INDEX NOVEL

忘れられないホワイトデー
愛の音痴克服法 〈 聖夜編・3 〉

 その日の聖夜は心ここに在らずで、案の定失敗ばかりした。
 出したばかりの戸籍抄本をそのままシュレッダーにかけてしまったり、間違い電話はかけるは、お茶を零して書類を汚すは、仕様もない失敗を繰り返しては周りの職員を慌てさせた。
 特に驚かれたのはその落ち込み方だった。普段なら何があっても表情も態度も変わらないのに、ミスする度に所構わずガックリと項垂れてなかなか浮上しないし、そこへ持って来てまたミスをするという悪循環で、最初は「どうしちゃったの?」と珍しがっていた周囲も、どこか具合でも悪いのじゃないかと騒ぎ出し、課長に早退を勧められてしまった。
 仕事など適当にやっていた以前の方が、どんなに落ち込んでも支障を来たす事などなかっただけに、どうにも自分が情けなくて悔しかったが、確かにこれ以上いても失敗を重ねそうだったので、諦めて早引けする事にした。
 時間は午後4時を過ぎたばかりでレッスンに行くには早過ぎたが、行かない訳にもいかず、その足で代々木へ向かった。ゆっくり来たつもりでも30分で着いてしまい、暫くビルの入り口でウロウロしていたが、どこかで時間を潰す気にもなれなくて、中で待たせてもらう事にした。
「こんにちは」と挨拶して入って行くと、受付嬢が驚いた様子で出迎えた。
「どうしたんですか? まだ5時前ですよ? お仕事は?」
「あ〜、今日は……たまたま早く帰れたんです。時間まで、隅の方で待たせてもらっていいですか?」
「それは構いませんけど……」
 受付嬢は聖夜の顔をしげしげと眺め、それから「ちょっと待っててくださいね」とレッスン室へ駆け込んで、またすぐに戻って来た。
「レッスン室へどうぞ。北島先生がお待ちですから」と微笑み、「でも、時間まだじゃ…」と戸惑う聖夜の背中を押して「大丈夫ですよ〜」とレッスン室へ押し込んだ。
「こんにちは、聖夜さん。どうされました?」
 押し込まれて来た聖夜に、北島はソファから立ち上がって心配そうに声をかけた。
「あ…すいません。まだ時間じゃないのに押し掛けて」と恐縮して詫びると、北島は「大丈夫ですよ。この時間は空いてますから」と微笑んだ。
 北島と会うのはまだ3回目だけれど、どんな時も嫌な顔ひとつしないなと、聖夜は客商売のプロとして尊敬の念を抱いた。いくら空き時間だったとしても、急な変更は迷惑なはずだ。申し訳なくて、これ以上北島に迷惑をかけないには、さっさと終えて帰る事だと「レッスンお願いします」と頭を下げた。
「まあ、そんなに急がないで。ねぇ、そこに掛けてください。今、コーヒーを入れますね」
 北島はそう言ってソファに座るように勧めた。さっさとピアノの前に向かおうとコートを脱いでいた聖夜は、戸惑いながらも「はぁ…」と北島の言葉に従った。
 コートを丸め鞄と一緒に自分の脇へ置くと、北島が紙コップに注いだコーヒーを手渡してくれた。北島は見学に来た時と同様、ピアノの側にある丸イスをガラガラ引っ張って来てどっかりと腰を下ろし、聖夜の顔を観察するように眺めて口を開いた。
「受付の山本さんがね、鈴木さんの様子がおかしいって駆け込んで来たからビックリしちゃいましたけど、確かに…元気、ないですよね?」
 聖夜は驚いて小さく息を呑んだ。自分は元来元気のある方ではない。殆ど挨拶しか交わさない受付嬢には、自分の変化など分からないだろうと思っていた。今日の自分は感情を全く制御出来ないと自覚しているが、そんなに顔に出ているだろうかと思わず頬に手を当てた。感情がダダ漏れしている姿は、裸で歩いているみたいで恥ずかしかった。
