INDEX NOVEL

忘れられないホワイトデー
愛の音痴克服法 〈 聖夜編・1 〉

※ 性描写があります。未成年の方はお読みにならないでください。

「……サビ、だよね。おっしいなぁ……」
 腕組みしながら聖夜の歌を聞いていた繁は、う〜んと唸りながら感想を述べた。聖夜は「うん…」と頷いたまま下を向いた。
 あれから土日はもちろん、平日も役場の帰りにカラオケ店で待ち合わせ練習する事一週間。聖夜はどうにか曲に合わせて歌えるようになったが、サビで、肝心なサビで、音が狂ってしまうのだった。
 職場のカラオケ大会なのだから、ご愛嬌と笑って済ませられるくらいの “ ハズシ ” なのだが、わずか一週間の特訓で格段の上達を見せた聖夜だけに、繁は完璧を目指そうと譲らなかった。
「う〜ん…どこがいけないんだろう? 一緒に歌うと大丈夫なのにね」
「うん…」
 そんな事、分かっていたら音を外さないのだと恨めしく思いながらも、忙しい中を自分の練習に付き合ってくれている繁に文句は言えない。
「練習あるのみ、だね……。じゃ、今度は一緒に歌おうか」
「うん…」
 『練習』と聞くと思わずため息が出てしまう。後ろめたくて素直に頷くと繁がさっさと曲番を入力し聖夜の肩を抱き寄せた。
「えっ?」
『何この腕は?』と思いながら繁を見ると、口元にいやらしそうな笑みが浮かんでいる。いつものように一緒に歌うだけだと思っていた聖夜は、はっとして「ちょっと、嫌だよ!」と慌てて身を捩った。
「何で? とにかく、きちんと音程を覚え込まなくちゃ、でしょう?」
「だって、一緒って、あっ、あれだろ!? あれじゃ、歌うどころじゃないだろうがっ!」
 きっ、と睨みつけながら抗議する聖夜を無視して、繁は肩どころか手で頭を抱えるようにして聖夜の耳に唇を寄せる。
「だっから! 近いって!」
 そうはさせるかとマイクを握った腕を振り上げると、曲が流れ始めたスピーカーからキーンと耳をつんざく不快な音が鳴り響いた。「わっ」と驚いて聖夜の動きが止まる。
「ほら、歌い出し!」
 すかさず繁に促され、条件反射でマイクを構え画面に顔を向ける。
「空を……」
 歌い出した途端、聖夜の耳元で繁も一緒に歌い出した。張りのある繁の声が聖夜の耳殻(じかく)を振るわせて、全身に鳥肌が立った。
「お、しっ、あっ…あ……」
 初っ端から歌うどころじゃない。変な声が出そうになって唇を噛むと、「ほら、歌って…」と耳の穴を舐められた。聖夜は先週の事を思い出して身体がブルリと震えた。

 先週の金曜日、仕事帰りに初めて近所のカラオケボックスへ練習しに行った時、これをやられたのだ。
 もちろん、最初は真面目にやっていた。繁がネットで調べた「ホントにこんな事するの?」という割り箸やストローを使った呼吸と発声の練習をさせられた後、「次は音程を掴むために一緒に歌おうね」と言われて素直に従ったのが運の尽き。
 今と同じく耳元で囁くように歌われて、あろう事か股間が勃ってしまったのだ。
 耳が弱い事は自覚していた。神経を集中して歌っていても、どうしてもこそばゆくて堪らなかったから、途中で「何で耳元で歌うの?」と抗議したら、
「人間は自分の声が聞こえないと声が出ないんですよ。でも、その聞こえる音が狂ってると、狂ったままの歌しか歌えない。だから、半分で自分の声を聞いて、もう半分で俺の歌を聴いて、音程を合わせて欲しいんです。それには二人そろってマイク使っちゃうと、俺の声が聴き取れなくなっちゃうから」
 そう尤もらしく説明されたから、仕方ないと納得してまた歌い始めたのだが、やっぱり背筋がゾクゾクして、気がつけばあそこがしっかり反応してしまっていた。無理もない。だって元々好きな声なのに、喋っている時よりも少し高くて透明さを増した歌声が、鼓膜を狙い撃ちしているのだ。
『こんなの、ひとたまりもないだろうっ!!』と胸中で絶叫しつつ、場違いな場所で発情してしまった自分の淫乱さが恥ずかしく、繁にバレないよう冷静さを装って歌い続けた。
 それでも、身体は震えるは変な汗は出てくるは、声も震えてか細くなるのを繁が気づかないはずがない。ただ耳元で歌っていた繁の唇が、聖夜の耳にぴったりとくっついて、『えっ?』と思った時にはテントを張った股間を撫でられていた。
「あっ…ん……」
 スピーカーから自分の喘ぎ声が聞こえ、聖夜は真っ赤になって慌ててマイクを遠ざけた。
「感じちゃった?」
 嬉しそうに言う繁の声にはっとして、ぎっと横目で睨みつけると、繁は慰めるように「ごめん、ごめん。聖夜さん、耳、弱かったもんね」と言いながら耳殻を甘噛みした。
「うっ……」
 ぎゅっと目を閉じると繁の舌が耳の穴に入って来て、ぴちゃぴちゃと淫猥な水音を響かせる。ここがカラオケボックスじゃなかったら、あられもない声を上げて繁の首にしがみついているところだ。
 ヤバい、このままじゃスーツの前を汚してしまうと、マイクを持った拳で繁の胸を押し返そうとするけれど力が入らない。曲はもう疾っくに終わっていて、繁のシャツをガサガサ擦る不快な音が響き渡る。
