INDEX NOVEL

忘れられないホワイトデー
愛の音痴克服法 〈 繁 編 〉

※ 性描写があります。未成年の方はお読みにならないでください。

 カラオケボックスの薄暗い密室で、鈴木聖夜(すずきせいや)はモニターに映る歌詞を必死に目で追いながら、電子音の軽快なメロディーに合わせて声を張り上げていた。
 傍らでその姿を見守る野原繁(のはらしげる)は、こちらも必死で口元を押さえていた。眉間にシワを寄せ真剣な眼差しで見つめてはいるが、聖夜が音を外すたびどうしたって肩が震えてしまう。
 聖夜はもちろん気づいていないが、もしここで笑っているのがバレたりしたら、指が白くなるほど握り締めているマイクで繁の頭を殴りつけ、部屋を飛び出して行きかねない。
「絶対に人前で歌うのは嫌だ!!」と言い張るのを宥め賺(すか)して歌わせているのだから、ここは絶対に耐えなければ。それにしても…と繁は心の内で嘆息した。
 歌う前に「ヒドイから、吃驚するなよ!」と言われて覚悟はしていたけれど、本人も言っていた通りの音痴ぶりに、別な意味で惚れ直してしまった繁だった。

 ひょんな事から隣人の聖夜と同居するようになった繁は、男なのに『奇麗』という形容詞がぴったりの、このゲイの公務員に惚れ込んでしまい、半ば強引に関係をもつようになった。その後も、身体だけじゃなく正式な恋人になりたいと迫り倒してその座を射止め、交際2年目の12月にプロポーズして心身ともにパートナーになった。
 けれど、繁は聖夜を自分のものにしたという実感が薄かった。
 理由は色々あるが、一番気にしているのは、聖夜が自らの事をあまり話してくれない事だった。否、聞けば何でも答えてくれる。でも、あまり突っ込んだ所まで根掘り葉掘り聞き出すのは躊躇われるもので、未だに知らない事の方が多い。だから、聖夜が音痴だなんて、つい最近まで知らなかった。
 もっとも、誰だって自分の恥は隠しておきたいに決まっているから、繁が知らなかったのは当然の事で、それが発覚したのは、聖夜の手作りチョコをめぐって一悶着起きた、バレンタイン騒動の余波によるものだった。
 事の起こりは先月のバレンタイン直前、聖夜は同僚の女性から「バレンタインのお返しに何かお菓子を作って来てよ!」と言われ、仕方なく職場の女性たち全員に手作りチョコレートを作った。その中にはもちろん繁の分も含まれていたが、繁は自分以外の人にもあげるのだと知って逆上し、本当に自分が好きなのか聖夜の気持ちを見せてみろと、強迫的にチョコレート・プレイに及んでしまったのだった。
 すっきりしてしまえば、あんなに怒るような事でもないよな…と自己嫌悪に陥る繁だが、何しろ聖夜を手に入れた感が薄い上に、聖夜がまた伴侶としての自覚に欠ける気がする。
 プロポーズした時に贈ったエンゲージリングも、あの時以来タンスの引き出しに仕舞われたままだし、自分の嫉妬深さはぜんぶ聖夜に起因しているのだ、と自己弁護もしたくなる。
 それでも、聖夜は繁が医師国家試験に合格したらリングを着けてくれると約束し、職場の人には事実婚してますと言う…とも言ってくれた。とは言え、簡単に断れただろうチョコレートのお返しも断れなかった聖夜の性格では、たぶん無理だろうと思っている。
 まあこうして、二人の間に色々あっても雨降って地固まるで、バレンタイン翌日の医師国家試験の最終日も、すっきりした気分で終えられて、気分よくマンションへ帰って来ると、繁とは反対に聖夜がどんよりした様子で出迎えた。
 そう言えば、今日、例のチョコレートを配ったはずだな、と心配して「また何かあったの?」と聞くと、「何でもない…」と首を振る。そんな悄気ているくせに、また自分に隠し事をするつもりかと、いけないと思いつつむかっ腹が立って、「何でもない訳ないでしょう? 昨日の今日なのに!」と問いつめると、聖夜は渋々「カラオケ大会が…」と意味不明の返事をした。