「何でもないです……」
「何でもない事ないでしょう? そんな様子じゃ、上手く歌えませんよ。たった三日しかない貴重な時間ですから、上手く行かないのが分かっててレッスンするのは愚の骨頂。まず、何があったか話してください」
 そう言われても、恋人と拗(こじ)れているからなんて、自分には大事(おおごと)でも他人には大した悩みではないだろう。そんな事で落ち込んでいるなんて、恥ずかしくて言いづらい。それに、その拗れた原因が自分だってよく分かっていないのだから、話した所で解決するとは思えなかった。
 俯いたまま黙っていると、北島が徐(おもむろ)に口を開いた。
「聖夜さん、歌うと気持ちいいでしょう?」
 唐突な問いかけだったが聖夜は迷わず頷いた。
「それはね、外に発散するからですよ。声でも、気持ちでも、外に出すだけで気分が晴れるものなんです。色んな物をうちにため込んでいては、身体に悪いですよ」
 それは分かる。聖夜だって大学生になるまでは、悩み事があれば友だちや先輩に相談したものだ。すっきり解決する事は少なかったが、話すだけでも気が晴れた。でも、故郷の何もかもと決別してから、そんな相手はいなくなった。以来、どんな事も全て一人で抱え込んで来た。
 だけど確かに、一人で悩むには限界が来ていた。繁との事は、自分ではもうどうしていいか分からない。
「その……、昨日、ここに一緒に来た友人と、喧嘩…というか、何だか拗れてしまって……」
 口には出して見たものの上手く説明が出来ない。次が続かなくて口を閉じると、北島は納得したと言うように大げさに頷いた。
「ああ、あの彼氏と揉めちゃったんですね……」
 北島の台詞に聖夜は弾かれたように顔を上げた。ちょっと待て。彼氏って、どういう意味で言ってんの?
「かっ、彼氏って! 彼氏は、彼の事ですが、彼は彼氏ではないですよ!」
 慌てるあまり意味不明な言葉で否定した。北島はそんな聖夜をきょとんとした顔で眺め、
「えっ? 彼氏でしょう? 付き合ってるんじゃないんですか?」と何でもない事のように言ったので、聖夜は絶句して北島を見つめた。
 どうして分かったのだろう。昨日バレるようなヘマをしただろうか?
 青くなって恐れ戦く聖夜に、北島は両手をブンブン振りながら慌てて弁解した。
「ごめんなさい。そんなに驚かれるとは思わなくて。大丈夫。秘密なら誰にも言いません。昨日お二人を見てて、そうだろうなと思っただけです」
「そ、そんな風に見えましたか?」
 恐る恐る尋ねた。もう誤摩化す気はなかったが、返答によっては外での態度を更に注意しないといけない。
「だって、彼…野原さん、でしたよね。僕が聖夜さんに触れる度、嫉妬剥き出しにして睨みつけて来るし。殺人光線出てましたよ。射殺されそうでしたもん」
 北島は腕を組んで朗らかに笑った。
 聖夜は繁の挙動不信な動きを思い浮かべて『ああ、そうか…』とため息を吐いた。確かに勘のいい人が見れば、分かってしまうかも知れない。緊張が解けて脱力し、ソファの背に深く凭れ掛かった。
「う〜ん。何か僕、余計な事しちゃったみたいですね。ごめんなさい。彼の反応が面白かったもんだから、つい悪のりして、セクハラまがいに聖夜さんにベタベタ触っちゃったから……。彼氏、それで怒っちゃったんでしょう?」
 片手で顎をさすりながら、悪戯を見つかった子どもみたいに上目遣いで謝る北島を、聖夜は呆気にとられてまじまじと見つめた。
「あれ、わざと触ってたんですか?」
「あ〜〜、はい。ごめんなさい。一応弁解しておくと、腹式呼吸の練習は必ずああやって行います。女性には出来ませんから自分でお腹に触ってもらいますが。聖夜さんの場合は、まあ…自分でいうのも何ですが、度が過ぎてました」
