INDEX NOVEL

忘れられないクリスマス
100年の塵とダイヤモンド〈 2 〉

 聖夜は高校2年生の時、初めて男と付き合った。相手は同じ高校の先輩だった。
 先輩が卒業すると一度関係は途切れたが、聖夜が彼を追って東京の大学へ進学すると、相手も喜んで聖夜を迎え2人の関係は順調だった。しかし、一緒に帰省した冬休みに部屋で抱き合っていた所を、旅行から1日早く帰宅した両親に見つかってしまい、親とも先輩とも決別してしまった。19歳の誕生日を迎えるほんの少し前の出来事だった。
 両親は学費と生活費だけは送ってくれたが、その他一切の関係を絶たれてしまった。それから一度も会っていない。親のことは仕方ないと諦められたが、先輩への想いを断ち切れないでいたから、思い詰めて一度だけ会いに行った。
 同級生に頼んで1年探し回った末にようやく再会した彼は、『上司の娘と結婚する。頼むから、自分の事は忘れてくれ』と言った。自分たちの関係も『気の迷いだった』と言われた後の事はよく覚えていない。
 誘ってきたのも、身体を繋げる事も、何も知らない聖夜に教え込んだのは向こうだった。初めての恋に夢中になった果てに帰る場所を失って、残ったのは男しか相手に出来ない事実だけだった。
 以来、捨てられるのが怖くて、誰とも積極的に付き合えなくなった。
 寂しさを嘆いていたのは最初のうちだけで、幸い寝る相手に不自由はしなかったし、お堅い公務員の仕事でもあったから、隠さなければならない関係など望まない方が良いのだと思うようになった。
 したくなればフラリと夜の街へ行き、ゆきずりの関係を結ぶ。誘われても同じ相手とは寝なかったし、セフレも作らなかった。足繁く通っていた店の者にも挨拶を交わすだけで、詳しい素性を明かすような遣り取りはしなかった。
 こんな事はゲイの世界ではよくある話だったし、本人は用心していたつもりだった。なのに、聖夜の楚々とした外見が際立っていた為か、褥の中での変貌ぶりを誇張して噂され、好奇心から聖夜と寝たがる男が跡を絶たなかった。
 それだけならまだ良かったが、次第にしつこく素性を知りたがったり、手荒なセックスを好む輩が現れて、暫く盛り場には近づかない方が良いかも知れないと思っていた矢先、一番恐れていた事態が起きた。
 角田という中学で体育を教えているというサドの男に何度も関係を迫られて、ストーキングされた挙げ句引っ越しを余儀なくされたのだ。
 幸いにも職場は知られなかったから、とにかくセキュリティの万全なマンションへと逃げるように越したのが桜の花が咲いた頃の事。そのあと暫くは平穏な日々が続いたが、すぐに見つけられてしまった。オートロックのマンションである筈のドアの向こうに角田の姿を見た時は、恐怖で息が出来ないほどだった。
 インターフォンのカメラ越しに何事か喚く角田が悪夢としか思えず、ただひたすら受話器を抱えてガタガタと震えていた時、「うるせえ! 夜中にガタガタ喚くんじゃねぇよ!」と怒鳴り声がして、角田と罵り合う声が聞こえて来た。
 驚いた聖夜はその成り行きを固唾を呑んで聞いていたが、そのうちどちらかが殴られるような鈍い音が聞こえるに及んで、意を決すると携帯と蝙蝠傘を握りしめてドアの外へ飛び出した。
「今、警察呼んだから!」
 そう怒鳴りながら廊下を見ると、危惧した通り「うるせえ!」と怒鳴った隣の住人らしき人物は角田に組み伏せられていた。
「角田! アンタ、今現行犯だからな! 俺、出るとこ出てやるよ! アンタをストーキングと傷害罪で訴えてやる!」
 聖夜が叫びながら蝙蝠傘を振り上げると、角田は脱兎のごとく逃げて行った。跡には口の端から血を流している男性が伸びていて、聖夜は彼に駆け寄ってひたすら「ごめんなさい」と謝り続けたのだった。
 これが、繁との出会いだった。
 繁には引っ越した際、クッキーを持って挨拶に行ったから面識はあった。つい1ヵ月前のことだから名前も覚えていた。確か、野原さんだったな…と思い出しながら、聖夜は相手の切れた口の端を痛々しそうに眺めた。
 普通だったら関わり合いになるのを避けると思うのだが、今時珍しく正義感の強い若者らしい。「立てますか?」と声をかけ、手を貸しながら繁を立たせた。
 とにかく傷の手当てをしようと、聖夜は自分の部屋へ招き入れようとしたが、「だったら、うちの方が薬あるから」と言って繁は自分の部屋へ誘った。
