INDEX NOVEL

秋 の 蛍 〈 前 編 〉

「じゃあ、一時間ほどで終わらせるから。絶対、ここで待っててね」

 そう言って、龍彦と図書室前で別れてから既に一時間半が経っていた。時刻は午後六時を回り、西の山肌に赤い滲みを残して、辺りはすっかり紺色の帳につつまれていた。秋分の日を過ぎてから、目に見えて日が陰るのが早くなった。
 六時で帰る司書の先生に図書室を追い出されたが、約束した場所から離れては龍彦が困るだろうと、閉ざされた扉の前でぺったりと床に座り込んだ深雪は、軽い空腹を覚えて鞄の中をまさぐった。
 薄茶色の紙袋を取り出し中を覗くと、小さな三日月型のクッキーがたくさん詰められていた。バニラの甘い香りが辺りに漂う。深雪は一つ取り出して、砂糖が塗されきらきら輝く表面をじっと眺めた。
 お腹空いたら食べるといいよと、龍彦から渡されたクッキーはクラスの女子が焼いたものだ。文化祭の模擬店で売るのだと、それぞれが腕に縒りをかけて焼いたのだそうで、深雪も試作品をもらって食べたが、これはそれとは違う “ 特別仕様 ” だった。
 クラスで一番人気の女子、美人の誉れ高い竹岡さんが焼いたクッキー。

「いっぱい焼いたその余りなの」

 クラスのみんなの目の前で見え透いた嘘をつきながら、竹岡さんは砂糖菓子のように甘い笑顔で龍彦にこの紙袋を手渡した。龍彦はモテる。女子の一番人気が竹岡さんなら、男子の一番人気は龍彦だろう。美男美女の並んだ姿に、思わずため息をついたのは深雪ばかりじゃなかった筈だ。
 こんな事があると、あの稲荷神社の秋祭りの夜の出来事は、やっぱり夢だったんじゃないかと自分の頬をつねりたくなる。否、やっぱり夢だったんだ…と深雪は何度目になるか分からないため息をついた。
 あの日、密かに想いを寄せていた龍彦に「好きだ」と告白された。でも実は、その時の事を深雪は曖昧にしか覚えていなかった。嬉しくて舞い上がるほどの出来事だったのに、その前にされた艶事ばかり鮮明に残っていて、肝心な部分が朧気なのだ。
 どきどきし過ぎて疲れたところに優しく髪など梳かれたものだから、気持ち良くて、眠たくて、自然と瞼がくっついてしまった。

『…蛍狩りの頃には、深雪を全部もらうからね』

 夢心地にそう言われたのまでは覚えている。でも、その後の事は全く覚えていない。気がついたら朝で、家の布団の上だった。

「あんた、腰抜かして、龍っちゃんにおんぶされて帰って来たの、覚えてないの?」

 よっぽど怖かったんだねぇと、祖母に笑われた。肝試しで腰を抜かしたのだと誤解されているのは分かったが、本当の事なんて言えるわけがない。浴衣の尻に泥が付いて汚れていたのもそれで誤魔化せたし、お咎めもなかったから言い訳はしなかった。
 翌日の日曜日、深雪は曖昧な記憶をあれやこれや回想しながら百面相をして過ごした。祖父母の話では、龍彦は深雪を連れ帰ると暫くそのまま部屋にいたそうだが、泊まって行けと言う祖父母の申し出を断って、夜道をひとり帰って行ったらしい。深雪は泊まってくれたら良かったのにと、恨めしく思った。
 時間が経つにつれ、本当は肝試しに行っただけで、あの出来事は全部、恐怖で気を飛ばした間に見た、自分に都合の良い夢だったように思えて心許なかった。夜、風呂場の鏡で胸の真ん中にある赤い斑点を見つけ、漸く現実の出来事だと安心したほどに。
 それなのに、ドキドキしながら登校した月曜日、そこにはいつも通りの龍彦がいた。挨拶もそこそこに、級友とテレビや英語の課題の話で屈託なく笑っている龍彦を見て、深雪は拍子抜けしたと同時に自分の浅ましさに自己嫌悪に陥った。
 一体、自分は何を期待していたのだろう?
『好き』の先にあるものが、男女のそれのような睦み合いを想像していた自分が恥ずかしく、自分もいつも通りでいようと決心したが、それ以来、深雪は龍彦の顔をまともに見られなくなった。
 都合が良いのか悪いのか生徒会の副会長である龍彦は、文化祭の準備で忙しく飛び回るようになり、ふたりきりで過ごす時間がなくなった。何事もなかったように時間だけが過ぎ去って、あの夜の龍彦の真意を確かめる機会は得られなかった。
 深雪は毎日、家の風呂場で赤い斑点を確認しては、あれは夢じゃないと言い聞かせたが、その度に最後に言われた『蛍狩りの頃…』の台詞も一緒に思い出し、儚い自信を揺らめかせた。
 いくら昆虫が苦手な深雪でも、蛍狩りの季節がいつかくらいは知っていた。初夏から真夏の季節にするもので、秋に蛍がいる筈がない。夏が終わった今時期に、“ 蛍の頃 ” なんて言うのは「一昨日おいで」と言われているようなものだ。

