INDEX NOVEL

忘れられないホワイトデー
愛の音痴克服法 〈 後日譚・1 〉

 3月29日の医師国家試験合格発表の日、繁の合格祝いに椿と三人で食事をする事になった。
 この日、午後2時以降にネットで合否が確認できるので、聖夜は分かったらすぐメールで知らせるように繁に言っておいたが、なかなか連絡が来ないのでそわそわしながら待っていたら、午後3時を過ぎてようやく『合格!』という件名のメールが届いた。
 どうやら発表時間帯にアクセスが集中したため、表示されるまで時間がかかったらしい。ほっとしてメールを読み進めると、
『…ところで、今日、椿先輩が合格祝いにおごってやるから、聖夜さんを連れて来いと言ってるのですが、急な話なので断りましょうか? 俺的には家で二人で飲んだ方が嬉しいです\(*^▽^*)/』
とお伺いを立てながら断る気満々の一文が添えられていた。
 聖夜は少し考えたが、意を決して了承するメールを返した。
『おめでとう。大丈夫だと思ってたけど時間がかかったから心配した。今までの努力が報われて、俺も自分の事のように嬉しいよ。本当に合格おめでとう。椿さんの件だけど、俺は今日会うのでも構わないよ。二人で祝うのは週末にゆっくりする事にしよう。合格祝いにプレゼントするから何が欲しいか考えておいて』
 こうしてかこつける理由がない限り、自分も繁も嫌な事を先延ばしにしてしまうタイプだ。でも、このままずるずる椿の事を引きずる方がもっと嫌だったから、いい機会のように思えた。
 暫くして『わかりました(ーωー)』と渋々な返事が届いた。
 場所は椿の指定で彼の行きつけの炉端焼き屋に決まった。大学院の側にあり、歌の練習をするために通っていたカラオケ店からもそう遠くない店だったから、聖夜はひとりで行けると言ったが繁が案内すると言って譲らなかったので、駅で待ち合わせをして一緒に居酒屋へ向かった。
「あのね、聖夜さん、予(あらかじ)め言っときますけど、椿先輩はすごく調子のいい人だから、話半分で聞いててくださいね」
 繁はそわそわとして落ち着かない様子だった。そんなに会わせたくないのかと、聖夜は逆に椿に対して今までにない興味を抱いた。繁の態度を見る限り、椿との色恋沙汰はあり得ないだろうと余裕が出たせいもある。ちょっとわくわくしながら、案内された炉端焼き屋の暖簾(のれん)をくぐると、繁の姿を認めた人物が二人に向かって手を振った。聖夜は思わず目を見張ってしまった。
「こっち、こっち〜」
 軽い調子で笑いかけている青年は、ウェーブのかかった背中まで届く栗色のロン毛をゆるく一つに結び、左耳にピアスをした外国人だった。ド派手な柄物セーターを着こなして、左手をヒラヒラさせている姿は、まるでファンに挨拶を送るロックミュージシャンのようだ。
 目の錯覚か? 聖夜はきょろきょろと辺りを見回した。10人も掛ければ一杯になってしまうコの字型のカウンターには、その彼以外誰も座っていない。否、座っていないどころか、店内に他のお客はいなかった。
「聖夜さん、あの人ですよ」
 隣りで繁が苦笑いしていた。聖夜ははっとして慌てて頭を下げた。
「あっ、すいません! 初めまして、鈴木です!」
「はい、どうも初めまして、椿浩一郎(つばきこういちろう)です。こう見えても日本人で〜す」
 椿の台詞に聖夜は赤くなって下を向いたが、繁がすぐに「気にしないでもいいですよ」と囁いた。
「聖夜さんだけじゃなく、初めて会った人はみんな誰でも先輩の事を外国人だって思うし、あの人、その反応を見て喜ぶような人だから、気にしなくて大丈夫です」
「ほら、ほら、そんな所にいないで、はやくこっちにおいでよ! もう、待ちくたびれちゃった〜」
 確かに椿は全然気にした風もなく、はやく、はやくと二人を手招いた。繁は聖夜を促して中へ入り椿の隣りに座ろうとしたが、椿は「お前はあっち、ここは鈴木さん!」と言って、しっ、しっ、と繁を追っ払った。その失礼な態度にムッとしながらも、繁が一つ離れた席に着いたので、聖夜は仕方なく椿の隣りに腰をかけた。
 二人が席に着くと、カウンターとは暖簾で仕切られた厨房から、白髪を角刈りにした厳つい顔の老人が出て来て、「いらっしゃい」と二人の前にお通しを出し、「なに飲む?」と聞いた。
 椿は既にジョッキの生ビールを飲んでいたので、聖夜も繁も同じ物を頼んだ。老店主は愛想もなくコクリと頷くと奥に引っ込んで行った。
 あんな調子じゃ、この店はお客がほとんど来ないんじゃなかろうかと、聖夜が炭の煙で薄黒く煤(すす)けた店内を眺めていると、椿が笑いながら言った。
「ここ、酒の摘みしかないから、呑み助しか来ないんだよね。だから、この時間はいつも客が少ないの。小さい店だし、ガッツリ食いたい学生も、煩い女子も来ないから、俺の憩いの場なのよね」
 確かに今日は月曜日だし、時間もまだ6時を少し過ぎたばかりだから、お客がいないのも頷ける。しっかり夕飯をとりたい人ならこの店は選ばないだろうが、もう少ししたら中年のくたびれかけたオジサンたちが、立ち飲み感覚で1、2杯引っかけに来るに違いない。
