INDEX NOVEL

Mr. シンデレラ 〈 3 〉

 控え室の中は何の物音もしなかった。友彰は目を大きく見開いたまま、息を詰めてじっとしていた。二人の間には、少しでも動いたら “ 何か ” が壊れてしまうような緊張感があった。
 俺は捨て身と言いながら、この期に及んでもまだ「好きだ」とは言えなかった。だから、驚きに染まった友彰の瞳に、真意が伝わったのかどうか分からない。でも、それならそれで構わない。俺は友彰と離れたくない。梨花さんの代わりでも何でもいい。中国でも、この世の果てでも付いて行きたかった。
 もう一度、一緒に行きたいと口を開きかけた時、白くなっていた友彰の頬にぱっと赤味が差した。それは見る間に耳まで広がり、その鮮やかな変化に目を奪われて息を呑むと、友彰は慌てて目を逸らせた。
「それは、駄目だろ…」
 俯き加減に呟いた声音には当惑が混じっていた。
「どうして? 何で駄目なんだよ。俺は――」
「だってほらっ! お前は店の仕事があるし! 優秀なソムリエである看板ギャルソンがいなくなったら、亮介さんだって困るだろ?」
 友彰は突然顔を上げて大声で俺の台詞を遮った。貼り付けた笑顔の中で瞳が忙しなく揺れている。言い訳したり、何かを誤魔化そうとする時は必ずこうやって目が泳ぐ。やっぱり友彰は…。なのに、知らない振りをしようとしている。胸の中に怒りと悲しみが霧のように立ち込めた。
「店の事はどうだっていいんだよ! 林くんのお陰で経営は安泰だし、兄さんの腕も上がったし。俺なんかいなくても順調に回っていくさ。誰も困らない。でも、お前は? 飯とか、どうするんだよ。お前、脂っこい中華料理は嫌いだろう? ニラが苦手で餃子だって食べられないし、酢豚だって、肉団子だって、あの甘い味付けが全部駄目なくせに。毎日麻婆豆腐と焼売だけ食ってる気かよ。梨花さんも…、誰も付いて行かないんじゃ困るだろ? だから俺が――」
「そうだけどっ! そうだけど…さ。俺の事は、まあ…何とかなるよ」
「何とかなる!? 何とかなってたら、今までだって苦労してなかっただろ!」
 再度、台詞を遮られて俺の癇癪玉が破裂した。俺は大抵言ってはいけない事を口にしてから気がつく。友彰は鼻白んでぐっと詰まった後、押し殺した声で、それは感謝してるよと言った。
「今までの事は、本当に感謝してる。お前のお陰で随分食べられる物が増えた。啓介には足を向けて眠れないよ」
「べっ、別に…感謝して欲しくてやってた訳じゃない。うちの店が大変だった時には、お前に助けて貰ったし…」
「じゃあ、おあいこだ。貸し借り無しで丁度いい。これで俺は、心置きなく中国へ行けるよ」
「何だよそれ…そんな事言うなよっ! それじゃまるで…」
 冷たい突き放した言い方に体温が下がった。俺の気持ちは疎か俺たちの今での付き合いを――“ 親友 ” としての間柄さえ清算するみたいな物言いに、自分で地雷を踏んだにも拘わらず、情けなくて哀しくて泣きそうになった。
 友彰は憮然とした顔をしていたが、涙目で見つめる俺の顔から目を逸らすと、眉間に皺を寄せて辛そうに俯いて言った。
「…なあ。お前の気持ちは嬉しいよ。今この状況でそこまで言われたら、情けないけど縋りたくなる。だけど…駄目だ。やっぱりお前はここで、自分の仕事を頑張らなくちゃいけないよ。さっき、梨花さんに言われたんだ。『私はシンデレラじゃないのよ』って…。俺は、目が覚めた気がしたよ」
 友彰は遠くを見るように前を向いて、梨花さんの返事を教えてくれた。
 パンプキンパイを食べながら、友彰が『一緒に中国へ行ってください』と告げると、うちの店に誘った時からプロポーズを察していたらしい梨花さんは『NO』と即答したそうだ。

