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忘れられないクリスマス
100年の塵とダイヤモンド〈 7 〉

※ 性描写があります。未成年の方はお読みにならないでください。

 目を閉じてしまうと、いつも以上に嵐のような口づけに見舞われて、聖夜は早くも身体の中心が熱くなった。
 繁の手はすぐに聖夜のセーターの下に潜り込み、そのまま長い長い行為に持ち込もうとする。聖夜は慌ててその手を掴み「ん、んん〜!!」と唸って唇を外させた。「何?」と不満げな顔をする繁に、聖夜は冷静さを装って「せっかくだから、ケーキ食べようよ」と言った。
 普段より繁の身体が熱いのだ。気持ちが昂ぶっているのがビリビリと伝わってきて少し怖かった。こちらにだって心の準備というものがある。他にも色々…。
 時間が欲しくて上目遣いで繁を窺うと、「え〜。今すぐしたいよ…。やっとOK貰えたんだから〜」と聖夜の耳たぶに噛みついて駄々を捏ねたが、急にばっと顔を上げると悪戯を思いついた子どもの目をして「じゃあさ…」と、とんでもないお強請りをした。
「今日はゴム着けないで、直にさせて?」
 晴れて恋人になれたら頼みたかったのだと、繁は興味津々な様子で囁いた。聖夜はさっきまでの幸せな気持ちが急激に萎んでいくのを感じた。初めて先輩とした時に、知らなかったとはいえ中出しされて酷い目にあったのだ。それ以来、誰にも直にさせた事はない。
 後できちんと始末すればよいのだが、受け身の側からしたら無駄に身体に負担をかける事に違いはない。大体、どんなに綺麗にしても、男同士のセックスはリスクが高いからセーフセックスは最低条件。以前から教えてあるにも関わらず求めてくるというのは、普通の男にありがちな無理解か、雄の生存本能が無意識に働いているからだろうかと、ひどく悲しくなって涙が零れた。
 気持ちがジェットコースターのように上がったり下がったりして不安定だからか、一度緩んだ涙腺は簡単に涙を溢れさせる。
 繁はそんな聖夜に驚いて「どうしたの?」と聖夜の顔を覗き込んだ。聖夜は泣き顔を見られたくなくて慌てて俯いたが、繁が頬を挟んで無理矢理上向かせた。聖夜はかっとして手を振り解き繁をきっと睨みつけた。
「何で中に出したいの? 男なら子どもが出来ないから気楽でいい? 繁にとって恋人になるって、そういう事なのかよ?!」
「ちっ、ちがう! そんな事思ってないよ!」
 聖夜の突然の怒りに驚いた繁は「誤解だよ!」と慌てて平謝りに謝りながら必死で理由を説明したが、その内容を聞いた聖夜は今度は火が出るほど赤くなって狼狽えた。
「中で出したいんじゃなくて…、その〜〜…、だから、聖夜さんのアナル、舐めたいの!! 聖夜さん、普通にしてたら、うしろは絶対舐めさせてくれないじゃない!  どうしたらさせてくれるのって訊いたら、浣腸して『直に出来るくらい綺麗にしたら』って、そう言ってたから……」
 確かに繁に行為の主導権を渡していても、それだけは嫌でさせなかった。もう、何て事を言うのだろうと目眩がしたが、繁は口腔で得られる快感が何より強いらしい。キスが好きなのも聖夜のものを銜えて離さないのもそのためで、幼児性欲といわれるものらしいが、大人になってもそれが顕著なのだという。
「射精は一瞬の快楽だけど、舐めてるとず〜と幸せに感じるんだ。でもストレートに舐めさせてなんて言ったら、さすがに嫌われちゃうかと思って…」
 綺麗だ、好きだ、と思うものは可能な限り口に入りたくなるから「俺、聖夜さんを見てると、もう、どこもかしこも舐めてしまいたくなる」と真顔で言われ、これはさすがに『変態だ』と思いながらも、先ほどまでの怒りが嘘のように修まって、コロッと嬉しくなってしまう自分の現金さが恥ずかしくて下を向いた。
「ごめんね。そんなに怒ると思わなかった。嫌なら中では絶対出さないし、俺、男なら子どもが出来ないからいいなんて理由で、聖夜さんを抱いてるんじゃないよ。
 聖夜さんが好きだら、自然と抱きたくて堪らなくなるんだ。聖夜さんはやたら性別に拘ってるみたいだけど、俺、女がいいとか言った事ないでしょう?
