INDEX NOVEL

忘れられないホワイトデー
愛の音痴克服法 〈 聖夜編・4 〉

※ 性描写があります。未成年の方はお読みにならないでください。

 レッスン三日目の最終日、扉を開けて入って来た聖夜を見るなり北島は目を見張った。
 聖夜はその表情に苦笑いしながら「こんばんは」と挨拶すると、北島は困ったように指でこめかみを掻きながら、「仲直り、できなかったんですか?」と言わずもがなの事を訊いた。

 昨日、聖夜はレッスンから戻ると、いつものように二人分の夕食を用意して帰りを待ったが、繁は帰って来なかった。
 また遅くに戻るかもと、ソファで丸まりながら夜更けまで帰りを待ったが、週末でない限り規則正しい生活を心がけている聖夜は睡魔に耐えられず、前日同様寝入ってしまいそのまま朝を迎えてしまった。
 目が覚めるとすぐにベッドを見に行ったが、繁の姿も、寝ていた痕跡も見当たらず、メールも着信も入っていなかった。今までも繁が帰って来ない日は日常的にあったが、連絡が来ないのは初めてだった。
 やっぱりもう終わりなのだろうかと、聖夜は怖くて連絡を取る事が出来なかった。
 気持ちは底辺を這っていたが、のろのろとスーツに着替えて仕事に行く用意をした。仕事を休もうとは思わなかった。何もしないでいるとよけい沈んでしまう。
 用意した夕食も手をつけずにテーブルの上にほうったままだったから、ラップに包んで冷蔵庫へ仕舞った。昨晩から何も食べていないのに全く食欲がなくて、そのまま役場へ向かった。
 仕事は昨日ほど失敗しなかったが、相変わらず様子のおかしい聖夜を心配した同僚の亮子や古株の田中に、代わる代わるしつこく声をかけられた。昨日はそれなりに相手をしたけれど、今日はとてもそんな元気はなくて、「何でもありません…」と空返事を繰り返した。
 ほっといてモード全開の聖夜の態度に怯む事なく、二人は「今日はほっとかないわよ」とおせっかいをやき続け、昼になってお腹は鳴っているのに食事をしようとしない聖夜を見ると、ここぞとばかりにコンビニおむすびとチョコレートを押しつけて「お腹が空いてたら元気が出ない!」と勧めたが、聖夜がチョコレートを見るなり目を潤ませるのを見ると、さすがに二人とも呆れるは狼狽えるはで、「じゃあね!」と降参したようにそそくさと各自の席に戻って行った。
 それ以後、周りの職員たちはどうしたものかと腫れ物に触るように扱ったが、聖夜は全く周りにお構いなしに、ひとりドツボにはまったまま退社時間を迎えた。
 そんな状態だったから当然歌う気になれず、レッスンに行くのを止めようかと悩んだ。でも、今日で最後だし、昨日あんなに親身になって悩みを聞いてくれた北島に悪い気がして、どうにかこうにか代々木まで来たのだった。

 北島は昨日と同じように聖夜をソファに座らせると、自分もその隣りに腰を下ろした。
「どうして? 昨日、また喧嘩しちゃったんですか?」
 生気のない聖夜の顔を覗き込むようにして心配そうに尋ねる北島に、首を振って微苦笑した。
「いいえ。昨日、繁は帰って来なかったので、何も話してないんです」
「帰って来なかった? どこに行ったか分からないんですか?」
「泊まった場所は分かりませんけど、今はたぶん、大学院の研究室にいると思います……」
 椿先輩の事が頭を掠めたが、闇雲に疑うのは止めようと思った。繁は友だちが多いからどこへ泊まったかは分からない。でも今は、恐らく研究室へ出ているはずだ。
「どこの大学院? 研究室の名前は?」
「あ…T大学院PhD・MDコース病理学教室です」
「そう。なるほど優秀なんだね……」
 北島の言葉に聖夜が力なく微笑むと、北島は「ちょっと待っててくださいね」と言って立ち上がり、そのままレッスン室を出て行った。まさか、繁に連絡でも取ろうというのだろうかと、聖夜は青くなって北島の跡を追って扉を開いた。
 北島はカウンターへ歩いて行くと、受付の山本に話しかけた。聖夜からは北島の背中しか見えず、何を話しているのかは聞こえなかった。山本はメモを取りながら話を聞いている。レッスンに関する事なのかも知れない。内容が分からないから声をかけるのが憚られ、そのまま様子を窺っているしかなかった。
 山本は北島の話を聞きながらだんだん困った顔になって行ったが、彼女が頷いたのを見ると北島は踵を返した。扉に張り付いて不安げに見つめる聖夜と目が合うと、北島はにっこりと微笑んで言った。
「聖夜さん、今日は新しい曲に挑戦しませんか? 聖夜さんはもう、『ハナミズキ』完璧だから」
「えっ? あっ、でも今日一日しか……」
「大丈夫ですよ、難しくないから」
 北島はそう言いながら聖夜の背中を押してレッスン室へ入った。そのまま聖夜をピアノの前へ立たせると、自分は棚から楽譜を出して聖夜に歌詞カードを渡した。
 ザ・ブームの『風になりたい』だった。カードには音譜の代わりに矢印で音程の上がる下がるや、伸ばす、強めになど細かい書き込みがあった。『ハナミズキ』の歌詞カードにはなかったので目を見張っていると、北島が「体験レッスン用なんですよ」と説明した。
「新しい曲じゃないですけど、明るくて歌うと気分が良くなるから。その丸印がしてある一カ所だけ、音を合わせるのが難しいかなと思うけど、聖夜さんならすぐ歌えるようになりますよ」
 そうおだてられて聖夜が了承すると、北島はまずCDで原曲を聴かせた。何度か聞いた事があったし、これなら無理なく歌えそうだと思った。ピアノで発声練習をしたあと北島と一緒に歌った。
 最初は緊張してそれどころだはなかったが、慣れると歌詞を吟味する余裕も出て来て、『ああ、慰めてくれてるんだ』と、北島の優しさを感じて胸が熱くなった。

生まれてきたことを
幸せに感じる
かっこ悪くたっていい
あなたと風になりたい

何ひとついいこと
なかったこの町に
涙降らす雲を
つきぬけてみたい

天国じゃなくても
楽園じゃなくても
あなたの手のぬくもりを
感じて風になりたい

(作詞・作曲:宮沢和史)

