INDEX NOVEL

忘れられないクリスマス
100年の塵とダイヤモンド〈 6 〉

 聖夜は博物館の窓際の手すりに凭れ、ずっと繁の横顔を目で追っていた。
 繁はいつも薄っすら微笑んでいるように見える。身に纏(まと)う朗らかで暖かい空気は、聖夜を和やかな気持ちにさせてくれた。そのせいか、喧嘩をしてもすぐうやむやになった。繁の論点は何処かずれていて、終いに怒るのが馬鹿馬鹿しくなってしまう。
 繁はひょうひょうとしているくせに頑固で融通が利かない。結局は三つ年上の聖夜が引く事になる。思えば初めて会った時から、人の言う事なんて全然聞いてくれなかったっけと、聖夜は心の中で笑った。
 初めて身体を合わせてから、そのまま流されて付き合うかたちになってしまったけれど、聖夜の心の中ではいつも相反する想いが渦巻いて、全てを明け渡す気持ちにはどうしてもなれなかった。
 夏が終わる頃から、繁は聖夜を外に連れ出すようになったが、外での聖夜は常によそよそしく振る舞った。繁はちょっと困った顔をしたけれど、それほど気にはしていないようだった。
 彼は懲りない性分なのだ。人がいないと何度もキスをしかけてきて遂に聖夜がキレると、今度は映画館や植物園など人の目が気にならない場所へ誘うようになった。
 飽くまで恋人として振る舞いたいのだと分かっていたけれど、だったら女の所へでも行けばいいと、自分でも可愛くない思いに囚われて雁字搦めになるのだった。
 冬が訪れると角田の脅威は完全に消え去ったが、聖夜はずっと繁の部屋で寝起きを共にしていた。と言っても、繁が忙しいのは相変わらずで、聖夜が眠ってから帰ってくるのが殆どだったが、その方が聖夜には都合が良かった。なし崩しに陥落しそうな気持ちを立て直す時間が持てた。
 聖夜が恋人らしく振る舞うのは週末の夜だけだからか、繁はどんなに忙しくても出来るだけ早く帰って来た。繁との情交はあまりにも濃厚で後が辛くなるのだけれど、日頃の心苦しさからこの時だけは繁の好きに身を任せた。
 取り敢えずそれで満足してくれているのか、特に返事を急かされなかったから、ずっとこのままの状態を続けて行ければ…と虫がいい事を考えていた。

 そんな状態の聖夜を変えさせたのは、初めて二人で迎えたクリスマスの出来事だった。
 その日、繁は早い時間に帰って来ると、聖夜にケーキの箱を手渡した。普通の正方形の箱ではなくて、細長く、とても洒落た包装紙に包まれていた。聖夜はケーキを見ると嫌な気分になったが、それは聖夜の個人的な問題で繁には関係ないのだからと、零れそうになるため息を呑み込んだ。
 繁はケーキの他にローストチキンとシャンパンも買って来ていて、聖夜が作った夕食と合わせてクリスマスらしい食卓になった。食事のあと、繁は銀の燭台に蝋燭を立てて火を点し「ケーキを切って」と聖夜に頼んだ。
 男二人でクリスマスのケーキでもないだろうと思いながらも、冷蔵庫からケーキの箱を取り出し、皿と珈琲の用意をして繁の待つテーブルに運んだ。繁は聖夜が横に座るのを待ちかねた様子で綺麗にラッピングされた包みを手渡した。
「聖夜さん、誕生日おめでとう。これ、プレゼント」
 聖夜は吃驚して暫くのあいだ声もなく受け取ったプレゼントを眺めていたが、「聖夜さん?」と心配そうな繁の声で我に返った。誕生日プレゼントを貰うのは家を出てから初めてだった。
 職場の人は聖夜の名前を知っているから誕生日も知っていた。同じ部署の人は今日も「メリークリスマス」とは言わず、「おめでとう」と言ってくれた。ただ、プライベートな付き合いをしていないからプレゼントを貰う事はなかったし、その方がこちらも気が楽だった。
 繁も「メリークリスマス」とは言わず、「おめでとう」と言ってくれたのが嬉しかった。開けてみてと促されおずおずと開いたプレゼントは、暖かそうなベージュのカシミアマフラーと黒い皮の手袋だった。
「高かったんじゃないの? これ…」
「アルバイトしてるから大丈夫。種明かしするとね、家庭教師先の家がそういう衣料品の卸屋さんで、すごく安くしてもらったんだ」
 だから遠慮無く使ってねと繁は笑い、ケーキの箱を開けて「こっちもプレゼントなの」と言って聖夜の前に押し出した。
「クリスマスケーキが?」と怪訝そうに言うと、「違うよ。聖夜さんのケーキだよ」と胸を張るようにして言った。
「確かにクリスマスケーキだよ。『ブッシュ・ド・ノエル』っていうフランスのケーキ。“ クリスマスの薪 ” って意味なんだって。『ノエル』って聖夜って意味だよ。
