INDEX NOVEL

忘れられないホワイトデー
愛の音痴克服法 〈 聖夜編・2 〉

※ 性描写があります。未成年の方はお読みにならないでください。

 レッスン室の壁際のソファに座って、繁がこちらを射るように見つめている。
 聖夜はただでさえ緊張しているのに、この威圧的な空気を作り出している繁を鏡越しに盗み見るて、胃が痛くなりそうだった。
「お腹の動きを意識して、もう一度吸って〜。ハイ、息を止めて。今度は吐きますよ〜。10秒ですよ。1、2、3……」
 カラオケのレッスンに来たというのに、北島は昨日とは打って変わって紺色のジャージを着込み、まるで体育の教師のような出立(いでた)ちだ。聖夜も受付嬢から渡されたテキストに従って持参したスウェットに着替え、床の上に仰向けに寝転がっている。膝は立てて腕は組んで頭の下に置いた状態だ。
 さっきからこの姿勢で腹式呼吸をさせられているが、ずっと気になっているのは、腹の上に置かれている北島の手だ。繁が憤怒の形相で凝視しているのも、その北島の手だった。気が散ってなかなか言われた通りに出来ない。まあ、筋肉痛で腹筋が痛いというのもあったのだが。
 今日のレッスンに、聖夜は繁を連れて来た。それがボイストレーニングを許可する条件だったからだ。でも、やっぱり断れば良かったとひどく後悔していた。
 繁は北島に会った瞬間から臨戦態勢で、威嚇(いかく)するように睨みつけた。慌てた聖夜は自分の挨拶もそこそこに繁を紹介したが、「昨日お話しした、克服法を考えてくれた友人です」と言ったのが気に入らなかったのか露骨に不満そうな顔をした。
「こちら、北島泰史先生……」とハラハラしながら繁を指でつつくと、「どうも、野原です……」とかろうじて挨拶はしたものの、仏頂面で感じ悪い事この上ない。
「断りもなく連れて来てすいません。どうしても見学したいと言うので……」
 その場を取り繕うように説明すると、北島は気にした様子もなく白い歯を見せて挨拶した。
「いいえ、構いませんよ。カラオケ通のご友人ですね。初めまして、北島です。今日から三日間、聖夜さんのボイストレーニングを担当させていただきます」
 北島が『聖夜さん』と親しげに呼ぶのを聞いて繁は怪訝そうに聖夜と北島を交互に眺め、更に強い眼光を飛ばして北島を睨みつけた。まるで取りつく島もなく、聖夜はなす術もなく天を仰いでため息を吐いた。
 嫌な予感はあったのだ。でも、心中穏やかでなくとも繁だって立派な大人だし、元々気さくな性質だからこんな態度に出るとは思ってもいなかった。それに、聖夜に拒否権はなかったのだからどう仕様もない。
 ただ、北島が遣りにくいだろうと気を揉んだが、見る限り北島は繁の存在など意に介していない様子で、それどころか、何となく面白がっている感じさえしていた。
「聖夜さん、お腹が動いてませんよ。気を散らさないの。このままじゃ先に進めませんよ。胸で息を吸わないように注意して。ではもう1回。ハイ、吸って〜」
 歌のレッスンに来たはずなのに、アスレチッククラブかと思うくらい本格的な筋トレから始まって、もう10分もこの体勢で腹式呼吸の練習をさせられている。レッスンは90分しかないのに、このままではまともに歌えないで終わってしまうと、聖夜は横隔膜の動きに意識を集中させた。

 昨日は、あれから慌てて家に帰ったが、繁はまだ帰っていなかった。
 メールをチェックすると、繁から帰宅は午後5時頃になると連絡が入っていた。ほっとしたものの、なかなか帰って来ないのでずいぶんと心配した。
 午後7時近くなり、やきもきながら夕飯の支度をしていると、玄関の鍵を開ける音が聞こえ、犬のように飛んで迎えに出た。そんな聖夜を見ると、繁は開口一番「明日の休みをもぎ取って来たから!」と嬉しそうに抱きついて来た。
 明日の分も頑張ったから遅くなったと喜々として報告する繁に、聖夜はギクリとして「そうか、良かった……」とだけ答えた。てっきり繁は明日も大学院へ行くだろうと思っていた。だから日曜日からレッスンに通う事になっても、大丈夫だろうと一人決めしていたのだ。