「…まだ、時間残ってるけど、帰ろうか? ここで、一回出せちゃえばいいけど…カメラあるからね。それとも、トイレ行く?」
 耳への愛撫を続けながら、同じくすっかり発情している繁の台詞を聞いて、聖夜の頭から一気に血の気が引いた。
『カメラ? カメラって何だ〜〜〜』と思った瞬間に、マイクを握った拳を真上に振り上げていた。密室にガコーンという衝撃音と、「ぐぅっ!」と繁の呻きがこだました。
 聖夜は慌てて身形(みなり)を整えると部屋中を見回した。果たして、聖夜の斜め後ろの天井隅に防犯カメラが設置されているではないか。『ホントにあった!』と更に顔が青ざめた。何しろ高校時代から数えるほどしか利用した事がないのだし、部屋の中などじっくり見た事もなかった。
『…って事は、この間のキスシーンも、ばっちり見られちゃったって事!?』
 そう気がついたら、まるでドアスコープを覗いた時のように、防犯カメラのレンズの奥に見知らぬ他人の目が見えた気がして、ドッと冷や汗が流れ落ちた。全ての店にカメラがついてる訳ではないのに、そうとは知らない聖夜はすっかりパニック状態に陥っていた。
「痛いよ〜、グーで殴るなんて。聖夜さん、ひどい……」
 顎をさすりながら涙目で訴える繁に、聖夜はわなわなと震えながら防犯カメラを指差し、
「バカ! アホ! トンマ! マヌケ〜〜」と小学生のような罵詈雑言を浴びせると、自分の鞄を引っ掴んで部屋を飛び出した。
「えっ? ちょっと、聖夜さん?」
 背後で慌てて呼び止める繁の声が聞こえたが、お前の事など知るもんかと一目散にマンションまで逃げ帰った。
 もちろんすぐに繁も帰って来て、布団を被って亀みたいに丸くなっている聖夜のベッドの下で、ひたすら「ごめんなさい。もうしません。調子に乗りました」と土下座して許しを請うた。
 聖夜は布団の隙間から繁のつむじを見つめ、ため息を吐いた。
 落ち着きを取り戻せば、こんなに怒る事でもないのかも知れない。職場の人にバレた訳ではないし、恥ずかしいなら二度とあの店に行かなければいいだけの事だ。18歳の頃よりはさすがに神経も太くなっているし、繁のおかげで先輩との失恋話を笑って話せるようにもなった。
 でも、ゲイである事を知られるのは怖い。両親の嫌悪に満ちた蔑(さげず)んだ目を思い出すと、今でも心臓が縮みそうになる。そして何より、引き離される恐怖。
 聖夜はずっと『バレたら終わってしまう』という強迫観念に捕われていた。
 繁に愛してもらって幸せだと言ったのは嘘じゃない。自分も繁を愛してるし誰よりも大切だから、彼が幸せになるのなら別れる事を厭わないと思った事もある。けれど、所詮はきれい事なのかも知れない。幸せな『さよなら』なんてない。別れはいつだって唐突に、理不尽に訪れる。
 例えば、バリバリに保守的な繁の父親にバレて、無理矢理引き離される(この可能性は極めて高い)事になったら? 或は先輩のように、他人(ひと)に知られる事で繁の気持ちが冷めて捨てられたら?
 ……きっと耐えられない。今だって、そんな想像をしただけで胸が張り裂けそうだ。本当に今が幸せだから、先輩の時なんかより何倍も苦しむ事になるだろう。
 聖夜は涙に滲み始めた繁のつむじに腕を伸ばした。ラグマットに頭を擦り付けたまま、繁は言い訳を続けている。
「ほんっとに、ごめんなさい! でも、角度からいって、俺の背中に隠れて絶対見えてないから。それに、店員もずっと防犯カメラなんて見てないと思うし! いや、見てないよ! 支払いの時も、全然普通だったよ。もちろん、次は違う店にするしっ! カメラない店探しとくから! だから……」
 聖夜の指が柔らかそうでいて張りのある黒髪に触れると、繁はぴたりと口を閉じた。恐る恐る顔を上げて、上目遣いに聖夜を窺う。聖夜の濡れた瞳を見て繁の顔が歪んだ。そんな繁が愛しいと思った。
「外では、嫌だ。でも、部屋(ここ)なら……いくらでも、触っていいから。好きにして、いいから……」
 目を細めると目尻に溜まった涙がこぼれ落ちた。繁は飛びつくように聖夜を抱きしめて、ごめんなさいと繰り返しながら顔中にキスを落とし、そのまま仲直りのセックスに傾(なだ)れ込んだ。
 喧嘩をしても結局いつもこのパターンで、繁の良いように進むのだけど、聖夜も口では嫌だと言いながら、繁に触られるのが好きなのだ。特にこうして聖夜が怒った後は、これでもかと言うほど優しく抱いてくれるから、頭の隅ではたまにキレるのも悪くないと思っている。
 それでも、けじめだけはつけさせようと、一番感じる後ろの花弁を舌と唇で攻め立てられても、「もう外ではイチャツキません」と誓うまで、忍耐を掻き集めて挿入を許さなかったのだけれど……。
 あの我慢比べは全く意味がなかったのだと、懲りない繁の性格を改めて思い知ったのだった。

「もうしないって、約束しただろっっ!?」
