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にらめっこ

 電車の中は不思議な空間だ。
 年齢も性別も人種も貧富の差もある人々が、同じ空間を共有して各々の目的地まで同乗する。密着する距離にありながら、それぞれ我関せずという顔で、カタカタと小刻みに揺れる電車の振動に身を委ねている。ある人は本を読み、ある人は眠っている。親し気に会話を交わす人もいれば、自我の深淵に思いを馳せるように視線を彷徨わせる人もいる。
 僕はといえば 『にらめっこ』 をしている。
 通学電車のさして長くはない乗車時間は、小説を読むには短すぎた。だから乗り合わせた人の顔を見て過ごす。若いのにと叱責されそうだが、座って行きたいから、ふたつ先の駅から出る始発電車に乗っている。そのため乗り合わせる乗客の顔ぶれは、ほとんど同じで替わり映えしないが、それでも見ていると面白かった。
 習慣だろうか、大抵人は同じ行動を取る。乗る位置も座る場所もほぼ同じだ。座るとすぐ本や雑誌を読む隣のサラリーマン。携帯電話をいじる端の高校生。化粧をする目の前のOL。その隣は居眠りを始める中年親爺。皆それぞれの行為に没頭し始めて、目に見えないバリアを張っているようだった。
 その中でひとり、はす向かいに座る眼鏡の大学生は、座るとまず最初に僕を見る。最初は気がつかなかったのだけれど、必ず見られている。向い側の席に座るのだから当たり前かと思っていたが、あまりに毎日見れているのでちょっと戸惑った。気になるので、自分もついそちらを見てしまって目が合う。たまらず僕が先に視線を逸らすと、向こうも自然と違うところへ視線を移す。
 それが、『にらめっこ』。
 いつしか毎朝の習慣になっていた。まだ一度も勝てたことが無かったけれど。

 毎日、生きている時間をどうやって潰そうかと考えている暇な高校生の僕は、しばらくこの遊びに没頭した。年齢に見合う情熱を傾ける対象を見いだせなかったし、身が踊るスリルを味わうには小市民過ぎたから。少しでも暇を潰せるものなら何でもよかった。
 帰りの電車の中、無差別に相手を選び視線を向ける。『ガンつけ』になるほど視線を強くしてはいけない。やっかいなことになるから。あくまでやんわりと、さり気なく、でも明らかに意思をもって見詰める。相手は最初、気がつかない。でもふっと僕の視線を感じて、こちらに目線を合わせたときが勝負。ほとんど瞬時に勝負がつく。皆、あっという間に視線を逸らしてしまうから、大抵は僕が勝つんだ。
 何度かこうして練習して、朝、あの大学生に勝負を挑む。でも、勝てた試しがない。
 負けたくないと思うから、日ごとに目が合う時間が長くなる。眼鏡ごしに見る彼の奥二重の目は、少し細くて、その分黒目が大きく感じる。長く見詰めていると吸い寄せられてしまいそうで、つい目を逸らせてしまう。
 ちょっと悔しくて、どうしてか分からなくて、クラスで一番の秀才に聞いてみた。博覧狂気な彼なら、何か分かるかもしれない。
 話を聞いた委員長は、呆れたような哀れむような顔をして
「暇だな、お前…。っていうか、馬鹿だろ?」
 とため息をついたが、僕がヒマでもバカでもどうでもいいから教えろと迫ると、委員長は片眉を釣り上げてしばらく考えてから答えた。
「瞬間的に本能で、相手に対して適う相手か、適わない相手か判断するからじゃないかな。獣がお互い対峙した後、適わないと思った相手に腹を見せて服従するじゃないか。人間は見ず知らずの他人同士で主従関係を結ぶわけじゃないから、腹を見せて降参の証を見せることはないけど、無意識にこいつには適わないと認めた相手からは、視線を逸らせるんじゃないかな」
 委員長の意見は一理あるけれど、帰りの電車で『にらめっこ』した大学生やサラリーマンが、僕のことを適わない相手だと認めたとは思えない。
「そりゃ、お前が勝つ気まんまんで睨んでくりゃ、こいつはヤバい奴だと思って視線を避けるだろうよ」と笑われた。
 普通の視線だと主張すると、どうだかなぁとニヤニヤしながら相手の容姿を聞いてきた。
 いつも眼鏡ごしの彼の目ばかり見ていて、実はどんな顔かまじまじと見たことはない。ふた駅目ですぐ人の波に仕切られて見えなくなってしまうし。確か、鼻がすごく高くて、かなり整った顔をしていたように思う。委員長はしたり顔で
「だから、お前が適わないって本能的に感じてるんじゃないの? 悔しかったら、思いっきり睨みつけるか、極上の笑顔でも拝ませてやれば、ビビって目を逸らすんじゃないの?」
 そう笑いながら、あまり役に立たなさそうなご指南をしてくれた。