 聖夜さんは、フランスでは “ ノエル ” さんなんだなって思ってさ、このケーキに決めたんだ。
 何で薪の形をしているのかは諸説あるみたいだけどね、クリスマスに関係がある逸話では、ジーザスの誕生を祝って薪を燃やしたからって事らしいよ。
 結局はどれも縁起がいいからって事みたいだけどね。俺としては、貧しい青年が恋人のためにせめてもと薪を贈ったって説が、一番いいと思ったけどね」
 聖夜は甘い物を好まなかったし、まさか自分で誕生日を祝おうとは思わなかったから、ケーキなど碌々見たこともなかった。そういえば、以前テレビでこんな形のケーキを見たことがあった。
 確かにケーキは薪の形をしていて、チョコレートなのだろうか、絞り出された茶色いクリームが幹の質感をよく表していた。砂糖で作られているらしい白いキノコも乗っていた。切り株らしく見えるロールケーキの切り口の横に板チョコで何か書かれたプレートも乗っていたが、何語で書かれているのか分からなくて読めなかった。クリスマスケーキだから、多分「Merry X'mas」と書かれているのだろう。
「メリークリスマス?」
 聖夜がプレートを見ながら何気なく口に出すと、「違うよ」と繁は指を立てて振った。
「だから、これは、聖夜さんのケーキなの! Joyeux anniversaire(ジョワイヨザニヴェルセール)。フランス語で『お誕生日おめでとう』って書いてあるの!
 お店の人に作ってもらったんだ。だからこれはちゃ〜んと今日作られたケーキだからね。
 お店の人、言ってたよ。中にはイブの売れ残りを売ってる店もあるかも知れないけどちゃんとしたお店なら、その日に作ったケーキが売られている筈だって」
 繁は、全部覚えていたのだった。聖夜が自分の誕生日を嫌いな理由を。自分でも意識しないうちに目が潤んで涙が零れた。
「ちょっ! 聖夜さん? ど、どうしたの!?」
 恥ずかしくて俯くと繁が躙り寄って来て抱きしめられた。『何でもない』と言おうとするけれど、声の代わりに嗚咽が漏れた。益々強く抱き締められて、そのまま胸に顔を埋めた。
 嬉しかった。純粋に自分のためのプレゼント。何かの日のついでじゃなくて、自分のためのケーキ。何気ない事だ。些細な事だ。26歳にもなって恥ずかしいけれど、それがとても嬉しかった。
 繁は聖夜の髪を撫でながら「きっとね、聖夜さんはちゃんと愛されてたと思うんだ」と囁いた。
「お母さんも、きっとお店でちゃんとしたケーキを買ってたと思うよ。ケーキ屋さんはさ、この時期になるとクリスマスケーキばっかりになっちゃうじゃない?
 大きなケーキって、それしか無かったのかも知れないし。自分の息子に売れ残りのケーキなんて、聖夜さんのお母さんだったら、絶対買わないと思うよ」
 頭上で穏やかな優しい囁きを聞いていると、そうかも知れないと思う。
 売れ残りのケーキの話はクラスメートに言われたのであって、母の口から聞いた訳でも実際に母がそれを買っている所も見た訳じゃない。いつの間にか捻くれて、そう思い込むようになっていた。
 父も母も、別に冷たい人たちじゃなかった。自分と同じで感情を表に出すのが下手な人たちだったのだと思う。だけど、どうして繁は見も知らぬ聖夜の母親が、そんな人じゃないと言い切れるのだろう。
 聖夜は鼻を啜り上げながら「どうして、そう思うの?」と不思議そうに訪ねた。
「聖夜さんが優しくていい人だからだよ。そういう人のお母さんがそんな事する訳ないから」
 自信満々で答えた言葉に驚いて、聖夜は繁の顔を見た。
「…俺は、優しくない。いい人でもない。繁に散々厭な事を言ってきた。繁は俺を買い被ってるよ…」
 いつもいつも狡くて、自分が傷つかない事ばかり考えて来た。優しい事など一度もなかったではないか。また緩みそうになる涙腺を、聖夜は目を大きく開けて堪えた。
 繁はそんな聖夜を見下ろしてクスっと小さく笑った。
「聖夜さんは優しいよ。まあ、誰でも自分の表情って、自分じゃ分かんないだろうけど…。聖夜さんが厭な物言いをした後にね、決まって困った顔するんだよ。
『ああ、こんな事言っちゃった、どうしよう』…って後悔してるみたいなね。だから、きつい言い方されてもちっとも応えなかったよ。最初に会った時からそうだった。
 俺、きっと、この人は優しい人なんだろうなって思ってたんだ。その通りだったよ。だって、聖夜さんは、俺の話をいつも馬鹿にしないで聴いてくれるでしょう?
