INDEX NOVEL

Mr. シンデレラ 〈 4 〉

 さすがにこの年になると、全開で泣き続けるなんてそう長くはできない。疲れ過ぎて泣き止むと、ため息を吐いてズボンを脱いだ。明日も店がある。ワイシャツは兎も角、ズボンが皺になるとアイロンをかけるのが面倒で嫌だった。どんなに疲れていても長い間に身に付いた習慣で自然と身体が動く。
 スウェットに着替えてズボンとベストをハンガーに掛け、もう一度ベッドに倒れて枕を抱えた。先ほどまでの噎ぶような激情はない代わりに、止まらない後悔の念がしくしくと胸を苛んだ。
 告白などしなければ良かった。『一緒に行きたい』で止めていれば、置いて行かれたとしても跡を追って行く事はできた。それが駄目でも、休みの日に押し掛けるくらいはできた筈だ。“ 親友 ” として…。
 喉の奥で後悔が呻きになって迫り上がる。枕に顔を埋めて獣みたいに声を張り上げていると、遠慮がちにノックの音が聞こえた。はっとして唸り声は止まったが、声は出せなかった。ベッドのヘッドボードに置いた目覚ましを見ると既に十二時を回っていた。店は疾っくに閉まった頃だ。そのまま返事をしないでいると暫くして「入るぞ」と言いながら兄が顔を覗かせた。
「おい、どうした? 林くんに聞いたけど、友彰くん、また “ いつもの ” 出ちゃったんだって?
お前、友彰くんと話してたんだろう? 林くん、友彰くんが魂が抜けたみたいな顔して帰って行ったって、心配してたぞ? どうしたんだ? ん?」
 しつこい問い掛けにチラッと顔を上げると、兄はギョッとした顔で「酷いツラだな…おい。ケンカでもしたか?」と言って苦笑した。
 驚かれるのも無理はない。自分でも瞼が腫れぼったいのが分かる。後で冷やさないと酷い事になるだろう。
 兄はちょっと待ってろと言い置いて一旦部屋を出ると、暫くしてビールの缶を二本持って戻って来た。ほれっと言って差し出すビールを一瞥して「飲みたくない…」と呟くと、「じゃあ、目にでも当てて冷やしとけ」と枕元に置いた。兄は絨毯の上に胡座をかいてプルトップを開けると、いそいそと旨そうに一口飲んだ。
 コックコートを脱いでTシャツの上に生成のカーディガンを羽織った兄は、親父によく似ていると思った。七つ年上で今年三十三歳になるが、年々似ていくようだ。きりっとした男らしい風貌は古い顧客のマダムたちに人気で、わざわざテーブルに呼ばれる事も多い。その度、林くんの機嫌が悪くなるのは俺の気のせいだろうか。
 俺はのろのろと起き上がってビールを手に取ると、瞼の上に冷たい缶を押し当てた。冷た過ぎて痺れるような痛みを感じるが、それが却って気持ち良かった。
「なあ、友彰くん、“ アレ ” だったんだろ? だったら、何でお前はそんなツラしてるんだよ?」
 嫌らしく指示語で話す兄が鬱陶しくてムッとしたが、俺の性癖も友彰に惚れてる事も、兄には全部バレている。今更隠し立てしても仕方がないと、俺はため息を吐いて投げ遣りに答えた。
「友彰にコクッた」
「グッ!!」
 飲んでいたビールが気管に入ってしまったのか、兄は口を押さえてゲホゴホと咽せた。暫く咽せた後、涙目になりながら素っ頓狂な声を上げた。
「はぁぁっ? だって友彰くん、今さっき梨花さんにフラれたばかりなんだろう? お前、それ、勇(いさ)み足過ぎやしないか?」
「だって! あいつ、中国に行くって…。海外赴任で五年も戻って来ないなんて言うから…」
「ええっ? 中国?!」
 兄はまたしても素っ頓狂な声を上げてう〜んと唸った。