 どういう事かと無理矢理くわしく訊き出すと、その日、職場の女性たちには手作りチョコを喜んでもらえたのは良かったが、男性職員から「どうして俺たちの分はないの?」と詰め寄られ、いつも不参加を決め込んでいたホワイトデーの日に行われるカラオケ大会に、参加するよう強要されたと言うのだ。
 繁はきょとんとしてしまった。あんまり落ち込んでいるから、てっきりこの騒動の元凶である同僚の女性(どうやら聖夜に気がある)に自分たちの事を打ち明けて、逆上した彼女に心ない事でも言われたのかと思ったのだ。
「何だ、そんな事か…」
 思わず呟いてしまったら、聖夜の眉毛がピクリと動いて、空気がピキッと氷ついた。
 地雷を踏んだと気づきはしたが、たかがカラオケ大会に参加を強要されたくらいで、どうしてここまで暗くなるのか訳が分からない。
「だって、カラオケでしょう? 嫌いなのかも知れないけど、人間関係なんだし、一回くらい出てみたら? 俺も聖夜さんの歌、聞いてみたいよ?」
 そう言うと、聖夜は、きっ、と睨んで口の中で何か唸った。
「お……なんだよ……」
 あまりに小さい声だったので聞き取れず「え?」と聞き返したら、涙目で怒鳴られた。
「オ・ン・チ、なんだよっっ!!」
「ええええっ?」
 繁は驚いて大きな声を出してしまい、聖夜に余計睨まれた。慌てて口元を押さえながら取り繕うように「そ、そうなの?」と何とか言葉を返した。
「そうなの! だから、歌うの嫌なんだよ!」
 聖夜はテーブルに頬杖をつくと、不貞腐れたようにそっぽを向いた。
「それって…、職場の人は知ってるの?」
 確かに音痴なら人前で歌うのは嫌だろうし、もし知ってて無理に誘われたなら、嫌がらせかパワハラかも…と心配になって尋ねると、「いや、誰も知らないよ。俺はここ10年来、人前で歌った事ないから」と疑念を否定した。
 繁は首を傾げた。10年来と言う事は、17、8歳の時は歌っていたのか?
「ねえ、昔から…そうだったの? 音楽の時間とかは、どうしてたの?」
「子どもの頃は、自分が音痴だなんて知らなかったよ。中学の時も、歌のテストがあった訳じゃないし、合唱なんてパートごとに分かれるから、ソプラノじゃない限り音程が少し変でも分からないじゃん。高校生になってからは、音楽は選択しなかったし」
「じゃあ、どうして自分が音痴だって気づいたの?」
「高校の時に…言われたんだよ。初めて行ったカラオケで、『お前、音痴だなぁ』って…」
「誰が言ったの? そんな酷い事!」
 心ない事を言うヤツだと、繁は自分の事のようにムッとして言った。それに、話を聞きながら『これはまた例の思い込みでは?』と感じていた。
 クリスマスが誕生日の聖夜は、自分の母親が『クリスマスの売れ残り』を誕生日のケーキとして買って来ていると、何の根拠もないのに長年思い込んでいたような人だ。きっと、そいつの耳がおかしかったのに、「音痴だ」と言われて自分でもそうだと信じ込んでいるのじゃないだろうか。
 でも、目の前の聖夜はちょっと困ったような顔をして、「誰って…」と口籠っている。少なくとも、『音痴』と言った相手に恨みを抱いてはいないようだ。
 繁は聖夜の態度に引っかかるものを感じて「誰、その人…」と詰め寄ると、聖夜は都合の悪い事を誤摩化す時のように声を荒げた。
「誰だっていいよ! それに、そんなに酷いって事もないんだ。『俺の前ならいくら下手に歌ってもいいぞ。もう分かってるんだから』って言ってくれたし…」
 そのムキになって言い返す姿に、繁はピンと来てしまった。
「それってさあ…」
『高校の時付き合ってた人?』と続けようとしたのを、聖夜が突然立ち上がって「いい、いい! カラオケ大会は仮病使って欠席するからいい!!」と、喚きながらトイレに逃げ込んでしまったので、結局そのまま聞けず仕舞いだった。