『ハナミズキ』は意味がよく分からなくて、奇麗な旋律を楽しんで歌っていた。でも、この歌は、自分のためにあるんじゃないかと思えて、歌うとどんどん憂いが洗い流されて行くようだった。

「かっこ悪くたっていい あなたと風になりたい……」

 歌いながら、嬉しくて涙が出そうになった。
 北島はもっと自分に自信を持つべきだと言った。不器用だっていいじゃないかと言った。北島には全てを話した訳じゃない。なのにどうしてこの人は、こんなに俺の事が分かるんだろう。
 そうだ。この歌詞みたいに、18歳の時から何もいいことがないと思って生きて来た。だけど、繁に誕生日を祝ってもらった時、泣くほど嬉しかった。生まれて来て良かったと思った。繁と出会えただけで、幸せだと思う。だったら、簡単に諦めちゃいけない。そう勇気づけられているように感じた。
 そうして90分のレッスンが終わる頃には、聖夜の気分はすっかり晴れ渡り、心の底から歌うのが楽しいと感じていた。
 途中で一度カラオケで歌ったのだが、「ピアノで歌いたいです」とお願いして、最後は北島も一緒に歌ってもらった。歌い終わると北島は「レパートリーが増えましたね」とお墨付きを出して、聖夜に向かって高らかな拍手を送った。
 北島の賛辞に、聖夜はなにかみながらお辞儀をして北島と笑い合った。
「歌うとスッキリするでしょう?」
「はい」
 満面の笑みを浮かべて強く頷き返した。本当に今までの鬱屈した気分が嘘のように軽くなっていた。聖夜は感謝を込めて北島に礼を言った。
「今日、帰ったら繁に連絡してみます。何だか勇気がもらえた気がしました。明日のカラオケも何とかなりそうですし、いろいろ…相談にも乗っていただいて、本当にありがとうございました。今まで誰にも話せなかったから、いつも一人で悩んでて…。聞いていただけて、とても嬉しかったです」
 改めて頭を下げると、北島は恐縮しながら「いいえ、大した事してないすよ」と言って、ズボンのポケットから名刺入れを取り出し一枚抜くと聖夜に渡した。
「レッスンは終わりましたけど、個人的に、またいつでも相談に乗りますから、気軽に連絡してくださいね。それ、僕個人の携帯番号ですから」
 渡された名刺を手に聖夜は目を見張り「えっ? いいんですか?」と聞き返すと、北島は「ええ」と慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
 北島とこのまま別れるのが寂しいと思っていただけに、聖夜は嘘みたいだと舞い上がってしまい、「先生、誰にでもそう言ってるんでしょう?」と女子高生みたいな事を口走っていた。
 北島は顔の前で大げさに両手を振って「とんでもない! そんな事ありませんよ」と否定した。
「あの、本当に、本当にレッスンじゃなくても、また先生に会いに来てもいいんですか?
 あの、ご迷惑かも知れませんけど、また、話を聞いてもらえたら、すごい、嬉しいんですけど…。本当にいいんですか!?」
 ノーマルの人にゲイだと告白したのは、繁以外では初めての事だった。ありのままの自分の事を話せる、それだけで、どれほど心が解放される事か。恋人以外にそんな相手を得られる機会は、この先そうないだろうと必死だった。
 聖夜があんまり何度も念を押すものだから、北島は苦笑しながら「もちろんですよ。じゃあ、僕から改めてお願いします」と右手を差し出した。
「聖夜さん、これから僕と、友人としてお付き合いしてください。僕の事も、名前で呼んでもらえたら嬉しいな」
 渡された名刺を急いで背広の内ポケットへ仕舞うと、北島が差し出した手を「はい…」と素直に握り締めた。北島の大きくて温かい手にぎゅっと強く握り返されて、嬉しいような恥ずかしいような心地がして頬が熱くなった。そこに突然、バンッ、と荒々しく扉が開かれて、山本の甲高い声が飛び込んで来た。
「お待ちください〜〜!!」
 何事かと扉の方を見ると、鬼のような形相でゼーゼーと肩で息をしている繁がいた。背後で山本が涙目になっておろおろしている。聖夜は息を呑んで北島と握手したまま固まってしまった。
 何で繁がここに? と思った瞬間ぐいっと北島に手を引っ張られ、その胸の中に抱き込まれた。「えっ?」と驚いて顔を上げると、北島の端正な顔が間近に迫り、手が聖夜の顎を捉えていた。
「じゃ、お近づきのしるしに……」
「聖夜さんっっ!!」
 一瞬の出来事だった。北島の台詞に被さって繁の悲痛な呼び声を聞いた時には、北島にキスされていた。と言っても、触れるだけの、それこそ子どもにするような可愛らしいものだったが、聖夜は真っ赤になって口元を手で押さえた。
 背後で「キャ〜〜っ!」と山本の嬉しそうな悲鳴が聞こえたが、それは一瞬で本物の悲鳴に変わった。「ふざけんな〜〜っ!!」と怒鳴った繁が、猛烈な勢いで北島に殴りかかって来たからだ。
 北島は咄嗟に聖夜を横へ押しやり、既(すんで)のところで繁を躱(かわ)した。そのまま後ずさりして繁と間合いを取ると、逃げるどころか迎え撃つ構えで拳を握った。
 聖夜は慌てて繁に飛びついた。「やめろって!」と怒鳴りながら胸に抱きついて足を踏ん張ったが、細いくせに力のある繁の動きを止める事が出来ない。繁は興奮し切っていて聖夜の頭上で「殺してやる!」と唸りながら、北島へ向かって行こうとする。聖夜は繁が閨(ねや)で囁いた「触れただけでも…」との台詞が冗談じゃなかったと確信して、どっと冷や汗が流れ落ちた。
 どうしてここまで…と思った時、「不安なんじゃないんですか?」との北島の言葉を思い出した。
 そうだ、不安にさせてる俺が悪い。一緒に戦う意思と覚悟を見せてあげなくちゃ。でも、一体どうやって?
 聖夜は繁を押さえながら必死で頭を廻らせていたから、背後にいる北島たちがどうしているか分からなかったが、山本が半泣きしながら「だから電話するの嫌だったんです〜。あんな脅かすこと言うの〜! 真に受けて、あの人完全にキレちゃったじゃないですか〜。もう、警察に電話します〜」と言うのを聞いて、もう躊躇している暇はないと腹を括った。
 北島はどうせ知っているのだし、今さら山本に知られてもどうと言う事はない。醜態は既に充分曝(さら)しているのだから……
 聖夜は息を吸い込むと腹の底から声を出した。
「落ち着けっっ!!」
 自分でも驚くほど大きな声が出た。繁の動きがぴたりと止まり、腹式呼吸がこんな所でも役に立ったなと妙な感慨を持った。しん、とその場のすべてが聖夜の一喝で静かになった。
 繁は初めて聖夜に本気で怒鳴られて、完全に戦意を喪失したらしい。目を見張ったまま荒い呼吸を繰り返し、聖夜をじっと窺っている。まるで野生動物みたいだと聖夜は可笑しくなって苦笑すると、そのまま大人しくなった繁の胸ぐらを両手で掴んで引き寄せた。
「キス一つでガタガタ騒ぐな!」
 そう言うと繁の唇に噛み付いて、これでもかってくらい濃厚なキスをした。
 音を立てて繁の舌を絡めとり、まるで繁のあそこを愛撫しているように吸い立てた。その激しさは繁ですら硬直するほどだった。
 時間にしたらほんの10秒ほどだったが、無我夢中だった聖夜は息をするのを忘れていて、苦しくなって唇を離すと唾液が糸を引いて落ちた。慌てて舌で唇を舐めると、それを見た繁が真っ赤になって下を向いた。聖夜も釣られてその場から逃げ出したくなったが、必死で平静な振りを装(よそお)った。
「先生、山本さん、改めてご紹介します。僕の恋人で、パートナーの野原繁です」
 聖夜は北島と山本に向き直り、きっぱりと宣言した。
 繁はその隣りでさっきから信じられない言動をとる聖夜を、『どうしちゃったの?』と言うように狼狽えながら窺っている。あえてそれを無視して、聖夜は真っすぐ二人の方を向いていた。
 事情を知らない山本は口を押さえて目を白黒させているし、さすがに北島も唖然としていたが、『これでいいんですよね』と聖夜が目で訴えると、北島は一瞬虚を衝かれた顔をしたあと、膝を打って笑い出した。
「あはははは……そうですか! それは…大変、失礼致しました……ははは、申し訳ない、繁くん。許してください……」
 口元を押さえて笑いながら言うものだから、ちっとも謝罪に聞こえない。繁は怒りなどどこかに吹き飛ばされたように、呆気にとられて笑い転げている北島を眺めた。
「も〜先生は〜、駄目じゃないですか、人の恋人にちょっかい出しちゃ! そのうち本当に刺されちゃいますよ〜〜」
 山本が事が丸く収まったと見て、ほっとしながらも恨めしそうに北島の腕を叩いた。
「ごめん、ごめん。ついね……」とわざとらしく謝る北島に、聖夜は恥ずかしさに居たたまれなくなり、「いろいろ、ありがとうございました!」と頭を下げると、ぽかんと口を開けている繁の腕を引っ張りながら、そそくさと出口に急いだ。
 繁は引きずられながら、狐につままれたような顔で聖夜と北島の方を交互に見ていたが、扉が閉まりかけた隙間から北島がニヤニヤ笑ってウインクするのを見ると、「やっぱ、殴りてぇ…」と唸りながら睨みつけたが、その眼光は扉に遮られて届く事はなかった。

