INDEX NOVEL

忘れられないSt. Valentine's Day 2011
成 功 報 酬 〈 中 〉

 間接照明だけが灯るほの暗いホテルの部屋は、いつもなら穏やかな落ち着きを与えてくれるものだが、今の幸人には暗さが不安を掻き立てた。
 ぐるぐると部屋の中を歩き回り、腕時計を眺めては遅々として進まない時の流れに苛立ちが募る。止まっているのではないかと部屋に備え付けの置き時計と見比べれば、針の位置はどちらも同じでため息を吐く。幸人はもう小一時間もそんな事を続けていた。
 一週間前、会社を出た所で突然白鳥に呼び止められた。白鳥は驚く幸人を近くのコーヒーショップに誘い、「今年のバレンタインデーは月曜日だから、前日から一泊でヘルトンホテルに予約しといたよ」と言った。
 何の事だか訳が分からず「誰が泊まるんだ?」と問うと、「幸(こう)と綾ちゃんに決まってんじゃない」と笑った。
「平素は無理でも、バレンタインデーのイベントに託(かこつ)けて『会いたい』って誘えば、少しは無理も通るだろう? って言うか、断られたらそれのが問題じゃないの?」
 白鳥は幸人が奢ったエスプレッソを飲みながら片眉を上げて皮肉げに言ったが、幸人は取り合う気にならなかった。
 十三日は良いとして十四日の月曜日にそのまま会社に出るとしたら、わざわざホテルに泊まる意味がない。綾人を前にして抑制する自信も気持ちもない幸人は、首を振って断ろうとしたが白鳥は声を落とし、「その日に依頼を履行するから、十四日は有給取れよ」と囁いた。
 もうかれこれ一ヶ月以上も綾人に会えない状態だった幸人は、呪文にかけられたように首を縦に振っていた。
 幸人が承諾すると、白鳥はまるでキャンプに誘う子どものようにはしゃいだ声で、
「土曜の午後四時半にヘルトンのロビーで待ち合わせしておいて。詳しい説明は後日するから、とにかく綾ちゃんに有給を取らせろよ」と指示して帰って行った。
 白鳥と別れ部屋へ帰ると幸人はすぐに綾人の携帯にかけた。メールでは断られる可能性が高いからだ。有給を取らせるのは難しい気がしたが、確かにバレンタインデーというのは良い口実になる。留守電にならなければいいがと思っていると、拍子抜けするくらいすぐに綾人の声がした。
「もしもし、ゆきちゃん?」
 名乗る前から自分の名を呼ぶ弾んだ声に、幸人は緊張を解いて口元を緩めた。
 久し振りと挨拶を交わし、暫し互いの近況を報告し合ったあと、思い切ってストレートにバレンタインデーにデートしたいと誘うと、あっさり承諾の返事が返って来た。続けて十三日から泊まりがけにしたいからと有給を取るように頼むと、これにはさすがに即答できないようで沈黙が流れた。
「綾? 駄目なの?」
 少しトーンを落として囁くと、綾人の吐息が漏れる音が聞こえた。幸人はできる限り甘ったるい声で「綾を、抱きたい」と囁くと、ガツンと衝撃音が響き渡って慌てて携帯を耳から外した。切られたのかと思ったが、「ごめんなさい! 携帯落としちゃった!」と慌てて謝る綾人の声が「有給、取る…」とか細く続いた。
 了承を取り付けた事に気を良くした幸人は、早速白鳥の携帯に連絡を入れると、
「じゃあ、幸は約束の一時間前にホテルに来てくれる? あとは全部こっちで用意しておくから。何するかは当日までのお楽しみ」と言ってさっさと切られてしまった。
 クリスマスの時もこんな調子だった。だから当日まで何をするのか分からなかったのだ。一抹の不安を覚えながら幸人は土曜日を待った。
 当日、約束の時間にホテルへ入ると、ロビーで女性客の視線を集めている白鳥に出迎えられた。綾人のために粧(めか)し込んだ幸人よりも遙かに上等なスーツに身を包んだ白鳥は、胡散臭い笑顔を浮かべながらすぐに幸人をホテルの予約部屋へ連れて行った。
「はい、コレ」
 渡されたのはイヤホンがついた携帯電話のような四角い機械だった。首を傾げると、白鳥は「それ、盗聴の受信機ね。幸はここで、俺と綾ちゃんの会話を聞いてて」と言った。
 狐に摘まれたような顔で幸人が「はぁ?」と声を上げると、「今、順を追って説明するから」と白鳥は両手を挙げてどうどうと宥めるような仕草をした。
「五時からホテルのホールで演奏会があるんだ。幸と綾ちゃんはそれを鑑賞して、そのままディナーをとる予定だった。ところが、幸は急な仕事が入って間に合わない。夜には来られるけれど、幸が来られないと分かれば綾ちゃんは帰ってしまうタイプの子だろう? 当日のキャンセルは痛いし、勿体ない。だから、幸がホテルへ来るまでの繋ぎのエスコートを俺に頼んだって、綾ちゃんと俺が落ち合ったら彼の携帯に電話して。
 そんで、幸はここから食事が終わるまでの俺たちの会話を盗聴する。ホールの中は音拾えないと思うけど、出たらすぐ聞こえるようになるから。食事が終わって綾ちゃんを幸に引き合わせるまでには、綾ちゃんを同棲する気にさせてあげるよ」
 白鳥はそう一気に説明すると、嫌な予感が当たって呆然とする幸人に「Did you get it?(おわかり?)」とウインクして見せた。

