INDEX NOVEL

忘れられないSt. Valentine's Day
嫉妬とチョコレート

※ 性描写があります。未成年の方はお読みにならないでください。

 帰宅時間の駅のコンコースはごった返していた。
 週末の金曜日であるし日曜日がバレンタインであるため、いつもより出店が多いのである。だから当然チョコレートを売る店ばかり。昨日、一昨日に比べればそれほど混んではいないけれど、会社帰りの女性達がワンコイン程度の手頃なものを物色していた。
 聖夜(せいや)はそうした出店の様子を反対側の本屋の店先から、雑誌を読む振りをして眺めていた。
 今日こそはチョコレートを買おうと思っているのだが、いざとなると勇気が出ない。だって、定員もお客も女性ばかり、男性の姿はどこにもない。
 当たり前である。日本のバレンタインデーは『女性から男性にチョコレートを渡して告白する日』(そんな決まりは何処にもないのだが)となっている。でも、聖夜の場合は、男の自分が買うなんて “ 恥ずかしい ” と言うより、“ そっちの人 ” かもと思われるのが(実際そうなのだが)怖くて足が動かない。
 やっぱり、チョコレートじゃなく物品にしようかな…と弱気になるのだけれど、パートナーの繁(しげる)はチョコレートが好物なのだ。「脳に必要だから」と笑って勉強の休憩には必ずココアを飲んでいるし、鞄にも必ず板チョコを入れている。
 それほど好きなのだから、バレンタインデーにあげるとしたらチョコレート以外ないではないか。と言うか、チョコレートじゃないと駄目だろう、きっと…。聖夜は一年前のバレンタインを思い出してぷるっと震えた。
 聖夜は毎年、職場の女性達から義理チョコを貰っていた。甘い物が好きではないから義理ならいらないと言いたい所だが、人間関係を円滑に保つには笑って有り難く受け取るのがエチケット。それに四人いる女性達みんなでお金を出し合って、一人1個と決まったものだから精神的負担もない。
 昨年はいつもと違って甘い物が好きな恋人が出来たのだから、彼にあげれば丁度いいだろうと気軽に考えていた。それが大失敗だった。
 恋人お試し期間を経て12月から晴れて恋人同士になったものの、当時はまだ気恥ずかしくて馬鹿正直にも「役場で貰ったものだけど」と言って渡したものだから、繁は大いに臍を曲げた。
 いつも鷹揚に構えていて滅多に怒らない繁が、「初めてのバレンタインに横流し品ですか?」と食ってかかられた。聖夜はデリカシーに欠けていたと何度も謝ったが、機嫌が直らない。
 ほとほと困り果てて「どうしたら許してくれる?」と尋ねると、繁は仏頂面のまま義理チョコに結ばれていた赤いリボンをするりと解いて聖夜の目の前で揺らしながら、
「真っ裸でこれだけ首に巻いて、『僕を食べて?』ってカワイくお強請りしてくれたら、許す」と宣(のたま)った。聖夜は真っ赤になって『そんな事できるか!』と睨みつけたが口には出せず、結局その通りにした。
 繁は言葉通り手加減なしで朝まで聖夜を貪った。お陰で翌日は腰が立たずベッドから出られなかった。週末だったから良かったものの、平日だったら間違いなく欠勤しなければならなかった。
 繁との情交はいつも濃厚なのだけど、聖夜の身体を気遣って次の日に響かないように配慮してくれていたのに…。勿論、繁は甲斐甲斐しく動けない聖夜の世話をしてくれたし、聖夜も自分の非を感じていたので文句は言わなかった。
 今年のバレンタインは昨年の反省もあったし、聖夜にとっても特別だった。