「からかわれたんだろうか……」

 湯船に浸かって盛大にため息をつくのが、深雪の日課になった。
 ちょっと考えれば分かりそうな事だ。だいたい男同士の『好き』と言う言葉に、どれくらいの意味があるだろう。好きになっても、なられても、その先どうする事も出来やしない。深雪自身、もとより気持ちを伝えるつもりは毛頭なかったのだし、からかわれたとしても龍彦を悪くは思えなかった。
 戯れでも、夢でも良いと思ったのは自分だ。一時でも龍彦が自分を好きだと言ってくれたのは、奇跡みたいなものだと言い聞かせて、涙が伝う頬を湯船のお湯で洗い流した。
 あれから二週間、胸の印も綺麗に消えてなくなった。今は少しずつ、元のように龍彦の顔を見られるようになった。なくなった印が胸の中に染みこんで、素敵な思い出になったと割り切れるようになったせいかも知れない。
 それでもまだ、今日のように正々堂々プレゼントを渡せる竹岡さんを目の当たりにすると、羨ましくて妬ましくて胸が苦しくて仕方がなかった。

「深雪! 今日、委員会が終わるまで、図書室で待っててくれる?」

 龍彦がばつの悪そうな顔を向けて声を掛けてきたのは、ぼうっと馬鹿みたいに口を開けて竹岡さんを眺めていた時だった。深雪は吃驚して声も出なかったが、久し振りに誘ってもらえた嬉しさに、こくりと頷いて返した。

「はぁ〜〜…」

 癖になった盛大なため息をついて腕時計を見ると、六時二十分を差していた。もうすぐ二時間になる。龍彦はまだ現れない。気がつけば、とっぷりと暮れてしまった校舎の中は、自分がいるこの図書室へ通じる階段の電気しか点いていなかった。
 急に心細くなって、手の中のクッキーが滲んで見えてきた。深雪は慌ててクッキーを口の中に放り込んで噛みしめた。ぱくぱくと次々口に放り込んで頬張ると、カリカリと香ばしいアーモンドとコーヒーのほろ苦い味が絶妙でとても美味しい。美味しいと思う度に甘い筈のクッキーが何故だかとても苦く感じた。

「クッキー美味しい?」

 龍彦かと思って勢いよく顔を上げると、階段の踊り場に見知らぬ背の高い男子が立っていた。
 否、何処かで見たことがある。でも、知り合いではない。誰だろうと訝しく思って見ていると、どんどん階段を登って来て、深雪の隣に同じように床にペタリと座り込んでにっこりと微笑んだ。
 端正な顔で優しく微笑まれた途端、深雪はこの人が誰だか思い出した。生徒会長の篠山郁実(しのやま いくみ)だ。正確に言えば “ 元 ” 生徒会長だが、道理で見たことがあると、深雪はまじまじとその美しい顔を見詰めた。

「さっきから、ずっとここにいるけど、何しているの? もう遅いよ。帰らないの?」

「えっ? さっきからって、どうして知っているんですか?」

「あそこから見えたから」

 郁実が指さした先には踊り場の窓があった。暮れてしまった窓の外に何が見えるのか分からないが、確か向かいの校舎が見えた筈だ。

「俺ね、美術部なの。最後の文化祭なんだから出品しろって後輩に泣きつかれてね。
 少ないんだ、部員が。ああ、俺、篠山郁実っての。三年生ね。
 それで、さっきまで美術室でせっせと描いてたんだけど、ちょうど見えるのね、ここが。
 六時で追い出されたでしょう? きみ。なのに、帰らないからおかしいなと思ってさ。
 もう暗いし、俺も帰るところだから『一緒に帰ろうよ』って、誘いに来たの」