 言っとくけど、俺、聖夜さんに巡り会う前から、結婚したいとか子どもが欲しいとか、そんなの一度も考えた事ないよ」
「だからそんな理由で俺の気持ちを疑わないで…」と囁かれ、聖夜が思わず顔を上げると、繁は父親の話をした時と同じ、とても傷ついた顔をしていた。聖夜は自分の愚かな猜疑心が自分だけでなく繁まで傷つけるのだと知った。
「ごめん…」と謝って繁を抱きしめると強く抱きしめ返された。
「俺が疑わせるようなこと言ったのが悪かったんだけど、聖夜さんはず〜と俺の想いを疑ってたんだね。なかなか返事をくれなかった理由も、それなんでしょう?」
 ガッカリとした様子でため息をつく繁に、聖夜はただひたすら「ごめん…」と謝った。申し訳なくて上目遣いで繁の顔を窺うと胡乱な目が聖夜を見下ろしていた。
「ねぇ? ホントに悪かったって思ってる?」そう不機嫌そうに耳元で囁かれ、コクコクと強く頷いて返せば、「じゃ、『生で』させて」としれっとした顔で言われ、聖夜は『嵌められた…』と思いつつ小さくコクリと頷いた。

 馬鹿みたいな話だけれど、浣腸するのかと思うと勿体なくてケーキは明日食べる事にした。恨めしそうにケーキをじっと見ていると、繁は可笑しそうに口元を押さえて「聖夜さんて、本当に可愛いよね…大好き」と言って笑った。
 繁に浣腸の使い方を指導されて、聖夜は泣きそうになりながらうしろの処理をした。簡易的には何度もしてきた行為だが、ここまで徹底的にしたのは初めてだった。とても体力を使った気がしてぐったりしてしまったが、そんな聖夜を繁は喜々として風呂に入れ、最後の仕上げと称してここでも散々弄られた。
 それでも「嫌だ」と言えないのは、やっぱり『繁が好きだからだな…』と、いつの間にか繁の虜になっていた自分の気持ちを、こんな形で確認している自分に可笑しくなって笑ってしまった。自分の恋人は変わり者でちょっと変態な所もあるけれど、そんな所も全部含めて好きなのだと思うと、頭の先から足の先まで舐め尽くされるのも嬉しくて堪らなく感じた。
 蝋燭の僅かな光と枕元のライトだけが灯る薄暗い部屋の中、今までで一番深い所まで愛された。
 クリスマスの夜はとても静かで、繁が立てる淫猥な水音と聖夜の啜り泣くような息遣いだけが響いていた。耳に届く猫のような自分の声を、辛うじて残っている羞恥心で恥ずかしく思っても抑える事など出来なかった。
 今までうしろの口淫を許さなかったのは、こうなる事が分かっていたから。もともと弄られるのが好きなのだから淫乱な質だと自分でも思う。その上繁の巧みな舌で愛撫されたら我を忘れて痴態を曝してしまうに違いない。
「やぁっ、あっ…はぁ…ん…」
 案の定、もう自分の痴態など気にならないくらい身体が熱くて朦朧としている。聖夜は全身を汗に潤ませて熱を発する双尻を誘うようにくねらせた。
 繁はそんな聖夜に目を細め、最奧の窄まりがまるで聖夜の唇であるかのようにキスして舌を差し込んで、襞という襞を存分に舐め尽くしトロトロになるまで愛撫した。
 繁の舌が繊細な粘膜を擦り上げる度に、快感が電気のように走り抜けて嬌声が止まらない。
「ああ…ああっ、やっ、繁ぅ…やめ、て…」
 聖夜は涙に滲む瞳を後にいる繁へ向けて喘ぎの間から声を絞り出した。
 いくら良くても舌だけでは足りない。蕩けるまで解されたそこはヒクつきながら今か今かと繁の楔を待ち侘びているのに、繁はあの蠱惑的な眼差しで見詰めるだけで打ち付けてくれる気配もなければ、はち切れそうになっている前にだって触れてくれない。