 聖夜はこうした赤提灯系の飲み屋に入るのは初めてなので、「繁もよく来るの?」と聞くと、
「いや、俺は先輩に呼び出されない限り、ここには来ません」と嫌そうな顔をして言った。なのに、この店に最も場違いの人物に思える椿は、憩いの場だと言う。『この人、見かけと中身はずいぶん違うのかも』と改めて椿を観察した。
 すっと高い鼻。細い顎。透き通るように白い肌。瞳の色はブラウンではなくアンバーに近い。きっとハーフなのだろう。繁と同系の優しげなハンサムだが、胸板が厚いので割りと男らしい感じがする。どちらにしろ、繁とのツーショットは男の目から見ても目の保養だ。
 この顔で医学生だなんて詐欺じゃなかろうか。この二人が連れ立って合コンなんか出ようものなら、女の子たちはこぞってこの二人に群がる事だろう。自分なら絶対一緒に出たくないメンツだ。もちろん出るはずもないが。
 聖夜の視線を感じてか、椿が聖夜の顔をチラリと見て微笑んだ。
「俺の顔に何かついてる?」
「あっ、いや…その〜…、あんまり、お医者さんっぽくないなあと…」
「それを言うなら、野原もだよね。確かによく言われるよ。ミュージシャンか、ホストみたいって。医学生だって言うと、いやらしそうだから産婦人科医になりそう、とかね」
「別に、産婦人科医は…」
 いやらしくないだろうと首を傾げると、椿はクスッと笑って、「鈴木さんって、いいね。野原に聞いてた通りだ」と呟いた。そこへ「おまち」と店主がよく冷えた生ビールを持って現れた。
 それぞれジョッキを手に持ったところで、椿が「じゃ、本日は野原繁くんの合格を祝して、乾杯!」と音頭をとってジョッキを合わせた。
「繁、合格おめでとう。良かったね」
 聖夜が繁に微笑みかけると、繁は相好を崩して「ありがとう。聖夜さん」と答えたが、聖夜の後ろで椿が「へええぇ〜〜」と冷やかすような声を上げたので、ムッとして一気にジョッキを煽った。
「ねぇ、鈴木さん。俺も聖夜さんって、名前で読んでもいいかな。俺ね、あたなと同い年なんだ。俺はさ、椿ってのが珍しいせいか、名字でしか呼ばれないんだよね。聖夜さんの好きな方で呼んでいいよ」
 まだ、良いとも何とも言っていないのに、椿は既に聖夜と呼んでいる。繁はげほん、と咳払いしたが「駄目だ」とは言わなかった。聖夜は『もう、どうでもいいか』と苦笑いしながら「いいですよ」と答えた。
「ホントに? 嬉しいな。じゃあ、改めて自己紹介するね。ご存知かも知れないけど、俺は野原がこの春から入る病理学教室の先輩です。でも、知り合ったのはこいつが2年になった時からなんで、もう結構長いよね。こいつもね、俺と初めて会ったとき外人だと思って英語で話しかけて来たんだよ。
 俺、クォーターなんだ。イギリス人のジイさんの血が隔世遺伝して色素が薄いだけでね、両親はもちろん日本人だし、弟なんかベタベタの日本人顔してる。まあ、そんな訳で人間の遺伝子に興味が湧いて、こっちの道に進んだんだけどね。ちなみに椿って名字はね、ジイさんが日本に帰化した時に選んだの。バアサンが椿の花が好きだったからなんだって……」
 その後は椿の独壇場だった。椿はとにかくペラペラとよく喋ったが、最初の軟派な印象と違って語り口には知性があった。話の内容も機知に富み、繁とはまたひと味違った独特の感性があって引き込まれた。
 それに、如才ない気配りで酒を勧め、イカやらホタテやらの摘みをオーダーしてくれるので非常に居心地がいい。聖夜は北島の時と同様、いつの間にか椿の話に聞き入っていた。
 その横で、繁はひたすら寡黙に酒を煽っていた。普段の聖夜なら、そのペースが異様にはやい事に気がついただろうが、椿に気を使うあまりほどんど繁を見ていなかったから、全く気がついていなかった。
「トイレ…行って、来ます」
 繁がそう言ってフラフラトイレに向かうのを、その足取りを見て初めて、大丈夫かなと心配して見送っていると、「やっと、ふたりきりになれた…」と椿が苦笑いしたので、聖夜は不思議そうに椿を見た。
「あいつ、すげー緊張してやんの。すんごいペースで飲んでやんだもん。たぶん、今頃個室でコレだよ」
 椿は口元に手を持って来ると、おえっと吐く真似をして見せた。聖夜はどうして今まで気がつかなかったのだろうと、慌てて繁の跡を追おうとして立ち上がったが、椿に腕を取られて引き止められた。
「待って、待って! あいつは大丈夫。俺、顔色ちゃんと見てたから。そんなに心配しなくても大丈夫な程度だし、あれくらい、俺らの間ではしょっちゅうだから。それより、今しかあなたと二人きりで話なんて出来ないと思うから、ちょっと聞いてくれるかな」
 聖夜は怪訝な思いで椿を見たが、椿が真摯な態度でそう言うものだから、繁の消えたお手洗いの方を一瞥し、仕方なくそのまま腰を下ろした。