 幸人は白鳥の言う通りにした。ここまで来たら白鳥に任せるしかないと諦めたからだ。
 四時半になりロビーに降りた白鳥と綾人が落ち合ったのを、白鳥がつけた盗聴器から聞こえる会話で確認すると、綾人に携帯をかけ指示通りの言葉を伝えた。
 綾人は大分戸惑っていたが、「八時までには必ず行くから」と懇願すると「うん…」と小さく返事を寄越した。
 二人がホールに入ってしまうと、耳障りな砂嵐しか聞こえて来なくなったので受信を切ってしまった。それからずっと落ち着かず、幸人は動物園のクマのように部屋の中を歩き回った。
 だんだん不安になってきたのだ。白鳥は一体何を、どう綾人に話すつもりでいるのか。白鳥が自分に不利な事をする筈がないが、隠しておきたい幸人の側面も十二分に知っているのだ。二人きりにするのが、堪らなく不安を煽った。
 幸人は昨年の春、会社のロビーで綾人の姿を見かけてから二ヶ月悩んだ末、白鳥に連絡を取った。白鳥は喜んで協力してくれて、思ったよりも簡単に綾人を手に入れる事ができた。
 問題はこの先だ。自分がしたのと同じ覚悟を綾人にもして貰わなくてはならないが、こればっかりは、そう簡単にはいかないだろう。
 幸人も綾人もひとりっ子だ。同じように蝶よ花よと育てられたが、綾人の場合、身体が弱い綾子が設けた一粒種だったから、叔父と叔母にとって文字通り掌中の球だった。
 当然、親子の仲はベッタリで、綾人は二十三歳にもなって家では「パパ、ママ」と呼ぶのを躊躇わない。将来は一緒に暮らすつもりで、気の早い叔父夫妻は綾人が大学を卒業すると自宅を二世帯住宅に改築した。
 大学時代から付き合っていた彼女に振られた事を、綾人は過労のため勃たなくなったからだと思い込んでいるようだが、どうやら綾子に『釣り合わない』と撥ねられた…というのが真相らしい。
 忙しくて会えないわ、まだ結婚するかも分からないうちから『嫁として相応しくない』だのと言われては、女だって嫌気が差すというものだが、腹立ち紛れに『インポ』と捨て台詞を吐くような女とは別れて正解だったろう。白鳥も「綾ちゃんは女運が悪い」と甚く同情していた。
 そんなに家族が好きならば、転職してくれれば問題は減る。けれど、それも簡単に承諾しないだろうと思われた。ブラック会社と言えど必死で探して入社して、やっとやっと社員になれたのだ。それに、何がいいのか分からないが、綾人はあの仕事が好きらしい。メールで大変だと零しながらも遣り甲斐があると書いて寄越している。
 では、綾人の過労死寸前の職業を両親がどう思っているのかと言うと、白鳥でも分からないと言っていた。推測だけどと前置きしてから、「会社と家の往復で、悪い虫が付かないから良いと思ってるんじゃない」と当てこするようにケラケラと笑ったが、「必死で頑張っているから、辞めろとは言えないんだろう」とも付け加えた。
 幸人もそう思った。だから仕事を盾に断られたら大人しく引き下がるしかないのだった。
 そんな物思いに耽っていたら、窓の外はすっかり暗くなっていた。クリスマスの日に綾人と眺めた新宿の夜景が、今日も同じように眼前に広がっていた。
 慌てて腕時計を見れば六時半を回っており、演奏会が終わった頃だと受信機のスイッチを入れた。耳障りな砂嵐の音ばかりで声が拾えない。白鳥にレクチャーされた通りダイヤルを回して周波数を合わせようとするが、一旦切ってしまったせいか、なかなか傍受できなかった。