『私ももうすぐ三十歳だし、結婚したくない訳じゃないのよ。でも、私は女の子がみんな憧れるシンデレラみたいな幸せに、ちっとも魅力を感じないの。結婚しても、子どもを生んでも、仕事を辞めるつもりは無いの。一生働いていたいと思ってる。そう思って、必死に頑張って入った会社なのよ。
 総合職で入って、男と同等に渡り合って七年経つわ。辛い事もあったわよ。でも、お陰で今、すごく仕事に遣り甲斐を感じてる。女の私が、そんな仕事に巡り会えるのって滅多に無いと思わない? 勿論、私を認めてくれる職場にも感謝してる。だから、辞めたくないの。
 ごめんなさい。私は貴方と一緒に中国へは行けないわ…。
 貴方には、中国で貴方を “ 必要としている仕事 ” があるけど、私には無い。貴方が必要としている “ 奥さんと言う仕事 ” では、私はきっと満たされない。結婚はゴールじゃなくてスタートなのよ。目標のない人生のスタートを切る事はできないわ。貴方の事は好きよ。一緒にいると楽しい。でも、貴方と私の見ている将来は全然違うものよ』

 それじゃ、結婚はできないでしょう? って微笑まれたら、もう何も言えなかったよと、苦笑しながら友彰は言った。
 こりゃあ、吐く訳だな…と俺は心の中でため息を吐いた。前からはっきりモノを言う人だとは思ってたけど、『目標のない人生のスタート』って、そりゃちょっとキツクないか?
「まあ、ショックはショックだったな。結局吐いちゃったし。でも、亮介さんの料理を無駄にして悪いけど、全部吐いて、今はなんかスッキリしてる。彼女が仕事に懸けてるの知ってたから、納得しただけで怒る気にはならなかったよ。それに、お前にも言われたけど付き合って三ヵ月だからなぁ、断られるだろうと思ってたし…」
「断られると分かってても、プロポーズするほど好きだったのか…?」
 聞くのは怖かったけれど、どうしても確かめたくて小さな声で尋ねた。友彰はソファの背に凭れて腕組みすると上を向いて目を閉じ、暫く考えてから口を開いた。
「好き…だったよ。でも、どうなんだろうな…。ついさっきの事なのに今改めて考えると、俺、思い詰めてただけかも知れない。やっぱり自信が無かったんだよ、仕事に対して。今までの俺は五時から男で、仕事に対して梨花さんみたいな情熱はもっていなかった。
 そりゃ、車の仕事がしたくて選んだ会社ではあったけど、俺の中心は飽く迄もラグビーだったから。それが無くなった時点で辞めるべきだったのかも知れないけど、それは嫌だった。辞めてしまったら、ラグビーだけじゃなく “ 社会人として ” 働いていた四年間の自分自身をも無くしてしまう気がしたからだ。
 だけど、その気概だけでやって行けるほど仕事は簡単じゃなかったし、梨花さんにはいつも仕事のサポートをして貰ってた。だから甘えたんだ。これからたった独りで、右も左も分からない中国で仕事を続けて行くのが怖かった。彼女のカラッとした物怖じしない性格に憧れてたから、側で支えて貰えたら乗り越えられる気がしたんだ。でも、彼女だって本当は必死で頑張っているんだって、改めて思い知らされて、恥ずかしくて消え入りたくなったよ。
 まあ…お陰で目が覚めた。食べる物の事もそうだけど、仕事も何もかも全て、俺が独りで乗り越えなくちゃいけない事なんだよ。だから、お前の申し出は嬉しいけど、お前はお前自身の事を、ここで頑張るべきだと思うよ…」
 友彰は目を開けて天井を見ていたけど、俺の方を見ようとしなかった。