 それからずっと、繁はその相手の事が気になって気になって仕方がなかった。同居したばかりの頃、聞いた事があったのだ。初めて付き合った男性は高校の時の先輩だったと。
 聖夜はあの時、その人だとはひと言も言っていないが、音痴呼ばわりしても庇ってしまう相手って、どう考えてもそうだろうと決めつけて、疾っくの昔に別れてしまっている元カレに、猛烈な嫉妬を抱いた。
 そいつは音痴だと知っているのに、自分が知らなかったのが許せない。だから、聖夜がどれほどの音痴なのか確かめたくて、多少の罪悪感はあったものの、聖夜が役所の仕事を終えた時間を見計らって誘い出し、食事をしようと騙してカラオケボックスへ連れ込んだのだ。
 そして、本当に音痴なのを知っても、冷や汗をかきかき赤い顔で真剣に歌う聖夜を見て、幻滅よりも愛おしさが込み上げた。
 聖夜は何でもそつ無くこなせそうに見えるが、実際は割と不器用で外見と中身のギャップが激しい。それは本人も自覚していて、他人(ひと)に幻滅されるのを恐れるあまり、深い関わりを避けるように生きて来たようだ。しかし、そもそも聖夜が人と交わろうとしなくなったのは、失恋の痛手から人間不信に陥ったから……らしいのだが、その辺は打ち明けてくれないのでよく分からない。
 ともかく、繁と出会う前までは当たらず障らずで押し通し、しつこい輩は冷たい言葉で切って捨てる。そうして、見た目通りの体裁を繕っていたようだ。
 繁も最初は冷たくあしらわれた。否、今も上手くあしらわれている気がする。負けじとしつこく頑張ってはいるが、長く身に付いたスタンスは、そう変わるものではないらしい。
 だから、こんな無様な姿を曝したくなかっただろうに、自分の願いを聞き入れて歌ってくれたのが嬉しかった。見せたくない所を自分に見せてくれる聖夜に、惚れ直してしまったなどと言えば、きっと呆れられてしまうから言いやしないけれど。
 聖夜の歌は最後のサビの部分にかかっていた。低音から高音に変わる所で見事に声が裏返ってしまい、慌てて合わせようとするから余計に外れてしまう。音を追っかけるのが精一杯で、まるでお経を唱えているような状態になった時、ノックと共にガチャッとドアが開いて店員がソフトドリンクを持って入って来た。
「失礼しま〜す! ドリンクお持ちしました〜」
「かっ!」
 聖夜は声を飲み込んで硬直した。
 メロディだけが流れる気まずい空気の中、店員は慣れてるとばかりに顔色一つ変えず、ドリンクの名前を言いながらグラスをテーブルに置くと、「ごゆっくりどうぞ〜」と常套句を告げて去って行った。
 店員が出て行くと同時に曲が終わってしまい、聖夜は緊張が切れてどっとソファに座り込んだ。繁は気遣うようにドリンクにストローを差して「はい」と差し出したが、聖夜は魂が抜けたように背もたれに仰け反って動かなかった。
「……笑いたいなら笑っていいから」
「聖夜さん…」
「もう、最悪だ…。カラオケしなくてすむように、会場のスナックに火をつけたいくらいだ……」
「こ、怖いこと言わないでよ。それに、聖夜さんが思うほど酷くなかったよ。そんなに音外れてなかったし…」
「嘘つけ…。別に、気を使わなくてもいいよ」
「本当だよ!」