 帰りのラッシュの電車の中で、聖夜は繁とずっと手を繋いでいた。ぎゅうぎゅう詰めで誰も気づかないし、恥ずかしかったがもう怖いとは思わなかった。
 本当は訊きたい事も言いたい事もたくさんあったが、混雑した車内で話せるはずもなく、ただ黙って寄り添っていた。繁が今日までの蟠(わだかま)りなど忘れたように機嫌が良くて、愛しげに自分を見つめているから、もうそれだけで胸がいっぱいで、細かい事などどうでもよくなっていた。
 駅からずっと走るようにマンションに向かい、玄関に入った途端待ちきれない気持ちで抱き合った。
 キスしたまま靴を脱ぎ、せっかちに服を脱がせ合いながらベッドへ傾れ込んだ。繁に上から強く抱きしめられ思う存分キスされて、聖夜はようやく心から安堵のため息をもらした。
「もう、駄目かもって思った……」
 また、こうして抱き合えた事が何より嬉しかった。幸せだと思った。もう手放したくないと、繁の身体を確かめるように背中を撫でた。繁も聖夜の肌の感触を楽しむように頬擦りしながら呟いた。
「そんな事、ある訳ないでしょう?」
 繁は心外だと鼻を鳴らしたが、聖夜は繁の引き締まった尻タブをつねって反論した。
「だって、あんなに怒って……。昨日なんて、帰って来なかったじゃないか……」
「イタッ! だって! だってサ……何か、悔しかったしサ、いろいろと考えちゃったら、帰りづらくなっちゃって……」
「考えたって、何を?」
 聖夜はドキッとして思わず強い口調で尋ねたが、繁は拗ねたように聖夜の胸に頬を擦り付けるだけで答えない。「繁?」と今度は優しく促すと、渋々口を開いた。
「なんか、いろいろ重なっちゃったじゃない。タイミングが悪いって言うか、最初はやっぱり悔しくてさ…。でも、聖夜さんが本気で音痴を直したかったんだって分かったから、俺がびっちり教えてあげられない以上、プロに習いたいって言うのは仕方ないと思った。見学してて、教え方は…腹立つけど、さすがプロだと思ったよ。思ったけど…あの先生の、顔がさ……」
 繁は言いにくそうに口を閉じると、聖夜の胸の突起を指先でいじり出した。聖夜は「こらっ」とその指を叩いて握ると、「先生の顔が、何?」と話の続きをせかした。
「あ〜……、あのヒトさ、似てるじゃない…あいつに。だから、聖夜さん、大丈夫なのかな…って、心配っていうか、嫌だったから……」
「あいつ? 誰の事?」
「う〜〜〜ッ、だからっ! 角田! 聖夜さんをストーキングしてた、角田だよ!」
「角田ぁ?」聖夜は素っ頓狂な声を上げた。
「似てないだろう? 北島先生の方がずっとハンサムだ。それに、もう角田がどんな顔してたか、疾っくの昔に忘れちゃったよ」
「やっぱり! 聖夜さん、あの先生タイプなんでしょう!?」
 繁はガバッと顔を上げて聖夜を睨みながら悲痛な叫び声を上げた。聖夜は「はあぁ?」と呆れたように聞き返した。
「嘘だ! 知ってるんだ! 聖夜さんって、あんな感じの割と精悍な顔で、胸とかも肉厚でガッチリしたタイプが好きなんだ。見学に行った時、あいつ、ジャージなんか着ちゃって、体育の教師みたいだったじゃん。角田も体育の教師だったよね? …分かってるんだ。俺って、全然聖夜さんの好みじゃないんだ! 細いし、ビジュアル系だしっ、筋肉ないしっ!」
「ばかだな……違う。勘違いだ」 
 子どもみたいな事を言い連ねる繁の言葉を遮って、聖夜は繁の頭を胸に抱き寄せ優しく撫でた。
「角田なんて、好きじゃない。でなきゃ、逃げたりしてないだろうが…。北島先生もそう。尊敬してるけど、お前が思ってる好きとは違うよ」
 確かに、角田みたいなのが好みの時もあった。だから誘いに応じた。でも、寝るのが目的だったから、外見で選んだだけの事だ。中身などどうでも良かった。それがアダになって大変な思いをした。
 北島に関して言えば外身も中身もかなり好みだが、そんな事、あの繁の姿を見た後では死んでも口に出来るもんかと、こめかみの辺りが恐怖でヒクついた。
「ホントに?」
「ホント。だって、俺、北島先生に繁の事、相談しちゃったし……」
「えっ!?」今度は繁が素っ頓狂な声を上げた。
「繁に避けられて…この二日間すごい落ち込んだよ。月曜日は特にひどくて…レッスンに行くのもどうしようか迷ったけど、お金払っちゃったし、お前と喧嘩までして通い出したのに、行かない訳にいかないだろう? でも、行ったはいいけど、どうしても元気出なくてさ、先生が心配して話を聞いてくれたんだ。もし、俺が北島先生に好意を持っていたら、そんな相手にお前の事を相談したりしないだろう?」
「じゃあ、あの先生、俺たちの事、全部、まるっと、知ってたって事?」
 繁が確かめるように念を押すので、「そうだよ」と頷くと、ガクッと聖夜の胸に突っ伏して、盛大なため息と共に「やられた……」と呟いた。
「なに? どうした?」
「ううん…何でもない。ねぇ、あの先生って、年いくつ?」
「えっ? ああ…確か、俺より10才年上だったかな……」
 急に何を言い出すのかと思いながら、チラシに載っていた北島のプロフィールを思い出して言った。
