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忘れられないクリスマス
100年の塵とダイヤモンド〈 1 〉

 窓から見えるのは冬枯れた庭だった。
 枯れた黄土色の芝生、鉛色の空を映した池と落葉したはだかの欅。楠木だろうか、常緑樹の緑も黒く沈んで見えて一層寒々しく感じた。
 ここを訪れるのは3回目だ。前回は暖かい桜の季節だった。他の植物園と違って、あまり手を加えられていない自然なままの風情が、まるでコローの絵の中にいるようでとても美しかった。花見の人もちらほらで、恋人は自慢げに「穴場でしょう?」と笑っていた。
 今日は平日だからか人の姿はどこにもない。それもそうかと聖夜(せいや)はちょっと可笑しくなった。草木の枯れ果てた冬の植物園に来る物好きなど、そうそういるもんじゃない。
 しかも今日は12月25日。クリスマスのデートにこんな場所を選ぶのは、ちょっと変わり者の自分の恋人くらいだろう。
 今、聖夜がいる場所は、正確には植物園ではなくて、その隣の旧T医学校の本館を移設した博物館だ。明治9年に建てられた、T国立大学の建造物の中では現存する最古の建物で、現在は綺麗に補強とリフォームを施されて、学術標本や廃棄物が一般に公開されている。歴史的な文化財なのだろうけれど、はっきり言って興味のない人間には不気味なガラクタにしか見えなかった。
 だって気持ち悪いのだ。さっき見たカエルの骨標本など、土台にくっついた手足以外は風化してなくなっているし、ホルマリン漬けの深海魚らしいものは、液体が半分まで蒸発してはみ出たところが溶けてしまっている。
 見ているうちに気分が悪くなった聖夜は、窓の外を眺めているしかなかった。人をこんな所へ誘った恋人は『大好きな場所』と言うだけあって、気味の悪いガラクタをひとつひとつ熱心に観察している。
 聖夜だって建物だけなら嫌いじゃない。1階部分を白く、2階部分を赤く塗り分けた外観も、鱗模様の屋根も趣があってとても素敵だし、前回訪れた時のように春爛漫の頃ここから庭を眺めたら、さぞかし綺麗な事だろう。けれど、聖夜がここへ来る事は二度とない。恋人とのデートも、きっと今日が最後だから。
 役所勤めの聖夜とは違い、恋人の繁(しげる)は医学生で、卒業を来春に控え多忙をきわめていた。6年生に進級した当初はまだ余裕があったが、今ではほとんどの時間を大学と実習先の大学病院にいて、その合間を縫ってアルバイトまでしていたから、一緒に住んでいるにも関わらず、ここ2ヵ月間まともに顔を合わせていなかった。
 まあ、それも仕方がない。繁はこの1年で身の振り方が決まってしまうのだ。まず、研修医として就く病院を決めなければならないし、医学部の卒業試験もある。一番の山は2月の医師国家試験で、これに通らなければ全てが無駄になってしまう。こんな時に恋人なんかいても、邪魔にこそなれ役には立たない。
 聖夜は試験勉強の邪魔にならないよう、1週間に1度だけメールを出すにとどめていた。本当は彼の身体が心配で毎日でも声が聞きたかったが、電話をするれば彼の時間をそれだけ奪う事になる。メールだって返す暇も惜しいだろう。そんな時間があったら、少しでも食事や睡眠に使わせて遣るべきだと我慢した。
 三日前ようやく連絡をくれた繁は、ちゃんと聖夜の誕生日を覚えていて「デートしよう」と誘ってくれた。25日は平日だから夜からだろうと思ったら、「有給取って」と懇願された。
「俺の『大好きな場所』で大事な話があるから、有給取ってくれる?」
 そう言われた時、ああ、ついに決心したのだなと思った。田舎に帰る事に決めたのだと。
 繁は博多で開業医をしている医者の息子だった。聖夜にはひと言も相談してくれなかったが、卒業後博多へ戻るか、このまま東京の大学病院へ入るか決めかねているようだった。
 彼の携帯に父親らしき人から連絡が入る事が何度かあり、その度に席を外して長い時間話し込んでいれば嫌でも察しがつく。それはもう夏頃からの話で、こうなる事を予想して心の準備はしていた。
 聞いた瞬間はやはり動揺したけれど、声が震えないようにしながら「いいよ」と答えた。
 聖夜の勤める役所でも年末はやはり忙しいが、組合から有給を消化するように言われているし、なにせ25日は聖夜の誕生日だから他の日よりは取りやすい。
 別れを告げられるのが誕生日で、しかもクリスマスと言うのは、忘れられなくなりそうで嫌だな…と思ったけれど、もともと嫌いな日なのだから、今更嫌な事が増えたとしてもそう変わらないかと思う事にした。