 横目で見ている聖夜に繁は強く頷いて説明した。聖夜は確かに音痴なのだろうが、音程はそれほど狂っていなかった。大体、カラオケで歌うのは2、3回目だと言うし、何度も聞いている曲でも歌うのは初めてだったら上手くなくて当然だ。
 それに、選んだ曲が聖夜の音域に合っていなかったせいもある。高いキーの時に発声が追いつかず、一旦狂い出すと慌てるものだからガタガタと総崩れになるのだ。
「聖夜さんの音痴は、きっとすぐ直ると思うよ!」
 繁はそう力説し、カラオケ大会の日までに特訓しようと提案した。元カレは音痴を容認しただけで終わっているが、自分は一歩進んで聖夜の弱点を克服させてやろうと思ったのだ。
 けれど聖夜は、「もう一ヶ月もないのに、直るものなの? 大体、どうやって直すの?」と半信半疑だ。
「方法は……後でネットで検索してみるよ。素人療法だし、確かに時間がないから、完全に直すのは難しいかも知れないけど、せめて一曲だけでも歌いきれるようにしておけば、カラオケ大会に出るのがそんなに嫌だと思わなくて済むでしょう?」
 熱心な繁の様子に、聖夜はちょっと考え込んでから、「そうだね…。直せるものなら直したいし、ちゃんと歌ってみたいし…」と頷いた。
「じゃあ、どの曲にするか決めようか」
 繁は内心でガッツポーズを取りながら、いそいそと分厚い歌本を広げて聖夜に差し出した。歌にはちょっと自信があったから、どんな歌でもドンと来いだとさり気なく胸を張った。
 何しろ聖夜と付き合う前、仲間内では合コンの二次会カラオケの帝王と呼ばれていた。ちょっといいなと思う娘の隣りで、相手の目を見つめながらバラードなんて歌おうものなら、その日のお持ち帰りは簡単だった。もちろんこれは、口が裂けても聖夜には言えないが。
「ありがとう…」
 聖夜は歌本を受け取りながら、照れたような微笑みを浮かべて繁を見つめた。『ああ、俺の好きな表情(かお)だ〜』と胸がきゅっとなって思わず「好き…」と呟いてしまった。
「えっ?」
「あっ! いや、聖夜さんの好きな歌手って、誰かなと思って。クラシックが好きなのは知ってるけど、歌謡曲って本当に全然聞かないの?」
「ああ、うん。俺は今の音楽には興味がなくて、新しい歌手の人ってほとんど知らないんだ。さっき歌ったのも、昔よく聞いたから知ってただけで…。繁、あの人たちのアルバム持ってるだろう? それで思い出したから歌ってみたけど…」
 そんなんじゃ歌えないよねと苦笑いする聖夜に、繁は自分のCDの棚を思い浮かべた。
 忘れていたけれど、確かにそのアーティストのベストアルバムを1枚だけ持っていたのを思い出した。割と古くからいるベテランのグループでヒット曲も多いが、繁が一番音楽を聞いていた中高校時代、そのグループは活動を休止していたから繁にとってリアルなアーティストではなかった。
「もしかして、このグループと同じ年代のアーティストなら分かるの?」
 そらなら、上手く教えられないかも知れないと青くなった。
「うん…。でも、もっと古い人の方が分かるかな…」
「もっと古い人!?」
 もしかして、『がぐや姫』辺りか? それなら何とかなるぞと思っていると、聖夜は歌本をペラペラめくりながら、好きな歌手と歌を列挙した。