「えっと、鈴木さんですよね? ごめんなさい…俺、ドア越しにね、あの男が喋ってんの、みんな聞いちゃった。貴方、本当は警察呼んでないでしょう? あの手のストーカーはしつこいからさ、さすがにすぐ戻って来るとは思わないけど、まだ近くにいて本当に警察が来るか見てるかも知れない。だから、今日は俺と一緒にこっちにいた方がいいと思うよ」
 聖夜は「それでは怪我をさせた上にご迷惑だから…」と遠慮したが、繁は「申し訳ないと思うなら言う事聞いて」と抗議した。
「せっかく怪我までして守ったのに、貴方がアイツに何かされたら俺の立つ瀬がないでしょう?」
 そうまで言われると、聖夜も怖かったので繁の言葉に甘えさせて貰ったのだが、通された部屋を見て絶句した。床が見えない程、本とゴミの山だったのだ。
 命の恩人に文句を言うのも悪いと思ったので、無言で非難の視線だけ繁に向けると、「あっ、ソファーベッドの上は何も置いてないから、鈴木さん、それ使ってください」と屈託なく笑われて、聖夜はため息をつくしかなかった。
 結局、聖夜は掃除機とゴミ袋を出させて片付けたのだが、繁がその後ろをくっついて回りながら「それ、ゴミじゃないです!」といちいち確認しながらの作業だったので、真夜中過ぎまでかかってしまった。
 実際ゴミも多かったのだが、聖夜にはゴミかガラクタかオモチャにしか見えないもの――河原の丸い石みたいなのとか、小汚い水晶だかガラスの欠片みたいなのとか、五寸釘が刺さった藁人形とかもあった ―― は全て繁のコレクションなのだそうだ。そんな物と大量の本が、棚から押し入れから溢れているのだった。
 しかもどれもちょっと薄気味悪いものが多く、中でも聖夜の目を釘付けにしたのが、理科室でよくお目にかかる臓器がバラバラに出来る人体模型と、そのすぐ横の壁に貼られた、こちらも人体模型の写真だった。写真と言っても雑誌の切り抜きか何かで、写っているのは恐らく蝋で作られたものだろう、白に近い金髪の裸の女性…否、まだ少女だろう、胸から下がぱっかりと開かれて臓器が丸見えになっているのだ。
 それはグロテスクなほど精巧でよくできていた。でも、聖夜の目を惹きつけたのはその精巧さではなくて、少女の表情だった。目を見開いて、どことなく恍惚とした表情を浮かべているのだ。それはまるで…情事の後のしどけない表情そのものだった。
「あっ、それは! おっ、親父が! 俺、馬鹿だから、勉強しろってくれたんです!」
 台所から飲み物を用意して来た繁は、人体模型の前で硬直している聖夜に慌てて声をかけた。聖夜は目を眇めて壁の切り抜きを指さし、「これを?」と意地悪く訊いてやった。
 繁は「あ〜〜」と呻くと目を泳がせて、カップが乗ったトレーを手に暫く逡巡していたが、意を決したように咳払いすると「そういうの、好きなんです」と小さな声で言った。
 繁は聖夜にココアを渡しながら不思議なものとか、神秘的なものが好きなのだと言った。
「俺の子どもの頃の夢は、世界の七不思議を見て回る事だったんです。冒険家になって、八つ目の不思議を発見するんだってマジで思ってましたよ。中学に上がってもそんな変わらなくて、親父にいつも怒られてました。うち、開業医なんです。俺と違って優秀な兄貴がいるし、俺は別に医者になんてなりたくなかった。他にやりたい事が幾らでもあったし。だけど、14の時に母が白血病で亡くなって…」
 繁は母親が誰よりも好きだった。奇麗で優しい母がこの世から消えてしまうなど、受け入れ難い事だった。ちょうどその頃、ある雑誌で亡くなった人の遺骸が何年経っても腐らずに残っているという記事を読んだ。繁はまるで天啓を受けたように思い、父にその雑誌を見せて母の身体を残したい、そういう分野の研究をしたいと訴えた。人間は誰でも死ぬが、古代エジプト人のようにせめて身体だけでも残せたらと、14歳の繁は真剣に考えたのだ。
「凄い勢いで怒られました。『そんな馬鹿な事を考えるくらいなら、お母さんと同じ病気の人を助ける事を考えろ!』って。まあそれで、医者になるのも意味があるのかなって思うようになって、医者になる約束をしたら、15歳の誕生日にこの人体模型をくれたんですよ。そっちの写真の方はね、例の雑誌に載ってたんです。“ ネクロフィリア(死体愛好)” って特集だったから、親父に捨てられちゃって、それしか残ってないんです。でもこれ、何かすごいでしょう? 俺、目が離せなかった。綺麗だし、何と言っても顔が…好きなんですよね…」