 だって、昨年の12月にプロポーズされて今や二人は一生添い遂げると誓い合った仲だ。それだけじゃない。繁は明日から人生の一大事を迎える。13、14、15日の三日間、医師国家試験を受けるのだ。だから、日頃の感謝と激励の気持ちを込めて大好きなチョコレートを送ろうと決めていた、のに…。
 どうしようとため息をついて見るともなしに雑誌が収まった書架を眺めると、『簡単チョコレート!』という見出しの躍る表紙が目に止まった。
 思わず手に取って眺めると、それは若い主婦を対象にした料理雑誌で、確かに簡単なレシピが多くて聖夜も1、2冊買った事がある。先月号だがイベント前なので何冊か残されていたようだ。パラパラと捲って中身を見ると、板チョコを湯煎で溶かして型にいれるだけ、という作り方が載っていた。
 これも手作りに入るのかな…。でもまあ、これなら俺にもできそうだし、スーパーで材料揃うからいいかも…などとすっかりその気になって読み耽っていると、突然肩を叩かれて「鈴木くん?」と声をかけられた。
 吃驚して声の方へ顔を向けると、同僚の岸谷亮子(きしたにりょうこ)が立っていた。
「鈴木くん、チョコレート作るの?」
「えっ? 岸谷さん? ちっ、違うよ!」
「だって、それ…」と、手にした雑誌を指さされ聖夜は慌てて棚に戻した。
「そんな隠さなくても知ってるよ? 鈴木くん、料理得意なんだよね。お弁当、いつも自分で作ってるんでしょう? お菓子作りが趣味だって言われても、別に驚かないよ」
 亮子は笑いながら聖夜が戻した雑誌を取り出し、はい、と差し出した。釣られて思わず受け取ってしまい、聖夜は否定の言葉を飲み込んだ。亮子は聖夜が一言えば十返ってくる。面倒な時は黙るに限るのだ。
 繁と暮らすようになって約2年、料理は殆ど毎日作っているから得意と言えば得意だ。繁に請われてホットケーキやプリン、お汁粉なんかも作ったりした。職場でそんな話を誰かにしたかも知れないけれど、お菓子作りが趣味だなんて言った覚えはない。
「チョコって言えば、今日、鈴木くんにもちゃんと田中さんからチョコ配られたでしょう? 今年はいつもより奮発したんだよ。美味しいって評判の生チョコなの。絶対食べてね!」
「あ、ありがとう…」
 田中さんは一番年配の職員でいつも彼女からチョコレートを貰っているが、調達して来るのは一番若い亮子の役目らしい。
 亮子は聖夜より一つ年下だが、高卒で役場に勤めているので3年先輩になる。明るく世話好きで、無口な聖夜にも積極的に声をかけてくる。仕事の面倒もよく見てくれる有り難い存在なのだが、ちょっと強引でお喋りなところが苦手だった。それに最近、やたらとプライベートな事を詮索されるのも気になった。
「ねえ、鈴木くん。これから何か用事あるの?」
 ほら来た、と聖夜は首を竦めた。
「あ、うん。これから家に友達が来るから、これ買ったら急いで帰らないと…」と亮子が押しつけた雑誌を振って、笑顔でじゃあねとその場を離れようとしたら、亮子が「ねえ!」と叫んで雑誌を持つ手の袖を引っ張った。
「ねぇ…、そのお友達って、女の人?」
 亮子の必死の形相に、何でそんな事が訊きたいんだとどぎまぎする。それでも笑顔を貼り付けたまま「男だよ」と答えると、亮子はあからさまにほっとした顔をした。
「そうなんだ! てっきり彼女が来るのかな〜と思って。だって田中さんたちが、最近、鈴木くんが明るいのは彼女ができたからじゃないか〜って言うんだもの。お泊まりデートでバレンタインにその雑誌見ながら二人で一緒にチョコレートのお菓子とか作っちゃうのかな〜なんて、想像しちゃった!」
