INDEX NOVEL

盲 導 犬

 家に帰りたくない公平は、亮介と優一をファミレスに誘った。
 食事をし、デザートを食べ、ドリンクバーで好きなだけコーラを飲んだ。合間にしたのはムカつく教師の悪口と気になる女子の話。公平が今一番気になるサッカー部での力関係は、部外者の優一がいるので話さなかった。中学生活も二年目になれば、その殆どが慣れと惰性で単調にはなるけれど、話そうと思えばいくらでも話題はあった。
 それでも腰を据えてから三時間が経ち、八時を回っても動きそうにない公平に付き合いきれなくなった亮介は、「見たいテレビがある」と口実をつけてさっさと帰ってしまった。
 気がつけば何人かいた学生の姿はどこにもなく、勤め帰りのサラリーマンや家族連れの客ばかりになっていた。
「僕はまだ平気だよ」と優一は残ってくれたが、幼馴染みの亮介と違い二年になってから知り合った優一とはすぐに話題が尽きた。
 優一を公平に紹介したのは亮介だった。
 中学に進学した時、それまでずっと一緒だった亮介とは別のクラスになったが、二年のクラス替えで二人は同じ一組になった。始業式の日、公平が掲示板で確認したクラスへ入ると、先に登校していた亮介が、公平を窓際に座る大人しい感じの少年の所へ引っ張って行った。
「こいつ、一年の時同じクラスだった日向優一(ひむかい ゆういち)。クラスで一番頭良かったんだぜ。俺、いっつもノート見せてもらってたんだ。今年も一緒になれるなんてラッキーって感じ。
 日向、これ俺の小学校からのダチで安達公平(あだち こうへい)。これからはこいつにもノート見せてやって」
 公平は亮介の台詞を聞きながら何て紹介の仕方だと呆れたが、優一は別段気にする様子もなく穏やかに笑って「よろしく」と挨拶した。黙っていると大人っぽいのに、笑うと両頬に笑窪ができて幼い顔立ちになるのが印象的だった。
 公平もよろしくとは言ったものの、優一のような頭が良くて育ちが良さそうなタイプは今まで周りにいなかったから、きっとそれほど親しくならないだろうと思っていた。
 ところが亮介と行動を共にすると、もれなく優一がついて来た。というより、亮介が何かと優一を利用するのだ。頼めば出し惜しみせず宿題も見せてくれるし、部活があると言えば日直や掃除の代行もしてくれた。それは亮介だけに限った事ではなかったが、優一はただ都合良く使われている訳でもないようだった。
 優一には人を惹きつける不思議な魅力があった。大人しくて真面目なだけの優等生かと思えば、クラスメートの前で堂々と試験の山かけをして見せたり、冗談も通じるし反応も良かった。誰からも好かれて頼りにされていたし、話す相手も多かった。
 公平は面倒な頼み事ばかりする亮介などより、他にふさわしい相手がいるだろうと思ったが、優一は不思議と亮介について来た。公平は優一の側にいる恩恵にあずかる反面、そんな優一の事を訝しく眺めていた。だから一緒にいても自分から優一に話しかける事は殆どなかった。
 二人きりの気まずい沈黙に耐えられず、公平は窓の向こうに視線を彷徨わせた。店の前の暗い横断歩道の前で信号待ちをする盲導犬を連れた男性が目に止まった。
 交通量の多い道路ではないが、割と接触事故が多い場所だった。信号が青に変わる。
 本当に渡れるのだろうかと思わず緊張して眺めていると、信号が変わっても直ぐには動き出さず、盲導犬は少し躊躇うように前足を踏み出した。あとはそのまま機械仕掛けのように正確に力強く歩いて行き、男性は何ら疑う様子もなく犬に導かれて信号を渡りきった。
 公平は緊張が解け、ほっとしたような少し拍子抜けしたような気がして呟いた。
「テレビでやってたんだけど、盲導犬ってさ、最初っから盲導犬の訓練して育てるんじゃないんだよな。生まれて二ヶ月でパピーウォーカーっつう里親に十ヶ月だけ預けられて、それから盲導犬の訓練を受けるんだってさ。パピーウォーカーってボランティアだから、条件が合えば誰でもできるらしい。テレビ見た親父がさ、やってみようか、とか言っちゃってさ。嫌だよな」