 言われた内容に驚いて、深雪は目を丸くした。おかしいと、心配して覗いてくれたのは申し訳ないと思うが、顔を知っているとは言え面識のない上級生と一緒に帰るなど、人見知りの深雪は御免蒙りたかった。

「あっ、僕は、ここで待ち合わせをしているので…。あの、大丈夫です。
 どうぞ、先に帰ってください」

「ああ、待ち合わせね…。う〜んと、今残っているのって…生徒会役員と実行委員か…。
 きみが待ってるのって、巻上龍彦?」

「ええっ!?」

 深雪は驚愕の声を上げた。郁実は面白そうに目を細めるとくつくつと喉の奥で笑った。

「きみ、山縣深雪くんだろう? 顔を見てすぐ分かったよ。
 だったら相手は龍彦だろうなって、すぐ気がついた」

 どうして? と深雪はただただ目を見張るばかりで声すら出なかった。どうして面識のない上級生が自分を知っていて、何で龍彦まで出てくるのだろう。気味が悪くなって、深雪はごくっと生唾を呑み込んだ。対して郁実は更におかしそうに声を上げて笑った。

「きみ、面白いね。さっきから驚いてばかりで、目がこぼれ落ちそうだよ。
 驚かしてごめんね。俺さ、龍彦の従兄弟なんだよ。きみの事は龍彦から聞いてるよ。
 それにきみは、上級生の間じゃ噂の的なんだよ。特に女子の間でね。知らなかった?」

 知らないっ! 知りませんと、深雪は懸命に頭を振った。

「まぁ、俺も女子に言われるまでもなく、きみの事は入学当初から知っているよ。
 この辺じゃ滅多に見掛けない、綺麗な子だなと思って。
 おまけに、龍彦が四六時中きみに張り付いているしね。
 あいつね、“ 光る君 ” って渾名をつけられて、女子にそりゃぁモテてね。
 その割に、今まで誰にもなびいた事がないんだよ。それが今や、きみにはべったりだろ?
 女子がね、ついに “ 光る君 ” が “ 紫の上 ” を見つけたらしいって、
 きゃーきゃー騒いで、煩いの何の……」

 深雪には郁実の話はちんぷんかんぷんだった。自分と龍彦の事を言っている事は分かるが、どうしてそこに源氏物語が出てくるのか理解できない。
 “ 光る君 ” が龍彦だとして、紫の上って誰の事なの?
 ひたすら首を傾げる深雪に、郁実も呆れたように首を振りながら「女子はこの手の話が好きだから」とため息をついた。

「なんかね、『あさきゆめみし』って漫画が流行っててさ、
 登場人物に見立てるのが楽しいんだって。俺は “ 頭中将 ” だってさ。
 俺に言わせれば、きみは… “ 紫の上 ” より “ 玉鬘 ” かな。
 流されそうに見えて、結構芯が通ってそうだし。
 龍彦ね、きみの自慢ばかりするんだぜ。
 だから、文化祭に出す絵のモデルをきみに頼みたくてさ、
 紹介してくれって頼んだら、体育祭の時のきみの写真を寄こしてさ、
 『それで描け』だって! 性格の悪い “ 源氏の君 ” そのものだね。
 人に散々自慢して、“ 兵部卿宮 ” に蛍の光で “ 玉鬘 ” をチラ見させたのと一緒だよ。
 そんなことして煽るから、結局は “ 髭黒 ” なんかに力ずくで奪われちゃうんだぜ。
 俺も実力行使しようかな…。近くで見ると、きみ本当に可愛いよ。
 今からでも遅くないよねぇ。俺も龍彦に負けてないと思うんだけど。どうかな?」

 どうかなって、何がでしょう? 深雪の頭は混乱していた。
 次々に出てくる “ 玉鬘 ” や “ 兵部卿宮 ” が何なのか分からない上に、どうして自分がモデルになるのか、自慢って、一体何を自慢したのだろう? とか、会話が断片になって頭の中をぐるぐると回った。ただその中で、“蛍の光”という単語が深雪の心に引っ掛かった。