 一息に喋りきって、あははと頭をかきながら笑う亮子に、「そんな訳ないよ〜」と聖夜は一緒になって笑いつつ、内心冷や汗をかきながら『誰がそんな事するか!』と心でツッコミを入れた。
「お菓子なんて作らないよ。美味しそうな鍋料理のレシピが出てたから、今晩、友達と鍋をしようと思っただけ」
「ふうん…いいなぁ。私も、鈴木くんが作ったご飯とか、食べてみたいなぁ…」
 チラリと上目遣いで呟く亮子に、まさか誘えとか言わないよなと、さすがに困惑した瞳を向けると、亮子は咄嗟に何かを思いついたように両手を顔の前で叩いた。
「そうだ! 鈴木くん、今日の “ 義理チョコ ” のお返しに何かお菓子作って来てよ! 田中さんたちの分も含めて4人分。ホワイトデーの時には鈴木くんからはお金徴収しないように、笹倉さんに言っておくから! ねっ?」
 小首を傾げてお強請りするように「ねっ?」と瞳を瞬かせる亮子を、唖然として見詰め返した。
 何でそうなるんだ! 何が『ねっ?』だよと言い返したかったが、確かにしっかり “ 義理チョコ ” を受け取ってしまっている以上『お返しして』と言われたら断りづらい。
『冗談でしょう?』とか何とか、適当にあしらってしまえばいいものを、小心な上に律儀な性格が災いして強気に出られない。聖夜は「うっ、ええ〜?」と、消極的な抗議の声を上げるのが精一杯だった。
 聖夜がはっきりした意思表示をしないのをこれ幸いと亮子はさっと身を翻し、聖夜が慌てて呼び止めるのを尻目に、「月曜、楽しみにしてるね〜」と手を振りながら地下鉄の改札口へ走り去った。
 聖夜は茫然としたまま、まだ支払いを済ませていないヨレヨレの雑誌を握りしめて「何で、こうなるの…」と呟いた。

 土曜日は朝から忙しかった。繁にしっかり朝食を食べさせて試験に送り出した聖夜は、午前中に掃除と洗濯を済ませ近所のスーパーへ買い出しに出かけた。
 あの後、亮子と別れた後も暫く迷っていたが、不本意にも約束した形になってしまったし、どうせならみんなまとめて手作りしてしまえばいいやと腹を決め、握りしめた雑誌を買って帰った。早めに夕食にして繁を休ませてやりたかったので、余計な時間を食った分製菓材料を買って帰る時間はなかった。
 夜中に台所でこっそり雑誌を熟読すると、板チョコを溶かすだけで簡単だと思っていたレシピは、テンパリングという光沢を出すための温度調節をしなければならない事が分かった。面倒、という程のものでもないが、手間をかける割にシンプル過ぎてつまらない気がした。
 次のページに載っていた『簡単トリュフ』は、チョコレートと一緒に生クリームとブランデーを溶かして固めたガナッシュを、テンパリングしたチョコレートにくぐらせるというものだった。
 聖夜は眉を寄せて、「これのどこが “ 簡単 ” なんだ!」と零したら、面倒なら “ コーティングチョコレート ” というテンパリングの必要がないチョコレートを使用すれば良いとの注釈があった。
 便利なのがあるんだなと感心しながら、こちらの方が手作り感があるし、見栄えが良いので『簡単トリュフ』を作る事に決めた。
 問題は “ コーティングチョコレート ” というモノが近所のスーパーにあるかどうかだったが、割と品数が揃ったスーパーなので難なく全て手に入った。絞り出し袋を買うのは悩む所だったが、クッキングペーパーを円錐形に巻いて代用出来るとの事で、こちらを購入。材料さえ揃えば半分は出来たも同然。
 溶かして固めて、溶かして固めて、くぐらせて…と頭で作り方を反芻しながら、聖夜は意気揚々と作り始めたものの…考えが甘かった。