「じゃあ、俺より一回り上なんだ…俺って、やっぱ子どもだわ。オジさんには敵わねぇ…。ごめんね、聖夜さん。俺のせいで、元気なかったの?」
 繁は上体を起こして聖夜に慰めるようなキスをした。優しく唇を吸われる感触が心地よくて、涙が出そうになって思わず目を閉じた。「うん…」と甘えた声で返しながら、両手で繁の髪を弄(まさぐ)った。キスが徐々に激しさを増して、身体も徐々に熱を増していく。
「ちょっと怖かったんだ。おまけに、見学の時も、あんな態度、とっちゃって……すげー自己嫌悪で…昨日は先輩に捕まって……。連絡はしようと…思ったけど…でも……」
 繁はキスの合間に言い訳しながら、唇を這わせて顎を伝い、喉に吸い付いて猫のように甘噛みした。本当に大きな猫に戯(じゃ)れつかれているようで、聖夜は毛並みを楽しむように繁の髪を梳いてやる。
「も…いいよ…。帰って来てくれたし……」
「ごめん、俺、嫉妬すると何するか……自分でも分かんなかったから……」
 いいと言っても謝罪と言い訳を繰り返す口を黙らせたくて、繁の手を取って自分の股間を触らせた。
「分かってる…だろ? 繁に触られてる間じゅう、ここがどうなってるか。俺、お前に触られると…、いや、見てるだけでも、こうなる時、あるんだよ。だから、外では…困るって、つまりは、こういう事。好みのタイプなんて、問題じゃない。好きなんだよ、繁の全部が……。
 甘い顔つきも、よく通る笑い声も、優しくて面白くて、思いやりがあって、なのに、結構短気で喧嘩っ早いところも、ちょっとズルくて、甘ったれで嫉妬深いところも、細いくせにねちっこくて、すごく変態っぽいところも…全部…愛してる……」
 そう、繁だからこそ。例えばどんなに好みでも、北島を見てこうはならない。あそこが疼いて堪らなくなるのは繁だけ。『わかるだろう?』と聖夜は触れさせている繁の手を愛しげに撫でた。
「変態って……」
 ひどいなぁと笑いながら、繁は起き上がって聖夜の股間を嬉しそうに眺めた。すっかり立ち上がったそこは、先端からぽろぽろと透明な蜜をこぼしている。
「じゃあ、もっと俺を感じて、愛して欲しいな……」
 繁はこぼれる蜜を指ですくって雄蕊に絡めるように優しく握って扱き上げた。
「んっ…あぁ…ん……」
 聖夜の身体が仰け反ると、繁は迫り上がった胸元に顔を寄せ、嬉しそうに乳首に吸い付いた。
 音を立ててしゃぶり付きながら舌先で転がされる。『舐めるのが好き』だと知ってはいるが、まるでお乳をせがむように吸い立てられるから堪らなかった。俺は女じゃないんだと今でも不本意なのに、こうされると小さい突起が目一杯膨らんで、痛いくらいじんじん股間を刺激する。
 桃色の割れ目から、とぷっ、と蜜があふれ出るのを見て、繁はふふっと嬉しそうに笑い、親指の腹で先端を撫で回した。
「あうぅ……ん」
 刺激から逃れるように思わず腰を引くと、またきつく乳首に吸い付かれた。
「俺、聖夜さんが感じてる姿見てるの、大好き……」
 痺れ始めた頭に警笛が鳴った。ヤバい。このままフェラチオなんかされたら、また朝までのフルコースになってしまう。まだ平日だし、明日はカラオケ大会なのだから声を枯らしたくない。
「繁…させて……」
 聖夜は肘をついて上体を起こすと、気怠げに流し目を送った。繁はどきっとしたように唇を離し、頬を上気させて「なにを?」と愚問を口にした。
「繁の…舐めたい。ねぇ、繁の…飲ませて……」
 滅多にない聖夜からの欲求に繁が逆らえるはずもなく、ごくっと唾を飲み込んで胡座をかいた。聖夜は手足を折って身体を伏せると、胡座の中心で先走りを滴(したた)らせながら天を仰ぐ一物を、両手で大事そうに包み込み、ちゅっと音をてて先端に吸い付いた。
「うっ、あぁ……」
 亀頭部分を唇で銜えて舌でねっとり舐め回すと、繁が呻きながら後ろに手を付いて上体を反らした。
 その反応が嬉しくてチロチロと鈴口を刺激すると、あとからあとから蜜があふれ出てくる。猫のような舌使いて舐め取りながら、舌を上顎に擦り付けて繁の蜜を味わう。少し苦みのあるそれは、口の中に広がるとまるで媚薬のように聖夜の身体を熱くさせる。
 陰茎に流れ落ちた蜜も、もったいなくて舌を絡めてペロペロ舐め取ると、「聖夜さん…エロすぎ……」と震える声が聞こえた。聖夜はチラリと繁の惚けた顔を見上げ、『まだまだ、これからだよ』と鼻先で笑うと、繁のモノをすっぽりと喉の奥まで銜え込み、口を窄めてじゅるっと吸引しながら陰茎を扱き上げた。
「んぁっ、うっ…くっ、あっ、あ……」
 繁が喘ぎながら聖夜の髪を弄った。舌を小刻みに動かしながら、裏筋からカリの下辺りを舐り上げると堪らないらしい。繁の臀部が小刻みに震える。
 口に入りきらない茎の根元を片手で暖急つけて扱きながら、もう片方の手でプリプリした二つの袋を転がすと、きゅっと縮み上がってころりと胡桃のように硬くなった。
 先端から出てくる蜜の味がどんどん濃くなってきて、聖夜は『あと少し…』と胸の中でほくそ笑んだ。