崎谷健次郎 『もう一度夜を止めて』(1987)
中西圭三 『眠れぬ想い』(1993)
中西保志 『最後の雨』(1992)
尾崎豊 『I Love You』(1991)
B'z 『いつかのメリークリスマス』(1992)

 そして最後に、「ああ、懐かしいな…」とため息を吐きながら、稲垣潤一の『ブルージン・ピエロ』(1985)を挙げた。
「うっ、ほとんど知らないのばっかりだ…」
 どれもヒットした曲なので耳にした事はあるはずだが、歌った事は一度もない。最後の『ブルージン・ピエロ』に至っては聞いた事もなかった。帰ったらYouTubeにアップされていないか見てみようなどと考えていると、聖夜は懐かしそうに微笑んだ。
「そうだろうね…。みんな80〜90年代の古い歌ばかりだから」
 その切なそうな表情に、繁は胸がざわつくのを覚えた。80〜90年代の曲って言ったら、40代のオジサンがバブルを懐かしんで歌うのばかりだろう。聖夜さんって、もしかして不倫とかもしてた?
「ねぇ、これみんな、ホントに聖夜さんが好きな歌なの?」
 訝しげに聞くと、聖夜はぎくりとして目を泳がせた。『えっ! ビンゴ!?』と繁は逆上して聖夜に掴みかかった。
「聖夜さん、やっぱり不倫してたの!?」
 突拍子もない考えのようだが、聖夜はその清楚な見た目と違って、性的にはかなり奔放な生活を送って来たらしいのだ。男遍歴全てを知っている訳ではないが、同居を始めたきっかけがストーカー男から匿うためだったのだから、不倫の一つや二つはやってておかしくない。聖夜の肩を掴んで激しく揺さぶると、聖夜は吃驚した顔をして「繁、ちょっ、落ち着いて!」と叫んだ。
「何で俺が不倫するんだよ!?」
「だって、今挙げた歌ってみんな古過ぎるし、聖夜さんの好みだと思えない! 全部オヤジが好きそうな歌ばっかりじゃないか!」
「だから、不倫? お前の思考回路って、どうなってるんだよ!?」
 聖夜は呆れた顔で繁を見たが、ため息を吐いて「確かに、俺が好きって訳じゃないよ…」と白状した。
「やっぱり〜」
「でも、不倫なんかしてないよ! 全部、その……」
「その…、何?」
「…前にちょっと話したけど、音痴だって言った人が、よく歌ってたんだ」
「それって、聖夜さんが初めて付き合った人?」
 聖夜は少し躊躇していたが、「うん…」と頷いた。
「でも、もう昔の――」
「却下!!」
「えっ?」
「さっきの曲は全部却下。俺が選ぶ!」
 繁はムッとして告げると乱暴に歌本をめくって曲を探し始めた。聖夜は何か言いたそうにしていたが、困った顔をして黙り込んだ。
 繁はそれほど腹を立てた訳ではないが、不安になってしまったのだ。音痴呼ばわりした先輩は聖夜の初めての男で、フラれたと聞いたていたのに、今でもその人が歌った歌を忘れずに覚えているのだ。懐かしいと目を細めた聖夜の顔を思い出し、胸がチクリと痛くなった。
 初めて寝た男の事を女は忘れないって言うけど、男もそうなんだろうか? まあ、自分も覚えてはいるけれど、それほど好きな人ではなかったから今は何の感慨もない。けれど聖夜は、今でも心を残しているのだろうか。
「あっ…」
 ぱらぱらとめくったページに一青窈の『ハナミズキ』(2004)が載っていた。自分ではあまり歌う事はなかったが、ハナミズキは母親が好きな植物だったから、何となく気に入って当時はよく聞いていた。そう言えば、初めて聖夜に会った時、母親に雰囲気が似ているなと思って好感を持ったのだった。
「これにしよう…」
「えっ?」
「これに決めた!」
 繁は一人でうんうん頷くと、『ハナミズキ』の曲番号を入力してマイクを握った。そうして、目をぱちぱちさせて繁の動向を窺っている聖夜に自慢の喉を披露した。二次会の女の子たちにしたように、モニターは歌詞を確認する程度で、後はひたすら聖夜の目を見つめながら熱唱した。
 繁の歌を初めて耳にした聖夜は目を見張り、例に洩れずぽわっとした表情で繁に見蕩れていた。繁はその表情を確認してさっきまでの不安が霧散するのを感じた。
 歌い終わってマイクをテーブルに置くと、「すごい…」とため息まじりに手を叩いている聖夜に向かって、「これを歌おうね」とにっこり微笑んだ。
 聖夜はぎょっとした顔をしたが、繁の機嫌が直った事にほっとした様子で「俺に、歌えるかな…」と呟いた。繁は聖夜の顔を引き寄せてその唇にチュッと素早くキスをした。
 聖夜は目を見開いて硬直していたけれど、恥ずかしそうに俯いただけだった。恥ずかしがりやな上にゲイである事をひた隠しにしているから、いつもなら外では手を繋ぐのすら烈火の如く怒るくせに。拒否しないのは自分の過去に引け目を感じているからだろうか。
 だったら、今日は王様になれるな…と、繁はほくそ笑んだ。今日は木曜日だから、いつもならセックスさせてはもらえないのだけど、押せば何とかなるなるだろう。
 こんな計算をする自分に呆れつつ、気難しい恋人を持つとどうしたって駆け引きに長けてしまうのだよ、と自分に言い訳し、大人しい聖夜の肩を大胆に抱き寄せた。
「絶対、歌えるよ。俺が教えるから大丈夫」と耳元で囁くと、聖夜は目を閉じて自信なさそうに頷いた。