 時間がかかるのである。何が大変って、425gの板チョコを包丁で全て刻むのが、固いし、量は多いし、時間がかかるったらない。ガナッシュ用のチョコを刻み終えただけで4時近くになってしまい、コーティング用を半分まで刻んだ時点で、大きめのブロックに割って電子レンジで溶かす事にした。
 何しろ一人5個の計算で25個分を作るのだから早くしなくては。繁は試験が終わった後、大学に寄るので帰宅は7時過ぎの予定だが、ぐずぐずしてはいられなかった。
 ガナッシュを絞り出して冷やし、やや固まったところでコロコロ丸めてまた冷やす。湯煎と電子レンジを駆使して溶かしたチョコを少量手に取って、冷やしたガナッシュに塗しながら綺麗に丸め直して漸く最後の仕上げに入る。
 時計とにらめっこしながらガナッシュをコーティングチョコレートにくぐらせて、ケーキクーラー代わりの魚の焼き網(念入りに洗った)の上で角が立つようにコロコロ、コロコロ転がしては、くっつかないようクッキングペーパーの上に並べる。
 その作業を繰り返すこと25回。全てのチョコレートを冷蔵庫にしまい終わったのが6時ジャスト。聖夜は疲れ果てて一息つきたかったが、繁にバレないように大慌てで台所を片付けた。
 後は人数分に分けて、繁にあげる分以外のチョコを隠してしまえば完了なのだけど、コーティング用のチョコレートがかなりの量残ってしまっているし、小分けにする気の利いた入れ物を買い忘れた事に気がついた。
 ビニール袋では余りに味気ない。何か適当な入れ物はないかと戸棚を物色していると、「うわぁ、良い匂い」と言う間延びした声が聞こえて聖夜は腰を抜かしそうになった。
 振り向いて台所の入口に立っている繁の姿を認め、「えっ? ウソ!」と叫んで壁の時計を見上げると6時30分だった。
 あと30分もあるのに今までの苦労が水の泡だとガックリと下を向く聖夜に、繁はニヤニヤしながら 「帰ってきちゃ、いけなかった?」と首を傾げた。
 聖夜は耳まで赤くなるのを感じながら「別に…。おかえり」と消え入りそうな声で返事をした。
 繁は笑いながら聖夜の傍まで歩み寄ると、テーブルの上に乗っているチョコレートが入ったボールと聖夜を交互に見て、「すっごい嬉しい!」と叫んで聖夜をぎゅっと抱きしめた。
 そのままキスしようとする繁の顎を間一髪手で押さえて「うがい! 手洗い!」と叱りつけ洗面所へ追い立てると、聖夜は大きめのタッパーを掴んで大急ぎで冷蔵庫を開けた。
 この間に20個分を別にしようと考えたが、神経の細かい聖夜は手掴みせずに箸で摘んで入れようとするものだから、丸いトリュフはコロコロ転がって焦る分だけ余計に上手く掴めない。
 何とかタッパーに溢れるほどチョコレートを移し替え、ほっとして振り返ると目の前に繁が立っていた。聖夜は『ぎゃー』と心で悲鳴を上げたが、実際は驚き過ぎて声も出ない。
「そんなに沢山作ってくれたの?」と嬉しそうな繁がトリュフを1個摘もうと指を伸ばしたのを、慌てた聖夜が「駄目! これは別の人のだから!」と口を滑らせた瞬間、さっと空気が張り詰めた。
「…誰の、なの?」
 慌てて閉めた冷蔵庫から漏れた冷気よりも冷たい繁の声に、万事休す…と観念した聖夜は亮子との一件を洗い浚い打ち明けた。繁は眉間に皺を寄せ怖い顔で聴いていたが、聴き終わるや心底呆れたようにため息をついた。
「聖夜さんは、もう〜。その岸谷さんに、彼女いるって言っちゃえば良かったんだよ。満更ウソでもないんだし。彼女ってのが嫌なら、恋人がいるって言えばいいんだ。そうしたら、そんな馬鹿な約束させられなくても済んだのに」