「聖夜さん、2階に行こうよ」
 声をかけられ物思いから覚めた。振り返るとさっきまで人をほったらかしにしていた繁が、にっこり笑って手を差し伸べていた。聖夜が躊躇していると、繁はさっさと聖夜の手を握って2階へ続く階段へ歩き出した。
 こんな所でと慌てて辺りを見回したけれど、今、博物館の中にいるのは繁と聖夜の2人だけだ。さっき見かけた職員の姿もどこにもなくて、聖夜は引っ張られるまま大人しく繁の後をついて階段を上った。
 付き合いだした当初から繁はいつもこうだった。人のいる前で平然と手をつなごうとするし、気を抜くと掠めるようなキスをされる。男と付き合うのは初めてだと言っていたから、どこか女と付き合っている感覚が抜けないのかもしれない。
『俺は女でもオカマでもない。ましてカミングアウトなんて一生する気はないんだから、人前でこんな事されたくない!』
 勘違いされては困ると露骨に嫌な顔をして言い放った事があった。すると、「じゃあ、人のいない所ならいいよね?」と言って連れてこられたのが、この植物園だった。
 季節は秋たけなわで、驚くほど大きな銀杏や篠懸の木が黄金色に輝いていて、青く高い秋の空との対比が目に眩しいほどだった。土曜日だったけれど駅から遠いためか、入園料を取られるせいか人の姿も疎らで、繁は当然のように手をつないできた。手を振りほどこうとすると繁は指に力を込めて、「誰もいないよ」と笑った。
 その時も、今みたいに諦めて手を引かれるまま暫く歩くと、メタセコイアと糸杉が寄り添うように立つ小さな池の畔に辿り着いた。
 メタセコイアはまだ紅く染まりきっていなくて、緑から黄色、橙色、赤色とグラデーションになっていた。綺麗に上から染まるのではなくて斑(まだら)なのだけど、それが不思議に調和していて何とも言えず美しかった。その根本の池…と言うより沼みたいな黒い水面に映し出された紅葉の色が、鴨が泳ぐとゆらゆら揺れてまるで絵の具を流したように見えるのだった。
『ここ、大学に入ってすぐ先輩に教えて貰ったんだけど、東京にこんな所があるなんてすごい感動しちゃって。もう、大好きな場所なんです。だから、聖夜さんを連れて来たかったんだ。綺麗だからっていうのもあるけど、ここね、300年前からあるんですよ。驚きませんか? すぐ隣は町工場なのに、塀に区切られたこちら側は江戸時代、否、もっと前からの緑が残されているんですよ? すごいと思いませんか? ここは、向こうとは違う時間が流れてる気がするんです』
 握った手が熱く感じるほど興奮して話しながら、繁はすぐ側にある塀の向こうを指差した。確かに、3、4階建ての小さな製本屋や印刷屋の建物が軒を連ねているのが見えた。聖夜は幻想的な森の隙間から現実が透けて見える気がして、慌てて手を離そうとしたが、繁の “ 向こうとは違う時間が流れてる ” との言葉に思いとどまった。
 向こう――現実と違う場所ならば、手を繋いでいてもいいじゃないか。自分だって本当は、一度でいいから誰の目も気にせずに、普通の恋人達らしく過ごしてみたかった。ここにいる間だけの、束の間の夢みたいなものだ。そう思ったら気が楽になった。
 手を繋いで寄り添って、池の水が小川のように続く道を歩いた。その間、誰にも出会わなかった。鳥の声と風が枝を渡る音と、低くて耳障りの良い繁の声だけが聞こえていた。やがて視界が開けて、美しい日本庭園と和洋折衷の古い博物館が姿を現したのだった。

 あの時はこの建物が博物館だと知らなかった。灯りがついていたから施設として機能している事は分かっていたが、こんな100年分のガラクタが詰まっていたとは夢にも思わなかった。
 2階に上がると植物園の全体像がよく分かる。この博物館がある最奥の日本庭園に辿り着くには、最初に歩いた池伝いのコースとは別に、なだらかな丘陵を通るコースがあるのだが、バルコニーの窓から左側にその丘陵を覆う雑木林が一望に見渡せた。
 右側は繁の言った通り、工場街と民家が開けていた。民家との境目、聖夜を少しだけ大胆にしてくれた現実との境界線は、上から見ると酷く薄いコンクリートの壁だった。午後3時を少し回ったところなのに、辺りはもう暗くなり始めていて、暖房の効いた室内も少しだけ寒くなった気がした。
「ちょっと、外見てる」
 聖夜がそう言うと繁はするりと手を離し、そのまま一人でエンジンとか秤とか訳の分からない機械が展示してあるブースへ入って行った。何となく鼻歌まで聞こえそうなほど楽しそうな後ろ姿を見送って聖夜は小さく笑った。
『俺ね、不思議なものとか、神秘的なものが大好きなんですよ。幽霊とか信じてますよ。どっちかって言うと魂の方だけど。よく、変わってるって言われます』
 出会ってすぐに繁はそう言った。確かに本人も変わっていたけれど、出会い方も変わっていた。普通だったら、いくら隣の住人と言えど、ノンケの医大生とゲイの公務員がこんな関係になる事はなかっただろう。
 もう2年前になる。ゴールデンウィークが終わったばかりの頃だった。しつこいストーカー男に襲われかけていた聖夜を、繁が助けてくれたのが始まりだった。

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