 身体で受け入れるのは辛いから、口淫で満足してもらおうとの魂胆もあるけれど、愛してるという気持ちは能動的にさせる。いつもみたいにひたすら愛されるのも嬉しいが、やっぱり聖夜も男なのだから、たまには心ゆくまで恋人を可愛がりたい。
 また口を窄めてキツく吸引しながら、先端から根元に向けてじゅぶじゅぶ激しく出し入れすると、
「聖夜さんっ!」と繁に顎を取られて動きを止められた。聖夜の喉の奥に繁のモノを当ててしまい、咽せながら繁を口から離した。
「な、んで?」涙目で繁を見上げると、「も…達っちゃうよ……」と肩で息をしている。
 そりゃあ、達ってもらおうと思ってたのだから当然だ。『もうちょっとだったのに…』と仕方なく顔を上げて「繁、今日は平日だから……」と言いかけたところで脇の下を救い上げられ、繁の膝の上に抱き上げられた。
「分かってる。分かってるけど……最後までしたい」と繁が耳元で切実に訴える。
「俺、聖夜さんに挿れたい。聖夜さんが欲しいよ…心も身体も、何もかも、全部……」
 繁の身体が熱かった。はぁはぁと興奮で荒い息を吐きながら熱に浮かされた瞳で見つめられ、聖夜は嫌とは言えなくなってしまった。
「じゃあ…1回だけ……ね。あっ…ん……あ、んまり、長いのも…ダメだよ」
 言ってるうちから、繁の片手が聖夜の尻を弄(まさぐ)り、言い終わると同時に唇を塞がれ、最奥に指が侵入した。
「…んっ…ん、ふ……うぅん……」
 唇を合わせる角度を変えながら繁は激しく舌を絡ませ、指は性急に窄まりを解して行く。聖夜が息苦しさに呻くと、繁は唇を離してくれたが、代わりに耳に口づけて「愛してる」と繰り返すから堪らなかった。頭から足先まで震えが走り、聖夜は繁の首筋に縋り付いた。
「あいしてる…すげー……あ…いして……るっ……から…ね…」
「あ…んっ、しげる、俺も、あっ…いして、るぅ……あ…んっ……あぁ……」
 耳元でする繁の息づかいはまるで呪文のようで、頭が痺れて何も考えられなくなる。ただもう気持ち良くなりたい一心で、訴えるように繁の肩口で喘いだ。
 後ろを解す繁の指が増やされると、聖夜は我慢出来なくて股を大きく広げて膝をつくと、繁の腹に股間を擦り付けるように腰を動かした。繁の割れた腹筋は適度に硬く、愛液で濡れそぼったそこを押し付けると、凹凸に擦られて気持ちが良かった。
「気持ち、イイ……?」
 繁が二本の指で後孔の良い所を挟むように刺激した。
「ふあぁっ……はぁ……ん、イイ…あっ……ぁ…あっ……」
 反射的に身を捩ると尻に力が入り、繁の指を締め付けた。繁は聖夜の背中に回していた腕に力を込めて抱き竦めた。聖夜の動きは止められて、熱くて湿った二人の身体が密着する。
「もっと、気持ちよく…なりたい、でしょう? 欲しい?」
 耳元で笑いながら囁かれ、聖夜は震えながらこくこくと何度も頷いた。
「ちゃんと、口で言って」繁が偉そうに命令する。
「…ほ…しぃ……。しげる…の、いれ…て……」
「はい、よくできました」
 繁は嬉しそうに返事をすると、聖夜の身体を裏返して腰だけ高く上げさせた。フラついている聖夜が倒れないように、足を開かせて前のめりにさせる。菊紋を露(あらわ)にされている姿に、聖夜は羞恥と興奮でさらに身体が熱くなった。こめかみから汗が流れ落ちる。
「疲れないように、今日はバックでするね。聖夜さん、後ろ、自分で開いて……」
「舐めちゃ…駄目、だよ……」
 聖夜は振り向いて繁を心配げに見た。繁が窄まりを舐めるのが好きだからだ。聖夜だって好きなのだが、今日はまだ風呂に入っていないからさせたくない。
「分かってます。心配しないで、ホラ、ゴムも着けたし」と言いながら、既に準備万端整えた一物をフルフルと振って見せ、急かすように聖夜の尻たぶをペチペチ叩いた。
「ん……」
 聖夜は前を向くと顔をシーツに押し付けて目を閉じた。両肩で身体を支えながら、両手で尻たぶを掴んで左右へ開く。
 恥ずかしくて呼吸が荒くなる。普段は決して晒されない場所が外気に当たっているのだ。繁の視線も感じてしまう。そこへ新たなジェルを注がれて、聖夜が「はぁっ、ふぅ…ん……」と声をもらして震えると、綻び始めたていた花弁がジェルを飲み込むように口を閉じた。
 繁は聖夜の手に手を添えて、ぐっと左右に押し広げた。閉じた窄まりがぱっくりと口を開く。もっとよく見ようとしているのか、繁の指に引っ張られた先から、熱で柔らかくなったジェルがこぼれ落ちる感触にゾワリとする。
「ああ……、薄紅色に充血してて、いつ見ても奇麗だね……」
 繁の感嘆の声を聞いて、『やっぱり、変態っぽい…』と聖夜は眉を寄せた。繁は時々、聖夜が寝ている隙に “ そこ ” を観察しているらしい。一度目が覚めて抗議したら、「俺は、聖夜さんの恋人兼、主治医なんだから、健康管理のためですよ」と嘯(うそぶ)いていた。
「気持ち悪くないの?」と聞くと、「医者なんだから気持ち悪くなんかないよ。むしろ好き。解剖なんか嬉しくて! 俺、一度も嘔吐した事ないんですよ!」と自慢していた。病理学に進んだのは、「人体が好き過ぎるから」という理由もあるようだ。