 自分で触りたくても、背中で両手を一緒に掴まれて前のめりに膝と肩で支えた状態の聖夜には、尻を振って強請る以外為す術もなく、反動で揺れる雄蘂から銀色の糸を垂らしているしかなかった。
 繁は先端から止め処なく流れ落ちる体液を指ですくって反り返った陰茎に擦り付けながら指を滑らせ、固く凝った二つの膨らみの間を抜けて強請るように蠢く後孔の周りをくすぐった。
「ひゃっ、んっ、うぅ…ん」
「止めてもいいの? ねぇ聖夜さん、俺が欲しいのならそう言ってくれなきゃ分かんないよ?」
 繁は聖夜の尻たぶに唇をつけて歌うように囁いた。声の僅かな振動だけで堪らないほど襞が疼いてしまう。聖夜はいやいやするように顔をシーツに擦りながら叫んだ。
「い、挿れて! お、ねがいぃ〜! 繁をちょうだい! もう、早くぅ…」
 背中に回された腕の拘束が緩んだと同時に仰向かされて、天井と自分の膝頭と繁の顔が見えた。
「ひっ! …い…んっ」
 身体を二つに折られて貫かれ、粘膜の擦れる痛みで息を呑んだ。
 ゆっくりと襞が広げられ圧迫感と同時に繁の重みも加わって、熱くて痺れるような感覚がじんじんと広がっていく。聖夜は大きく息を吐きながら繁の熱さを歓喜して受け入れた。
 繁をすべて呑み込むまでの間、繁は聖夜の涙を指で拭ってやりながら、呼吸の邪魔をしないように唇の端に優しくキスを繰り返した。繁は聖夜の教えた事を全て覚えていて、出来るだけ負担のない様に挿入し、挿れた後は馴染むまで動かずにキスを繰り返したり熱烈な睦言を囁いて聖夜の身体が受け入れるのを待ってくれる。
 聖夜はこの繁のいたわりが嬉しかった。激しく揺さぶられて達く時も切実に求められているのを感じて嬉しいが、挿れらた直後に交わすこの優しい睦み合いが、聖夜が一番幸せを感じる瞬間だった。それは他の誰との情交でも感じた事のない、繁だけが与えてくれた快感だった。
「ああ…思った通りだ。ゴムがないと聖夜さんの中がよく分かる。俺のに吸い付くみたいに動いてる…。ああ…気持ちいいよ…堪んない…。ねぇ、やっぱり中で出しちゃ、駄目?」
「ん…いいよ…」
 もう繁を疑う気持ちはなかったし、繁の望みは何でも叶えて遣りたかった。「も、動いて…」と囁くと、繁は嬉しそうに聖夜の名を呼びながら襞に馴染ませるように小刻みに腰を前後させた。
 聖夜にも繁の形と鼓動が直に伝わった。繁の先端が優しく良い場所を擦ってくれる度に、痛みが痺れるような快感へすり替わり体中を駆け巡った。喜びに自然と身体が反り返り、臀部が引き締まって粘膜が中の繁に絡みついた。
「ああ…すごい、引っ張られる…。ねぇ、聖夜さん…俺は…自分の子どもなんか欲しくないけど、聖夜さんが生んでくれるなら…俺、欲しいな…。きっと、可愛いだろうね…」
 いくら何でも『それは無理』と聖夜は半分呆れながら、どうして「欲しくない」のだろうと不思議に思った。考えれば胸が痛いけれど、繁の子どもこそきっと可愛いだろう。
「どうして、自分の…子…欲しくないの?」
「…親父の気持ちが、分かる気がするから…。自分の血肉を分けた子なら…期待も…するよね。俺には俺の人生が、あるのにさ…。俺、嫌なのに…このまま…親父の言うままの人生送ったら…自分の子どもに…同じ事言いそう。それに…こんな変態な俺の血引いたら、大変だよ…」
「ひっ、あっ、ああ、あぁ…ん」
 急激に突き上げられて悲鳴を上げて仰け反った。繁は聖夜の顔を引き寄せて覗き込むように囁いた。
「聖夜さんは、もう…俺のものだからね…。これから、もしも、他の男が貴方に…こんなこと…否、この身体に触れたりしたら…俺はそいつの一物をちょん切ってホルマリンに漬け込んでやる!