 すごく嬉しかった。それで、好きになったんだ」
 馬鹿にしないで聴くとは、いつ、どんな話だったろうかと、聖夜は首を傾げた。繁はちょっと自嘲的な顔で笑い、それから小さなため息をついた。
「白状するとね、この部屋に人を上げたのも、こんな変な物が好きだって話したのも、聖夜さんが初めてなんだ。勿論、家族は知ってるよ。でも、外では絶対に言うなって言われてたからね。親父は特に嫌がってたし」
「でも、あの人体模型くれたって…」
「うん。あれはね、俺が医者になるって約束したご褒美なんだよ。俺の趣味を理解してる訳でも何でもないの。そう約束するまで、すっごい攻防戦があったんだよ。一度、俺がいない間にみんな捨てられそうになったしね。
 興味のない人にとってはゴミにしか見えないし、『こんなくだらない物に血道をあげるお前は大馬鹿者だ』って、何度も怒られた。まあ、親父の言うのも分かるよ。
 医者の息子が干し首の作り方だの、ミイラの作り方だのを熱心に調べてたら、そりゃ、心配にもなるよね。こいつはまともじゃないってさ。兄貴も気味悪がって馬鹿にしてたよ。
 今まで捨てろって言わなかったのは、死んだ母さんだけだったな」
「俺も…繁のお父さんと同じだよ。変わってるなって思ったもの…」
 聖夜は繁の趣味を馬鹿にした事はない。気味が悪いと思いつつ繁の話は面白かった。どんな事でも自分の知らない世界を知るのは楽しい。それに、喩え繁が変態で変人でも自分に害が無い限り、他人の事だからどうでもよかった。やっぱり繁は自分を買い被って好いように解釈している。そう思うと胸が痛かった。
「でも、否定はしなかったじゃない? 最初にこの部屋で掃除始められた時は正直ショックだったけど、俺がゴミじゃないって言えば、みんな棚に戻してくれたし、一緒に住むようになってからは、俺のいない間に綺麗に磨いて整理して棚に飾り直してくれたじゃない?」
「そんなのは…ゴミじゃないと言われれば戻すよ。整理したのも世話になってるからで、繁の趣味を…」
「俺の趣味を理解して欲しい訳じゃないよ。親父にも兄貴にも友だちにもね。
 いいんだ。人間はみんな違う考えを持ってるし、いくら好きな人だからって自分の全部を分かって貰おうなんて思ってないよ。ただ、否定はしないで欲しかったんだ。大げさかも知れないけど、俺の価値観を否定されるのは俺自身を否定されるのと同じなんだ。
 自分の考えに従わないからって、屑みたいに言われるのは辛かった」
「繁…」
 繁はとても傷ついた顔をして目を伏せた。その顔を見ながら聖夜は自分の両親の事を思い出していた。あの状況で自分を否定するなと言うのは無理だったろう。けれど、自分の存在を否定し、拒絶されたのは辛かった。諦めたつもりでいても、いつもどこか埋められない寂しさがあった。
 この、何でも揃っていると思った子も、否定される寂しさを感じて生きてきたのだろうか。
 切なさが胸の淵から溢れ出した途端、愛おしさに変わった。繁をぎゅっと抱きしめると繁も聖夜の身体を強く抱いて肩に顔を埋めた。
「夜、色んな話をしたよね。聖夜さんは黙って俺の話を聴いてくれた。それだけで良かったんだ。
 俺が俺である事を、そのまま知って、感じてくれる人が欲しかった。だから、聖夜さんを好きになったんだ」
 耳元で、「大好きだよ」と囁かれた。聖夜の心の中で凝り固まっていた蟠りが、すっと解けてなくなった。
 聖夜は今まで自分の受けた傷ばかり眺めて、自分ばかりが可哀相だと思っていた。でも、違う。
 人は誰でも多かれ少なかれ悩みや苦しみがあって、いつだって傷ついている。それでもきっとこの繁のように、殻に閉じこもることなく、前を向いて生きて行くのだろう。
「繁」
「うん?」
「プレゼント、ありがとう…。その…、俺…たぶん、繁が好きだよ」
 精一杯の返事だった。聖夜は恥ずかしくて自分の顔が赤くなるのが分かった。
 正直に言えば、目に見えない気持ちを信じるのは怖い。また、あの辛い思いを繰り返すかも知れない。けれど、いつも無償で与えてくれる繁の優しさに少しでも返せるものがあるとしたら、その好意に応える事しか思いつかなかった。
 繁は目を見開いて聖夜の顔を見ていたが、「ねぇ、『たぶん』はいらないでしょう?」とクスクスと可笑しそうに笑い、聖夜の目尻に溜まった涙を唇でそっと拭った。

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