「だって、すごいお喋りなんだぞ。そんな事言って、職場中に言いふらされたら困るんだよ。うちの上司は岸谷さんに負けず劣らず詮索好きだから、結婚の事とか訊かれたら、何て答えればいいんだよ?」
「『結婚式は挙げません。事実婚にします』って言えばいいじゃん。実際そうなんだし」
「あのなぁ…言葉だけで済めば苦労はないの! そんな嘘事、公に言える訳ないだろ」
 言った瞬間、繁がぐっと息を呑んで聖夜を見詰めた。すぐ失言に気がついたが、聖夜が口を開く前に繁が叫んだ。
「嘘事って、なに?! 俺、ちゃんとプロポーズしたよね? 聖夜さん、頷いてくれたよね? 俺たち結婚してるんじゃないの? そりゃ、式も挙げられないし、入籍もできないよ? 何の保証もないけど、事実婚は男女関係なくしてる人いるじゃない。公にできない事は、みんな嘘事なの? そんなに嫌なの? そんなに怖い? そんなに俺との事――」
「違う!! ごめん! 繁、ごめん…」
 悲痛な面持ちで矢継ぎ早に言葉を吐き出す繁に、聖夜はそんなつもりで言ったんじゃないと必死になって謝った。いつもならすぐに機嫌を直してくれる繁だが、その怒りは修まらず震える声で責め続けた。
「聖夜さんは、体裁ばっかり気にする! そりゃ、分かるよ…分かるけど、聖夜さんは俺の事、本当に好きなの?」
「好きだよ!」
「どれくらい!?」
「すごく!!」
「分かんない! すごくって、どれくらい? 言葉なんかじゃ分かんないよ。さっき、言葉だけで済めば苦労はないって言ったよね。確かにその通りだよ。言葉なんていくら聞かされても納得できない…。ねぇ、態度で表してよ。俺の事、どれくらい好きか、言葉じゃなくて分からせてよ!」
 険のある目つきで捲し立てる繁に、聖夜は初めて二人の関係に危機を感じた。二人の平穏な生活は繁の忍耐の上に成り立っていたのだとつくづく思い知る。
 こんな筈じゃなかった。どうしたらいいんだろう。こんなに繁が好きなのに、どうしたら分かって貰える?
 聖夜は繁を見上げるとその首筋に抱きついて、への字に曲がった唇に吸いついた。目を閉じて想いを込めて何度も何度も啄むようにキスしながら好きだ、好きだと繰り返した。キスの合間に繁の口角が上がるのが分かる。
 恐る恐る目を開けると大きな手が聖夜の両頬を捉え額をコツンと合わされた。
「聖夜さんの『すごく好き』って、これだけなの?」
 いつもの穏やかな繁の表情に戻ってはいるけれど、その目はキスだけじゃ許さないと語っている。聖夜は赤くなりながら繁の股間に手を伸ばしたが、繁は身を捩ってその手を逃れた。
「俺は、聖夜さんの裸を見た方が、もっと、感じるんだけど?」
 当然でしょうといった口振りに、今度は聖夜の口角が下がるけれど、拒否権などないのは分かっているから、怖ず怖ずと着ている物を脱ぎ捨てた。脱いでいる間、繁はジーンズのポケットに手を突っ込んだまま流しに凭れてずっと聖夜を眺めていた。恥ずかしくて堪らず背中を向けてしまったら、
「でっ? どうするの?」と意地悪く続きを促された。
 誘えばいいのは分かっているが、意識してしまうと恥ずかしさで身体が動かない。目の前にはテーブルと余ったチョコレートが入ったガラスのボール。再度促されて視線だけ後へ向けると、繁がこちらに近づいてくる。聖夜は思わずボールを抱えて振り返った。
 繁はえっ、と驚いて立ち止まる。二人はボールを挟んで向かい合う形になった。
「たっ、食べる?」
 聖夜はばっとボールを差し出して窺うように小首を傾げた。繁は一瞬呆気に取られた顔をしてプッと小さく吹き出した。