「友彰くんがプロポーズしたのは、海外赴任の事があったからか…。お前、知らなかったのか?」
「知らないよ! 今の今まで黙ってたんだぜっ! 十二月だってさ…もう来月じゃんか。酷いよ…」
「そんで、コクッた訳だ…」
 額に手を当てて首を振る兄の姿にムッとしてイジケの虫が頭を擡げた。
「アッタマ来たから、思いっきりベロチューしてやった」
「ブッ!!」
 兄は今度こそ本当にビールを吹き出した。俺は汚ねぇなと言いながらティッシュの箱を投げつけた。兄は零れたビールを慌てて拭いながら怒鳴った。
「ばっか! 驚かせるからだろ! そっ、それで、友彰くんどうしたんだよ?」
「知らねぇ。置いて逃げた」
「はああ〜〜。そりゃ、魂も抜けるわな…。あれ? それじゃ、返事を聞いた訳じゃないんだろ? なのに何でお前はこの世の終わりみたいな顔してるんだ?」
「答えなんて聞かなくても分かってる!! 男の俺にコクられて、魂抜けるほどショックだったんだろ? もう、友だちでさえいられないよ! 嗚呼っ、俺って馬鹿だ! 大馬鹿だ!! こうなるって分かってたから、ずっと我慢して来たのにぃ〜〜」
 最後は涙声になって掠れた。また目の奥が痛い。俺は枕を叩いて唸り声を上げた。
「そういうもんかねぇ…」
 兄の呑気な声を聞いて俺のイジケ度数は更に上がった。
「そういうもんだよ! 俺、何で女に生まれなかったんだろ?女はイイよな。狡いよ。昔と違って今は何でも許されてる。女がなれない職業なんて殆どないだろ? 服装だって男物を着てても可笑しいとは思われない。ヘアスタイルだって長くても短くてもOKだ。タバコは吸い放題、不倫、援交、遣り放題。生き方全部が自由じゃないか。それに比べて、なんて男は不自由なんだ! 男と結婚できるのも、スカート履いて歩けるのも英国だけじゃんか!」
「何じゃそりゃ。論点がズレまくってる。つうか、お前スカート履きたかったのか?」
「ちが〜う!! そんな事言いたいんじゃないよ! 梨花さんが言ったんだってさ、仕事を続けたいから結婚できないって。そんな理由でプロポーズをアッサリ断れるのは、俺からしたら女って “ 性 ” の上に胡座をかいているとしか思えない。男と結婚できるのが当たり前だから。いつでも結婚できると思っているから…。梨花さんはシンデレラの幸せなんて糞食らえなんだってさ!
 俺はその糞以下の幸せが欲しくて、欲しくて、喉から手が出るほど欲しいのに…。友彰にも言われた。女の梨花さんも仕事に打ち込んでいるんだから、お前もここで自分の仕事を頑張れって。
 ねぇ兄さん、男は、シンデレラに憧れちゃ駄目なのかな? 誰かの為に生きるのは、駄目な生き方なのかな…」
 自分でも女々しい事を言っていると思う。でも、これが本心だ。言いながら惨めさに喉が塞がって枕に突っ伏した。暫くそのまま沈黙が続いたが、盛大なため息が聞こえたかと思ったら頭の上に手のひらの温もりを感じた。
「俺は別にそんな事ないと思うぞ…」
 俺の頭を撫でながら兄は穏やかに言った。
「そうイジケるもんじゃないさ。お前の言うように、確かに大抵の人間が普通に結婚できると思っているし、男は女を養うってのが世間一般の考え方だろうよ。だから男は女以上に仕事に精を出せって事になるわな。でも、そういう世間の常識を前提にしたら、お前や、お前と同じ感情をもつ人は身動き取れなくなるのは当然だろう。俺はさ、そう言うのは男とか女とか関係ないと思うよ。要はその人が、どこに重きを置いて生きているかって事だろう?