 すると、急に周りのざわめきが気になり出した。落ち着いて辺りを見回すと、店の中は座卓を含めほとんど満席になっていた。
 時計を見るともう七時半を回っていて、サラリーマンのオジサンたちが赤ら顔で杯を煽っていた。聖夜は時間の経過を忘れるくらい自分もずいぶん緊張していたのだと気づいて愕然とした。
「あいつ、今日、全然喋ってなかったでしょう。大人しくてさ。聖夜さんといる時も、あんな感じ?」
「いや、すごいお喋りだよ……」
 そう言えば、確かにとても静かだった。いつもと全然違うのに、繁の異変に気づかないなんて…と唇を噛むと、椿は安心したように「だよねぇ…」と笑った。
「大学にいる時はいつもあんな感じだよ。あいつ、見てくれが良いから黙ってても目立つでしょう? 何かフェロモンでも出てんのってくらい女が寄って来くるし。だからか、いつも目立たないように周囲に合わせてる。別に暗くて地味って訳じゃないよ。人当たりがいいから友だちも多いし、客寄せパンダにされる合コンも、頼まれればヤな顔しないでよく出てた。ただ…親友って言えるようなヤツは、俺が知る限りいないんじゃないかな……」
 知ってた? と聞く椿に、聖夜は黙って首を振った。椿の口から語られた大学での繁の姿は新鮮だったが、同時に、自分の知らない姿を知っている椿に嫉妬を覚えた。どう足掻いても知り合った時間の差は縮まらない上に、その差を自慢されているように感じて不快だった。
 でも、聖夜はその思いをぐっと飲み下した。プライドもあるが、可愛い女の子が嫉妬するならいざ知らず、男に嫉妬されるなど普通の男である椿にしたら、気持ち悪い事この上ないだろう。
「…そんな顔しないでよ。野原の名誉のために言っとくけど、今は聖夜さん一筋なんだから安心して」
 慰められるように言われ、聖夜ははっとして片手で口元を覆った。また顔に出てしまったのだろうか? 焦る聖夜を見て椿がクスッと笑った。
「ふふ…聖夜さんって、可愛いね。野原が自慢するのも分かる気がする」
 自慢って…自分のいない所で一体どんな話をされているのか。
 想像すると恥ずかしくて頬が熱くなった。まして、さっきまで嫉妬していた椿に『可愛い』などと言われ、聖夜は困ったように目を伏せた。
「ねぇ、聖夜さんは、野原とどうやって知り合ったの? 散々惚気るくせに、その辺の話は教えてくれないんだよね、あいつ」
 興味津々の様子で訊く椿に、繁が話さないのにどうしようかと迷ったが、隠す事もないかと言葉を選びながら簡単に説明した。
「俺が繁の隣りの部屋に越して来てすぐに、俺の個人的な揉め事に彼を巻き込んじゃったんだ。彼は親身になって助けてくれて…。それが切っ掛けなんだ」
「それって、2年くらい前?」
「そうだけど……」
 聖夜が頷くと、椿は「お〜〜っ、やっぱり!」と指を鳴らし、思い出し笑いをしながら言った。
「ちょうどその頃、ストーカー被害に遭ってる人を助けたって話は聞いてたんだよ! やっぱ聖夜さんだったんだ…。そん時、すげ〜頬を腫らせて来てさ、俺とかゼミの親しい連中にはそう説明してた。でも、他の連中には理由を言わなかったもんだから、もっぱら彼女と修羅場を演じたとか、三角関係が拗れて向こうの男に殴られたとか、色いろ噂されてたけど、その時からだよ、野原が変わったの……」
「変わった…?」
「そう。何か浮かれてた。誰が見ても分かるくらい楽しそうで、誘われたら断らなかった合コンも、どうしてもって付き合い以外は断ってたしね。だから、俺も含めて周りは女が出来たと思った。しかも、今までとは違う本命だって。あいつは来る者拒まずだったから、そのうちチャンスが廻ってくると思ってた女の子たちの阿鼻叫喚ったら、すごかったよ〜」
 繁と暮し始めた頃、聖夜は自分の事で一杯いっぱいだったから繁の状況など知る由もなかった。その頃の繁がどんな風だったかは朧にしか記憶にない。
 女性にモテるだろうと想像はしていたが、実際に事実を聞かされるのは心が乱れる。黙ったまま微苦笑している聖夜に、椿は弁解するように言った。
「あ〜…気に障ったらごめんね。でも、さっきも言った通り、あなたと知り合う前の事だし、その後の野原の身の潔白は俺が保証するし。あいつね、今までどんなに頼んでもあなたに会わせてくれなかったんだ。それは数々の “ おイタ ” を知られるのが怖かったからだと思う。今日もあんなになるまで酒かっ喰らってたのは、俺に何言われるかヒヤヒヤしてたからだよ。
 俺は渡りに船だったから止めなかった。野原がいない方が話しやすいと思ったし。でも、俺が話したいのは女の事じゃないんだ。ただ、その辺に触れないでは話を進めらんないから、不愉快でも勘弁してね」
 そう前置きすると、ふざけた様子を引っ込めて、椿は沈んだ金色の瞳で聖夜を見つめた。
「あいつ、誰と付き合っても長続きした事がないんだ。女の子から申し込まれると一応付き合う訳だけど、やる事はやってもちっとも打ち解けないものだから、すぐに『さよなら』されちゃうんだ。そりゃそうだよね。相手は恋人になりたいのに、それじゃただのセフレだもの。