 よくよく考えれば、あれだけ苦労をかけて付き合ってもらっておきながら、成果がないからボイストレーニングに通うなんて、人として義理に欠ける行為じゃなかろうか。そんな薄情な自分のために、丸一日も研究室に籠ってくれたなんて……。
 聖夜は返す返す繁に申し訳なくて、なかなかレッスンの事を言い出せなかった。食事の間も、後片付けをして二人でテレビを見て、繁が風呂から出ても、まだ言い出せなかった。
 交代で風呂に入りながら、習慣になった “ 桶うた ” の練習をしてようやく覚悟が決まった。『上手くなりたい』という気持ちが聖夜を後押しした。風呂から上がるとヘッドホンで音楽を聴いていた繁に思い切ってチラシを差し出した。
「うん? 何?」
 繁はヘッドホンを外してチラシを読んだ。見る間に眉間に皺が寄り機嫌が悪くなるのが分かった。聖夜は背筋が寒くなったが、黙って繁の出方を待った。繁は暫くの間チラシに載っている北島の顔写真をじっと眺めていた。
「何、コレ?」
「そこに、明日から行くことにしたから……」
 繁のつっけんどんな態度に気後れして何とかそれだけ返すと、「はあぁぁ〜〜?」と、なじるような奇声が飛んで来た。
「何? どういう事? 一から説明して!」
 まずい、言葉が足らなかった…と思っても後の祭りだ。これ以上怒らせないように注意しながら、聖夜は事の経緯を説明しにかかったが、既にスイッチが入ってしまった繁は聞く耳持たない状態で、チラシを渡した店員の本分を逸脱した行為が発端だと知るや、「信じれんねぇっ! 怒鳴り込んでやる!」と熱(いき)り立った。
 聖夜はそれでも怯まずに、「俺、教えてもらって良かったと思ってる。話を聞いて、音痴が直って自信が持てたって言う彼が、羨ましいと思ったんだ。俺もちゃんと歌えるようになって、自信が持ちたいんだ」と繁を見つめて訴えた。
 すると繁は怯んだように目を逸し、自分の頭を掻きむしったかと思うと、「うわ〜〜っ」と叫んで静かになった。俯いたまま電池が切れたオモチャのように動かなくなった繁を、聖夜は固唾を呑んで見守った。
「俺が教えるんじゃ駄目なの? 上手くなってると思うけど……。それとも、俺がふざけてばっかりいるから、嫌になった?」
 暫くしてイジけたように呟いた繁に、違うと慌てて首を振った。
「ううん、違うよ。そんなこと思ってない。繁の教え方、その北島先生に説明したら誉めてたよ。俺がいけないんだ。ごめん、白状すると、繁が帰った後はやる気が出なくて……練習してなかった。だから上手くならないのは俺のせい。あと三日しかないのに、このまま一人で続けても駄目だと思ったから、思い切って行ってみたんだ」
「だったら、研究室の手伝い、何が何でも断れば良かった……」
 繁が悔しそうに呟いた。聖夜は繁の側へ寄ると膝の上で硬く拳を握る手を優しく撫でた。
「ごめん。繁のせいじゃないから、そんな風に思わないでくれよ。繁はあんなに頑張って練習に付き合ってくれたのに、本当にごめん……。俺は駄目な奴だから、プロに習ってもどこまで上手くなるか分かんないけど、これで駄目なら諦めもつくし」
 繁は黙って聖夜を見つめていたが、聖夜の手を取ってぎゅっと握り締めると「その先生、どうなの?」と、床に投げたチラシを嫌そうに眺めて言った。
「どうって?」
「三日で、上手くなるって? 何か、胡散臭い……」
「否、三日で音痴は直せないって言われたよ」
「じゃあ、駄目じゃん!」と繁は鼻を鳴らした。
「でも、歌えるようにはなるって、言ってくれたよ」
「それじゃ、俺が教えても同じだよ」
 また不貞腐れたように言ってそっぽを向く繁に、聖夜はほとほと困り果てて悲しくなった。自信を持ちたいと言いながら、いつも他力本願で努力の姿勢が伴わない、自分のいい加減さを指摘された気がした。確かに、それじゃあ誰が教えても同じだ。
「俺みたいなの、プロに習っても、やっぱり駄目か……」
