出ると、それならと了解してくれた。この人、可愛い人だなと、おかしくなって胸の中で笑った。
 出来上がるまで四十分ほど時間がかかるので、正樹は行きたい所があると言って鬼塚を誘った。向かったのは眼鏡屋の五件隣りの床屋だ。
 会社を出たときよりも、正樹は鬼塚の扱い方が分かって来ていた。「僕も散髪するのでどうですか?」と、さり気なく誘うと、今までみたいにいきなり拒否する事はなく、暫く迷っている風情をみせた。正樹はもうひと押しと鬼塚の側へ寄ると、「髪にまだみそ汁の匂いが残ってますよ。せっかくだから、ここで洗ってもらいましょうよ」と微笑んだ。鬼塚は余程みそ汁が嫌いのだろう、首が落ちるようにコクンと頷いた。
 顔見知りの店長に、先に鬼塚をカットしてもらうように頼むと、小声で「野暮ったいでしょう? でも本当は凄い美形なんだ。店長の腕で変身させてあげてよ」と耳打ちした。店長は目を輝かせて「腕が鳴るね」と頷いた。その返事を聞いて正樹はほくそ笑んだ。
 気分はもう『マイ・フィア・レディ』のヒギンズ教授だった。否、現代版『プリティ・ウーマン』のルイスの方が近いか。眼鏡でも散髪でも、相手を美しく装わせるための散在なら痛くもない。まして、磨けば光る球ならば金のかけ甲斐がある。
 鬼塚は鏡に映る自分が見えていないのだろうが、いきなり前髪をばっさり切られて動揺したのか瞳が忙しなく動いたが、途中から諦めたように目を閉じてしまった。
 鏡に映る鬼塚の顔は真逆に映っても違和感がなく、ほぼ左右対称なのだと分かってつくづく感心した。三年も前から鬼塚を知っていたのに、気づかなかった時間がもったいなく思えた。
 客が一人帰ったので正樹も軽く整えてもらった。隣りでは鬼塚が仕上げに入っていて、ちょうど良い具合にすかれた前髪を、整髪料で流してもらっているところだった。トップも襟足もかなり短くなったが、それほど跳ねさせたりはしていない。サラリーマンのTPOを考慮して、自分でも整え易い髪型にしてくれたようだ。
 想像以上の仕上がりに、店長も正樹も互いに顔を見合わせて頷いた。当の本人は見えない目を細めていい男を台無しにしていたが、大体の見当はついたのか、目を閉じるとため息を零していた。
 眼鏡屋に戻って鬼塚は眼鏡を受け取った。その場でかけると、店員が惚れ惚れするといった表情で、感嘆まじりに「よくお似合いです」と誉めたが、鬼塚はよく見えるようになった筈なのに、見えないときのように目を細めて眉間に皺を寄せていた。
 一緒に店を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。飲むにはまだ早い時間だろうが、どうせ半休を取ったのだからと、『このあと一杯どうですか?』と口を開こうとした瞬間に、鬼塚は正樹を制止するように右手を上げて「今日は、ありがとう」と言った。
「あっ、はい……」
「このお礼は、いつか必ずするから。じゃあ、お疲れ様」
 日の下に現れた形の良い瞳から、はっきりした拒絶の光を放って言い切られると、言葉が出なかった。背を向けて駅へ歩き去る鬼塚を見送りながら、正樹は腹の底が熱くなるのを感じた。怒りではない。闘志だ。
「絶対、手に入れる」
 遠ざかる鬼塚の背中に、今度こそ声に出して呟いた。

NOVEL [↑] NEXT

Designed by TENKIYA