 本当にごめんなさいと深々と頭を下げた北島を、聖夜は返す言葉もなく眺めていた。
 この場合、自分たちは北島に踊らされたという事だろうか。否、こうなる原因は別なところにあったのだ。確かに、北島の行為によって繁の燻(くすぶ)っていた怒りが煽られたのだろうが、北島を怒る気にはなれなかった。
 表情をなくして黙り込んでいる聖夜に、北島が窺うように言った。
「あの、僕から野原さんに説明しましょうか?」
「あ…、いいえ。いいです……」
「よくないですよ、そんな元気を失くしたままじゃ……。からかった僕が悪いんですから、一発くらい殴られるのは覚悟します。誤解が解ければ解決するでしょう?」
「そう、かも知れないけど……。よく分からないんです」
「分からない?」
「繁が…、野原くんが何に怒ってるのか、実はよく分からないんです」
「嫉妬に駆られたからでしょう?」
 聖夜は強く首を振った。
「いいえ。機嫌が悪かったのは一昨日からです。こちらに通う事を僕が勝手に決めてしまって、その時から怒ってました。通うのは許してくれましたけど、昨日、見学に来たのはそれが野原くんが出した条件だったからです。そして、先生もご覧になった通りです。どう考えても、やっぱり勝手に決めた僕の事を怒っているんだと思います……」
 そう思っても、繁の怒りを鎮(しず)める方法が分からない。レッスンを止めれば気が済むのだろうか。だったら今日で止めてしまおうか。
「やっぱり、嫉妬したからじゃないですか」
 北島は訳知り顔できっぱりと言った。その自信たっぷりな表情に聖夜が怪訝そうに首をかしげると、北島はまるで名探偵のように謎解きを始めた。
「彼の気持ち、何となく分かりますよ。あたなのために音痴の克服法をネットで調べて実践して……。自分の力で直してあげたかったんでしょうね。だから、あなたがここに通うと決めたのが許せなかった。でも、決めてしまったものは仕方がない。条件を出したのは、見学して大した所じゃなければ止めさせようと思ったからじゃないですか? で、どんな所だろうとついてくれば、セクハラ教師がベタベタ触りやがってコンチクショウ〜と頭に来た。
 けど、彼は止めちまえとは言わなかったでしょう? 自分で言うのも何ですが、僕の教え方は悪くなかった。だからジレンマに陥った。止めろとは言えないが、簡単に認めるのは悔しいし腹が立つし、引っ込み付かないまんま聖夜さんに当たっちゃった……。そんな感じじゃないですか?」
 聖夜は目を見張った。確かに繁は、北島に会う前から胡散臭いと言っていた。それが、たった90分の練習で聖夜自身驚くほど上達した気がしたのだから、負けず嫌いな繁が悔しさのあまり退っぴきならない精神状態へ追い込まれ、帰って来れなくなったのだろうか。
「そう、ですね…。だったらやっぱり、繁の気持ちを蔑(ないがし)ろにした、僕が悪いんだと思います。先生、僕、今日でこちらに通うのを止めます」
「聖夜さん、それは本末転倒でしょ。繁くんだって、あなたの音痴を直してあげたいと思ってるんだから、自分のせいで途中で止めたと知ったら、それこそ余計拗れると思うけど」
「でも、このままじゃ、もう、元に戻れないかも……」
「元に戻れない?」
 驚いたように聞き返す北島に、もう隠しておく気にならなくて、繁とは一生を誓い合ったパートナーの関係で、同棲している事も、一昨日の出来事は多少オブラートに包んだが、全て北島に打ち明けた。北島はう〜んと唸って暫く考え込んでから口を開いた。