 奮起するどころか不甲斐なく忽(たちま)ちしゅんとして繁の手を離すと、「聖夜さん?」と繁が訝しそうに顔を覗き込んで来た。
「ごめん…も、寝る……」
 居たたまれずに顔を背けて立ち上がると、繁が慌てて聖夜の手を握って引き止めた。
「ごめん! 違う、駄目じゃない。そうじゃなくて……」
 何か言いたいのに、言いあぐねている感じでいたが、「ごめん、俺が最後まで教えたかったから…。駄々こねただけ」と言ってそのまま聖夜の身体を引き寄せた。
 聖夜は大人しく繁の胸に収まって「行ってもいいの?」と聞くと、繁は聖夜の額にキスしながら「うん…」と頷いたが、「でも、明日は俺もついて行くから」ときっぱりと言った。
 聖夜は瞬間的に嫌だなと思ったけれど、心とは裏腹に「わかった」と頷いて目を閉じた。これ以上繁と言い争いはしたくなかった。繁の唇が額から徐々に唇へと下りて来る。待ちわびたように唇を開いて迎え入れると、急いたように舌を絡めとられた。
 最近のセックスはいつもこんな形で始まるなと、聖夜は痺れ始めた頭の中でぼんやり思った。その後は、昨日までのたかだか一週間の禁欲を発散するかのように、激しい欲情をぶつけられた。
 繁は聖夜の身体中を愛撫しながら、明日はいつ行くのか、北島はどんな感じだったのか、根掘り葉掘り聞き出した。まるで尋問のように思えて、気持ちが萎えてしまいそうだった。
 なのに、黙っているとお仕置きのように身体にきつく吸い付いて跡を残し、素直に答えればムッとしてまた跡をつけた。しかも、明らかに見えてしまいそうな首筋や手首にもだ。
 おかげで聖夜の頭の中は、『レッスンの初日は、汗をかくから着替えを持って来いとかあったけど、更衣室ってあるんだろうか。あの先生に見られたらどうしよう』という愚にもつかない心配で一杯になり、なかなか達く事が出来なかった。
 自分でも気が小さいと思う。昔読んだ小説に、井戸に落としたコンニャクが気になって成仏出来ない女の話があったが、キスマークが気になって快感が得られないなんて、バカみたいだと思った。そう思っても、心と身体は一体だから、自分ではどう仕様もない。
 こんな時は、自分だけさっさと達って終わらせてくれればいいのに、聖夜の異変に気づいた繁が、途中から意地になって聖夜の雄蕊(ゆうずい)を扱くものだから堪らなかった。後ろからも激しく揺さぶられて、感じる場所を二カ所も同時に攻め立てられたら、痛いくらいに勃起はするが、相変わらずタラタラと露ばかりこぼして絶頂に届かない。
「……やっ……ぁ…、あっ…、うっ、あぁ……」
 かろうじて「嫌だ」とは言わなかったが、無意識に苦しげな声ばかり出していた。当然だ。身体を腰から二つに折られるようにして、長時間容赦ない抽挿を繰り返されているのだから。
 いっそ口でされた方がすんなり達けるかも知れないのに、繁はそれ以外選択肢がないかのように、聖夜の後ろに執着していた。全身から汗を飛ばし、気合いを入れるように唸り声を上げて、楔(くさび)を打ち込むのを止めようとしない。どうあっても聖夜を達かせるつもりらしい。これではいくら聖夜が後ろで達ける質でも拷問と変わらない。
 あまりに苦しいと心配事など考える余裕もなくなるのか、頭が空っぽになるのと入れ替わりに、後ろからジワジワと痺れるような快感が広がり始めた。苦行を強いられて脳内麻薬でも出たのかも知れない。或はやっぱりマゾの素質があるのかと怖くなったが、どちらにしても聖夜はそれに縋る事にした。
「……ん……あっ、はぁ……ぁ……あぁ……ん……」
 喘ぎに艶が混ざり始めたのを繁は聞き逃さなかった。聖夜のモノをせわしなく扱いていた手を緩め、「聖夜さん…」と呼びかけた。聖夜は物憂げに「うん…」と答えて震える足を繁の身体に絡ませた。
「止めないで…もっと……して」
 甘えた声で行為の続きを促した。ここまで来たらとにかく達かせて欲しかった。
 繁がほっとしたように聖夜に覆いかぶさったので、また苦しい体勢を強いられたが、覚醒した窄まりの襞は、ぐっと奥まで侵入した異物を今度は喜んで受け入れた。滑らかに動き始めた粘膜が、きゅっと縮んで繁の肉茎に絡み付く。繁は「ああ…」と感嘆の声を洩らして全身を震わせた。