 笑われて顔から火が出そうだった。自分でもどうしてボールを抱えたのか分からなかった。こんな小さなボールじゃあそこが隠れる訳もない。敢えて言うなら時間稼ぎがしたかったのかも知れない。
 だって、褥の中ならいざ知らず、素面で、台所で、自分だけ素っ裸で、誘えと言われてもどうすりゃいいんだと、半ばやけくそだった。
「たっ、食べないの?!」
 涙目で睨みつけると、繁はクスクスと忍び笑いを漏らしながら、「じゃあ、遠慮なく」と言って、ボールの中に左手を突っ込んでチョコレートをすくい取った。
 室温でも固まり始めたチョコレートは、指から滴り落ちる事なくこってりと絡みついている。繁はペロッと舌を出してチョコレートを舐め取ったが、指先にはまだベッタリとチョコレートが残っていた。
「うん、美味しい…」とにっこり笑って呟くと、繁は聖夜の手からガラスのボールを取り上げ、流し台の上に置いた。そのまま戸棚へ移動して薬入れの引き出しからコンドームの箱と、ジェルのチューブを右手に掴んで聖夜の前に戻ってきた。聖夜は嘘でしょうと目を見張った。
「こっ、ここですんの!?」
「あれ? だって、食べてもいいんでしょう? どんだけ好きか、俺に分からせてくれるんでしょう? 嬉しかったよ。チョコレート抱えて『食べる?』な〜んて、聖夜さんにしては、ずいぶん大胆なプレイに挑戦してくれるんだな〜って、俺の趣味を理解してくれてるんだな〜って感動してたんだけど、違ったの?」
 聖夜は慌てて首を横に振りそうになって思い止まった。繁の目が笑っていないのだ。拒否してはいけないと肌で感じた。繁はテーブルに持って来た物を放り出すと聖夜の首筋を捉えて顔を覗き込んだ。
「拒否しないの? このまま犯っちゃうよ?」
 横柄な口調で凄まれた。繁はごく稀にこうした一面を垣間見せるが、気持ちが冷めるどころか、こんなワイルドな繁も格好いいと、却って気分が昂揚してしまう。聖夜は身体の内側からジワジワと広がる熱を感じながら、「いいよ…食べて」と囁いた。

 チョコレートのついた左手で体中を撫でられた。乳首、臍、脇腹。勿論、大事な所にも。固まり始めて粘度が高くなったチョコレートは、聖夜の体温でしっとりと蕩けた。ジェルとも違う滑りを借りて、繁の器用な指先が乳輪や亀頭を嬲ると、いつも以上に感じてしまった。
 跪いた繁に屹立した雄蘂を弄ばれた。チョコレートのついたそこを見るのが嫌で目を閉じていたが、名を呼ばれ薄く目を開けると、見せつけるように亀頭をしゃぶられた。チョコレートが少しずつ舐め取られると、代わりに先走りが溢れ出た。
 立っていられなくて頽れそうになると抱き留められて、椅子に座った繁の膝に向かい合わせて跨らされた。口づけされ舌を絡める。濡れた音を響かせて互いの舌を擦り合わせると、繁の舐めたチョコレートが少しずつ溶かされて、口腔いっぱいに広がる濃厚な甘さと、鼻に抜ける香りに眩暈を感じた。
 そう言えば、チョコレートは媚薬なのだと聞いた事があった。あながち嘘ではないかも知れない。もう、快感を追うこと以外考えられなくなる。
 ちゅっと音を立てて繁が唇を離すと、口寂しくて聖夜は唇を尖らせた。繁は笑ってその唇を指でなぞった。舐めてと言われて、柔順に押し当てられた指を舐めた。もっと綺麗にと言われ、手のひらのチョコレートを全て舐め取った。
「聖夜さん、可愛い…」
 繁は目を細め、もう一度聖夜に口づけた。何度も角度を変えて啄みながら、その隙に聖夜が舐めた指を、尻のあわいから窄まりの中へ差し込んだ。あまり濡れていないせいで引き攣れた痛みを感じ、繁にしがみついた。