 この部屋にカメラがないのは確認していたが、流されてはいけないと理性を奮い立たせ、繁の頬に頭突きして振り払った。ぎっと睨みつけると途端に繁の唇がへの字に曲がって、「だって…」と言ったあと聖夜の肩にガックリと凭れかかった。いつもと違う反応に聖夜の方が慌ててしまう。
「繁?」
「せっかくの週末なのに、今日、このあと、帰れそうにない……」
 繁は面白くなさそうにボソボソ呟いた。
「そう、なんだ……」
「うん、ごめん…。約束は忘れてないけど、ベタベタしたかったから……」
「そっか……」
 それでか…と、繁の行動に納得すると同時に聖夜もガッカリして、今度は自分から繁の肩に腕を回し細くて長いうなじを優しく撫でた。
「でも、仕方ないよ……」
 自分にか、繁にか分からない慰めの言葉を呟くと、それを見ていたように繁の携帯が鳴った。
「ああっ、くそっ! 時間切れだ!」
 繁は悪態を吐きながら身体を起こし、「ごめんね」と言いながら立ち上がって部屋の外へ出た。歌っている最中ではないから別にここで話しても構わないのに、繁がわざわざ席を外す理由を思わず勘ぐってしまう。そんな自分が嫌だと思った。
 電話の相手は聖夜も知っている。春から繁が入る研究室の先輩で、椿(つばき)という男性だ。と言っても繁がそう説明しただけで、会った事はないから本当に男性かどうか分からない。何にせよ、聖夜にとってはカラオケの練習だけでなく、繁との時間を奪う疫病神に違いなかった。
 カラオケの練習を始めて三日目に、この不幸の電話はかかって来た。
 春休み中の繁に、「暇だろうから実験を手伝いに来い!」という『頼み』ではなく命令だった。何でも親戚の葬式のために田舎に帰った学生がいて人手が足りないとの事で、仕事は決められた時間にデータを記録する単純なものだが、まる一日拘束されるのだった。
 大学院が始まれば、またすれ違いの生活になるだろうから、べったり過ごせる貴重な休みを削られてたまるかと、繁は尤もらしい理由を並べて断ろうとしたが、椿先輩とやらは相当しつこかったらしい。繁もこれから自分が入る研究室の大事な実験でもあるし、後々の事を考えると無下に断れなかったのだろう。それに、どうやらその先輩に弱みを握られているようでもあり、結局、それから毎日研究室に通い詰めている。
 だから、今日のような平日は、大学の側のカラオケ店で待ち合わせをして、繁に与えられた午後7時から一時間の休憩時間を、カラオケの練習に当ててもらっているのだ。繁はこの一時間の間に聖夜が注文しておいた食事をほおばり、その後3回くらい一緒に歌ってまた慌ただしく戻って行く。でも、その前に必ずこうして椿先輩から戻れコールがかかって来る。
 聖夜は廊下で話している内容が気になって、ドアに近寄って聞き耳を立てていた。
「…っとに、もう! いちいち電話してくんの止めてくださいよ! わざとでしょう。それに、まだ時間あるはずですよ? えっ? わ、分かりましたよ。すぐ戻りますよ!」
 戻って来る気配に、聖夜は慌てて元居た場所へ駆け戻った。繁はため息を吐きながら入って来ると、そのままソファに投げてあったジャケットを掴んで聖夜に言った。
「それじゃ、俺、行きますけど、まだ時間あるから、聖夜さんは練習してってくださいね。俺、明日の昼くらいには戻りますから。だから、夜……ね?」
「あ…うん、わかった。頑張ってね」
 聖夜は赤くなりながら頷いて手を振った。それを見た繁も手を振って、後ろ髪を引かれる風情で出て行った。本当はいつものようにキスの一つもしたかったようだが、さすがに今日は諦めたらしい。
 わざわざ約束を取り付けて行ったのは、さっきの “ 約束違反 ” を自分でも気にしているのだろう。だったら、あんな事しなければいいのにと思うが、調子に乗ってやたら大胆になってみたり、果ては怒られて謙虚になってみたり、ホントに子どもなんだからと呆れる。でも、そういう所も好きなんだから仕様がないかと、またひとりでに赤くなった。
「俺だって、本当はベタベタしたいよ……」
 聖夜だって、せっかくの週末に一人で居たくなんかない。さっきは「約束違反」を咎めたけれど、まさか泊まりだなんて思わなかったのだ。つくづく椿先輩が恨めしい。そう思ったところで頭(かぶり)を振り、大きなため息を吐いた。
 何だが自分が浅ましく思えたからだ。遊びで行ってる訳じゃないのだ。繁の将来にも繋がっているのだし、自分はそれを支えて遣らなきゃいけないのに。そう思いながらも悪い事ばかり思い浮かんで来る。
 だって、あれは絶対、邪魔しにかけて来てる。椿さんって、繁の事を好きなんだろうか? でも、繁は好きじゃないだろう。毎度嫌そうに戻るし、これだけ自分にベタベタしているのだから。だけど、頭が上がらない相手に積極的に出られたら、そのまま浮気の可能性だって……
「ない、ない、絶対ない!」
 心の呟きが、いつの間にか口から出ていたのに気がついて、聖夜はまた嫌そうに頭を振った。
「ヤダ、ヤダ…。もう、早く帰ってお風呂に入って、ビール飲んで寝ちゃおう……」