「もっ、はや…くっ、うっ……あっ、あぁーーっ、あっ、あぁ…ん……」
 急かすように聖夜が口を開いた途端、繁の先端がねじ込むように押し入って来た。一気に括約筋を通過させると、今度はドリルで穴でも開けるように小刻みに突き入れて、ジュプジュプと音を響かせながらあっという間に奥へと貫通させた。
「…入ったよ……」
「…はぁ…ふぅ…ん……」
 聖夜は身体の緊張を解いて息を吐いた。ジェルのおかげで痛くもなかったし、性急に挿入されたため強い圧迫感はあったが、疼きが快感に直結していた。いつもは馴染むまで苦労するのに、前回の交わりから間が空いてないせいだろうか。
 繁はゆっくり腰を揺すりながら聖夜の背中にキスを落とした。時々きつく吸い付かれ、また跡をつけられているのを感じたが、聖夜は文句を言う暇がなかった。
 チクチクした痛みが呼び水になって、快感が押し寄せて来たからだ。その漲流(ちょうりゅう)に股間はすぐに硬くなった。ゆるく揺すられているだけなのに、先走りが糸を引いてシーツに模様を描く。
「あぁっ、も、は…やく、動いて……」
 顔を押し付けているからくぐもった声しか出ない。じれったくて、聖夜の雄蕊を悪戯し始めた繁の右手を掴んで、『動け!』とばかりに自ら扱いた。
「あっ、あぁ…ん……」
 聖夜の鳴き声に繁は慌てて上体を起こすと、聖夜の腰をがっちり掴んで強く腰を打ち付けた。パンパンと尻の肉を叩きながら根元まで打ち込まれ、布団にしがみつていないと倒されそうなほどだった。
 感じる場所をダイレクトに穿(うが)たれて、粘膜が喜々として繁のモノを咀嚼する。
「っ…ぁ…いいよ、聖夜さん…すげぇ、いい……」
「あっ、あっ、しげるぅ…きもち、い…ぃ……あ…ぁ……いい……」
 背面位だと知覚はいつもより鋭敏だ。繁をみっちり銜え込んだ入り口に、湿った叢(くさむら)や凝った睾丸が当たるのすら感じる。尻に食い込む繁の指も、背中に落ちる汗も、繁のくれる刺激は、全てが気持ち良かった。
「はぁ、あぁ…はぁ、あぁ……」
 腰から広がる強い快感が血潮を湧かせ、汗が吹き出して止まらない。このまま、後ろだけで達ってしまいそうだ。でも、それだと絶頂感が足りなくて、際限なく欲しくなってしまう……
「…さわって……」
「…ん、どこ?」
「まえぇ…、前もぉ……」
 半泣きで「いきたい〜〜っ」と絞り出した訴えに、繁はすぐに応えてくれた。脇から聖夜の雄蕊を握ると暖急つけて扱き始めた。その分、腰の動きは緩くなったが聖夜の快感は二倍になった。
「あ〜っ、あ〜っ、ぃ…くぅ……」
 シーツを握り締めて息を詰めた。繁が察して一際激しく扱いたので、聖夜はビュッと勢いよく白濁を吹き上げた。反射で後ろが締まり、繁が「うっ…」と声をもらした。
 最後の一滴まで絞り出されて腰が落ちそうになるのを、繁に引き上げられて再び激しく打ち込まれた。
「っ〜〜〜」
 放出後の敏感な身体に容赦なく抽送されて、声もなく悲鳴を上げ続けたが今回は持ち堪えた。
「うっ、あっぁ……イクッ!」
 野太い呻きと同時に、身体が浮きそうなほど強く突き上げられて、繁の放出を感じた。ゆっくり何度も前に押しやる腰の動きに、聖夜はこの上もない幸せを感じた。愛する人とでなければ味わえない至福の時だ。幸福なセックスは身体だけでなく心も満たされる。
 繁がしたいと強請る “ 中出し ” も本当は嫌ではない。否、むしろ好きだ。体内(なか)で繁の熱い迸りを感じると、自分は繁のものだと強く実感できるから。でも、言えば調子に乗って、毎回生で出したいと言い出しかねないから絶対に内緒だ。
 “ イク ” 事だけがセックスだとは思わないが、相手の果てる姿を見るのは結構重要だったりする。そういう意味では、土曜日の出来事は繁に相当なショックを与えてしまったのかも知れない。もしかしたら、ボイストレーニングを受けると勝手に決めた事よりも、重大な問題だったのかも。
 でも、男の身体は正直だから、イケない時もあるんだよ。そりゃあ、俺だっていつでも繁の要望に応えてあげたい気持ちはあるけど、いかんせんしつこいから身体が保たないんだよ……。
 聖夜の思いを他所に、繁は思いの丈(たけ)出し切って満足したように腰を振ると、ぐったりと背中に頽(くずお)れて来たので、聖夜も思考を飛ばしてそのまま二人して倒れ込んだ。聖夜は繁の重みを感じながら、気怠い余韻に浸って息が整うのを待った。
 繁はものの5分と経たないうちに、聖夜の隣りに身体をずらして横になった。どうやらもう回復したようだ。聖夜はまだ動く気力もなくそのままうつ伏せでじっとしていたら、心地よい眠気にうつらうつらし始めた。すると突然、肩口にちりっとした痛みを感じて目が覚めた。
「足んない……」
 繁が肩口に吸い付いてボソリとこぼした呟きを、聖夜は後ろ向きで聞いて思わず顔を顰(しか)めたが、すぐに可笑しくなって吹き出してしまった。
『まったく、もう…』そう思いながら顔だけ繁の方へ向けて、「また、週末ね…」と微笑んだ。繁は首を伸ばして聖夜の唇にちゅっとキスすると、「うん」と嬉しそうに頷いた。