 それは週末のゴールデンタイムに放映された動物番組で、ドキュメンタリータッチで初めてパピーウォーカーをする事になった親子の奮闘を描きながら、盲導犬の必要性を訴えるものだった。
 公平は父親と義母の三人で夕食をとりながら見ていた。以前はながら食いは消化に悪いとの母親の主張で、食事中にテレビなどつけていなかったが、今は間を埋めるのに欠かせないアイテムだった。
 画面は丁度小学生と幼稚園児の兄弟が仲良く子犬の散歩をしている所で、犬に引っ張られる弟が転ばないように補助する兄の姿を見て父親が言ったのだ、「お前の弟が生まれたら、あれ、やってみようか」と。
 冗談じゃないと咄嗟に口から出かかったのを堪えたら、返事ができなかった。無視する形になって静まり返った歪な空気を、歪な笑いで義母が誤魔化した。
「生まれてすぐなんて無理に決まってるわよねぇ。あの子たちくらい大きくならなきゃ、犬の世話なんてできないわよ」
 もうすぐ臨月を迎える張り出した腹を擦りながら、せめて四、五歳にならないとねぇと言う義母に、それもそうかと父親は乾いた笑い声を立てた。公平はその頃には自分はここにはいないだろうと思った。
 その時の不愉快さを思い出してつい口にしてしまったから、優一には唐突な話題だったろう。公平に釣られて一緒に盲導犬を眺めていた優一はもう一度窓の外に顔を向け、暗い夜道に消えかけている盲導犬の姿を眺めながら「何で嫌なの?」と聞いた。
「だって、たった十ヶ月可愛がったら、はい、さようなら、なんてできないよ。ちょうど慣れて来て情も湧く頃だろうし、飼えばずっと一緒にいたいと思うだろう、普通。なのに手放すなんて。俺はできない」
 言った言葉に嘘はないが、本当は生まれて来る赤ん坊の世話だってしたくないのに、犬の世話なんか一緒にできるかと思ったからだ。でも、夏には生まれる兄弟の事は、近所の人と亮介しか知らないから本当の事なんか言えない。
 盲導犬が消えた歩道を見据えながら不機嫌に話す公平を、じっと眺めていた優一が突然笑い出した。一瞬どきっとしたがすぐに笑われるような話はしていないと、戸惑いと苛立ちできつく睨みつけた。優一は公平の非難の視線を受けてごめんと謝りながらも自嘲めいた笑いをずっと浮かべていた。
「僕もその番組、見てたよ。そうだよね。普通の人は、自分がパピーウォーカーになったら…とか、そう考えるよね。でも僕は、全然違う事を考えていた。やっぱり、こんな事考えるのは自分だけかと思ったら、何だか可笑しくなって…」
 言いながら寂しそうに俯く顔が気になって、公平は笑われた腹立たしさも忘れ、「違う事って?」と窺うように尋ねると、優一は顔を上げ黒い大きな瞳で公平を見つめた。
「僕は、自分が盲導犬と同じかな、と思ったんだ」
「は?」
「意味、分からないよね…」
 確かに意味が分からなかった。うんと頷いて返すと、優一は視線をテーブルに落としながら「僕ね、親がいないんだ」と静かに言った。
「今、義理のお父さんと一緒に暮らしているんだ。本当のお父さんは僕が生まれた時に病気で死んじゃって、お母さんがずっと一人で育ててくれた。なのにお母さんったら、やっと再婚してこれからって時に交通事故なんかで死んじゃって…。
 義理のお父さんはすごく良い人で、他に身寄りがない僕とずっと一緒にいるよって言ってくれてる。仲も良いし、僕も義父さん好きだけど…。でも、いつまでも一緒にいられるなんて事ないと思うんだ。だって、あの人は本当の親じゃないし、人間だから、そのうちきっと…他に好きな人とかできるかもしれないじゃない…」
 優一の思いがけない告白に、公平の背筋に痺れるような震えが走った。公平も少し前まで父子家庭だった。意外な共通点は驚きと共に、公平の優一を見る目を一変させた。そして何より、その抱えている不安に共鳴した。
 そうだ。人は変わる。だから、血が繋がっていようがいまいが、その関係性は脆く崩れやすい。
それは公平自身がよく知っていた。でも、簡単に頷いていいのか分からず、瞠目したまま優一を見つめた。
 公平の表情をどう受け止めたのか、優一は苦笑し「だからね、盲導犬と同じだと思えばいいかと思って」と言った。