 梅雨入りはまだ先なのに、しとしとした日が続いていた。降ったり止んだリ忙しく、傘が手放せなかった。
 そんな天気が、珍しくからりと晴れた気持ちの良い朝。いつものように始発電車に乗り込むと、件の眼鏡の大学生だけがいつもと違っていた。座ってすぐにくるはずの視線が、僕ではなく彼の隣に注がれていた。
 薄茶の髪の長い女の人だった。眼鏡の彼と同じ位の年齢だろうか、高校生には見えない。薄いピンク色の短かめのワンピースみたいな服の下に、紺の細いジーンズを履いた足がすらりと長い。彼を見てふわりと笑った口元が綺麗な弧を描いていた。文句のつけようがない美人だった。
 僕は馬鹿みたいにふたりを見ていた。彼女が眼鏡の彼の恋人なのかなんて、彼女が持っている長傘で一目瞭然だった。今日は晴れ、そして昨日は朝から一日雨だった。彼の部屋へ泊まって朝帰り、あるいは一緒に学校へ行くのだろう。
 そう認識した途端、僕の胸の中心が引き絞られるように痛んだ。咄嗟に胸を手で抑えた。抑えながら、しつこくふたりを見続けた。視線を投げても投げても、彼の意識を捕らえられないことに言いしれない怒りを感じた。ふたりは見詰め合って何か楽しげに会話しているが、声を潜めているので意味のない音の羅列しか聞こえてこない。僕の視線はふたりの世界から完全に遮断されていた。
 これは無視されているのだろうか? どうして彼は僕に気がつかない。腹の中にカッと怒りが広がったが、頭は逆に冷えていく気がした。当たり前じゃないか、恋人が目の前にいてどうして他に目がいくものか。僕は毎朝、暇つぶしに『にらめっこ』をするだけの相手なのだ。
 ふいに、委員長の言った言葉を思い出す。
「適わないと思った相手に服従するから―」
 また胸の奥がぎゅっと痛んだ。胸に当てた手を握りしめた。
 何故、僕が眼鏡に適わないんだ? こんな綺麗な彼女がいるから? 向こうはハンサムで男として負けているから?
 僕はぎりっと歯ぎしりして、はす向かいの眼鏡を睨み付けた。
 冗談じゃない! 僕だって顔には自信があるんだ。彼女はいないけれど、今はいないってだけの話だ。なんでそれが適わないことになるんだ! 大体、毎日毎日見続けたのは、そっちの方じゃないか! 人をこんな気持ちにしておいて、今さら恋人がいますなんて見せつけて――、
 えっ? 僕は今、何を考えた?

 コンナ、キモチニ、シテオイテ…?