 翌日のカラオケ大会は大いに盛り上がった。
 前日までの落ち込みから参加が危(あや)ぶまれた聖夜が見事に復活し、幹事をはじめ男性職員は一同ほっと胸を撫で下ろした。なにしろ、こうした仕事以外の付き合いを好まない聖夜の参加は、今回の大目玉だったのだから。
 カラオケ大会はバレンタインのお返し企画だから、女性職員にとって見目麗しい男子の余興は外せない。なのに、去年までは見目は麗しいが薹(とう)が立ち過ぎた課長が、『チャンピオン』から『昴』まで歌いまくるワンマンショーだった。
 だから、聖夜への期待は弥(いや)が上にも高まっていたのだ。そして、歌い慣れない感はあるものの、期待を裏切る事なく2曲も披露したのだから万々歳であった。
 みんなの反応を心配していた聖夜も、女性職員から「いい男は、声もいいのね〜」とやんやの喝采を送られると、心底ほっとして北島に感謝した。その後は、我も我もとみんな次々歌い出したので、例年にない賑やかな親睦会になった。
 とは言え、まだまだ人馴れしない聖夜には苦労の連続だった。盛り上がりの功労者として、女子職員一同から義理返しのマシュマロやあめ玉がお捻りとして手渡されたが、甘い物が苦手なので「みなさんが頂いたお返しですから…」と固辞しても、古参の田中に「いいのよ! あげたいんだから」と、あめ玉を繋いだネックレスを無理矢理首にかけられてしまい、渋々『繁の土産にすればいいか…』と受け取る事にしたけれど、また文句を言われそうだと内心げんなりしてしまった。
 酒の肴も当然聖夜の話題で、「どうしてあんなに落ち込んでいたのか」と質問が集中した。
 最初のうちはのらりくらりかわしたが、酔っぱらいの追求はしつこく、課長に抱きつかれるようにして「心配したんだよ〜〜」と言われては逃げられず、苦し紛れに「飼ってた猫が家出しちゃって、心配で仕方なかったんです」と嘘を吐いた。
 男性職員は、何だそんな事かと肩を竦めたが、女性職員は揃って「それは心配だったね〜」と共感した。「何にせよ、元気になってよかったわ」と笑う田中に、その場にいた全員が頷いたので、みんなが自分の事を心配してくれていたのを知って、申し訳なくもこそばゆいような嬉しさを感じた。
「で、帰って来たの?」
 つつっと隣りへやって来た亮子が小声で聞くので、「うん。帰って来た」と思わず顔を綻ばせて答えると、「良かったね」とほっとしたような悲しいような微苦笑を浮かべたあと、「どんな猫か、その子見せてよ」と、今度は本気で意地の悪い笑みを浮かべて言ったので、聖夜はドキッとした。
「あ〜…、イリオモテヤマネコみたいな感じなんだ。野性的で凶暴で、人見知りするから……」
「じゃ、写メ撮って見せて」
 駄目だと断っても「心配したんだからね」と食い下がって譲らない。会話を聞きつけた田中や他の女性職員にも見たいと言われ、聖夜はどうしようと冷や汗をかきながら、繁の蔵書の動物図鑑から山猫の写真を複写すればいいかと、「撮れたらね…」と渋々頷いたのだった。