 自分でも、おかしいと思うよ。あの…ストーカー男なんかより、よっぽど俺の方が危ないよ…医者になるのも考えモンだよね…」
「そんな事…」
『ない』と言う聖夜の言葉を繁はキスで遮った。何度も深く口づけながらゆっくりと腰を使われると気持ちが良くて恍惚としてくる。聖夜は繁の背中を慰めるように撫でながらもっと深い結合を強請って両足を繁の腰に巻き付けた。
「聖夜さん…俺…不安なんだ。聖夜さんがどっか行っちゃいそうな気がして…いつだって、貴方を繋ぎ止めておくのに必死なんだ…。ホントは…この部屋に閉じ込めて、俺のコレクションと一緒に…仕舞っておきたい…」
 聖夜に頬ずりしながら切々と訴える繁の不安は、聖夜のそれと全く変わらないのだと知って、嬉しいような悲しいような気持ちで涙が溢れそうになった。
「繁…もう、そんな事を考えなくていいから…。俺は…繁が好きだから、もう…どこにも行かない。ここに、居させて。繁の……」
『気が済むまで』と続く言葉は言わずにおいた。繁は嬉しそうに微笑んで聖夜の目尻に溜まった涙を唇で拭った。
「ねぇ、早く繁の…頂戴。俺も、おかしいのかな…繁の子どもなら、生めそうな気がする…ねぇ…早く、俺の中に…いっぱい、ちょうだい…」
 自分でも馬鹿な事を言っていると思いながらも、繁が与えてくれるならきっと何かが自分の中に宿ってくれる気がした。聖夜は下腹に力を入れて中を締めつけると、更に腰を振って自身の良い場所へ繁の猛りを導いた。繁はすぐに反応して中でぐっと大きくなった。
 繁は笑いながら「すぐにあげる…たくさんあげるよ…」と囁いて、望み通り聖夜の中を熱い飛沫でいっぱいに満たしてくれた。

 あれから、今日でちょうど一年になる。
 晴れて恋人同士になった二人だが、年が明けると繁は進級の準備で忙しくすれ違いの日々だった。それでも聖夜が不安を感じなかったのは、繁はとにかく忠実(まめ)な男で、会えなくても頻繁にメールで連絡をくれたり、細やかな気遣いを見せてくれたからだ。
 聖夜自身もその頃から少しずつ変わっていった。何に対しても消極的で悪い事ばかり考える性分の聖夜だが、猜疑心を持たずに自分から心を開くように心がけた。少しでも繁の隣に立てる人間になりたかったから、繁を見習って素直に人や世の中を眺めるようになった。
 たったそれだけの事でも、仕事も人間関係も、見えて来るものがたくさんあった。職場の人のさり気ない優しさや心配りが目に留まれば、自分が今まで如何に表面だけ流して仕事をして来たのか思い知った。
 就職してから4年も経って漸く、聖夜は自分の仕事に真剣に取り組むようになった。その分苦労も雑事も増えたが、このまま定年まで何の変化もなく終わるのだと思っていた毎日が、有意義で変化に富む日々に変わった。
 何に対しても熱意を持って相対すれば、その分だけ手応えになって返ってくるのだと実感できたから、自然と気持ちも前向きになり表情も明るくなった。周りの反応も違ってきた。役場に来る住民や同僚と言葉を交わす事が多くなり、それが嬉しいと思う自分に驚いたりした。
 聖夜の世界は見違えたように明るく輝き出したが、自分でもちゃんと分かっていた。別段、世界が変化した訳じゃない。本当は最初から自分は待ち望んだ世界の中にいたのに、頑なに心を閉ざして見ようとしなかっただけなのだ。それを気づかせてくれたのは繁だった。
 繁がこの植物園に連れて来てくれたから、季節の変化が、自分の生きている世界が、こんなにも美しいと気がついた。
 あんなに嫌いだった自分の名前も、繁が愛おしげに呼んでくれるから好きになれた。