 俺はどう仕様もなく悔しかった。梨花さんには甘えて、俺に甘えてくれないのが悔しかった。友彰自身の問題だと言われてしまえばそれまでだけど、俺は友彰の助けになりたいのに。俺がしたい事は、友彰の役に立つ事なのに。
「何を頑張れって言うんだよ…。俺の仕事は、友彰の仕事みたいに立派でも何でもない。誰がやったってできる、取るに足らない仕事だよ」
「そんな事ないだろ! 仕事に貴賤(きせん)はないし、給仕もソムリエも立派な仕事だろ。それにお前には、俺と違って目標があるじゃないか。シニアソムリエになりたいって言ってただろ?」
 友彰は急に向き直って捲し立てた。俺は最後の台詞に吃驚して目を見張った。確かにそう言った覚えはあるけど、言われるまで忘れていた。よくそんな事覚えていたなと感心してしまった。忘れていたばつの悪さに、「そうだけど…」と曖昧に口を濁すと、友彰は目を細めて「そうだろ?」と笑った。
「俺、お前の働いている所を見ているのが好きだった。ソムリエの仕事は偶にしかなかったから滅多に見られなかったけど、タキシードに正装して金のぶどうのバッジをつけてさ、タブリエ…だっけ? あれをしたお前の姿は本当に格好良くて、見る度に見惚れたよ。お前の姿に目を奪われている女性客を見ると、あれは俺の親友なんだと心の中で自慢してた。でも、本当の事を言うと、お前に給仕の仕事なんてできないと思ってた。おじさんたちが亡くなって仕方なく始めた事だし、長続きはしないと思ってたよ。だから、ずっと心配してた」
 俺は驚いて「心配?」と訊くと、友彰はまた前を向いて頷いた。
「俺は高校生の頃からずっとお前が心配だった。人とは馴れ合わないし、変に突っ張ってて危うい奴だと思ってた。おまけに身体も弱くて、体育の校内駅伝で走った後、歯が浮いて痛いものだから、次の授業時間中ずっと下を向いてハンカチで口元を押さえていただろう?
 お前、誰にも知られたくなかったんだよな。女子も含めてみんなケロッとした顔しているのに、自分だけ体力が戻らないのが恥ずかしかったんだろ? なのに、英語の三浦先生は目敏くて、具合が悪いなら保健室へ行くように勧めたのを、凄い勢いで平気だって食ってかかって、みんなに変人扱いされたよな。
 そんなお前が、誰も目を向けない花壇の水遣りとか、ガイコツって渾名のヨボヨボの高倉先生の資料教材をいっつも運んでいたの、俺は知ってるよ。本当はまっすぐで情の厚い奴なのに、人が『白』って言ったら『真っ黒』って言う超がつく天(あま)の邪鬼(じゃく)だから、人に傅く仕事なんてできないんじゃないか、嫌な客が来たら喧嘩になるんじゃないかってさ。
 でも、取り越し苦労だった。お前は亮介さんを助けて、本当によく働いてた。俺でも頭に来るようなクレームをつける嫌な客にも丁寧に対応して、頭を下げるお前の姿を見た時は感動すら覚えた。だから、お前がソムリエになった時は嬉しかったし、シニアソムリエになりたいって夢を語ってくれた時は、ちゃんと将来を見据えている事に安心した。
 ラグビーを失ったこの半年間、目標もなくただ働く事に意義を見出せなかった俺は、お前の姿に励まされた。口先で励ましてくれる誰よりも、頑張って働くお前の姿が、俺も踏ん張って今の会社で頑張ろうって思わせてくれた。だから、感謝してる…。なあ、自分の仕事を取るに足らないなんて言うな。胸を張って誇れる立派な仕事なんだから、ちゃんと夢を叶えて欲しいんだ…」
 友彰はずっと前を向いたまま話し続けた。俺は友彰が、俺をそんな風に見ていてくれた事を初めて知った。
 友彰が活力を失っていた間、俺は友彰と過ごせる時間が続くようにと、特に励ました事など一度もなかった。ごく普通に仕事をする俺の姿をそんな風に見ていたなんて、自分が酷く罰当たりな気がした。