「ちょっとお聞きしますけど、彼って、いつもあんな風に嫉妬剥き出しで、誰彼かまわず威嚇(いかく)したりするんですか?」
「いいえ、違います。普段は穏やかで、絶対あんな失礼な事はしません。昨日は、その前の喧嘩の事を引きずってたんだと思います。確かに、彼は外でもベタベタしたがりますが、僕が嫌がるので我慢してくれてます」
「嫌がるって…、聖夜さんは、二人の関係を隠しておきたいんですか?」
「ええ、まあ……。でも、二人の関係を、というより、僕がゲイだというのを知られたくないんです。繁が外でもベタベタしたがるのは、元々がゲイではないからだと思います」
「繁くんって、その…ノーマルだったんですか?」
 北島は心底驚いたような声を出した。聖夜はばつの悪い思いで頷いたまま目を伏せた。どうやら北島はこちらの世界に明るいらしい。
 ふと、北島が繁を名前で呼んでいるのが気になったが、自分がそう呼んでいるからだと気づいて咎(とが)められなかった。繁も北島が『聖夜さん』と呼ぶのが嫌そうだった。自分はどこまで鈍感なのだろう。
「だったら、彼、凄いですねぇ…。ノーマルだったから…かも知れないけど、彼は隠したくないんじゃないですか? 逆に、これは俺のものだって誇示したい方ですよ。草食系な見かけに寄らず、彼はガッツリ肉食系でしょう? 普段は穏やかかも知れないけど、中身はすごく激しくて熱い人なんじゃないですか。そういう人なら嫉妬深いのも頷けますけどね」
 ニヤニヤ笑いながら言われ、聖夜は赤くなって下を向いた。
「あなたたちが恋人同士だろうって確信したのは、聖夜さんの首筋に、これでもかってくらいキスマークがあったからですよ。あっ、心配しなくても大丈夫ですよ。今日はワイシャツの襟に隠れて見えてないから。でもあれ、僕に見せつけたかったんじゃないですかね」
 北島は可笑しそうに笑いながら、「当てられちゃったもんだから、つい意地悪したくなっちゃって……」と頭をかいた。
「聖夜さんは彼にとても愛されてるんですね。そして、あたなも繁くんを愛してるんでしょう? それでも関係が拗れるというのは……僕が思うに、あなたが隠したがるからじゃないですかね。さっき、彼の嫉妬深さは性格的に頷けると言ったけど、飽くまで程度問題ですよ。繁くんのは尋常じゃない。問題は、どうして彼があそこまで嫉妬するのかって事ですよ。あなたがその気持ちを酌んであげないと、いつまで経っても同じ事の繰り返しなんじゃないですか?」
「……僕も、繁がどうしてそこまで僕に執着するのか、よく分からないんです。僕は…自分で言うのは憚(はばか)られますけど、その、見た目だけは良いみたいです。けど、それしか取り柄がありません。本当の僕は、ゲイというだけでマイナス因子を抱えているのに、音痴だし運動も駄目だし、不器用で面白味もなくて……。本当に駄目なヤツで、何をするにも自信がありません。
 そんな僕が、優秀な医学生で優しくてカッコいい繁の側にいるのは、何かの間違じゃないかと思う時があります。でも、彼が僕を必要としてくれているなら、僕は彼の隣りにいるのに相応しい人間になりたい。音痴を直したいと思ったのも、出来るだけ人から誹(そし)りを受ける部分をなくして、自信を持ちたかったからです。ただ歌うだけなら、繁に教えてもらうのでも良かったんですけど……。馬鹿ですね、僕は……」
 寂しげな微苦笑を浮かべる聖夜に、北島は腕組みしながら天を仰いで考え考え口を開いた。
「う〜ん、自信をつけるのは良い事ですけどね……。でもそれだけじゃ、やっぱり根本的な問題は解決しないと思うなぁ。ねぇ、聖夜さん、あなた、どうして自分の事をそんなに卑下するんですか?