 聖夜に負担をかけないようにと、繁は身体を起こして膝をついたまま踵を上げて自分の腰を支えると、聖夜の腰を浮かせて抱きかかえた。そのままゆっくりと長いストロークで腰を前に突き出すように抽挿を開始する。
 これも腰が浮いている状態だから楽とは言えないが、身体を折られるよりは苦しくない。その代わり繁は腰に来そうなピストン運動を強いられるが、細身の身体のどこにそんな体力があるのか、何の苦もなくその動きを繰り返していた。
 角度が悪くてあまり良い場所に当たらないから、聖夜は自分から快感を求めて艶(なまめ)かしく腰をくねらせた。露に濡れ光る雄蕊が、その動きに合わせて揺らめいている。
 繁はさっきまでとは明らかに違うその痴態を満足そうに眺め、絶頂の兆しを物語る凝(こご)った二つの膨らみに指を伸ばした。四本の指で転がすように愛撫して、親指の腹で裏筋を撫で上げる。
 頭の芯まで痺れそうな快感に、聖夜は仰け反って悲鳴を上げた。それを合図にまた雄蕊を包み込まれて激しく扱かれる。
「ああっ、イクッ! イク〜〜ッ!」
 待ちわびた放出のうねりを逃すまいと、身を捻って枕を抱え身を硬くして絶頂を待った。
「んっ、あっ、あぁぁ……」
 それまでの数時間が嘘のように、聖夜は繁の手のひらで呆気なく精を放ったが、繁はまだ絶頂を迎えていなかったから、そのまま敏感な皮膚を擦られ続け、繁が果てる前に悶絶してしまった。
 翌日、目が覚めたのは昼過ぎで、体中が痛くして仕方なかった。
 おまけに無理矢理達かされそうになった記憶が生々しく残っていて、聖夜は初めて繁とのセックスに後味の悪さを感じが、いつもと違って感情を表に現さなかった。
 怒りや不満というよりも、はっきりと形にならないもやもやした感情が渦巻いていて、口にしたら最後、引っ込みがつかない状態まで発展する予感があった。
 繁はいつも以上に甲斐甲斐しく聖夜の世話を焼き、余計な事を一切言わなずに代々木まで大人しく付いて来たから、その心境に思いを寄せる事もなかったが、繁も同じくらいもやもやとした苛立ちを抱えていたのかも知れない。
 その矛先が北島に向けれているのなら、八つ当たりとしか言いようがなかった。

「はい。いいでしょう! 聖夜さん、腹式呼吸の感覚を忘れないでくださいね。じゃあ、次は発声練習です」
 ようやく北島の手が腹から離れてほっとしたら、聖夜は腰が立たなくなってしまった。ただでさえ腰が怠くて仕様がないのに、腹筋や背筋運動をさせられて、もはや老人並みにクタクタになっていた。
「う……」
 聖夜が気怠げに唸ると、北島がひょいっと抱き起こしてくれた。間近で「運動不足」と笑われて、赤くなって俯いた。背後でガタッと大きな音がして、振り向くと繁が勢い込んで立ち上がったのが目に入った。
 忽ち青くなって北島と距離を取ると、繁は気を取り直したようにまたソファへ腰を下ろした。北島はその様子を興味深そうに眺めていたが、「聖夜さん、次、いよいよ歌いますよ〜」と言ってピアノの前へ歩いて行った。
 “ 歌う ” と聞くと緊張していたくせに、やっと歌えるとほっとしながらピアノの前に立ったが、やはりいきなり歌う事ななくて、まず「アー、イー、ウー、エー、オー」と母音を喉の奥から発音させられた。
 それを何度か繰り返し、ようやくピアノの音に合わせて母音を発声した。やっと歌のレッスンらしくなっても、最初は小さい声しか出なくて、「もっとお腹から!」と何度も注意され、その度またお腹に手を当てられて腹式呼吸をやらされた。
 そのうち声帯が広がったのか、声が出るようになると次第に音階も上がって行き、あとは中学校の時の音楽の授業とそう変わらなくなった。中学の時と違うのは、マンツーマンでしっかり声を出させられた事だ。誤摩化しなく声を出すと、自分でも驚くほど高い声が出るのに気がついた。