 梨花さんに関して言えば、情よりも理が勝る人だから、そういう人生の天秤で測ったら、友彰くんより仕事が重かったって事なんだろうし、お前は情が勝るから、何と比べても友彰くんを乗せた皿の方が重いというだけの事だ。性別は関係ないし、お前の幸せはお前が決めればいい。
 人の幸せはそれぞれだから、同じ秤を持つ人はひとりもいないんだよ。だから比べられないし、その人の選択を無闇に悪く思ってはいけない。まあ俺も、そう思えるようになったのはごく最近の事だけどな。人が “ 多面体 ” だって当たり前の事に気づくまで、随分時間がかかったよ」
 しみじみと語り掛ける兄の言葉に心を引かれ、俺は顔を上げて聞いた。
「多面体?」
「そうだ。人の視点は一つだから、自分が見ている他人の姿はほんの一部分だけだ。でも人は多面体だから、見えない部分に色んな面を持っている。梨花さんだって友彰くんだって、見えない部分で躓いたり悩んだりして、より自分らしい生き方を探しているんだろうよ。だから、自分の理解を超える言動があったからと言って、簡単に見限ってしまったり、失望したりしてはいけないんだと思うよ。
 俺は、お前の性嗜好を知った時、お前とどう向き合っていいのか分からなかった。けど、お前言ったよな、『病気じゃない』って。あの時は何言ってやがるとカッと来たけど、冷静になると確かにそうだと思ったよ。じゃあ、お前のその “ 人と違う部分 ” は一体何なのかと考えた時、“ ゲイである事 ” は、お前という人間を形作る “ 個性の一つ ” に過ぎないんだと思い至って、目を覆っていた膜が取れた気がした。
 お前はホントに、弱っちくて捻くれ者で甘ったれで、とんでもなく扱いにくい奴だよ。だけど、案外根性があって努力家で、思い遣りがあって優しくて…。それが、 “ 一見啓介 ” っていう人間なんだよな。それが、俺の弟なんだよな。良い所も悪い所も含めて、きっと、そのどれが欠けてもお前じゃなくなるんだろうと思う。俺は丸ごと一つの “ 人間 ” としてその対象を見られるようになってから、随分と楽になったよ」
 まあ、悪い所はあまり見たくはないけどねと笑った兄の顔を、俺は不思議な心持ちで眺めていた。
 友彰と同じ事を言う兄も、この世で俺を理解してくれる数少ない大切な人なんだと思ったが、兄がここまで俺の事を考えていてくれたとは、正直思ってもみなかった。
 高校生の頃、ゲイだと白状させられてから暫く、兄との関係は最悪だった。お互い口もきかないし、できるだけ顔を合わせないようにしていた。そんな状態が改善されたのは、両親が亡くなる少し前だった。
 ある日、兄は顔中青痣だらけにして帰って来るなり、部屋に閉じ籠もって俺たちを慌てさせた。母は急いで氷嚢とタオルを俺に手渡し、「こういう時こそ、仲直りのチャンスよ!!」と言って、俺を兄の部屋へ押し込んだ。
 兄弟喧嘩をしていると思い込んでいた両親は、口にこそ出さなかったけれど、俺たちの険悪な関係をとても気に病んでいたようだ。それにしたって、こんな時に何をどう言えばいいのか。俺は途方に暮れながら、ベッドの上に丸まって全てを拒否している背中に「ケンカしたの?」と声を掛けた。
「お前、あの時一緒にいた男の事、好きなのか!?」
 いきなり不機嫌な声で切り返されて、カッと頭に血が上った。湯島のホテルの前で言い争いになった時、一緒にいた男の事を言ってるのだ。何があったか知らないが、殴られて来ただけじゃ足りなくて、俺との事も蒸し返す気なのかとウンザリしたが、ここで喧嘩をしたら母の気遣いが無駄になる。ぐっと我慢して深呼吸をすると冷静に答えた。
「あの人は別に…嫌いじゃないけど、そういうのと違う。好きな人はいるけど、片想い。永久に俺の片想い…」
 俺の返事に、兄は徐に起き上がってこちらを見た。左目の下の青痣よりも、切れた唇の端にこびり付いた黒い血が生々しかった。
「何で、“ 永久に ” 片想いなんだよ?」
 兄は真剣な眼差しで問い掛けた。だから同じだけ真剣に答えた。
「その人はゲイじゃない。普通の男だから。天地がひっくり返っても、俺を好きになってはくれない」
「…………」
 俺の台詞を聞いた途端、兄は片手で口を押さえて泣き出した。声を殺してはいるが後から後から滝のように涙を溢れさせる姿に吃驚して、どきどきと鼓動が速まった。兄が泣くなど何年振りに見ただろう。見てはいけないものを見た気がして、恐る恐るタオルで目元を拭ってやると、兄は俺の手ごとタオルを握って顔に押し当て、そのまま長い事泣き続けた。
 結局、何があったのか聞き出す事はできなかった。翌朝、「昨日はありがとな。それとあの時は、すまなかった」と頭を下げられたら、頷く以外何ができるだろう? 