 必死になって何とかそれらしい会話を捉えたのは二十分も経った後で、聞こえる会話と周囲の雑音から、もう既にレストランの中へ入っているらしい事が伺えた。幸人はほっとして力が抜けると、一体自分は何をしているんだろうと情けなくなって頭を抱えてソファへ身を沈めた。
 ダラリとだらしなく横たわりながら、聞くともなしに聞いている会話は、ワインについて白鳥が蘊蓄(うんちく)を垂れている声ばかりだった。よく耳を傾ければ、ワインに詳しい幸人でも知らないような面白い話をしているのだが、綾人は初対面の人間と食事をするのが苦手だから、緊張し過ぎて白鳥の蘊蓄など念仏くらいにしか聞こえてないだろう。
 折角のデートだと言うのに、自分以外の男と恥ずかしそうに俯いて小さな口を開いて食事をする綾人の姿を思い浮かべ、後悔のため息が漏れた。
「…さっきの話の続きなんですけど、白鳥さんは、あの、どうして、ゆきちゃ、幸人さんを『コウ』って呼ぶんですか?」
 白鳥の話が終わるのを待ちかねたように、綾人の声が聞こえた。盗聴してから初めて聞こえた綾人の声は、幸人を激しく動揺させた。白鳥のヤツ喋るつもりかとドキドキしていると、面白そうに白鳥が笑う声がした。
「中学に入ってすぐの自己紹介で、本名は『ユキト』だけど、『コウジン』って呼べって言ったんだよ。だからみんなコウジンか、縮めてコウって呼んでたよ」
「どうして…」
「みんなには『ユキ』って響きが、女みたいで嫌いだからって説明してたけどね。俺にだけ、『ユキト』って呼んで欲しいのはこの世でたった一人だけだから、他の人間にはそう呼ばれたくないんだって、本当の理由を教えてくれたよ」
「この世に、たった一人だけ?」
「そう。それが誰だか、もう綾人くんには分かるよねぇ」
 白鳥の含み笑いを聞いた途端、頭が猛烈に熱くなるのを感じた。羞恥が水蒸気になって額をじっとりと濡らす。
 どんな事をしてでも綾人を手に入れようと決めた時から、恥も外聞も捨てたつもりでいたけれど、恋人に対する見栄だけは捨てられないのだと思い知った。
 受信機からは綾人に請われるまま、中学時代からの幸人の様子を延々と語って聞かる白鳥の声が続いた。いかに幸人が精神的に突っ張っていたか。いかに満たされない状態でいたか。白鳥は軽い口調で包み隠さず暴いていった。
 綾人の声は殆ど聞こえないのだが、性能のいい盗聴器は綾人が驚いたり笑ったりする息づかいを伝えてきた。幸人は両手で顔を覆ってソファに突っ伏し、この辱めを受ける時間が早く終わる事を祈った。
「白鳥さんは…ゆきちゃんの事、どうして、そんなに、詳しいん、ですか…」
 暫くしてから、何だか呂律が回っていない綾人の声が聞こえて幸人は顔を上げた。もしかして、飲み過ぎたんじゃあるまいかと聞き耳を立てていると、「どうしてだと思う?」という挑発的な白鳥の声がした後は沈黙が続いただけだった。
「綾ちゃんは、本当に薬が効きやすいね」
 直接こちらへ話しかけるような声に驚いて受信機を凝視すると、まるでそれを見ていたかのように「これから綾ちゃんを部屋へ連れて行くから」と白鳥の声が聞こえ、それっきりプッツリと通信が途絶えてしまった。
 何が起こったのかと不安に駆られながら、幸人は白鳥の言葉を信じて待っていたが、十分経っても二十分経っても二人は姿を現さなかった。

NEXTは成人向ページです。未成年の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

BACK [↑] NEXT

Designed by TENKIYA