「サビが上手く歌えなかったのは、普段話している音域以上の声が出せなかったからですよ。特に男性は裏声を使う事はないですから、女性の歌を歌うのは難しいんです。
 でも、意外と聖夜さんは高い声が出るので、オリジナルのキーでも大丈夫そうですけど、時間がないので最初から-1下げた音階で練習しましょう。明日からは、ピアノじゃなくてカラオケを使ってしっかり歌い込みますからね」
 北島はそう説明すると、「じゃあ、通しで歌いましょう」と聖夜にハナミズキの歌詞カードを渡し、自分は譜面を開くとメロディを弾き始めた。
 カラオケと違って生音だと歌い出しが分からない。聖夜はいきなり一人で歌うのかと心臓が飛び出しそうになったが、北島はピアノを弾きながら「緊張しないで、一緒に歌いますから。はい、まだ前奏ですよ〜。はい、歌い出し!」と導いて、一緒に歌い出した。と言っても極力歌詞を口ずさむ程度で、聖夜の音程があやしくなると透かさず導くように一緒に歌うだけだった。
 2回目は、聖夜が音を取れているのを確認するとピアノ伴奏だけになった。そうして3回目には心もとなかったサビの部分も、奇麗に歌えるようになっていた。
 その間ずっと、繁は食い入るように観察していた。最初こそ繁を気にしていた聖夜だが、そのうち全く気にならなくなった。腹の底から大きな声を出すと気持ちが良くて、昨日の出来事も鬱々した気分も、すっかり晴れてなくなっていた。
「オーケー。今日はここまでにしましょう。よく声が出るようになりしたね」
 北島に誉められると嬉しくて、聖夜は「はい!」と満面の笑みを浮かべて頷いた。ガタンと大きな音がして慌てて後ろを振り向くと、繁が扉を開けて外へ出て行ったところだった。
「あっ、挨拶もしないで…すいません。態度も悪くて、本当に申し訳ありませんでした。でも、いつもはあんなじゃないんです。すごく良い子で……」
 恐縮して度重なる繁の態度の悪さを謝罪すると、北島は気にした様子もなく、「いいえ、いいえ。何だか面白かったですよ」と言って笑ってくれたので、ほっと胸を撫で下ろし、「明日もよろしくお願いします」と挨拶してレッスン室を出ると、繁の姿はどこにもなかった。
 受付嬢に聞くと「帰られましたよ〜」と言うので、聖夜は急いで更衣室で着替えを済ませマンションへと向かった。
 マンションに帰り着いたのは午後8時過ぎで、下から見上げた時に電気が点いていなかったからもしやと思ったが、やはり繁は戻っていなかった。
 メールをチェックしたが一件の着信もなく、『どこに居るの?』とこちらから送信したが、その返事は帰っては来なかった。携帯にもかけたが、留守電にもなっていなかったので3度目で諦めた。聖夜は一応繁の分も夕食を用意したが、結局、聖夜が起きている間に繁は帰って来なかった。
 寝ずに待っていようと思ったが、昨日の今日で疲れも溜まっていたし、初めてのレッスンに緊張したせいもあって、ソファでウトウトしているうちに寝入ってしまい気がついたら朝だった。
 繁の姿はなかったが、彼が夕べのうちに帰って来た事は分かった。聖夜はソファで寝ていたはずなのに、起きたらベッドに寝ていたからだ。それも、いつものようにダブルベッドの右側に寄って寝ていたし、隣りには確かに繁がベッドに寝ていた跡も残っていた。
 どこまで爆睡していたのかと自分自身に呆れたが、起こしてくれば良かったのにと繁を恨めしく思った。会ったところで喧嘩になっていたかも知れないけれど……。
 聖夜は哀しい気分になってしまい、考えるのを諦めてさっさと仕事に行く準備をした。
 繁がボイストレーニングの事で怒っているのは明白だったが、具体的に何が気に入らないのか分からないからお手上げだった。否、もしかしたら聖夜に対して憤(いきどお)りを感じているのかも知れない。
 今までも些細な喧嘩は日常茶飯事で、そのたび危機感に苛まれながらも何とか乗り越えて来たけれど、今度こそ本当の危機を感じて、用意した朝食は喉を通らなかった。

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