 繁が祝ってくれたからクリスマスも誕生日も厭わしくなくなった。
 不意に思い出しては侘びしくなっていた両親の事も、『元気だろうか』と思い遣れるようになった。いつかきっと会いに行きたいとさえ思うようになった。
 あんなに恨んだ先輩の事も、幸せになっていたらいいと許す事が出来た。
 それでも今日、ここに来るまでは、また全てが恨めしくなるかも知れないと思っていた。自分を哀れんでばかりいた昔の自分に戻ってしまうかも知れないと。
 でも、そんな事はない。もう、昔の自分には戻らない。繁が愛してくれたから。繁を愛しているから。
 聖夜はガラクタを楽しそうに眺める繁の横顔を見ながら確信していた。今日で繁とさよならしてしまっても、きっと自分は大丈夫だ。
 繁が好きで、大好きで、会えなくなってしまったら辛くないはずはないけれど、大好きだから、愛してるから、繁には誰よりも何よりも幸せになって欲しい。田舎で医者になる事が繁の幸せなら、そこに自分がいなくても構わない。自分はここで、ずっと繁の幸せを願っていよう。
 繁にはもう充分に愛してもらった。この一年、本当に幸せだったから、いっぱい大切なものを貰ったから、別れてしまっても、きっと前を向いて生きていける。
 聖夜は溢れそうになる涙を堪えてずっと繁を見詰めていた。目を見開いて繁の姿を焼き付けるように、忘れてしまわないように、全て覚えておこうと目を見開いた。なのに後から後から涙が湧いて霞んでしまう。我慢しようとすると鼻の奧が痛くなって「くしゅっ」とくしゃみが出てしまった。
「聖夜さん、そこ、もう寒いでしょう? ねぇ、こっちに来て」
 繁は階段を隔てて右側の一番最後の展示室へ移動しながら手招きした。聖夜は慌ててティッシュで鼻をかむと、涙を誤魔化すように「ここ、埃っぽい」と文句を言った。繁は側に来た聖夜の手を取って「確かにね。ここには100年の塵が詰まっているから」と言って笑った。
「ここね、この博物館の中でも俺が一番気に入ってる場所なんだ」
 繁が導いた西日の名残が差し込む展示室は、なるほど繁の好きな物で溢れていた。
 時代を経て来たであろう褐色の大きな木製の机の上に、人骨の骨標本が二体、腕を空中に振り上げた不思議なポーズで立っているし、その間に、これまた四体の人体解剖標本がトルソーのように並んでいるのである。それだけじゃなくて、一体どういう繋がりの展示なのか分からないが、まるで宝石店のショウケースのように陳列された水晶や鉱物、宝石の類が並ぶガラスケースと、キノコなどの菌類の立体標本、その研究をされたらしい教授のデスマスクまで飾られていて、まるで繁のコレクションそのままだ。
 聖夜は首を傾げてしまった。ほんの100年前の大学生は、きっとこの標本で真面目に勉強していたのだろうけれど、医学の事などまるで分からない聖夜の目から見ても、もうこの標本たちは何の役にも立たないような気がした。人体解剖票本なんて、繁の言ったように100年分の塵と埃を被って変色していたし、臓器だって足りない。これなら繁の部屋で見た恍惚とした表情の蝋人形の方が、よほど精巧で役に立ちそうな気がした。
 繁が個人的に好きで集めるのは別として、こんな役に立たない物を展示してどうなるのだろう?
「なんか…票本っていうよりオブジェみたいだ…」
「うん。もう票本としての役割は終えてしまったから、ここにある物は全て、今は現代アートとして展示してあるんだって」
 聖夜はなるほどと思ったけれど、アートとして見るには何だが後ろめたいものを感じた。廃棄してしまうのも忍びないけれど、これら学術票本を美術として捉えて良いのだろうか?