「あっ、の…」

「うん?」

 何かなと、にこやかに笑い掛ける郁実の笑顔にドギマギしながら、全然関係ないんですが…と消え入りそうな声でおずおずと尋ねた。

「蛍狩りって、夏にするものですよね…」

「そうだね。蛍狩りは六月から八月だよね。夏の季語でもあるし」

「そうですよね…。秋に、蛍はいませんよね…」

 ああ、やっぱり…。深雪は自嘲的な笑みを浮かべながら胸の痛みに耐えた。

「うん? “ 秋の蛍 ” ? もしかして、『蛍狩りに行こう』って誘われたの?」

「誘われた…の、かな…。分かりません…でも、秋に蛍なんていませんよね。きっと…」

 からかわれたんです。深雪は泣きそうになるのを堪えて小さく呟いた。

「それさ、誰に言われたの? って、もしかしなくても、龍彦か?!」

 郁実は腹を抱えて笑い出した。追い打ちをかけるような郁実の態度に、深雪はショックを隠しきれずに瞳を潤ませた。

「わっ、笑わなくてもっ!」

 いいじゃないかと続く言葉が掠れて消えた。ほろりと涙を零した深雪に吃驚して、郁実は慌てて笑いを収めた。

「ごめん、ごめん! きみを笑ったんじゃないよ。
 ああ、そうか…。きみはこの辺の人じゃないんだものね。
 『蛍狩りに行こう』ってね、それ、誘い文句なんだよ。
 好きな子をデートに誘う時のね」

 誘い文句? と深雪は上目遣いに首を傾げた。郁実は苦笑しながら頷いて話を続けた。

「そう。それに、からかったわけじゃなくて、“ 秋の蛍 ” は本当にいるんだよ。
 クロマドホタルって言ってね、この辺でしか見られない珍しい蛍で、
 十月の上旬くらいまで見られる筈だよ。但し、光るのはほとんど幼虫だけでね、
 光も弱いし、草にくっついてじっとしているから、とても見つけ難いんだ。
 ゲンジボタルが空を飛び交う幻想的な風景を想像されると、ガッカリするかもね。
 でも、この辺ではね、見つけるのが難しいからか、秋の蛍ってだけでも珍しいからか、
 好きな子を誘って蛍狩りに行くとね、上手くいくって言われているのさ。
 俺が笑ったのはね、龍彦の奴が、どんな顔してきみを誘ったんだろうって思ったら、
 もう、おかしくてさぁ!」

 郁実はまたゲラゲラと笑い出した。深雪は「どんな顔で…」との台詞に、盛大に顔を赤らめた。あんな事をした後で、誘うも何もあったものではない気がしたが、ここのところずっと、しおしおと鬱屈していた気持ちが晴れた気がして、自然と口元に笑みが浮かんだ。

「随分、意味深な笑顔だね…」

 郁実は深雪の頤に手を掛けて深雪の顔を覗き込んだ。

「あんな可愛い泣き顔を見せたり、こんな艶っぽく笑う顔を見せたり…。
 きみって、ホントそそられる。龍彦が自慢するだけの事はある。
 彼奴、俺が誘った時は袖にしたくせにねぇ。
 成る程、きみがタイプじゃ無理ないか。あいつも男だって事だね。
 俺もきみなら付き合いたいもの。
 どう? 龍彦なんかやめて、俺と “ 秋の蛍 ” を見に行かない?」

 深雪は驚いて郁実を見詰めた。間近に迫った端正な顔に圧倒されて動くに動けない。
 さっきからずっと郁実の話は要領を得ない。鈍い深雪でも、誘われているのは分かる。けれど、どうして初めて口をきいた人と付き合ったりできるだろう。それに龍彦を誘ったって、『蛍狩り』にって事? もしかして、この人も龍彦を好きって事?
 考えれば考えるほど思考が絡まって、何だか厭な汗が背中を伝う。蛇に睨まれた蛙のように深雪はじっと郁実の切れ長の目を見詰めていた。

「郁兄ちゃんっ! 何してんだよ!?」

 突然、怒声が階段中に響き渡った。吃驚して目を向ければ、すぐ下の踊り場に仁王立ちで睨んでいる龍彦がいた。

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