 曲が決まれば用は済んだとカラオケボックスを後にして、その近所のラーメン屋で素早く夕食をとり、部屋に帰ると聖夜を風呂に押し込んだ。そうして一人になると、繁はパソコンを起動して聖夜が挙げた古い曲の検索を開始した。
 はっきり言って、尾崎豊とB'zがかろうじて分かるくらいだった。検索しながらYouTubeにアップされたものを崎谷健次郎、中西圭三、中西保志と順に聞いて行ったが、最後に稲垣潤一の『ブルージン・ピエロ』を検索して絶句した。
「うわっ! これ、俺が生まれる前の歌じゃん。知る訳ないわ…」
 しかも、その歌詞を読んでひどく複雑な気分になった。

君は静かにもう
恋を捨てたのに
僕だけ 知らない

あの時 君は大人で
そして優しくて
バカだな 僕はそのまま
愛を信じてた
いつまでも いつまでも
変わらない 愛を
(作詞 安井かずみ/作曲 加藤和彦)

 見事な失恋ソング。もっとも、これだけじゃなくて、どれもこれも選んだ曲全てそうなのだが。
 聖夜が好きだった先輩は、一体どんなヤツだったのだろうと思った。聖夜と繁は三つしか違わないから、そのオヤジ趣味の懐メロ野郎とだってそれほど年齢は変わらないはずだ。
「それにしたって、失恋した相手が好きな歌、なんだよなぁ…」
 繁は聖夜の気持ちを計りかねた。納得尽で別れたにしても、敢えて聞きたいと思うだろうか。
 その辺は、一度も失恋した事がない繁には理解できなかった。正確に言うなら、それほど人を好きになった事がないから、失恋した事もない…だけの話だが。
 繁の恋愛は、いつも相手から告白されて、何となく付き合って、いつの間にか自然消滅している。そんなだから白黒はっきりしないうちに、相手の子が別の男と仲睦まじくしているのを目撃しても、「ああ、またか…」と思うだけで腹も立たなかった。
 だから、以前聖夜に告げた「結婚したいとか子どもが欲しいとか、そんなの一度も考えた事がない」のは本当だ。そりゃ、セックスするのは気持ちがいいし、女の柔らかい身体も好きだ。でも…。
 初めて、失ったら怖い…と思うほど、聖夜を好きになってしまったのだ。
 どうして男をここまで好きになれたのか、自分でも不思議で仕方がない。でも、恋なんてそんなものだ。『お医者様でも、草津の湯でも』治らないし、医者の端くれのくせに科学で解明不可能な不可思議な事柄を愛して止まない繁にとって、聖夜はこの上もなく相応しい相手だと思っている。
 繁の愛するコレクション同様、発見する時はその物が光り輝いて見えるのだが、聖夜も眩しいほど輝いていた。もちろん男だったから、最初は友だちとして付き合いたいと思ったのだが、夜中に襖の隙間から風呂上がりの聖夜の裸体を覗き見た時、あり得ないほど興奮したのだ。
 信じられなかった。男同士のあれこれを聞きかじって毒されたのだと思い、気の迷いだと確かめたくて、夜中に寝ている聖夜の身体を眺めては、バカみたいに奮い立つ自分の息子に呆れ返った。聖夜の身体は紛れもない男の身体だったが、その辺の普通の男とは違って、ひどく淫らで艶かしく、そして奇麗だった。
 聖夜の事をもっとよく知りたいと思い、寝る前のひと時、聖夜自身の事を色々尋ねてみたけれど、もう一歩踏み込んだ所までは教えてもらえなかった。
 その代わりに、繁がオタクモード全開で語るノストラダムスやマヤ歴などの話を、黙って楽しげに聞いていてくれた。それは、もう訪れる事のない母と過ごした安らぎの時間と重なって、聖夜は繁にとってこの世で最も大切な人になっていた。
 不器用で優しくて可愛い人。それだけ分かっていれば、あとの事はどうだっていいのかも知れない。
 でも、聖夜を誰にも取られたくない、聖夜を心も身体も全部自分のものにしたいという独占欲に終わりはなくて、元カレに想いを残しているのじゃないかと疑い出すと止まらなかった。
 再生が終わった画面をぼうっと眺めていると、後ろから声をかけられた。
「お風呂、上がったよ…」
「あっ、はい!」
 繁は慌ててパソコンの電源を落とし、烏の行水どころじゃない素早さで風呂から上がった。
 ベッドで本を読んでいた聖夜は、「えっ、もう?」と驚きを隠さずにいたが、裸のままベッドに入った繁が腰を押し付けるとすぐにそれと察して諦めたのか、いつもなら「まだ1日あるんだけど? 俺は腰を庇いながら仕事をしたくない」とめくじらを立てるのに、「あんまり激しくすんなよ…」と言っただけだった。
 繁はして遣ったりの展開に満足しながら「うん(自信ないけど)…」と頷いて、聖夜の唇を貪った。歯列をなぞり裏顎から唇から嘗め尽くして舌を絡め取ると、聖夜はもう喘ぐだけの従順なお人形になってしまう。
 フェラなどさせたら相手を昇天させるテクニックの持ち主だが、何故かディープキスをした事が少ないんだそうで、それを知ってからは聖夜を大人しくさせたい時は深いキスから入る事にしていた。
 パジャマを脱がせ、しどけない聖夜を見下ろす。白く奇麗な筋肉がついた胸が喘ぎに合わせて上下している。小さな乳首がぷっくりと立ち上がって、早く触ってと誘っているようだ。目線を下げれば、子振りの雄蕊も先端に露の玉を光らせて誘うように揺れている。