 そう言うと、繁は目を細めて「そうだね」と頷いて展示室を一望し、感慨深そうに言った。
「博物館が、これらを展示している意図はちゃんとあるんだけどね、どう思うかは見る人の決める事だから…。俺はね、ここで…この遙か昔の票本類を眺めると、初心に返る気がするんだ。
 だって、日本の医学って、こんなところからは始まったんだよ。それが、ほんの100年かそこいらの間に、自分たちが今学んでいる最新医療まで行き着いたのかと思うと、人間の飽くなき探求心と努力を思う訳…。俺ね、ここに来て、何度も考えたんだよ。それで、決めた。俺、研究者になる」
「えっ? お医者さんにはならないの?」
 聖夜は吃驚して繁の顔を見上げた。そのために子どもの頃の希望を捨てて、あんなに毎日頑張って勉強してきたのに。
「医者にならない訳じゃないよ。ただ、病院には就職しないで、大学に残ってそのまま研究職に就くつもりなの」
「大学に残るって…。田舎には帰らないの?」
 心臓がどきどきした。そんな選択肢があるなんて考えもしなかった。繁の『大事な話』とはこの事だったのだ。だったらまだ東京に、自分の側にいてくれるのだろうか。
「帰らないよ。…あのさ、聖夜さん、最近元気ないっていうか、ずーっと様子がおかしかったけど、もしかして、俺が田舎に帰ると思ってたからなの?」
 繁に顔を覗き込まれて聖夜は恥ずかしくなって俯いた。その通りなのだけど、素直に頷くのは癪だった。頭上で「聖夜さんは、もう…」と繁が仰々しくため息をつく音がした。
「だって、夏から電話が…帰って来るように言われてたんだろう?」
 早合点を責められているようでちょっと悔しくて言い返した。
「うん。夏に帰省した時、大学院に進学するってちゃんと宣言したんだけど、そりゃもう煩くて。俺が医者の道に進んだだけでも勘弁して欲しいのに、親父は兄貴と俺とで病院を大きくしたいらしいのね。そんなの優秀な兄貴一人いれば充分だっつうの。
 強行しちゃえば諦めるかと思って、10月に試験受けて合格したって連絡したら、今度は向こうが実力行使に出てさ、『勘当だ〜!』って、送金打ち切られちゃった。だからバイト辞められなくて、ずっと会えなくて…ごめんね」
「…もっと、早くに話して欲しかった」
 自分がずっと不安に思っていた事なんかどうでもよかった。そんな事より、そんな前から送金を打ち切られていたのに、自分を頼ってくれなかったのが寂しかった。これでも自分は社会人だ。お金の工面など幾らか出来たはずなのに。自分は恋人のはずなのに、ちっとも教えて貰えずにずっと繁の世話になったまま、別れるだのフラれるなどと自分の事ばかり考えていたのが情けなかった。
 落ち込んだように下を向いた聖夜に、繁は慌てて「ごめん、俺が悪いよね」と謝った。
「聖夜さんの誕生日も近かったし、俺、ちょっと格好つけたかったからさ…。やっぱり、一生に一度の事だから、勇気がいるんだよね」
 繁は咳払いするとポケットから小さな箱を取り出して蓋を開け、鉱物票本の収められたガラスケースの上に置いた。そこには黄色い石の入った銀の指輪が光っていた。
「じゃあ改めて、聖夜さん、お誕生日おめでとう。これ、プレゼント」
「こ、れ…」
「え〜と、エンゲージリング。聖夜さん、俺と結婚して?」
「へっ?」
 吃驚して聖夜は間が抜けた声しか出なかった。いつも突飛な事をいう繁だけれど、これはさすがに自分の耳を疑った。まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている聖夜の顔を見て、繁は恥ずかしそうに慌てて言葉を並べ立てた。
「な、何かベタだけど、結婚申し込む時ってこれしか思い浮かばなかった。でも、あんまり月並みな物じゃ癪だからさ、俺らしい “ 特別な物 ” を渡したかったんだ。これね、世界中でたった一個しかないんだ。天然石じゃないんだよ、人工石。一体、何から出来たと思う?」