 そう嬉しそうに話す繁の横顔を、聖夜はぞっとしながら見ていた。助けてくれたのは有り難いけれど、とんでもない隣人がいるマンションに越してしまったものだと思った。
 繁の外見は至って普通の、否、よく見れば極上の部類の男だった。ファッション誌から抜き出て来たようなモデルばりに整った顔と、スラリとした七頭身の小さい頭に長い手足。テレビでよく見かける俳優に似せたレザーカットの黒い髪は、先ほどの格闘で無残な形に崩れていたけれど、いつもはきちんと整えているのだろう。どれもこれも本人に似合っていて、自分の魅力をよく知っているのだと思わせた。
 これで医学生だというのだから、きっと頭も良いのだろう。天は二物も三物も与えるのだと拗ねたくなりそうだったが、口を開くと頭のネジがどこか一本足りなさそうな喋り方と、ぎょっとするような危ない趣味の内容。そのあまりのギャップに、聖夜はすっかり戸惑ってしまった。
 親切で優しいし、多分とても素直な子なのだろうと思う。だけど、このお化け屋敷のような部屋を見る限り、やっぱりちょっと怖いのだ。これが将来、医者になるのかと思うと…。
 とにかく今晩はご好意に甘えて、お礼は後日きっちりさせて貰って、後は一切関わるのを止めよう。そう思ったところで、聖夜は自分の考えに笑いが込み上げた。さっき彼は言っていたではないか、角田の話を聞いていたと。こちらが距離を持たずとも、ホモの隣人と付き合おうなどと思う物好きはいないだろう。
 明日、ここを出たら塩でも撒かれるのじゃないかと聖夜は思ったが、何事もなく迎えた次の朝、部屋に戻ろうとした聖夜に繁が手渡したのは部屋の合鍵だった。
「ハイ、鈴木さん! これ、うちの鍵。俺、帰り遅いんで、これで入って適当にやっててください。冷蔵庫の中のもの勝手に使って構わないんで。俺の方の宅急便とか、来ても出なくて良いですからね。誰が来ても出ちゃ駄目ですよ」
 まるで初めての留守番をさせる子どもに言い聞かせるように真面目腐って念押しする繁の顔を、聖夜は呆れ返ってまじまじと凝視した。
 この男は何を考えているのだろう? 昨日は仕方ない、でも今日は泊めて貰う約束などしていない。もとより世話になるつもりもない。繁が合鍵をくれる意図が全く分からない。大体、男にストーカー騒ぎを起こされるような素性もよく分からないホモを、どうしてこいつは自分の留守宅に入れられるのだろう?
「……野原さん、あのね」
「はい」
「俺、ホモなんだ。昨日のストーカー野郎とは痴情も縺れってやつだよ? あいつの話、聞いてたんでしょう? そんな俺に鍵を渡すの? 気持ち悪くないの?」
 思いっきり蓮っ葉な、嫌な言い方をした。けれど繁は顔色ひとつ変えずに言ってのけた。
「鈴木さん、ホモの人って、世界ではギリシャ・ローマ時代から、日本では平安時代からいるんですよ。変な事でも、珍しい事でも、気持ち悪い事でもありません。どんな理由だろうがストーカーは犯罪です。貴方は今とても危険な状態にあるんですよ」
 普通の人に正面切ってカミングアウトするのは初めてだったが、まさか、こんな返事が返ってくるとは思ってもみなかった。性癖を肯定された上に心配までされて、聖夜は自分が取った態度が恥ずかしくなった。だからと言って殆ど知らない者同士なのに、そこまで頼って良いのだろうか。
 考えあぐねて情けなく眉尻を下げた聖夜の顔を見て、繁はにっこりと微笑んだ。
「昨日、約束したじゃないですか。貴方に何かあったら俺の立つ瀬がないんです。ストーカーを甘く見ちゃいけません。それに、袖振り合うも多生の縁って言うでしょう?」
 そう言って昨日殴られた左頬を指さしてウインクして見せた。
 早めに氷で冷やして目にしみそうなほど大きな湿布を貼った甲斐があったのか、腫れ事態は引いていたが青く内出血しているのが痛々しい。自分のせいでそうなったのだと思うと何も言えなくなってしまった聖夜は、合鍵を握りしめてこくりと頷くしかなかった。
 こうして、半ば強制的に繁との半同居生活が始まったのだった。

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