 繁には練習しろと言われたが、とても歌う気になれなかった。尤も、それは今日に限った事ではなくて、聖夜があと一歩のところで伸び悩んでいるのは『練習不足』に他ならない。ちらりと罪悪感が頭を掠めたけれど、それを押し流すようにウーロン茶を飲み干して会計へ向かった。
 ため息と共にカウンターに伝票を出すと、見慣れた店員が「まだ、時間ありますけど…」と遠慮がちに聞いた。そんな事を言われたのは初めてで、聖夜は驚いて店員の顔を見た。
 初めてここに来た時に、ドリンクを運んで来た青年だった。その時、他の子と違ってじっとこちらを見ていたし、愛想もなくて何となく目つきが悪いなと思ったので覚えていた。その後はもっぱら会計の時にこうして会ってはいたが、いつも型通りの遣り取りしかしなかった。
「あっ、すいません…。つい、その、いつも、もったいないなぁと思って……」
「そう、ですよね……」
 色んな意味でばつが悪くて下を向くと、店員は焦ったように「余計なこと言って、すみません」と謝って、何故かそのままモジモジしている。
「あの、会計を…」と聖夜が訝しげに言うと、「はいっ! すいません!」と謝ってようやく金額を告げた。
 細かいのがなくて萬札を出すと、今度はすぐに対応してくれたが、釣り銭が載っている筈のトレーの上に黄色い紙のチラシが載っていた。『えっ? 釣りは?』と紙を取って持ち上げると、その下にちゃんとお金が載っていた。
「それ、よろしかったら、行ってみてください……」
 言われて、一体何のチラシなんだと改めてよく見てみると、『北島泰史(きたじまやすし)ボイストレーニング・クラス』と書かれている。てっきりこのカラオケ店の広告だろうと思っていたので、『何ですかこれは?』と疑問の眼差しで店員の顔を見た。
「僕が通ってる教室なんです。僕もすごい音痴だったんですけど、この教室に通って直せたんですよ。おかげですごく自信がついて、人生変わったっていうか、もう別人になれたっていうか、その北島先生って、本当にすごいんですよ〜〜」
 先ほどまでの怖ず怖ずした態度は鳴りをひそめ、滑らかに喋り出した彼の顔は確かに別人のようだった。頬を紅潮させて興奮気味に喋る彼の顔を唖然として眺めながら、聖夜は何か引っかかるものを感じた。
 彼は何でこんな話を自分にしているのだろうか? そうだ、彼は最初何と言った? 確か、僕も音痴だったとか言ってなかったか? 僕、も???
 カーッと頭に血が上った。どうして分かったのだろうかと、慌てて自分たちが使用していた部屋を振り返り、聞き耳を立てながら辺りをキョロキョロ見回した。部屋には防犯カメラはなかったはずだ。どの部屋からも音漏れなどしていない。なのに、どうして音痴を直そうとして練習に来ていると分かったのだろう?
「ど、どうして、おっ、音痴って!?」
 恐慌している聖夜を置いてきぼりにして喋り続けていた店員は、はっとして口を噤み慌てて頭を下げた。
「す、すいません…。い、いきなりでしたよね。不躾で、ホントに、すみま ――」
「だからっ、どうして分かったんですか? ここ、カメラとかあるの!?」
 店員が前のオドオドした態度に戻って繰り返し謝るのを、埒が明かないと遮って問い質した。
 もしもカメラがあったのなら、さっきのベタベタした遣り取りを見られたはずだ。だったら、もうここには来られない。繁のバカタレが〜〜と、ここにいない繁の代わりに店員を睨みつけた。
「あっ、ないです!! カメラはフロントフロアと廊下にしかないです。それに、防犯用ですから安心してください!」
 聖夜の怒気に押されて、店員は気の毒なほど小さくなって弁解した。その姿に聖夜も我に返って「すいません…」と謝った。
「いいえ、僕が悪いんです。言葉が足りなくてすみません。えっと、お客様が最初にお見えになった時にドリンクをお運びして……聞きましたので、分かったんです」
 そうだった。あの時は歌うのを止めなかった。でも、ここへ通うようになったのは今週の月曜日からで、初めて繁に聞かせた時よりはマシになったはずなのに。この人、だからあんなに見てたのかと合点がいったが、やっぱり俺って下手なんだなと思わず下を向いた。
「あっ、そう…ですか……」
 被害妄想で居丈高な態度に出たのも恥ずかしく、冷や汗が出た。たぶん、首まで赤くなっている。それを見た店員は慌てて「同じ理由で練習しに来られる方、多いですから。気にしないでください!」と、またペコペコ頭を下げた。
「すみません。仕事としてお客様の事情に踏み込むべきじゃないの、分かってるんですが、一週間近く通い詰めなのに、いつも途中で帰られるし、行き詰まっているのかな…って。僕も同じ経験をしたので分かるんです。でも、北島先生のおかげで克服できたから……何かもう、ほっとけないというか、教えてあげたくて!! 出過ぎた真似をしてるって分かってますけど、このまま自己流で無闇に練習するより、絶対に上達しますから!!」
 カウンターから身を乗り出して手を握らんばかりの勢いで力説され、聖夜はたじろぎながら「はぁ…」と頷いてもう一度チラシを眺めた。