 聖夜の頭は真っ白だった。田舎に帰らないと聞いただけでも胸がいっぱいなのに、次から次へと信じられない言葉ばかり聞かされて飽和状態なのだ。エンゲージリング、結婚、特別…と、言葉ばかりがぐるぐる巡るだけで何も考えられず、首を振るのが精一杯だった。
「何と “ 髪の毛 ”。俺と聖夜さんの髪の毛を合わせて出来てるんだよ! すごいでしょう? 俺と聖夜さんの一部から作り上げた結晶なんだよ。本当は去年のクリスマスにあげたかったんだけど作るのにすごく時間がかかるから、今回も間に合わないかと思ったんだけど、プロポーズすんのに間に合ってホント良かった…って、わっ! 聖夜さん? な、泣かないでよ…」
 ずっと緩んでいた聖夜の涙腺は簡単に決壊してしまった。去年のクリスマスに…と言う事は、きちんとした形で付き合う前からこのプレゼントを考えていた事になる。さっきから驚いたりほっとしたり、喜怒哀楽の繰り返しで聖夜はパニックを起こしてしまった。
 嗚咽を飲み込んでぽろぽろ涙を零す聖夜を抱き寄せて、繁は髪に口づけながら真摯な口調で囁いた。
「ごめんね、驚かせてばかりで。結婚なんて口にしてふざけてる訳じゃないんだ。真剣だよ。聖夜さんを好きだと思った時から決めてたんだ。俺、貴方とずっと一緒に生きて行きたい。すぐに言えなかったのは、やっぱり医者として勤務医になるか研究者の道に進むか迷ったんだ。
 大学院を出てもどこかの医療機関に就職するつもりはなくて、そのまま大学で助手をやりながら研究を続けるつもりだし、教授になるにはそれなりの成果とポストがないと何年も冷や飯食いの生活が続くんだ。そんな男と一緒になってなんて…ヒモみたいじゃない? いくら俺でも躊躇したよ…。
 聖夜さんは、やっぱり将来性のない男はイヤ?」
 聖夜は直ぐに声が出せなかったが、繁に抱かれたまま必死で首を横に振った。繁は聖夜を抱く腕に力を込めると嬉しそうに笑いながら言った。
「ちょっと訂正しとこう。将来性はあるよ。儲からないかもだけど、成果は出すから。俺が医者も悪くないと思った理由、話したよね。俺は必ず母さんと同じ病気の人を助けるよ。絶対にもっと効果のある薬も、治療法を見つけてみせるから。だってねぇ、こんな所から始まった医学だけど医療は日々進んでいるんだから。
 この宝石だってさ、科学の進歩の結果じゃない? いくらダイヤモンドが炭素から出来てるって知ってても、まさか人間の髪の毛から炭素を抽出して人工石を作る商売があるなんて知らなかったよ。
 もしかしたらさ、そのうち男同士でも子どもが作れるようになるんじゃない? つうか、俺が研究しようかな。でもねぇ、そのためにはさ、側で俺を支えてくれる人が必要なの。聖夜さんが必要なんだよ…」
 聖夜は『男同士で子ども…』とはいくら何でも無理だろうと思いながら、いつでも楽しそうに不可能を可能にしてしまいそうに話す前向きな繁が好きだった。きっと繁なら一生懸命研究して、夢を叶えることだろう。
 繁は自分が必要だという。彼のために少しでも役に立つのなら嬉しいし、ヒモでも何でも構わないと思った。
「いいよ…。すぐに俺の部屋に移っておいで。但し…」
「但し?」
「コレクションを捨てろ…とは言わないから、せめて本は半分に減らして…」
 繁は天を仰いで「う〜ん」と唸ったが、首を傾げて『どうする?』と見上げる聖夜に、思いっきり情けない顔をしてから「善処します…」と言って項垂れた。その様子が可笑しくて聖夜がクスクス笑い出すと、繁も嬉しそうに微笑みながら「左手出して」と言った。
 聖夜はハンカチで涙を拭ってからおずおずと左手を差し出した。繁は箱から指輪を取り出すと聖夜の左手の薬指にイエローダイヤモンドが輝く銀色の指輪をゆっくりとはめた。指輪は聖夜の指にぴったりと収まった。