「痛い?」と訊かれて頷くと、繁はすぐに指を抜いて、ジェルを垂らして再び指を差し入れた。自分から動こうと少し身体を離すと、乳首に塗りつけられたチョコレートが、繁の白いセーターを汚してしまったのに気がついた。
 ちょうど乳首の所に丸い跡が二つ。どうしようと思ったのも一瞬で、可笑しくなって笑い出すと、繁も喉で笑いながら聖夜の乳首に舌を這わせた。
「ああ、んっ…」
 塗りつけられたチョコレートを舐め取るだけじゃない、淫猥な舌の動きに嬌声が止まらない。下からも襞を掻き分けながら、迷いなく感じる所を何度も弄られて、悲鳴を上げて仰け反った。
 たったそれだけの刺激で迸るのを感じて震え上がった。焦って手を伸ばすと射精自体はしていなかったが、反射でぎゅっと繁の指を呑み込んだらしく、「すごく、感じてるんだね…」と繁が感嘆の声を上げた。
 確かに過ぎるほど感じている。いつもよりずっと…やっぱりチョコレートのせいだろうか。狂おしいほど欲しくて、欲しくて繁の股間に手を伸ばすとその手を遮られた。
「俺のはいいから。聖夜さん、気持ち良くなって…」
「い…」嫌だと、否定の言葉を既の所で堪えた。そうだ…繁を良くしてあげなくちゃ。こんなに愛してるって教えてあげなくちゃ。
「一緒に…気持ち良くなって…」
 昂ぶる気持ちに喘ぎながら繁の手を解き、急いでジーンズの前を寛げ下着をまさぐると、勢いよく猛ったものが飛び出てきた。ああ、凄いと、うっとりしながら両手で熱い怒張を撫で回すと「ちょっと待って!」と繁が慌てた声を上げた。
 繁が聖夜の中から指を抜きスキンを着ける間ももどかしく、待ちきれないとばかりに身を乗り出して繁の楔を後の口に宛がった。
 思ったよりも解されていなくてキツイ。それでも自重の力を借りてどんどん繁を呑み込んでいく。粘膜が開かれる圧迫感に焼けるような痛みを感じるが、聖夜にとっては快感に他ならない。
 嵩(かさ)のあるカリの部分が抜けてしまうと少し余裕が出た。一呼吸おいてから息を詰め一気に体重をかけて沈み込んだ。
「ん…あっ!」
「うわっ、すごっ……」
 繁の膝の上に尻が落ちるのと同時に射精した。と言ってもちょっと溢れ出た程度で、中途半端な快感が却って辛かった。助けを求めるように繁のセーターを握りしめると、いきなり下から突き上げられた。
 踵でリズムを刻むように膝を上下に振動させて揺すられる。激しい抽挿ではないが、良い場所に当たったまま繰り返される。でもまだこれでは達けない。もっと、もっとと自分でも腰を振りつけた。
「うっ、はぁっ、はっ…んっ」
 二人の喘ぎと肌を打ち付ける音がどんどん激しくなっていく。繁は殆ど飛び上がるように腰を浮かせるから、聖夜はしがみつくのに必死だった。前なんか触るどころじゃないけれど、繁のセーターに擦りつけられて充分な刺激を得られた。
「うっ、あぁ! もう…駄目、イクっ!」
 先に根を上げたのは繁だった。聖夜の耳元でイク、イクと繰り返すと、息を詰めて激しく腰を突き上げて痙攣し、そのままがっくりと椅子の背に凭れて仰け反った。
 聖夜は繁の喘ぎ声に異様なほど興奮した。果てて弛緩した繁の上で少し遅れて絶頂を迎え、自分で扱いて吐精した。白いセーターの上に大量に飛び散ってひどい有様だったが、練乳みたいだと思ったら何故だかまたもや興奮し、繁を銜えたままの粘膜がとトクンと大きく脈動した。
「あ…、ちょっ…と…」
 まだ整わない息で喘ぎなら繁がふるっと身悶えた。滅多に見られない繁のしどけない姿に強烈な愛しさが込み上げて、聖夜は抱きついて顔中にキスしながら「好き。愛してる」と繰り返した。