 単に14日のカラオケ大会を、どうにか遣り過ごせればいいくらいにしか思っていなかったから、ボイストレーニングを受けようとは夢にも思っていなかった。でもまあ、おせっかいとは言え親切で教えてくれたのだからと、チラシを畳んでサイフと一緒に鞄にしまった。
「前向きに、検討してみます…。ありがとう」
 曖昧な返答をしてから付け足すような礼を言い、その場しのぎに微笑むと店員は真っ赤になって「いいえ、いいえ〜。こちらこそ、お引き止めしてすみません」と恐縮して顔の前で両手を振った。
 聖夜がそれじゃあと会釈してそそくさと出口に向かうと、「ありがとうございました〜。またご利用下さい」と満足そうな声が聞こえたが、聖夜は小さく「もう来れないよ…」と呟いて、片手で顔を覆った。

 マンションに帰って風呂に入り、湯船に浸かりながらいつものように歌ってみた。繁に教えられたように顔の前で桶を持ち、自分の声を聞きながらゆっくりと……。
「直ってない…?」
 サビの部分だけじゃなく、やっぱり音程が狂っている気がした。
「嘘だろ……」
 繁が言うように簡単に直ると思っていた訳じゃないが、上達したねと誉められるとすっかりその気になって、あれほど嫌だったカラオケが満更でもないと感じ始めていただけに、ガックリ来てしまった。
 歌えば歌うほど自信がなくなって、良くなってるのか悪くなってるのか判断出来なくなる。意地になって歌っているうちに逆上せそうになって、慌てて風呂から上がった。
 パジャマに着替えてソファに座ると、冷えたビールを飲みながら例のチラシをじっくり眺めた。
 北島泰史という講師のプロフィールと顔写真が載ったそれには、聖夜のような音痴を直したい人や趣味のカラオケが上手くなるためのコースから、音大受験やプロとして歌う人のための本格的なボイストレーニングのコースまで多岐に分かれていた。
 日にちと料金もきちんと明記されていて、如何わしい印象は受けなかった。何よりレッスンの経験者が良いと勧めるのだし悪い所ではないだろう。…まあ、彼がサクラでなければの話だが。
「でも、安くはないし…カラオケ大会まであと五日しかないし……」
 集中コースなるものもあったが、最低でも一週間コースだ。聖夜の場合、通えても三日だ。
「無理だよな……」
 直らないまでも、一曲歌う。これが最初の目標だった。いくら何でも練習前ほど酷くはない。だったら今のままでも良いような気がしたが、カラオケが楽しくなって来たのも事実だし、出来れば直したいという欲も出て来ていた。それには、大変な思いをしながら付き合ってくれている繁には悪いけれど、このまま素人療法を続けていても直らない気がした。
 自分の練習不足を棚に上げて、効果が出ないと目新しい方法に飛びつくダイエッターのように、聖夜はすっかりボイストレーニングに心を動かされていた。
「なんか、もう、椿さんの事とか考えたくないし……」
 言い訳を呟いて、ずるずるとだらしなくソファに寝転がった。
 椿先輩が気になり出した当初は、繁が休憩中に駆けつけてくれるのが嬉しかった。でも、最近は戻って行く後ろ姿を見送るのが切なくて嫌だった。もっと嫌なのは、あの戻れコールがかかって来る事だ。
 変な妄想に駆られてあれこれ思い悩むと歌う気にもなれないし、練習していると思い込んでいる繁にも申し訳なくて自己嫌悪になる。
「問題は、日にちだよね……」
 プロに習えば、三日でも上達するだろうか。その前に、教えてくれるか分からない。
 う〜んと唸りながらもう一度チラシを読み返し、『その他、日にちなどご相談に乗ります。まずは体験レッスンにお越し下さい』との一文をじっと眺めた。
「休みは水曜日と祝日だけ…明日はやってるんだ。営業時間は10時〜22時まで……」
 呟きながら明日の昼に戻ると言った繁の言葉を思い出し、午前中に電話してみようと決意した。
「聞くのはタダだしね……」
 聖夜は今日初めてすっきりした気分になってソファから立ち上がると、ビールを一息に飲み干してはぁーっと大きく息を吐いた。

「土曜日は予約で一杯なんですけど、ちょうど空きが出来たので、鈴木さん、運がイイです!」
「はあ……」
「鈴木さんは、通われるとしたらカラオケコースですよね……。ご希望は、日曜から三日間集中で……。時間は5時半から大丈夫なんですよね? でしたら、全然大丈夫です〜。来週は夜のコースにも余裕がありますし、この時間でしたらじっくり見てもらえますよ〜〜」
「はあ……」
 狭い打ち合わせブースで、聖夜はキャッチセールスに引っかかった人のように、『どうしよう、どうしよう』と怯えながら受付嬢の質問に答えていた。
 別にひっかかった訳ではない。自ら電話をかけてここに来た。でも見学もしないうちに『入る』だなんて決められない。なのに、客あしらいに長けた受付嬢のペースにすっかり嵌って、どんどん話が進んでしまっていた。
 昨夜決めた通り、聖夜は朝早めに起きて朝食をとると掃除と洗濯を済ませ、10時きっかりに『北島泰史ボイストレーニング・クラス』に電話をかけた。