 兄は顔を腫らしたまま毎日きちんと仕事に出掛け、俺とは仲違いする前のように普通に接してくれた。それっきり、兄の喧嘩(プラス心の変化)の理由は分からないまま終わると思っていたが、暫くして母がある情報を仕入れて来た。
 兄の喧嘩の相手は、高校時代の親友で永井(ながい)と言う人だった。同じ町内の大きな鰻(うなぎ)屋の長男だが跡は継がず、どこかの企業で研究者をしている人で、大学時代に結婚して子どもが二人もいるらしい。なのに、奥さんと子どもを残して別の女と出奔したんだそうだ。捨てられた奥さんの美子(よしこ)さんとも友人だった兄は、逃げた先を探し出して永井さんと殴り合いになった――と、鰻屋さんの奥さんから聞いたそうだ。
「好き…だったのかしらねぇ…」
 美子さんの事、と母は渋い顔をしながら呟いたが、俺も同じ事を考えていた。だったらチャンスなのにと思ったけれど、程なくして離婚した美子さんが長野の実家に戻る時も、兄は駅に見送りに行っただけだった。両親が亡くなった翌年、喪中を知らせなかった美子さんから再婚の挨拶を兼ねた年賀状が届いた時も、兄は黙ってハガキを眺めていただけだった。
 兄は、兄の言う、俺には “ 見えない部分 ” で一体何を悩んだのだろう? 心の秤で、美子さんと何を比べていたのだろう? 自分の幸せは自分で決めるものだと言うけれど、俺は駄目な奴だから、甘ったれだから、やっぱり教えて欲しいんだ。
「俺、これからどうしたらいいだろう? 友彰さ、俺の気持ちに気づいていたみたい。なのに知らない振りで、梨花さんにプロポーズして…。俺を無視して、このまま中国へ行こうとしていたのを知ったら、我慢できなかった。だから、告白したんだ。でも、今は後悔してる。時間を巻き戻したいくらい、後悔してる…」
 俺は嫌になるくらい自分の性格を分かっているつもりだった。だから、天の邪鬼で心にもない酷い事を口にしてしまっても、言った以上はその責任を持たなきゃいけないと思ってた。でも、あの告白は取り消したかった。どこかに魔法使いがいるのなら、寿命を削ってもいいから、告白する前まで時間を巻き戻して欲しかった。
 兄はビールの缶をチャポチャポ音を立てて振りながら、そうか、バレてたか…と呟いたが、急にクスッと笑うと「後悔なんかする必要ないじゃないか」と目を細めて俺を見た。
「目は口ほどに…って言うけど、お前の目はおしゃべりだからな。俺や林くんだって見ていて分かったくらいだもの、十年もお前に付き合ってる友彰くんが気づかない訳ないわな。良かったじゃないか、告白できて。お前、こんな事でもなけりゃ、一生黙ってる気だったんだろう? 俺は多分、その方がもっとずっと後悔してたと思うぞ。
 俺もな、叶うならお前の相手は友彰くんがいいと思ってた。まあ、それはこちらの勝手な思い込みで、向こうの家族や先々の事を思うと、無闇にお前の背中を押す訳にもいかなかったけどなぁ。でも、もういいんじゃないのか、思うようにしても。お前はこれまで十分悩んで来たんだろう?
 それでも諦め切れないんなら、気持ちを伝えるしかないじゃないか。良かったんだよ、これで。それに、お前は駄目だと言うけれど、彼がどんな答えを持っているのか、まだ分からないじゃないか。梨花さんにはフラれちまったんだしな。後悔なんて早過ぎるさ。
 なあ、友彰くんは良い男だよ。お前の事を誰より分かった上で、ずっと付き合ってくれていた。俺は、彼がこのままお前との仲をうやむやにして中国へ行くとは思えない。少なくとも向こうへ発つ前に、別れの一つも言いに来てくれるだろうよ。彼は、そういう男だろう? その時に、もう一度ちゃんと気持ちを伝えて、この先どうして行きたいのか、二人でじっくり話し合えばいい。友だちに戻れるかも知れないし、お前の望む答えだって貰えるかも分からないだろ?」
 俺は、兄の言葉を半信半疑で聞いていた。じっと上目遣いで見つめる俺の視線に気づいた兄は、俺の頭をポンポン叩いて片眉をつり上げた。
「だから、いつまでもそんな恨めし気な顔してイジイジしてるんじゃない。友彰くんが来るまで、お前はお前のやるべき事をやって、いつも通りにしてりゃあいいんだよ。明日も忙しいんだから、頑張ってくれよ!」
 そう言うと、最後に人の頭をくしゃくしゃに掻き回して、分かったかと笑って出て行った。兄の言葉には随分慰められたけど、胸に開いた穴から空気が抜けていく心地は止めようがなかった。
 いい加減大人だから仕事だけはしっかりしようと思って、次の日からきちんと店には出たけれど、ふと、何かの拍子に手が止まってしまうのは一度や二度ではなくて…。その都度、林くんに声を掛けられ我に返るという有様だった。
 そうして、告白した日からただ無為に時間だけが過ぎて、とうとう明日から師走という日を迎えても、友彰は姿を現さなかった。

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