 自分の考えに茫然として寒気がした。僕の刺すような視線が眼鏡に届いたころには、こちらの気持ちが萎えていた。考えれば考えるほど、自分の気持ちの裏側に気付いてしまったのだ。僕は女の子を好きになったことがない。恋などしたこともない。適うとか適わないとかの問題じゃなくて、僕は…。
 自分でもどんな顔をしていたのかよく分からない。ただ、僕を見た眼鏡の彼は、吃驚したように目を見張っていた。僕は視線を逸らすと、目を瞑って全ての思考を停止しようと試みた。上手くいった訳ではないが、電車を降りるまで、今さっき気付いた気持ちに蓋をすることは出来た。でも胸の痛みは続いたままだった。

 その日から、始発電車に乗るのを止めた。
 本格的な梅雨になる前に中間テストが始まり、気を抜くと考えてしまう事柄を追い払うためにいつになく勉強に身を入れたので、委員長に迫る勢いの成績が取れた。
 委員長は『にらめっこ』の結果を聞きたがった。ご指南は役に立たず惨敗で終わったと言うと、また片眉を上げて残念だったなと笑った。
 薄ら寒くて夏とは暦だけの衣替えをして、冬服を脱ぐように気づいた気持ちも一緒に脱いでしまおうと思った。そのまま鍵をかけて胸の奥深くへ仕舞ってしまえば、まだ引き返せると思ったから。ときどき胸がぎゅっと痛んだけれど、忘れてしまえばそのうちそれもなくなるだろう。
 始業時間に間に合う時間の込み合った電車に揺られながら窓の外を眺めていた。今日も雨だ。じめじめして蒸し暑い。あれだけ入れ込んだ『にらめっこ』遊びなど、そんなことしていたかな…と思うほど冷めた気持ちで電車に乗っている。今は誰とも視線を合わせない。
 線路際の家の垣根に立葵の花が揺れている。空に真っ直ぐ突きだした茎の半分まで花芽が届いていた。花が上まで届くその頃には梅雨も明けるだろう。期末試験が終わって夏休みが来たら、委員長を誘って海でナンパでもしようか?
 そんなことを考えてつり革に凭れていたら首筋に視線を感じた。僕は無意識に視線の方向に顔を向け、ぎょっとした。黒々とした乗客の頭の先二メートル程離れたところで、頭ひとつ高い位置に眼鏡をかけた大学生が僕を見ていた。
 視線が合った瞬間、胸の中心をぎゅっと掴まれた。痛くて、そして切なかった。眼鏡は人をかき分けて僕に近づいてくる。僕はつり革にしがみついた。彼は僕の隣に来ると目を見詰めたまま言った。
「どうして始発に乗らないの?」
 初めて耳元で聞いた彼の声。頭の中で言葉を反芻するけれど理解できない。彼は何を言っている?
 僕が黙っていると更に言葉を続けた。
「あの日、あんた俺のことずっと睨んでただろ? アレ、誤解だから」
 アレ、ゴカイ、ダカラ…? 誤解って何?
 すっかり馬鹿になってしまった僕は、惚けたように彼を見続けた。混み合った電車にいるのに、まるでふたりしかいないような錯覚を覚える。
 ああ、これ、いつもの『にらめっこ』だ。そう思ったとき、彼が急に視線を逸らした。横向きに見えた耳が赤い。僕はその赤い耳殻を見詰めながら、初めて彼に勝てたなと、ぼんやり思った。
 彼は視線を僕に戻すと呟くような小さな声で言った。
「アレ、ただのバイト先の人。たまたま朝一緒になっただけだから」
 唯ただ、茫然と見詰める僕に、ばつの悪そうな顔をして空咳を一つすると、僕の耳元に顔を寄せて囁いた。
「だから、もうあんな泣きそうな顔しなくていい。俺はあんただけ、見ていたんだから」
 言葉が頭から胸まで降りてきて、胃薬のように痛みを消していった。周りの喧噪が戻ってきて時間が急に動き出した気がした。僕は顔が熱くなって視線を彷徨わせた。多分、赤くなっていただろう。
 僕の反応に満足したのか、彼は余裕の顔を取り戻すと「明日は始発に乗るだろ?」と言って笑った。
 僕の貴重な一勝は、全ての勝敗を覆したようだった。

 (了)

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