 チラシを見て電話をかけた事、カラオケコースに興味があるが、まず見学がしたいと伝えると、希望日を聞かれた。出来るだけ近々にと伝えると、「では、本日11時からいかがですか?」と聞かれ、繁が帰る時間が気になってどうしようか迷ったが、所要時間は30分くらいだと言うので「行きます」と返答しすぐに家を出たのだった。
 場所は代々木駅のすぐ側で、音楽に疎い聖夜は知らなかったが、老舗の楽器店が所有するビルの5階にあった。家からは50分かかったが、職場からは20分くらいで通うにはいい距離だ。
 乳白色のガラスの自動扉が開くと、すぐに受付嬢がふんわりとした笑顔を浮かべて迎えてくれた。見学の予約をした者ですと告げると、「鈴木様ですね。本日はご来店ありがとうございます」と言って衝立てで仕切られたブースへ案内された。受付嬢はお茶とファイルのような物を持って来ると、契約書のような紙を差し出し聖夜に住所と連絡先を書かせた。
「では早速ですが、当スクールのシステムとレッスンについてご説明致します」
 そうして延々と受付嬢の説明は続き、気がつけばカード払いか、現金払いかの話にまで入っている状態だった。
「あの、け、見学は……」
 女性が苦手とは言わないが、押しが強い感じの人に聖夜は弱い。勇気を振り絞って口を開くと、背後から「いや〜〜、お待たせして申し訳ありませんでした。ちょっと前のレッスンが押しちゃいましてねー」と良く通る声がした。
 驚いて振り向くと、チラシに載っていた男性が爽やかな笑顔を浮かべて立っていた。実物は写真よりも少し老けていたが、その分指導者らしい貫禄があって、しかも断然男振りが良かった。
「こちらが、北島泰史先生です」
 受付嬢の紹介を受けて、男性は「北島です。どうぞよろしくお願いします」と挨拶した。見惚れていた聖夜は慌てて立ち上がり「鈴木です。今日はよろしくお願いします」と頭を下げた。
「先生、鈴木さんのカルテです。では鈴木さん、帰りに先生からこのファイルを受け取って、受付へお越し下さい」
 受付嬢は微笑みながら、まるで看護士のような台詞を言ってファイルを北島へ渡した。
 北島はファイルを受け取ると「では、鈴木さん、レッスン室へご案内しますね」と先に立って丸い窓のついた扉へ向かい、聖夜は慌ててその跡を追いかけた。
 レッスン室の中は板張りで、想像したより広かった。扉を入ってすぐ左の壁一面が鏡張りになっており、歌を歌うためというよりもダンスのレッスン場のようだった。正面奥は一面窓で明るかったが、白地の薄いカーテンがかかっていて窓の外は見えなかった。そして、そのカーテンに緩められた日差しを浴びてグランドピアノが鎮座していた。
「鈴木さん、こちらへどうぞ」
 ぼうっと室内を眺めていた聖夜を、北島が右の壁際に寄せた大きなソファに案内した。
 てっきりピアノの側へ連れて行かれるかとドキドキしていたので、少し拍子抜けして「失礼します」とソファへ腰掛けた。
「鈴木さん、飲みものコーヒーでいいですか? 紅茶もありますけど」と聞かれ、「あっ、コーヒーで…」と答えると、北島は隅に置かれた小型の冷蔵庫の上のコーヒーサーバーから紙コップに注いで聖夜に手渡した。それからピアノの側にあったキャスター付きの丸イスを転がして来ると聖夜の前に腰掛けた。ゆったりと組んだ足は長く、丸イスが小さく感じた。
 北島は膝の上でファイルを開くと、受付嬢が書いた聖夜の情報にざっと目を通しながら口を開いた。
「あ、砂糖とミルクは、テーブルの籠から取って使ってくださいね。えっと、鈴木さんは…三日間集中との事ですが、四日後くらいにカラオケ大会とかあるんですか?」
「あっ、そうです……」
 それは受付嬢に言わなかった筈だけどと不思議に思いながら答えると、北島はニヤッと笑って、「集中してお願いしますって人、結構多いんですよ。そういう人は、みんな鈴木さんと同じ理由です。カラオケ、苦手なんですか?」と聞いた。
「はい。苦手っていうか、その……」
 聖夜が言い淀んでいると、北島は優しく微笑みながら聖夜が答えるのをじっと待っている。
 真っすぐに見つめる北島の顔を眺めて、聖夜はつくづくハンサムな人だと思った。こんなカッコイイ先生に音痴だと言うのは気が引ける。だけど、恥ずかしがった所で、レッスンを受ければすぐに分かってしまうのだからと、腹を括って告白した。
「僕は、音痴なんです。14日に職場のカラオケ大会があるんですが、どうしても出なくちゃならなくて…。これまで友人がネットで色々調べてくれた方法で、カラオケボックスで練習してたんですが、あまり改善されなくて、こちらに伺いました。もちろん、三日で音痴を直そうなんて思ってないです。せめて一曲、きちんと歌いきりたいんです」
「…そうですね、三日で音痴を直すのは無理ですが、歌えるようにはなります。参考までに、どんな練習をされていたか教えていただけますか?」
 聖夜は繁が考えてくれたメニューを説明した。