 それでもいいって子もいたみたいだけど、鬱陶しく感じるのか忙しさを理由に会わなくなるんだよね。実際忙しいんだけど、それで自然消滅。本気じゃないからって言えばそれまでだけど、男女の話だけじゃなく、あいつの人付き合い全般に言える事なんだよ。頑(かたくな)にホントの自分を見せようとしないんだ。何でだと思う?」
 唐突な問いかけに聖夜は戸惑いながら首を振った。悔しいけれど分からない。唇を噛んで下を向くと、「トラウマ…」と椿が呟いた。
「えっ?」
「兄貴に虐められたトラウマが、あいつを殻に閉じ込めたんだよ」
「どういう事?」
 そんな話は聞いた事がない。否、椿が語る繁はまるで別人のようで、自分は繁に関して知らない事ばかりなのかと、悔しさと焦りでイライラした。
「あいつに兄貴がいるのは知ってる?」
「知ってる」聖夜が勢い込んで頷くと、「じゃあ、あいつの趣味とコレクションの事は?」
「知ってる。一緒に住んでるんだから!」
『恋人なんだから』との言葉は飲み込んだが、言われっぱなしなのが癪に触って、そんなこと百も承知だと挑むように言うと、椿は朗らかに笑って「そうだよねぇ」と意外な反応をした。
「あいつは子どもの頃に、あの変わった趣味を兄貴にこっぴどく扱(こ)き下ろされたらしい。あ〜…何つってたっけ、ああ、そうだ……」

『恥ずかしいヤツだな。お前は野原家の恥だ』

 椿は聖夜を指差してそう言うと、まるで一人芝居をする役者のように、大げさな身振り手振りで繁の兄の物まねをしながら説明した。
 中学一年の兄は、小学五年の弟にそう言い放ったのだそうだ。お正月に集まった年下の従兄弟たちに、繁が河原で拾った水晶を見せている時だった。

『ダイヤモンドじゃないんだから、そんな一銭の価値もない物を自慢して何になる。そんなくだらないモノばかり集めて、本当にお前は恥ずかしいヤツだ。親戚の前だからいいけど、人前で絶対そんな物が好きだなんて言うなよ。世界の不思議を探す冒険家になるなんて戯れ言もだ。
 冒険家なんて、金と時間を持て余してるヤツか、まともに働きたくない怠け者の言う事だ。お前が馬鹿なのは事実だから仕方ない。でも、それを人に知られるのは、俺の恥になるんだぞ。だってお前は俺の兄弟で、嫌でもその事実は変えられないんだからな。だから人前では黙ってろ。馬鹿は馬鹿なりに、野原家の恥になるような事だけはするな』

 繁がショックを受けたのは言うまでもない。だが、頭の良い兄をそれなりに尊敬していたし、自分は馬鹿だと思い込んでいた繁は、それを肯定して受け止めた。
 それ以来、コレクションは繁の部屋から門外不出になり、友人を招き入れる事もなかった。あそこまで言われたら、普通はそれらを愛でる気持ちも折れてしまいそうだが、繁は逆に固執し守り抜いた。
「『人に知られなければいいんだろう?』そう開き直ったと、あいつ、言ってたよ」
「ひどい! 何もそこまで言わなくても…。兄弟なのに……」
 以前『価値観を否定されるのは俺自身を否定されるのと同じ』だと、傷ついた顔をして語っていたのを思い出し、聖夜は胸が痛くなった。自分に気を使ってか、繁の口から家族の話が出るのは稀だったし、兄の話はほとんど聞いた事がなかったから、否定しているのは父親だけだと思っていた。
「兄弟だからこそ、かな? 聖夜さんはひとりっ子だろう? それだと分からないと思うけど、年の近い男兄弟って、下克上の意識が強いんだよ。まあ、性格にもよるだろうけど」
「下克上?」意味が分からず首を傾げた。椿との会話は展開が予測不能でついていけない。
「戦国時代と同じ、ライバルなのよ。寝首を掻いてでも上に立とうって、相手の隙を虎視眈々と狙ってるし、寄ると触ると鞘当てしてる訳。俺んとこもそう。うちは二つ違いなんだけど、兄を敬うなんて感覚はこれっぽっちもないし、アニキどころかお前呼ばわりされてるよ。
 俺も長男だから、野原の兄貴の気持ちは何となく分かる。下の方が可愛がられるから、お兄ちゃんはどうやっても敵わない訳よ。何でも弟優先になって、グズれば “ お兄ちゃん ” なんだからって我慢させられる。まあそれも、ある程度成長すれば周りの見方も変わってくるから、気にならなくなるはずなんだ。野原の兄貴は父親のご自慢みたいだから、頭の出来は良いんじゃねぇの。だから、そこまで弟を敵対視する必要もないのに、あんだけ意地の悪い事を言われたって事は……」
 椿は喉が渇いたのかビールを煽ると、これは推測なんだけど、と前置きして話を続けた。
「残念ながら兄貴の方は、弟ほど容姿には恵まれなかったんだろうな。だから、やっかみで、お前は俺より目立つんじゃねぇ、って暗示をかけたんじゃないかと……んで、見事に功を奏した。否、効き過ぎちゃったんだな。だってあいつは、絶対に気を許した人間にしか趣味の話をしないし、自分の素を晒(さら)さない」
「ああ……」