「義理のお父さんは、二十歳になるまで…もっと短い期間かもしれないけど、それまでは一緒にいてくれるボランティアのパピーウォーカーで、必ず別れが来るんだと思えば仕方がない事って、諦められるかなって考えたんだ。変だよね…。
 何かさ、感じ方って人によってずいぶん違うものだよね。安達くんみたいに手放すのが嫌だからなりたくないって人もいるし。人って、面白いね…」
 口角だけ上げて大人びた微笑を浮かべる優一にかける言葉が見つからず、公平はテーブルの上へ視線を投げた。
 食べ残したピザはカラカラに乾いて蝋細工のようだった。飲み残したコーラは氷が溶けて黒い液体の上に透明の層を作っていた。物でも、気持ちでも、時間が経っても変わらないものは、この世の何処にもないのかもしれない。でも…。
『そんな事はない』と公平は言いたかった。
 パピーウォーカーになりたくないと言ったのは、嘘偽りなく、一度可愛がった子犬はきっと手放せなくなるから、自分にはなる資格がないと思ったからだ。ただ飼うのなら、死ぬまで一生面倒をみるつもりでいる。でも、優一がしているのは盲導犬の話じゃない。
 人の気持ちが『変わる』か、『変わらない』か。
 自分は変わらないだろうと自信を持って言える。だから『そんな事はない』と言いたいけれど、他人の事となれば分かりはしない。自分の親だって変わってしまった。まして優一の義父の事など分かりはしない。それでも…。
「俺の家も再婚。お袋は生きてるけど、今じゃ人の奥さんで、こっちにも新しい母親がいるんだ」
 変わってしまう事への不安を抱えているのは、優一だけではないと伝えたかった。優一はゆっくり顔を上げ公平を見たが、その顔に驚きはなかった。
「驚かないんだな」
「うん…」
 それはそうか、と公平は思った。優一は一年の時あの亮介と同じクラスだったのだ。全て知っていてもおかしくない。だったら何の慰めにもならないなと、余計な事を口にした気恥ずかしさに囚われた。
 黙りこくってしまった公平に、優一はごめんねと言いながら怖ず怖ずと口を開いた。
「堀田(ほった)くんから聞いていたから…。それからずっと、僕は安達くんと話がしてみたかったんだ」
「えっ?」
「安達くんと堀田くんは仲が良いから、堀田くんと一緒にいれば、そのうち話す機会ができるだろうと思ってた。でも、一緒のクラスになっても、なかなか話す機会がなくて…。だから、今日、チャンスかなって…」
 いつも真っ直ぐ人の顔を見て話をする優一が、手元を見たまま秘密を打ち明けるみたいに小さな声で囁いた。
 途端に、公平の胸はまるで告白でもされたかのように波を打ち、顔が熱くなった。それは額に汗が滲む程で、思わずワイシャツの第二ボタンを外した。五月も終盤になると宵でも暑い。店の客も殆どが半袖のなか、長袖に学ランまで着込んでいた公平は、堪らず襟元を開いて扇いだ。
 落ち着け、優一は俺と友だちになりたかっただけだ。なのに、自分は何故こんなにもどきどきしているのか。
 宙に向けた視線をそっと優一に戻すと、目を伏せた優一の頬がうっすらと紅潮していた。何だかこれじゃあ、本当に告白されて互いに両思いだったのを確認したみたいじゃないかと可笑しくなった。
 そう思うのも当然なのかもしれない。優一は単なる友だちを求めていたんじゃない。それは自分も同じだった。優一に、とは思っていなかったけれど、他人との細い繋がりしかもたない優一と、血の繋がりはあるが新しい家族の枠に入れない自分なら、きっと互いの埋められない穴を補い合える。そう感じ合ったのだから。
 公平は今まで誰にも話さなかった胸に燻る思いを、猛烈にぶちまけたくなった。
 突然、親が『男』と『女』になってしまった衝撃を、一回りしか違わない若い女が、父との子が生まれるからと自分の母親になった戸惑いを。ただの友人に話すには重すぎる愚痴を、優一なら受け止めてくれるだろうから。
 喜びとその気恥ずかしさで再び心拍数が上がっていく。何度も胸に湧き上がる細波のような甘い疼きを感じながら、「俺、家に帰りたくないんだ」と公平が告げると、「僕も…」と優一は静かに頷いた。

 (了)

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