 繁は生唾を飲み込むと、逸る気持ちを抑えてローションを手に落として温め、手に満遍なく塗り広げて聖夜の陰茎を先端からなで下ろした。
「んっ、あぁ…ん……」
 無意識に閉じようとする足を広げて後ろの窄まりを開かせると、慣れた仕草で指を滑り込ませた。何度切り拓いても神秘の器官は緩む事がなくて、畏怖の念を感じながら解し始める。
「あっ、あっ、ぁ……」
 指の動きに合わせて喘ぎを洩らす、形の良い唇の端から流れた唾液を嘗めとって、そのまま聖夜の身体に唇を這わせて所有の印を残していく。後で正気に戻ったら文句の一つも言われるだろうが、こればっかりは楽しみの一つだから止められない。
 小さな胸の頂きに辿り着き吸い付きながら舌先で転がして愛撫する。関係を持つようになった当初は、ここを弄ると「感じない」と言って聖夜は不機嫌になった。女性しか抱いた事がなかったから無意識に求めてしまう場所だったけれど、聖夜は感じないのじゃなくて、そんな風に女性と同じ扱いをされる事が堪らなかったらしい。
 それでも、性感帯の一つなんだと力説しセックスの度にしつこく弄くっていたら、やっぱり感じるようになったらしい。絶対口には出さないけれど、腹に当たっている雄蕊から溢れる先走りの量が、さっきより全然違うのだから間違いない。
 わざと腹に挟んで擦り上げると、聖夜は仰け反りながら小さな悲鳴を上げて「や、だぁ…」と呻いた。
 嫌だと言われたら、余計に攻めたくなるのが心情だろう。でも、繁がここまでしつこく前戯や愛撫をするのは聖夜だけだ。
 そう言いたいけれど、下手に女性との事を口にしたら、また泣かれてしまいそうで言えなかった。だったら、態度で分からせるしかないではないか。
 繁は身体を起こして張り詰めた聖夜のそれを握ると、聖夜の腹に押し付けるように扱き上げた。
「やっ、ああ…っ、しげる、やぁ…だぁ……」
 泣きながら逃げを打つ身体に乗り上げて押さえつけながら、もう一本指を窄まりに挿入し、拡張しながら感じる場所を攻め立てた。雄蕊へは親指と人差し指で作った輪をカリに引っ掛けて刺激しながら、残りの指で弱いヘソの下をマッサージするように撫で擦る。
「やっ、あぁっ! あっ、あっ、しげる…いっ、く…うっ!」
 前から後ろから、泣き所を突かれているのだから当然だろう。逃げられずに背を撓(しな)らせて痙攣しながら射精に耐える聖夜をうっとりと眺める。指に絡み付くような粘膜の動きに、これから味わえるだろう最高の感触を思い出したからだ。
「聖夜さん…挿れて、いい?」
 耳殻を嘗めながら囁くと、聖夜はぶるっと震えて「…いれ、て……」と熱い吐息で囁いて繁を見上げた。その上気した誘う表情に、繁は唾を飲み込むと吹っ飛びそうな理性を繋ぎ止めて、担ぎ上げた聖夜の足の間に真っ赤な怒張の塊を宛てがった。ゆっくりと蕩けそうなほどに柔らかく、それでいて弾力の効いた聖夜の身体に入り込む。
「うっ、あっ、あぁっ……」
 思わず声が出る。挿入しながら聖夜の前を焦れったい位やんわり指で扱いてやると、体内を穿ちながら進む繁のものに、きゅうっと粘膜が絡み付いてくる。ざっ、と鳥肌が立って震えが走った。
 こんなの他では味わった事がない。出来るなら毎日したいと思うほど、繁はもうこの身体の虜だった。
「あぁ…きもち、いいよ…聖夜さん…」
 キスしたくて聖夜に顔を寄せると、はずみでそのまま根元まですっぽり収まった。受け入れる方はさぞかし苦しいのだろう、聖夜は汗を浮かび上がらせてゆっくりと呼吸を繰り返している。その方がいくらか楽なのだろう。
 聖夜の呼吸を邪魔しないように顔中に触れるだけのキスを落としながら、動くお許しを待っていると聖夜の両手が繁の腰を撫で始めた。確認するように「動くよ?」と聞くと、聖夜は目を閉じたまま頷いた。
 繊細な場所だから傷つけないようにと、ゆっくりと長いストロークで抽送を繰り返したが、理性なんて数秒も持たなかった。もう焦れったくて我慢出来ない。
「っ、はっ、はっ……」
 息を弾ませながら激しく腰を打ち付けると、汗が滴り落ちて聖夜の胸を濡らした。自らの快感だけを追いがちになるが、聖夜の悩ましくも恍惚とした表情を垣間見ては、もっと淫らに善がらせたくて、絶頂が近い印が出ている鈴口を、指先で割るように撫で回した。
「あっ、ん〜〜……はぁ……あぁ……もっと……、もっと、し…て……」
 濡れた赤い唇を開いてもっとと強請る表情が、いつもラ・スペコラ博物館の腹を切り開かれた蝋人形の少女と似ているなと思う。繁はゾクゾクして、聖夜の体内にいる自身が更に膨張するのを感じて自嘲した。変態の自覚は十二分にある。こんな自分を満たしてくれるのは、もう聖夜だけだろう。
「イクよ!」
 そう囁くと、聖夜はコクリと頷いた。聖夜の雄蕊を優しく握り激しく扱き上げた。
「あっ、繁! あっ、あぁぁ……っ」
 聖夜は悲鳴を上げた後、息を詰めて射精した。先端の割れ目から白濁が吹き出す様を繁は満足げに眺めると、その手を離さずに激しく腰を打ち付けた。聖夜は声にならない悲鳴を上げて、敏感になった身体を震わせた。きゅっと尻に力が入り同時にぐっと締め付けられて、繁は一気に弾けるような快感を感じて放出を迎えた。