 繁はネットで音痴について調べ上げ、聖夜の場合は音を正しく『認識できる』が、『再現できない』“ 運動性 ” 音痴と判断し、無理なく声を出せるようにする事と、音に慣れる事に重点に置く方法を考えた。
 まず、選曲した一青窈の『ハナミズキ』を毎日繰り返し聞き込ませ、実践では喉が動くように、やはりネットで調べた呼吸法でウォーミングアップをした後、聖夜の歌いやすいキーに直して『ハナミズキ』を一緒に歌い、その後は一人で歌う事を繰り返させた。
「ああ、割り箸とストローね…。他にも、ピンポン玉やティッシュを使う方法なんかも出てたでしょう? うちではやりませんが、声帯を広げたり腹式呼吸を意識するには、どれも良い方法だと思います。選曲した『ハナミズキ』は、鈴木さんには少しキーが高いと思いますから、音域を下げるのは有効な手です。ご友人は、なかなかカラオケ通のようですね。それで、改善されなかったんですか?」
「ある程度は良くなった気がするんですけど、やっぱりサビで音を外しますし…。友人は良くなったと言ってますけど、自分ではよく分からなくて……」
「そうですか。じゃあ、ちょっと歌ってみましょうか?」
「うっ……」
 聖夜は顔を引きつらせて北島を見つめた。チラシに『体験レッスン』と出ていたから一応覚悟はして来たのだが、このハンサムな先生に音痴な歌を聞かれるのだと思ったら、一気に心拍数が跳ね上がった。
 余程強張った顔をしていたのか、北島は聖夜の顔を見て目を見張ったが、すぐに優しく微笑むと
「じゃあ、鈴木さん、今日は僕とお喋りしましょうか?」と言った。
「は?」
 今度は聖夜が目を丸くする番だった。歌う代わりに何でお喋りするのだろうか。
「鈴木さん、今、すごく緊張しているでしょう? そりゃそうですよね。いくら習いに来たと言っても、よく知りもしない僕の前で、いきなり歌えって言われたら緊張するのは当たり前です。そして、その緊張が “ 運動性 ” 音痴の人の大敵なんです。恥ずかしいとか、せっかく練習したのに失敗しないだろうか、とか緊張し過ぎて喉の筋肉が収縮しちゃうんです。
 そうなったら、誰だって上手く歌えません。じゃあ、その緊張をなくすにはどうするか? それはもう慣れるしかありません。プロだって、場数を踏んで上手くなって行くんですよ。だから、まず僕の前で緊張しないために、残りの…30分かな…で、お互いの事を理解し合いましょう」
「はあ……」
 理解し合いましょうと言われても、何を話せばいいのかと気のない返事をしてしまう。北島はファイルを閉じるとその上に両手を組んで聖夜に微笑みかけた。
「じゃあ、まず、聖夜さんと、名前で呼ばせていただいていいですか? すごく素敵なお名前ですね。12月25日生まれだからですよね。ご両親はロマンチックな方なんですね」
 繁と同じ事を言うと思った。昔は大嫌いな名前だったが、今は繁が愛しげに呼んでくれるから好きになれた。
「ありがとうございます。でも、親がロマンチックかどうかは知りません……」
 昔と違って難なく礼は言えても、それ以上親の話題には触れたくなかった。どう話を繋げていいか分からず口籠ると、北島が続きを引き取った。
「僕の場合は、音楽家からとったみたいですよ。字は違いますけどね。そのおかげか子どもの頃から音楽は好きで、自然とその道を目指しました。音大では声楽科へ入り、最初はテノール歌手になるつもりでした。でも、大学には色んなタイプの学生が集まるでしょう? 影響を受けてフラフラした挙げ句、ミュージカル歌手になるべく劇団へ入りました。でも、やってみるとこれが、歌うのは良くても踊るのが駄目でねぇ……苦痛でした。しばらくは頑張りましたけど……。
 退団した後は俳優をやったり、所属事務所の人に頼まれて曲をかいたり、色んな事してましたね。特別売れはしないけど、それでも十分食べて行けました。恩師曰く、僕は器用貧乏だそうですよ。だから、どれも片手間な感じで、これって実感がないまま生きてる感じでした……」
 思いがけない挫折の打ち明け話に驚きながらも、共感をもって聞き入った。
 北島には常人にはない華やかな雰囲気が漂っていたが、やはりそういう世界にいた人だからかと納得がいった。聖夜から見れば、繁も北島も他人より抜きん出ていて、生き生きと輝いて見えるのだが、どんな人でも生きる上での悩みは尽きないものなのだ。
「そんな時にね、事務所の新人タレントの曲をかかされて、おまけに歌の指導までまかされちゃって。初めは嫌々でした。だって、それこそ正真正銘の “ 感覚性 ” 音痴だったんですよ。
 今なら別ですが、どう指導していいかさえも分からないし、とんでもないの押し付けられたと思ってね。いつものように簡単に匙を投げようとした時、その子に頼み込まれたんですよ。どうしても音痴を直したいから手助けしてくれって。その子、本当は歌手になりたかったんですね。