「うん…俺も。聖夜さん、大好き。愛してる。ごめんね…意地悪いこと言って。ちゃんと、聖夜さんが、俺を愛してくれてるって、分かってるよ。でも、自分でも…思った以上に、独占欲強いみたい…。みっとないけど、嫉妬した…」
「俺…女の人、駄目だから、嫉妬なんて…」
「うん、それだけじゃなくて…。ちょっと不安だったから…」
「あっ、試験? わっ、どうしよう! 疲れちゃったよね?」
 慌てて身体から降りようとする聖夜を、繁がぐっと引き寄せた。
「大丈夫。試験は楽勝」と繁は笑いながらウインクしたが、急に顔を曇らせて「これからは聖夜さんに、おんぶにだっこだからさ…」と言ってため息をついた。
「結婚、結婚って、拘ってるのは俺だけで……。何か、自分でも聖夜さんを繋ぎ止めておく口実にして――」
「俺だって、繁を繋ぎ止めておきたい。収入なんて関係ないから。プロポーズされて嬉しかった。幸せだよ。俺は臆病な人間だから…不安にさせてごめんね。ちゃんと言うから。大好きな人と事実婚してますって…」
「本当?」
「うん」
「じゃあさ、指輪つけてよ」
 聖夜は絶句した。今までもプロポーズの時に贈ったエンゲージリングを、つけろ、つけろと煩く言われていたが、傷つけたりなくすと怖いからと口実を(実際そんな事になったら嫌だし)つけて逃げていた。マリッジリングならともかく、あれは、ちょっと…。
 それでも、じっと見詰める不安そうな繁の瞳に負けてしまった。
「いいよ。但し、国家試験に合格したらね。だから、早くお風呂に入って、ご飯食べて、明日に備えよう?」
 そう言って、繁の唇にちゅっと音を立ててキスすると、繁はこの上もなく幸せそうに微笑んだ。

 翌日、繁を試験に送り出すと聖夜はチョコレートを入れる化粧箱と、駄目にしてしまったセーターの替わりを買いに行った。バレンタインデーの前日にバレてしまったから盛り上がりに欠ける気がしたが、帰宅した繁に綺麗にラッピングしたチョコレートを渡すと喜んで食べてくれた。
 15日の月曜日、意を決して亮子にチョコレートを渡すと、「ホントに作ってくれたんだ!」と驚かれ、危うくキレそうになった。それでも嬉しそうに礼を言って受け取ったから、何とか怒りを抑えたももの一矢報いてやりたかった。
「恋人のために作ったから。そのついで」
 勢いとは凄いもので、サラッと言ってしまっていた。事実婚の事までは、やっぱり勇気が出なくて言えなかったが。
 亮子は絶句して、目が落ちるのではと思うくらい目を見張って聖夜を凝視した後、「そうだと思ったんだ! 御馳走様!」と泣きそうな顔で笑っていた。
 さすがに言い方があったかと少しだけ後悔したけれど、どうやったって亮子の気持ちには応えられないのだから仕方がない。繁のお陰で自分も世界も広がった聖夜だが、人間関係は難しいとつくづく思った。
 オマケにチョコレート騒動は亮子だけに止まらず、最大のピンチも招いてしまった。
 男性職員から、「どうして俺たちの分はないの?」と詰め寄られ、ホワイトデーの徴収金は免れたものの、いつも不参加を決め込んでいたカラオケ大会に参加するよう強制されてしまったのだ。
 顔が綺麗で王子様などど呼ばれている聖夜だけれど、実は音痴だったりする。指輪をするより回避したいカラオケ大会に、『ホワイトデーなんかなくなっちまえ!』と本気で願う聖夜だった。

 (了)


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