 十年も前から、俺の天の邪鬼な所も、素直じゃない所も、全部知っていてずっと側にいてくれた。多分、本当の俺を受け入れてくれるのは友彰だけだ。それが嬉しくて、同時に哀しくて、どうしていいか分からなかった。
 シニアソムリエになりたいと言ったのは、このままうちの店で給仕として働いていれば、いずれ取れるだろうと漠然と思っての事で、そんなご大層な “ 夢 ” だった訳じゃない。それが証拠に今まで忘れていたくらいだ。勿論、給仕もソムリエの仕事も嫌いじゃない。自分に甘くて我が儘な割に、人に奉仕する仕事が不思議と向いていると思う。『美味しい』と言ってくれる人の笑顔を見ると嬉しいし、疲れも忘れてまた頑張ろうという気もして来る。
 でも、今も昔も、俺のしたい事は、本当にしたいと思う事は――友彰の役に立つ事だ。許されるなら、ずっと側にいて友彰の為に生きる事。
 そうだよ。俺はシンデレラになりたい。友彰に求められて幸せになりたい。女の梨花さんが望まないシンデレラの幸せを、男の俺はずっと、ずっと、望んでた。諦めろと、何度自分に言い聞かせても、心の奥底でずっと切望し続けた。なのに…ここでソムリエを続けろって? お前が側にいないのに?
 ソファに凭れて、ぼうっと空中を見ている友彰の横顔を見ながら、渾々と溢れ出す想いに息が詰まりそうだった。
 友彰はずるい。こいつは多分、俺の気持ちを知っている。知っているのに言わせない気なんだ。知ってしまえば、もう元へは戻れない。友だちではいられなくなるだろう。それは俺も分かってる。でも、友彰はいなくなる。俺の前から五年も消えてしまうのだ。その間に、俺の知らない所で結婚してしまったら?
 結局、一緒じゃないか…。一生、“ 親友 ” の地位は失わなくても、友彰は俺の手には入らない。こいつが俺の気持ちを知らないのなら我慢もできる。でも、知っているのに、知らない振りで、俺の前からいなくなるなんて…そんなの…そんなの許せない。
 愛しいと想う気持ちを疾っくに越えて、暗い愛執に変わった想いに俺の頭は麻痺してしまった。
「友彰…」
「ん?」
「俺の本当にしたい事、教えてやるよ」
「えっ?」
 振り向いた友彰の顔を両手に挟んで引き寄せた。不意を突かれた友彰の身体は難なく俺の前に落ちて来た。前のめりになった鍛え上げた太い首に両手を掛けて抱き付くと、目の前に迫った唇に思いっきり吸い付いた。驚きに口を開いたその隙に舌を滑り込ませて絡ませると、目を開いたままだった友彰はぎゅっと目を閉じ、そのままじっとしていた。
 暫くの間、俺たちはそうしていた。俺の気持ちの趣くまま動く舌の愛撫を受けながら、友彰はそれに応えるでもなく、けれど逃げるでもなく、ただじっとしていた。俺は急速に虚しくなって唇を離すと、瞼を固く閉じた友彰の顔を見ながら囁いた。
「俺は、友彰が好きだ。友だちの “ 好き ” って意味じゃない。分かるよな。俺のしたい事は、お前の世話を焼く事だ。一生お前の側にいて、男と女みたいに、キスして、抱き合って、それこそドロッドロになるまで愛し合いたい。それが俺の “ 夢 ” だよ。どんなに望んでも…叶わない、ゆめ――」
 俺は身体を離すと友彰を残したまま、螺旋階段を駆け上がって自分の部屋へ突進した。ベッドに倒れ込むと同時に涙が溢れ出した。
 言ってしまった。自棄っぱちのまま気持ちを全部。これで、二度と友彰に会えないのだと思うと胸が潰れそうで、俺は子どもみたいにわんわん泣きながら自分の短気を呪い続けた。

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