 確かに『この部屋に人を上げたのも、こんな変な物が好きだって話したのも、聖夜さんが初めて』だと言っていた。
 自分の素を晒すとは、一番リラックスした状態になるという事だろう。今までの付き合いでそうした心境にはなれなかったようだが、トラウマの後遺症が根深く関係しているなんて夢にも思わなかった。そんな事、繁はひと言も話さなかったから。
 聖夜はそれを悲しく感じたが、すぐに今は違うからだと思い直した。自分たちはお互いの本当の姿を知っていて、それが自然な状態だ。だから、そんな話をする必要がなかったのだ。
 二人の間に何の問題もないと思っている聖夜には、椿が何を言いたいのか分からなくて、眉間に皺を寄せて首を傾げた。
 聖夜を見た椿はため息を吐いて、「だ〜か〜ら〜」と核心に触れた。
「野原にとって、女と寝るのは心を開かなくても簡単に出来るけど、自分の好きな事を話すのは心を許さないと出来ない事なんだよ。普通は逆の手順を踏むと思うけどね。でも、俺には理解出来るよ。
 たぶん、野原も言われた事があるんだ『あなたって、見かけと違う』ってね。なかなかに、言われるときつい言葉なんだよ。だって、俺は好きでこの見かけに生まれた訳じゃないんだ。
 イカゲソと熱燗が好きで何が悪いって言うんだよ。英語は喋れても日本人なんだから発音悪いんだよ! 勝手な見た目の人物像を押し付けて、それから外れると容赦なく減点されていくから、最終的な評価なんてボロボロになんだよ!」
 最後は自分の怒りとすり替わっていたが、それだけ繁と通じるものがあるのだろう。椿は我に返って、はぁ…とため息を吐いた。
「…まあ、俺は性格が斜め上を行ってるから、それを逆手に取って面白がる事を覚えたけど、野原は駄目だったみたいよ。時々こぼしてたもの『あの子は俺を見ていない』ってね。長続きしない理由はそれ。野原も悪いよ。兄貴の呪縛(じゅばく)にかかったまま、心を開かない訳だから。
 そりゃ俺だって、誰彼かまわず何でも腹割って話せる訳じゃないよ。でも、もっと自分を出さないとストレス溜まるだろう? 俺が心配してんのはそこだよ。
 あいつさ、甘え方を知らないんじゃないかと思うんだ。馬鹿でいられる子どもの時期に、いきなり見栄や外聞を気にする事を覚えさせられた上に、唯一理解があったらしいお袋さんと、親離れするかしないかの微妙な時期に、死に別れちゃったじゃん。甘やかしてくれる人がないまま、ずっと自分を隠して大人になっちゃったから……あいつ、ちょっとおかしいでしょう?」
「えっ? あっ、ああ……」
 椿の話は矢継ぎ早に予想もしない展開をするからついて行くのが大変だ。「おかしい?」いつもだよなと思いながら、曖昧な返事をした。
 それよりも、聖夜は別な事に意識を取られていた。見かけと中身のギャップ。繁は自分と同じような悩みを抱えていた。それは、植え付けられた恥の意識を裏付けて、繁を殻に閉じ込めるのに絶大な効果があったのだろう。なのに、聖夜は出会ったばかりの頃、自分にない物を何でも持っていると僻(ひが)んでいた。
 恥ずかしい…そう思うと同時に、愛おしさが込み上げた。いつも叱ってばかりだけど、これからはもっと甘やかせてやろう。聖夜は子ども見たいに笑う繁の顔を思い浮かべて、自然と頬を緩めた。
 椿はそんな聖夜の上の空な態度を見て、眉間に皺を寄せると心配そうに言った。
「あなた、あいつを理解してる? ちゃんと受け止められてるの? あいつ、心を許した人の前だと、ガキみたいで手に負えない時ない?」
「はぁ?」
 聖夜は思わずカチンと来た。俺は何でも知っている的な上から目線の物言いに、ついに堪忍袋の緒が切れてしまった。
「あいつは俺の前ではいつでも思春期のガキみたいだよ! 初めて会った時からそうだった。だから、受け止めるも何も、今更何だって感じだ。俺にとっては、それが繁なんだから!」
 勢いに任せて言い放った。『俺はあいつの恋人だぞ! アンタ、何様のつもりだ〜?!』とまでは、さすがに言えなかったが。
「えっ?」
 今度は椿が驚く番だった。聖夜の勢いに押されて口を開けたまま瞠目している。ハンサムの豆鉄砲を食らったような間抜け面を見るのは、今まで黙って聞いているしかなかっただけに、なかなか爽快な気分だった。
「俺たちは出会った時が最悪で、どっちも取り繕うような状況じゃなかったんだ。俺は最初からゲイだって告白しなくちゃならかなったし、繁のコレクションも、これでもかってくらい見せられたし、少しだけど家族の事も聞いた。しかも翌日からその部屋に一緒に住まなくちゃなんなくて、暇があれば繁の大、大、大好きな不思議なモノ話も聞かされたさ。
 だから、あんたが話してくれた繁は、俺には別人みたいに感じる。あいつは俺の前じゃあ、図体ばっかり大きい甘ったれの小学生みたいなんだから、アンタが一体何を心配してるのか、全く訳が分からない。逆に、こっちが訊きたいよ。何でそんな話を俺に聞かせる訳? 俺を不安がらせたいの?