 でも、音痴なのを認識してから諦めて、タレントを目指して頑張ったんだそうです。そして、幸運にも歌手デビューのチャンスが廻って来た。だから必死でした。彼女の本当の夢が懸かってましたからね。その真剣さに引きずられて、知らないうちに僕も必死で教えてました。与えられた時間は三ヶ月でしたから。
 彼女が初めて人前で歌った時、僕は初めて充実感を知りました。彼女に『ありがとう』と感謝された時、やっと自分の道が見えた気がしたんです。これが僕の使命なんじゃないかって……。何だか大げさですけどね」
「いいえ。天職があるって、羨ましいです……」
 照れたように笑う北島の顔が子どもっぽく見えて、聖夜も微笑むと北島が身を乗り出すようにして
「聖夜さんも、きっと見つかりますよ」と言った。
「えっ? 天職が、ですか?」
「う〜ん、天職っていうより、生き甲斐かな。やっぱり大げさに聞こえると思うけど、音痴が直るとね、見つけられるんですよ」
 それはさすがに嘘だろうと思った。聖夜が困ったように笑うと、北島は「嘘じゃないですよ」と悪戯っ子のような顔で自慢げに言った。
「うちでレッスンを受けられた人は、来た時と終わった時とじゃ、別人になっちゃうんです。音痴を克服した事で気持ちに自信がつくんでしょうね。色んな事に積極的になれるみたいで、みなさんよく『今、こんな事やってます!』って楽しそうなメールをくださいますよ」
 聖夜はここのチラシをくれた店員が、急に饒舌になった時の顔を思い出した。彼も聖夜と同じように客商売の割に人に話しかけるのは苦手な方だろう。だけど、ここへ通って変わったのだと、確かに本人もそう言っていた。
 別人…とは言い切れないまでも、繁に出会ってから自分でも良い方へ変わったと思っている。仕事も前向きになったし、人と関わり合うのを厭わなくなった。それは職場の人も驚くほどで、しょっちゅう『彼女ができたからだろう?』と冷やかされている。
 これまでの聖夜は、生き甲斐など考えてみた事もなかった。自分のつまらない人生にそんなもの見つけようもなかったからだ。でも、今なら迷わず繁の存在だと答えられる。繁が灰色だった聖夜の世界に色を与えてくれた。だから自分も彼の人生がいつも明るく美しくあるように、光を与える存在でありたい。
 それには、今のままでは駄目なのだ。前向きになればなるほど、自分に足りない物を自覚するようになった。見かけによらず不器用でスマートに物事を熟(こな)せない。なのに自尊心が強いから空回りする事が多くなった。
 努力が足りないと言ってしまえばそれまでだが、何より自分に自信が持てなかったから、今ひとつ腰が引けていて、つまらない事で思い悩んだり、疑心暗鬼になって繁を困らせてばかりいる。そんな自分が嫌だった。変わらなければ、いつかきっと自分で自分の幸せを壊してしまうだろう。
 歌えるようになったら、自信が持てるだろうか。あの彼みたいに、自分が変わったと言い切れるようになるだろうか。
「あの、明日から、レッスンお願いできるでしょうか?」
 聖夜は決心したようにそう言うと、「僕はすっかりその気でしたよ」と北島は微笑んだ。
「だから、三日後に聖夜さんがどんな風に変わるか、今からすごく楽しみです。ああ、また僕ばっかり話してますね。すいません。今度は聖夜さんの事を聞かせてください。じゃあ、まず、お仕事から!」
 こうして聞き上手な北島に乗せられて、口の重い聖夜があれよあれよと仕事の愚痴から恋人がどんな人か(さすがに男だとは言ってない)まで白状させられていた。押しつけがましい感じのない北島とのお喋りは楽しくて、あっという間に約束の時間を超過していたのを、受付嬢がノックをするまで気がつかないほどだった。慌てて時計を見れば既に12時半を回っていた。
「じゃあ、明日は動きやすい服装で来てくださいね」
 北島に見送られて受付嬢とレッスン室を出ると、聖夜はさっそく受付で入会金を支払った。受付嬢は聖夜に会員証と規約書やテキストの入った封筒を手渡しながら「北島先生の体験レッスン、いかがでしたか?」と聞いた。
「あ…レッスンは受けてないです。お喋りしてしまって……」
「それも北島先生のレッスンの一つですよ。いきなり歌う時もありますけどね。受けるコースにもよりますが、最初は大抵カウンセリングをなさるんです。普通の音楽の先生とは、ちょっと違ってますよね。でも、北島先生って素敵でしょう? レッスンが終わる頃には、みんな先生を好きになっちゃうんですよ〜〜」
 若い女の人らしいミーハーな面を覗かせる受付嬢にちょっと苦笑いしながら、「そうですね」と頷いた。
「鈴木さんも気をつけてくださいね〜。では、明日は日曜日ですし、授業料は月曜日でも、火曜日でも構いませんから。明日から頑張ってくださいね!」
 受付嬢の営業スマイルに見送られてエレベーターに乗った聖夜は、「あれ?」と引っかかるものを感じたが、すぐにもう繁が帰っているだろう事を思い出し、慌ててマンションへと帰ったのだった。

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