 確かに僕の教室に来る音痴の生徒さんも、引け目を感じてる人は多いですが、音痴だから、ゲイだからマイナスだ、なんて事はないんですよ。ゲイの人は芸術面に優れた人が多いし、僕は芸能界にいたから友人にもゲイの人は多いです。社会的にも認知されて来てると思うけどな」
 聖夜は静かに首を振り、何もかも諦めたような口調で言った。
「それは特殊な世界の中だけです。世間一般の人に僕らは受け入れられません。僕は…両親にゲイだと知られて、親子の縁を切られました。もう10年故郷に戻ってないし、両親とも会っていません。
 先生みたいにリベラルな方は少数派で、大抵は僕の両親のような保守的な人が大多数で……。嫌悪感を持つ人の方が、普通なんだと思います。
 ゲイである事は、人の誹りを受ける最大の理由になります。だから僕は隠しておきたい。人に知られて、ゲイというだけで人格を否定されるような目に、繁を合わせたくないんです」
 北島は瞠目して聖夜を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと慰めるように言った。
「……そうですか、そんな事が……辛かったでしょうね。あのね、聖夜さんは僕の友人にすごく似てるんです。見た目も性格も……。だから、おせっかいのようですが、僕はあなたの力になりたい。
 キツい事を言うかも知れないけど、どうか怒らないで聞いてください。僕はね、今の聖夜さんに足りないのは、自信じゃなくて、覚悟、だと思います」
「覚悟?」
「そうです。繁くんとの事を人に知られてしまった時の覚悟です。とても辛い経験をしているから、臆病になるのは当然だと思います。でも、どんなに注意深く隠しても、バレてしまう可能性はなくならないし、それは一生ついて回る事ですよ。なのに、そんなにビクビク暮していたら、そのうちに二人の関係の方が駄目になってしまうんじゃないですか?」
「カミングアウトしろって事ですか?」
 無責任な事を言うと、突っかかる調子で聞き返した。さっきの自分の台詞を聞いていなかったのだろうか。そんな恐ろしい事できる訳がない。所詮、この人も他人事だから簡単に言えるのだ。
「そんな事は言ってません。僕は無闇にカミングアウトする必要はないと思うし、隠してていいと思います。もしも、知られてしまったら…の話ですよ。その時は、覚悟を決めて開き直れって言ってるんです。繁くんみたいにね」
「繁みたいに?」
「そうです。繁くんみたいに、俺たちは愛し合ってるんだ、どうだ、羨ましいだろうって、見せつけてやればいいんですよ」
「そんな事……」
「出来ない? じゃあ、聖夜さんは、二人の関係が人に知れたらどうするつもりなんですか? 別れるの?」
 弱々しく首を振った。そんなのは嫌だ。もう一人になりたくない。
「別れたくはありません…でも、きっと別れさせられる……」
「それは、繁くんのご両親にって事?」
 頷いて顔を伏せた。北島は鼻を鳴らして肩をそびやかし、
「彼が、親の反対くらいで簡単に引き下がる玉ですかねぇ…。どっちかって言ったら、反対するならこっちから親子の縁を切ってやるとか言いそうですけどね」と言った。
 繁ならそうかも知れないと聖夜は微苦笑した。繁は既に進学の事で勘当されたと言っているが、聖夜は本気にしていなかった。
「でも、そんな事させたくありません……」
 自分の事は仕方ないと諦めがついたが、親に切り捨てらるなんて、そんな哀しい目に遭わせたくない。
「でも、それで聖夜さんが身を引く…なんて事になったら、それこそあの子、大暴走しそうですよ。
なんか、犯罪者になっちゃいそうで怖いんですけどねぇ……」
 北島は両腕を抱えてわざとらしく震えて見せたが、繁が以前『浮気したら相手のナニを切る!』と言っていたのを思い出し、北島を見つめながらブルッと震えた。俺も、刺されるかも知れない。
 それを見た北島が青ざめて「なんか、シャレにならない感じですね……」と呟いた。
「…それくらい、繁くんは真剣なんでしょう? 彼が隠さないのは、元々がノンケだからじゃなくて、バレても辞さない覚悟があるからだと思いますよ。なのに、あなたは逃げ腰だ。それじゃあ、彼だって不安になるのは当然なんじゃないんですか? 彼が嫉妬深いのはその現れだと思いますよ?」