 大体アンタ、繁の事くわし過ぎるだろ? ホントにただの先輩か? 俺たちがカラオケの練習をしていた時だって、邪魔するみたいにやたらと電話かけてくるし!」
 どんどん余計な事を口走っているのは分かっていたが、今までの憂さもあって一気に捲(まく)し立てた。椿は驚きを通り越して、きょとんとした顔をして聖夜を見つめている。聖夜はその顔に一層怒りを煽られて、一番気になっていた事を口にしてしまった。
「アンタ、繁の事、す、好きなんじゃないのか?」
 聖夜は思いっきり睨みつた。好きな相手の事だから詳しい。それしか考えられない。繁に恋愛感情がなくても、こいつは繁が好きなのだ。だから繁が居ない時に牽制しようとして、自分たちがどれだけ親密な間柄なのか見せつけようとしているのだ。
「はああぁ〜〜?」
 椿はこれ以上ないくらい素っ頓狂な声を出して絶句したあと、「……もしかして、嫉妬してる?」と聖夜を指差して言った。
 図星を指されて聖夜が真っ赤になった次の瞬間、椿はブーッと盛大に吹き出した。
「アッハハ〜、ヤダヤダ〜、あり得ない、あり得ないって! あんなの、絶対、頼まれたって、ヤダ〜〜!!」
 顔の前でブンブン手を振ると、腹を抱えて足をバタバタさせながら笑い転げた。その反応を聖夜は呆気にとられて見ていたが、隣りのオジさんに何だよとジロリと咎めるような目で見られ、
「しーっ! 声が大きいよ!」と慌てて注意した。
「だって、ホントに、あり得ない! アハハハ……そうか、そんな心配してたから、何かトゲトゲしかったんだ!?」
「じゃあ、何でそんなに詳しいのさ!」
 自分の勘違いを笑われて、頭から湯気が出るほど恥ずかしかったから、腹立ち紛れに尚も問いつめた。椿は涙の残る目を細めて、ごめん、ごめんと謝った。
「う〜ん…ひと事で言えば、同族嫌悪、かな? あいつ、俺に似てるから見てると歯痒くなる。気にしないようにしても、目立つから嫌でも目に入って来るし。その上、懐かれちゃったしさ〜」
「だから、ちょっかい出してんのかよ!」
 今までの控えめな態度はどこへやら、繁にするのと同じ粗雑な態度で接している事に、聖夜自身は全く気づいていなかったが、椿は聖夜の態度をニヤニヤしながら面白そうに見ていた。
「人聞き悪い言い方しないでよ。さっきも言ったけど、俺はホントに、これっぽっちも、あいつにそうした気はないし、純粋に、カワイイ後輩の世話を焼いてるだけだよ〜」
 胡乱(うろん)な目つきで眺めている聖夜に、椿は笑いながら繁と知り合った頃の話をした。
 二人が初めて会ったのは、椿が病理学の教授について繁の授業の指導に入った時だった。50人はいる教室で繁は誰より目を引いたが、本人は至って控えめだった。顔が良くても男に興味はなかったし、最初はあまり口をきく機会はなかった。繁と親しくなったのは、居酒屋で教授を囲んでの親睦会の席が、たまたま近かったのが切っ掛けだ。
 どういう話の流れだったか覚えいないが、椿が高校生の時にロンドンにいる父方の親戚の家に遊びに行って、ストーンヘンジを見たと話したら、繁が激しく反応したのだった。
「『詳しく聞かせてください!』って腕取られた。すげー目を爛々(らんらん)と輝かせて、まさに生き返ったって感じだったよ。何なんだって驚いたけど、ああ、こいつもやっぱ猫被ってんのかーって…。それから、親しい仲間内の飲み会に誘ってやるようになったけど、なかなか化けの皮剥がそうとしないからさ〜、ここに連れて来て今日みたいにベロンベロンにして、いろいろ訊き出した訳よ。
 かな〜り危ない系の趣味してるよね、あいつ。ネクロフェリア(死体愛好家)の医学生だなんて、こりゃヤバいってんで、それ以来、俺らの間では変態系のオタクで知られてる」
「無理矢理しゃべらせたのか?」
 可哀想にと非難の籠った声で訊くと、椿は「あいつ、酒に弱いみたいね。酔っぱらうと、こっちが訊かなくてもひとりでペラペラ喋ってたよ」とケケケと笑ってペロッと舌を出した。
「悪いヤツだな…」思わず身を引きながら呟くと、「だって、そうでもしないと、素直に喋んないじゃん」と嘯(うそぶ)いた。
 聖夜は繁が呼び出されない限りここには来ないと、嫌そうな顔をしていたのを思い出し、納得のため息を吐いた。でも、それだけ嫌なのに、何で繁は言う事をきいているのだろう。懐かれてると椿は言ったが、繁はいたぶられて喜ぶタイプだったろうか。否、何かもっと弱みを握られているに違いない。
「アンタ、他にも弱み握ってるだろ?」決めつけるように言うと、椿はニヤリと笑った。
「そりゃあね! だって、俺、色々恋愛相談に乗ってやったし、あなたの事、絶対あきらめないで頑張れって発破かけたの、俺だから。そのストーカー事件で顔腫らせてから、すっかりニヤケ男になってたのに、半年くらいしてから落ち込んだりおろおろしてたり、まあ目も当てられないくらいヘタレになっちゃって。知らない連中はビックリしてた。
 聞かなくてもうすうす分かってたけど、どうしたんだぁって声かけたら、藁をも縋る感じで自分からボロボロ打ち明けたんだよ。『男の人を好きになっちゃった!』って。それも、初めて本気で恋しちゃったもんだから、勢い込んで自分から告白したものの、その後、どうしていいか分かんなかったみたいよ。いつもなら、あいつの見かけにコロッと参ってくれるはずなのに、相手は野原が好みじゃないらしくて、全然つれないんだって……もう…今、思い出しても…わ、笑える……」
「本当に、根性悪いな……」可笑しそうに笑う椿に聖夜は呆れたように言った。