「…ありがと…ぴったりだ」
「夜中、聖夜さんが寝てる間に毛糸を巻いて測ったから。指輪、色が白いからよく似合う…」
 言いながら繁の顔がゆっくりと近づいて聖夜も思わず瞼を閉じた時、突然、後から「あの〜…」と遠慮がちに小さな声が聞こえ、二人して瞬間的に飛び退いた。慌てて声のした方へ振り向くと、今度は声の主が大慌てで弁解するように喋り出した。
「す、すみません。お話中の所を…あ、あの、もう、4時なので、へ、閉館時間なんです…申し訳ありません!」
 大学4年生くらいにしか見えない若い女性の職員だった。真っ赤になって気の毒なくらい恐縮しながら説明されて、聖夜の方も恥ずかしくなって顔が熱くなった。彼女の様子だと自分たちの関係を察してしまたのだろう。こんな所でキスしそうになるなんて、雰囲気に流され過ぎたと苦い物が迫り上がった。
 迂闊だった。両親の時から比べたらこんなシーンは大した事はないけれど、見て気持ちの良いものではないだろう。どう思われたかと思うと怖くて心が縮んでしまった。
 繁は聖夜を隠すように少し前へ出て「分かりました」と返事をし、深く項垂れた聖夜の左手を後ろ手に握った。聖夜は瞬間的に手を引いて手を離そうとしたが、繁は手に力を入れてそのまま聖夜を引っ張っると階段の方へ歩き出した。
 聖夜は女性職員の前でこれ以上恥をかきたくなくて仕方なく黙って繁に従ったが、職員の横を通り過ぎるとき顔から火が出そうで嫌な汗が流れ落ちた。居たたまれずに繁を押すように階段を駆け下りた。
 階下まで下りると「もう!」と怒鳴ってもう一度繁の手を振り離そうとしたが、繁はがっちり聖夜の手のひらを握ったまま決して離そうとしなかった。聖夜がきっと繁を睨みつけると、逆にニヤニヤしながら「いいじゃない。俺たち結婚するんだから」と臆面もなく言ってのけた。
 そのまま縺れるように歩きながら出口に向かっていたら、「あのっ!」とまた後から声がした。振り返ると、件の職員が満面に慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、二人に向かって深々とお辞儀をした。
「あの、おめでとうございます」
 聖夜は呆気にとられて職員を見詰めた。「ご来館ありがとうございました」と聞き間違えたのかと戸惑いながら繁の方を見ると、繁も目を見開いて職員を見ていたが、彼女が顔を上げると「はい! ありがとうございます」と嬉しそうに破顔してお辞儀を返し、聖夜の手を引っ張って出口に向かった。
 聖夜の身体は一気に軽くなった気がして繁に引っ張られるまま、ふわふわとした足取りで出口に向かったが、玄関扉を出る間際もう一度振り返ると、彼女が笑顔のままもう一度お辞儀をしたのが見えて、思わず「…ありがとう」と言葉が零れた。
 外へ出ると辺りはもうすっかり薄暗がりで足下から寒さが登って来たが、聖夜は寒さを感じなかった。彼女が何処まで自分たちの話を聞いていたのか、何に対して「おめでとう」と言ってくれたのか分からない。だけど何だが嬉しくて、切なくて、止まった涙がまた溢れてきた。
 つないだ繁の掌は温かく、親指が悪戯するよに薬指のリングを撫でていた。
「しげる…」
「うん?」
「俺…今日のコト…一生、わすれない…」
 鼻声でそう途切れ途切れに囁くと、くっと手を引っ張られ繁の胸に抱き寄せられた。辺りには植物園の暗い森以外何も見えなくて、ただ繁の鼓動と風が枝を渡る音が聞こえた。
「俺も、忘れないよ。聖夜さん、愛してる…」
 繁は聖夜の耳元に唇を寄せて、嬉しそうに優しくそっと囁いた。

 (了)


今後の励みになりますので、ご感想を是非。

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