 聖夜は唇を噛んで下を向いた。俺が不安にさせていたのか…。そうかも知れないとしみじみ思った。だから、繁はあんなに指輪に拘ったのだ。永遠の誓いを立てたと言っても口約束だし、男女のように法律で縛り付ける事も出来ない。せめて目に見えるもので安心したかったのだ。一生のパートナーである証を。
 黙り込む聖夜に、北島は穏やかな声で言った。
「いいじゃないですか。繁くんの希望通り、誰も見てなきゃ外でベタベタしたって。もし、それでバレたら覚悟を決めて、障害や偏見に、二人で手を取り合って立ち向かえばいいんです。繁くんなら傷ついても逃げないで、真っ向から果敢に立ち向かうと思いますよ。あなたも彼を愛しているんなら、一緒に戦う意思と覚悟を、繁くんに見せてあげなくちゃね」
「一緒に戦う、意思と覚悟……」
 反芻するように呟いた。俺は繁を信じていなかったのかも知れない。先輩のように蔑みを受けて、傷ついて逃げてしまうのだと。だからあんなに愛してもらっても、不安を拭い去れなかったのだ。
「まあ、すぐに見せられるものでもないですけど……。取りあえず、今僕と話した事を、繁くんにも話してあげればどうですかね?」
「はい……」
 そうだ。もう逃げるのは止めよう。繁と一緒に生きて行くと決めたのだから。後ろ指刺されるのは怖いけど、でも、二人なら大丈夫。それを伝えてあげなきゃいけない。
 聖夜は頷いて顔を上げた。その顔を見て、北島は微笑んだ。
「少しは、元気が出ましたか?」
「はい。ありがとうございます…少し、気持ちが軽くなりました」
 晴れやかとは行かないまでも微笑んで見せると、北島は「良かった」と頷いた後、「ああ…」と思い出したように言った。
「あとね、もう一つ言っておきたい事があるんですが、聖夜さん、もう自分を卑下するのは止めなさい。駄目なところがあったって、恋人にあれだけ愛されてるんだから、もっと自信を持つべきだ。もっとも、彼は動物的直感力であなたを見初めたような気がしますけどね。あなたの良さは内面的なところにあるから、分かる人にだけ分かればいいんです。
 いいじゃないですか、不器用だって。その方が人間らしくて愛らしいですよ。人間はね、みんなどこか欠けてるんです。僕だってそう。完璧な人間なんかいやしませんよ。でも、それでいいんです」
 慰めでも北島の気持ちは嬉しかったが、本心を言えば今のままでは嫌だった。だけど確かに、あまり自分を卑下するのは、繁にも北島にも申し訳なく思えて自信なさげに頷くと、北島が苦笑して続けた。
「僕は音楽教師だけど、本当は音痴を直す必要なんてないと思ってます。それでその人の価値が下がる訳じゃないもの。でも、誰だって歌うなら上手く歌いたい。それに、上手く歌えれば楽しいですよね? 楽しくなれば、心が、人生がもっと豊かになるでしょう? だから教えてるんです。あと二日ですが、14日のカラオケ大会を楽しく過ごせるように、頑張って練習しましょうね」
「はい…。よろしくお願いします」
 心に暖かいものが満ちて今度は素直に頷くと、北島も頷いて気合いを入れるように立ち上がった。そのまま真っすぐ伸びた奇麗な背中を見せてピアノの方へ歩いて行くと、「まずは、発声練習からね」と優雅な動作でイスに座った。まるでこれから演奏を行うピアニストのようだった。
 聖夜は北島に見惚れながら、山本が言った「レッスンが終わる頃には、みんな先生を好きになっちゃう」との台詞を思い出し、そうかも知れないと心の中で頷いた。
 気をつけてと言われた事も思い出し、さすがに『それはないな』と苦笑したけれど、『この人が自分のお兄さんならいいのに』という、乙女チックな憧憬を強く感じていた。そんな自分に驚きながらも、自然と涌出る気持ちは止められなくて、もうあと二日で会えなくなるのが残念に思えて仕方がなかった。

NEXTは成人向ページです。未成年の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

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