「み、認める…けど、嬉しかったんだよ」
「え?」
「あいつが本気になったんだと思ったら、なんか…自分の事のように嬉しかったんだ。最初は相手が男だって聞いて驚いた。誤解のないように言っておくけど、俺にはゲイの友人がいるし、偏見はないよ。でも、あいつは男を好きにはならないだろうと思ってた。
 だって、あいつ…、すげぇ、スケベだろう? だから、あなたのことマジで好きなんだなって分かったから、頑張れって応援したんだよ」
 聖夜は恥ずかしくなって下を向いた。あまり詳しい事は話していないんだと分かったからだ。
 確かに告白されたけど、最初は断ったのだ。それをいきなり挿入込みの濃厚なエッチに持ち込まれ、結局そのまま陥落しちゃったなんて、まあ、確かに言えやしない。
 男性同士の場合、挿入しないセックスをするカップルも多いから、誤解しているのだ。椿の友人は、きっとそうなのだろうけど。
「でね、ここまで協力してやったんだから、会わせろー、会わせろーって、当然の要求をしてたのに、一向に会わせてくんないから、余計気になってさ。まあ、俺の心配が老婆心だったって分かって、良かったけどさ……」
 ふざけた空気をなくし微苦笑した椿に、「何がそんなに心配だった訳?」と聞いた。
 椿は「ああ……」と口を開きかけて暫く逡巡した後、「全部、俺の思い込みだったんだけど…」と断りを入れてから言った。
「あいつ、あなたの事をスゲー惚気る訳よ。どんなに可愛くて、どんなに優しい人かって、あなたの人柄についてはウザイくらいにね。その割に、あんま変わんないから何でかなと思って」
「変わらないって、何が?」
 少し不安な気持ちで訊くと、「だから、俺の思い込みだって」と椿が苦笑いした。
「俺はさ、そんなスゲー愛する人が出来たら、劇的に変わるんじゃないかと思ってたワケ。つまり、野原の兄貴の呪縛が解けて、周りと打ち解けて、自分の本当の姿で接するようになるんじゃないかって。そりゃ、変化の兆しはあったよ。とにかく毎日楽しそうで、幸せなんだなってのは雰囲気で分かる。でも、対外的には全然変わらなかったから、納得いかなかったのよ。俺も、そんな大恋愛の経験なんてないしねぇ……結局、人って、そんな変わるもんじゃないんだな」
 ガッカリしたような椿の最後の呟きに、聖夜は落ち込みそうになって黙って手元を眺めた。『変わらない』それは誰よりも、自分の事を言われているように感じた。
 それでも、聖夜は繁と出会って少しだけ変われたのを、はっきりと自覚している。繁に関して言えば、外での姿を知らないから何とも言えない。でも……。
「そんなに、変わらないかも知れないけど…」聖夜が呟くと椿が顔を上げた。
「幸せだから、いいんだ」
 聖夜は椿の目をまっすぐ見ながらそう言い切った。
 良い方へ変わりたいとは思っている。椿の言う通り、繁も本音で人と付き合えるようになる方が、もっと世界が広がるだろう。でも、北島に言われたように、二人にとって重要なのは、そこではない気がした。
 だって、幸せなんだ。変わろうと変わるまいと、繁がいて、自分がいて、互いが幸せなら、それだけでいいんじゃないだろうか。
 椿は『やられた』という顔をして肩を竦(すく)めると、フッと微笑して「言うねぇ。ムカつくなぁ……」と呟いた。
「あぁ〜あ、当てられちゃった。まあ、セイゼイ末永く長続きしてよ? つうか、してくんないと困るし。ホントに野原って尋常じゃない時あるから、あなたと別れる…なんて事になったら、恐ろしいからさ〜。世のため人の為にも、あいつの事よろしくねって、頼みたかった訳よ、聖夜さん!」
 ぽんっと勢い良く肩を叩かれたが、どうリアクションしていいか分からない。言われなくても別れるなんてあり得ないと頷いて返すと、言うだけ言って満足したのか、椿は柱に掛かった黒光りする古ぼけた柱時計を眺めて、「あいつ、死んでんじゃねぇ?」と言った。
 確かにトイレに行くと言ってから、既に小一時間は経っている。聖夜が立ち上がって慌ててトイレへ向かうと、後ろから椿の笑い声が聞こえた。
 トイレには個室とは別に小便器があった。なるほど、個室一つしかなかったら今頃お客から文句が出ていただろうが、幸い腹を下した客はいなかったようだ。個室は使用中になったままで、シーンと静まりかえっている。
「繁? 大丈夫か?」
 扉をノックしながら声をかけると、「あ…、はい……」と寝ぼけたような声が聞こえた。どうやら中で寝こけていたらしい。すぐに扉が開いて、眠そうな目をした赤ら顔の繁が、便座の蓋の上に座って手を振っていた。
「おい、大丈夫か?」
 中に入って腰を屈め繁の顔を覗き込むと、繁はふにゃっと笑って「平気です。吐いたら楽になったし…。ただ、人心地ついたら眠くなっちゃって……」と言った。
 確かに疲れて見えるが顔色は悪くなかった。聖夜はため息を吐いて腰を伸ばすと、「あんなに飲むからだよ…」と繁の腕を取って立ち上がらせようとした。繁は口を尖らせて、「だって……」と座ったまま聖夜の腰に抱きついた。聖夜は仕様がないなと繁の頭を撫でてやった。
「不安だったんだもん」
「何が?」
「椿さんって、お喋りだから何言うか分かんなかったし……。それに、あの人…見た目はカッコイイでしょう?」
「そうかぁ?」聖夜は人を食ったような椿の顔を思い出し、眉間に皺を寄せた。
「すっごい、モテるよ……」
「ふ〜ん……」
 気のない返事をする聖夜を、繁は不思議そうな顔で見上げた。「椿さんは、好みじゃないの?」と子どものような舌ったらずな口調で訊く繁に、聖夜は苦笑しながら「ああ」と頷いた。