 情事の後は当然の事ながら、繁が聖夜の身体を奇麗に清めてパジャマを着せ、言われた通りいつもより一時間早く目覚まし時計をセットした。本当なら今すぐ風呂に入りたい所だろうが、聖夜は指一本動かすのも億劫な状態になってしまったから、朝入るしかないのだ。
 時刻は深夜を回っていたが、怠そうにしている聖夜のために、繁はかいがいしく腰を揉んでやっていた。聖夜は組んだ腕の上に顔を載せて、不機嫌そうに目を閉じていた。
「繁…」
「うん、何?」
 繁はビクビクしながら返事をしたが、聖夜は普通の調子で「今度、カラオケで『ブルージン・ピエロ』歌ってよ」と言った。
「いいけど…。よく知らないから、練習しないと歌えないよ」
 戸惑いながら答えると、「うん…。俺も、頑張って『ハナミズキ』歌えるようになるから、繁も歌って?」と微笑んだ。
「その歌…そんなに、好きなの?」
 やっぱり解せないと訝るように訊くと、「失恋した、思い出の曲なんだよ」と聖夜はクスクス笑っている。思わずどきどきして「ええっ?」と聞き返すと、「俺、初めて付き合った先輩とセックスしてる所を、俺の親に踏み込まれて全部バレちゃった上に、別れさせられたんだ」と何でもない事の様に言った。
 その内容に繁は思わず目を見張り、すぐに気遣うように聖夜を見ると、聖夜は「ありがとう」と繁の手を解いてうつ伏せから仰向けになった。それから繁を見上げ「聞いてくれる?」と言った。繁が膝を正してコクコク頷くと、聖夜はちょっと微笑んでから話し始めた。
「動転していたから、その時どんな事を言われたか正確には覚えてないけど、俺も先輩も、酷い言葉で罵られた。普通の人々がゲイに対して抱く誤解や悪意を、何のフィルターもなく受けちゃった訳だから、お互いとても傷ついてしまった。
 あの時の、真っ青になった先輩の顔は、今でも忘れられないな…。当然、もう会わないよう言い渡された。先輩は割と剛毅なタイプだったけど、親には一切の弁明もしなかったし、俺の前からあっさり姿を消してしまった。
 その時はまだ、俺はフラれたなんて思ってなくて、先輩を捜し続けたよ。生木を裂かれるように別れてしまったから、忘れられなかったんだ。
 就職してすぐ、友だちが先輩の消息を知らせてくれて会いに行った。その時になって初めて、先輩が俺の事を忘れようとしていたんだって分かったんだ。
『お前との事は気の迷いだった。もうすぐ結婚するから、俺の前には二度と現れないでくれ』そう言われて、すごくショックで……。その後どうしたんだか、よく覚えてないくらいにね。
 初めて好きになった人だし、彼じゃなかったら男としようなんて思わなかった。好きな女がいた訳じゃないけど、自分がゲイだなんて自覚はしなかったと思う。
 どうしてくれるんだって、恨んで、憎んで、僻んで、捻くれて…。自分も忘れよう忘れようとして、気がついたら、タダの尻軽なホモになっちゃってた。
 だってもう、全てがどうでもよくなっちゃったんだ。男同士の恋愛なんて、その先には何もないと思ったから。そうやって、いい加減に生きてたから、そのあと俺がどうなったかは、繁も知ってるだろう?」
 聖夜が微笑んで話しているのが痛々しく思えて、繁は聖夜の手を取ってぎゅっと握り締めた。
「繁に会う、一年くらい前かな…。角田にストーカーされる前は、役所の近所に住んでたんだ。そこの商店街の、何でも屋みたいなスーパーで買い物してたら、有線であの曲が流れたんだよ。
 一気に記憶が逆戻りしちゃって、気がついたら馬鹿みたいに泣き出してて周りの人を慌てさせた。だから、嫌いだったんだよ、あの歌。あの頃の俺だったら、懐かしいなんて……聞きたいなんて、思わなかった。カラオケで挙げた歌、全部…。でも、繁に会って…今、すごく、幸せだから……、懐かしいって、思えるんだ……」
「聖夜さん!」
 潤み始めた瞳のまま喋り続ける聖夜に、繁は堪らなくなってその身体を強く抱きしめた。聖夜も繁の背中を掻き抱いて、「幸せなんだよ…」と呟いた。繁は『ああ、俺だって幸せだよ』と答えたかったが、喉が詰まってすぐには声にならなかった。
「今はもう、先輩の事、あんまり思い出さないんだ。思い出しても、今頃奥さんと子どもに囲まれて、幸せなのかなって思うくらい。伝えられるなら、俺も同じくらい、ううん、きっともっと、幸せだよって言いたい……」
「うん…そうだね。俺も幸せだって、見せつけてやりたい」
 聖夜の肩に顔を埋めたままやっとやっとそう答えると、聖夜が耳元で笑うのが聞こえた。
「だから、歌ってよ。繁の声、素敵だった…。繁の声で聞いてみたい」
 涙を溜めたまま微笑む聖夜に、繁は心の中で『この人を絶対に幸せにする』と誓いながら、「じゃ、お互いに歌えるようになろうね…」と優しくキスして微笑み返した。
 こうして、翌日から音痴を克服すべく聖夜とカラオケボックス通いが始まったが、思わぬ障害と伏兵の出現に、繁はまたしても悩まされる事になるのだった…。

NEXTは成人向ページです。未成年の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

BACK [↑] NEXT

Designed by TENKIYA