 大盛況で終わったカラオケ大会から帰ると、風呂上がりの繁がおかえりと出迎えた。
「コーヒー入れるけど、飲む?」と聞く繁に頷きながら、聖夜ははっとして尋ねた。
「あれ? そう言えば研究室は?」
 昨日だって突然レッスン室に現れて、何の疑問も持たずにそのまま一緒に帰ったし、今朝も聖夜が出かける時、繁はまだ爆睡していた。
 繁はテーブルの上でコーヒーメーカーをセットしながら、「ああ、お役御免になりました」と事も無げに言った。
「ええっ!? どういう事?」
 聖夜が驚いて訊くと、繁は「昨日ね…」と事の次第を説明し始めた。
「研究室に俺宛で、ボイストレーニング教室の女の人…たぶん、あの山本って人だよね、電話があってさ。俺、聖夜さんに何かあったのかと思って慌てて出たんだよ。そしたらいきなり、『北島先生はゲイなので、このままでは鈴木さんが危ないです。今日、このあと食事に誘うと言ってました。迎えに来た方がいいんじゃないですか?』って、言うだけ言って切れちゃったんだ」
「うえぇぇ?」
 聖夜は素っ頓狂な声を上げた。『山本さん、何でそんな電話をしたんだ〜〜?』と青ざめたが、すぐに北島の差し金だと気がついた。繁が暴れていた時、山本が北島に泣きついて「だから電話するの嫌だった」とか言っていたじゃないか。
 繁は「ビックリするでしょう?」と肩を竦めて話を続けた。
「もうさ、あの女性はセンセーの事が好きで、聖夜さんに取られると危機を感じてチクってきたんだと、すっかり信じちゃったんだよね。だって、俺は元からあのセンセーに疑いを持ってた訳だし。当然、そん時からキレまくって、椿先輩に八つ当たりして、すぐ帰れるようにしてもらったんだけど、そのままお役御免になっちゃいました」
「えええ〜〜!?」
 聖夜は悲鳴を上げた。そっちの方がショックだった。まさか、そんな事になっていたとは! 
「どうすんの〜〜…」おろおろする聖夜を見て、繁は可笑しそうに笑った。
「ふふ、嘘ですよ。忌引きで田舎に帰ってた先輩が戻って来たんですよ。もうお手伝いはしなくていいそうです。電話があったのは本当ですよ。ブチキレたのも本当。だから、先輩に文句は言いました。『聖夜さんに、もしもの事があったらどうしてくれる!』ってね。そうしたら、椿先輩が聖夜さんが戻って来てくれるよう説得してくれるって、言ってくれましたけど」
「それって……」
 嫌な予感がして繁を見ると、繁は『ええ、そうですとも』という顔で頷いた。
「椿先輩は、俺の恋人が『鈴木聖夜』さんって男性だって、ちゃんと知ってますよ。だって、俺、さんざん惚気てるし、相談もしてたから」
 聖夜が青ざめて絶句していると、「聖夜さんだって、俺の事、あの先生に相談してたでしょう?」としれっとした顔で言った。
「椿先輩は応援してくれてますよ。例の、髪の毛から作れる指輪の事を教えてくれたのも、先輩なんです」
「あ……でも、だって……。その人、カラオケボックスに行ってる時、邪魔するみたいに毎回電話かけて来てたよね……」
「ああ、あれは俺をからかって、かけて来てただけですよ。最初、俺が手伝いを断った時に、聖夜さんに俺の…まあ、いろいろ…を、チクルぞって脅されて。あの人、そういう事をやたらと面白がる人なんです。おまけに、聖夜さんに会わせろって煩いし……」
「えっ?」
 あまりの事に呆然としていた聖夜が聞き返すと、繁が言いにくそうに、「お役御免にしてやる代わりに、今度、三人で食事しましょうって…。いいですか?」と言うので、 この際、自分も椿さんとやらにきちんと会っておこうと思って、「いいよ」と笑って頷いた。
「あとね、確認なんですが……」
 繁が姿勢を正して改まった口調で言うので、「うん?」どうしたと頷くと、繁はちょっと険しい顔で聖夜を見つめた後、感情を抑えた平坦な声で告げた。
「聖夜さん、あの先生と、キスしたよね? もう……二度目は、ないからね」
「繁、それは……」
 聖夜が困ったように口を開くと、繁が遮るように言った。
「分かってるよ! あの先生とは、そんなんじゃないって。あの人、俺と聖夜さんが仲直り出来るように、わざとあんな電話かけさせたんでしょう。分かってても、嫌なんだ……。あのセンセー…俺の事、ずいぶん、煽ってくれたよね…。ホントに、次あんな事したら、恩人かもしんないけど、タダじゃ置かないよ! 聖夜さんは、俺のなんだから!!」
 拗ねた小学生のような口振りに、聖夜は少し呆れながらも愛おしくて、繁の頬に両手を添えて見つめながら、ひと言ひと言に思いを込めて囁いた。
「うん、そうだよ…。俺は、もう全部、繁のものだよ。それは、何があっても変わらない。誓うよ…。喩え繁のお父さんが、駄目だって反対しても、俺はもう繁を諦めないし、絶対に傍を離れないから……」
「聖夜さん……!!」
 繁は感極まったように聖夜を抱きしめて、「絶対だよ? 約束だよ?」と小さな子どもみたいに何度も訊くから、聖夜は呆れたように、「本当だよ。もし、俺が約束破ったら、大人しく繁のコレクションになってもいいよ」と囁いた。
「コレクションって……」
「前に一緒に観み行ったじゃないか。『人体の不思議展』だっけ? あの、生きてるみたいな人体標本…」
 それは、死体の組織液を合成樹脂に置き換えて作られた、生々しい外見の人体標本を並べた展示会だった。繁は「すごい! すごい〜〜!!」と興奮し、涎も垂らさんばかりに見入っていたが、聖夜はすごいと思いつつ気持ちが悪くて仕方なかった。
 つまりは約束を破ったら(そんな事はありえないけど、嫉妬に駆られた繁に刺されちゃうかも知れないし)死んでもいいよという意思表示なのだが、繁には伝わらなかったのか、「ああ……」と呟いた後、宙を見上げて実際に想像しているようだった。それは一瞬で、怒ったように首を振った。
「なに言っての?! 俺がいつも言ってんのは、聖夜さんをもう外に出さないよう監禁して、コレクションと同じように大事に仕舞っとくって事! 標本にしちゃったら、俺の夢が叶わないじゃん!」
「夢って…繁のお母さんと同じ病気の人を救う、新薬と画期的な治療法を見つける事だろう?」
 自分はあまり関係ないと聖夜が首を傾げると、繁は仕様がないなあと言うようにため息を吐いた。
「その通りだけど、それは学会で成功するって事でしょう? 俺はね、聖夜さんを連れて、あっちこっち世界中の学会を研究発表で飛び回って、ついでに世界の不思議な所を見て回るのが夢なの! フィレンツェのラ・スペコラ博物館の人体解剖標本とかさ、ベルナデットの眠るサン・ジルダール修道院とかさ……」
 何度も聞かされているからすぐに分かった。それって、例の恍惚とした表情の腹を開かれた少女の標本がある博物館と、ルルドの奇跡で有名な腐らない聖女の遺体の事だろう。どちらも女性じゃないかと聖夜は少しムカムカした。
「繁が成功するのは、もっとずっと先だろう? 俺、年とってからそんなの観て回ったら、心臓発作起こして死ぬかも知れない……」
 聖夜がしら〜っとして呟くと、繁が向きになって「大丈夫! 傍にいつも優秀な主治医がいるから!」と言うものだから、可笑しくなって吹き出してしまった。
「そうだね。二人で仲良く年をとって、世界中を旅しよう……」
 聖夜が微笑みながらそう言うと、繁も笑いながら「約束だよ」と小指を差し出したので、「うん。約束…」と指切りしながら『いつまでも、一緒だよ』と心の中で囁いた。

 (了)


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