「あの人、ひとりでいても平気そうだろ? こんな店でひとり酒を楽しむような人だし。そういう人は、俺には合わないよ…」
 顔が良くても、あれじゃ性格が悪過ぎるだろ、という心の声は飲み込んだ。繁が慕っている先輩を悪く言うのは憚(はばか)られた。それに、椿が繁を心配していたんは本当のようだし。でも、自分とは絶対に気が合わない。
「俺は、甘ったれな方がいい」
 お前みたいなね…と囁くと、繁はエへへと笑って、甘えるように聖夜の胸にすりついた。
「さあ、戻ろう」
「ん〜〜。聖夜さぁん…大好き〜〜」
 こいつ、酔っぱらってるなと思いながら出入り口の方を見たが、誰かが入ってくるような兆しはなかった。とは言え、トイレでラブシーンを演じるのは嫌だから、はいはい、と言いながら背中をぽんぽん叩いて立つように促したが、繁は益々強く抱きついた。
「俺を置いて、どこにも、行かないでね……」
 小さく囁いた繁の声の切なさに、聖夜は身体の芯が揺さぶられた。
「…どこにも行かないよ。ずっと一緒だって、約束しただろう?」
「うん…」
 繁が安心したように返事をすると、聖夜は縋り付く身体をぎゅっと抱きしめた。母親が亡くなって誰にも甘えられず、子どものまま大人になってしまった繁。きっと、ずっと寂しかっただろうと思うと、熱いものが込み上げた。
 聖夜にとっての母親は、冷たい人ではなかったが甘えた記憶もあまりない。でも、そこにいるのが当たり前で、いなくなるなど考えた事もなかった。もう会う事が叶わない今は、こんな捻くれた自分でも会いたいなぁと思うのだから、繁の気持ちは推して知るべしだ。
 また船を漕ぎ出した繁に慌てて、「さあ、行こう」と声をかけると、今度は素直に立ち上がった。
 繁の背中を押しながらカウンターの席へ戻ると、椿は美味そうに焼酎のお湯割りを飲んでいた。聖夜が繁のために水を頼むと、厳つい店主はお冷やとお茶を出してくれた。
 繁は眠そうな目を擦りながら、「せんぱ〜い…」と恨めしげな声を出した。
「何だよ」嬉しそうに返事をする椿。間に挟まれた聖夜は、何だか嫌な予感がしてそわそわした。
「聖夜さんが〜、あの指輪、してくんないんですよ〜……」
「ちょっと、繁…」
 周りを見回して、声を落とすようにしーっと人差し指を立てると、椿は「ああ、例のエンゲージリング?」と訊いた。
「そうですぅ〜! 傷がついちゃうとか言って、あげたとき以来、タンスの中〜」
「そりゃ、そうだろうよ。だって、エンゲージリングだもん」
「えっ?」
 あわあわしていた聖夜と、カウンターに顎をつけていた繁が同時に椿を見つめた。
「ありぁ〜、結婚の意思を表すのに分かりやすいから贈れって勧めたけど、男がするには宝石(いし)ついてるし、公務員の聖夜さんには、普段つけるのは無理だろうよ」
 それを聞くと繁はガックリして、「じゃあ、この人がお手つきだって分からせるには、どうしたらいいんスかぁ?」と泣き声を上げた。
「ちょっと! 繁…ホントに…」止めてくれと頭を抱えそうな聖夜を、椿はニヤニヤ眺めながら、
「そんなの、マリッジリング買えばいいじゃん」と事も無げに言った。繁は眠そうにしていた目をパチッと開くと「ああ、そうか…」と呟いて、ばっと起き上がって聖夜と向かい合った。
「そうだ! そうしましょう。聖夜さん」
 聖夜の両肩を掴むと、ねっ、ねっ、と言いながらゆさゆさと前後に揺すった。
「えええ…?」聖夜は揺すぶられて目の前がクラクラした。
 椿がゲラゲラ笑いながら、「そうだよ。それくらい、してやんなよ」と加勢した。
「夫婦だったら旦那が指輪すんのは当たり前でしょう? シンプルな指輪ならつけてもおかしくないし、お互い変な虫を追っ払らえるしな」
 そんな事言われても、指輪なんてしようものなら、亮子たちに絶対会わせろと詰め寄られる。猫の写メどころの騒ぎじゃないぞと焦っていると、椿が尚も追い討ちをかけた。
「事実婚だって言えばいいじゃん。まあ、どうしても駄目なら、鎖に指輪を通して首から下げとけば? いざって時に取り出して、ホレホレって見せるだけでも、虫くらいは退治できるんじゃない?」
 お守りだと思えばいいじゃんと椿が言うと、繁がこくこく頷きながらじぃっと聖夜を見つめた。
「そんな事、言われたって…」こいつら、急に息を揃えやがってと聖夜はタジタジだ。
 二人はあと一息とばかりに聖夜に躙(にじ)り寄った。
「それぐらい妥協してやれよ〜」
「だめ? だめ〜?」
 左右から煩くステレオ状態で喚(わめ)かれて、聖夜は堪らず「もう、分かったから!」と叫んで耳を塞いだ。
「ヤッタゼ!」
 二人は立ち上がると聖夜の頭上で手を叩き合って笑っていた。聖夜は耳を塞いだ格好のまま茫然としていたが、我に返って『もしや、ハメられた?!』と思っても後の祭りだ。
 椿は心底楽しそうな顔をして、タラリと冷や汗を流している聖夜の耳元に唇を寄せると、
「あいつ、策士だから気をつけなよ」と囁いた。
 聖夜が椿、繁の順でギロリと睨むと、繁は酔っぱらった赤ら顔に満面の笑みを浮かべて、
「結婚指輪、合格祝いでお願いしま〜す」と親指を突き出して見せた。
 聖夜はムッとしたものの、繁があんまり嬉しそうなので、ため息を吐いて「分かったよ」と頷いた。『これくらい、甘やかしてもいいか』と、胸の中一杯に愛おしさを感じながら……。

 (了)


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