INDEX NOVEL

忘れられないSt. Valentine's Day 2011
成 功 報 酬 〈 上 〉

※ 性描写があります。未成年の方はお読みにならないでください。

 頬を擽る柔らかい感触に幸人は目を覚ました。
 ゆっくり瞼を開くと、ベッドサイドの間接照明を受けた綾人の細く柔らかい髪の毛が見えた。手を伸ばし感触を確かめる。ふわりと揺れて甘い香りがした。誘われるようにキスして頬ずりすると、腕の中でぐっすり眠っていた綾人が「ん…」と吐息を漏らして身動いだ。
「綾、おはよう」
 耳元で囁いたが、綾人に起きる気配はなかった。無理もないかと幸人はクスッと小さく笑った。
 約束通り鎌倉の家の新年会に出席した綾人を、親戚の衆目を浴びながら拉致するように連れ出して、葉山のホテルに車を乗り入れたのが午後の五時。それから延々と綾人の身体を抱いていた。
 ベッドで二度、浴室で一度、それからルームサービスを呼んで軽く食事をとったあと、また気が遠くなるほど舐めて触ってと愛撫に時間をかけて達かせ、『さあ、今度は自分の番』という所で綾人が本当に気を飛ばしてしまったため、仕方なく解放してあげたのは白々と夜が明ける頃だった。
 カーテンの隙間から差し込む光の具合で、もうチェックアウトの時間だろうと思ったが、気持ち良さそうに寝息を立てている綾人を起こすのは忍びなかった。ふと、別に急いで帰る必要はないじゃないかと、焦燥感に駆られていた身体の力を抜いて深く息を吐き出した。腕に感じる綾人の重みが、じわじわと覚醒を促して心地良かった。
 そうだ。正月休みはまだ残っているのだし、もう一泊しても構わない。そのために融通を利かせてくれる友人のホテルを予約したのだ。それに何より、十三年も我慢して手に入れた愛しい従兄弟との逢瀬が、一晩なんかで足りる訳がない。本当に、よくも諦めようなどと無駄な足掻きをしたものだと、自嘲しながら綾人の寝顔をじっくりと眺めた。
 初めて会ったのは幸人が六歳、綾人は三つになったばかりだった。その頃の綾人はあまり人見知りもなくて、深い二重の大きな瞳を瞬いて、細い黒髪を揺らしながらよく笑う、それはそれは愛くるしい子どもだった。
 幸人は祖母が大事にしている稚児人形みたいだと思った。まるで胡粉を磨き上げたようなつるりと白い肌をして、同じくつるりと光る赤い唇がサクランボウのように見えた。食べたら甘いのではないかと、その小さな唇を口に含んだ時の事を、今でもはっきり覚えている。甘くはなかったが、しっとりとして柔らかく、その心地よさに陶酔した。
 それから綾人が遊びに来ると、人目のない時を狙って何度も何度もキスをした。綾人は可愛い子どもの常でキスされ慣れているのか、大人しく幸人に唇を差し出した。
 既にこの時から綾人に特別なものを感じていたが、一方で、それが禁忌である事も幼心に分かっていた。分かっているからこそ、逆に煽られて大きく膨れあがっていった。
 幸人が大人たちの前で甲斐甲斐しく綾人の面倒を見ていたのは、そうしていれば少々過剰なスキンシップをしても誰にも咎められないし、何より綾人に警戒されないで済むからだ。
 目論見通り、幼い綾人は何をされても嫌がらず、幸人の思うがままだった。嘘を吐いた罰として擽るなんぞは序の口で、お医者さんごっこと称して身体の奥まで弄っていたのはしょっちゅうだった。そう、母親に見咎められるまでは…。
 昨年のクリスマスに綾人が自分を簡単に受け入れられたのは、この時の刷り込みが功を奏したものだろうと幸人は冷静に考えていた。恐らく綾人は完全なヘテロで、気持ちはどうあれ実際に身体を繋ぐ段になったら、拒否される可能性は高いだろうと。だが、そんな不安は杞憂に過ぎず、綾人は易々と幸人の肉体を受け入れた。
 幸人は昨夜の綾人の媚態を思い出し、余計な所まで覚醒しはじめたのを感じて苦笑した。同時に、ある事を思い出し、自由になる左手で頤を捉え左顔が見えるように傾けた。
 綾人の唇の下に小さな黒子を見つけたのだ。痛みに弱い綾人のために、鉄壁な窄まりをじっくり解してやっていた時に初めて気がついた。昔からあるのかどうか、記憶を探ったが思い出せなかった。
 右に顔を傾けると、昔のまま変わらない犯しがたい清純な面が、左側の黒子が現れると途端に蠱惑的な雰囲気を醸し出す。それはそのまま、あられもなく幸人に縋って身悶える綾人の媚態に繋がって、悩ましい気分にさせられた。
 堪らずに舌先で黒子を舐めるとそのまま唇へ舌を這わせた。舐めて濡らした唇を口に含んで愛撫すると、閉じられた目蓋が震え長い睫毛が揺れた。綾人の僅かな変化も幸人は見逃さなかった。綾人の下敷きになっていた右腕を起こして、綾人の身体を横向きにして抱き寄せる。寝ている筈の綾人の顔は耳まで赤くなっていた。
 笑いを堪えながら綾人の背筋に指先を滑らせて、双丘のあわいを探る。途端に、指の進入を防ぐように尻タブが硬くなるが、素知らぬ振りで窄まりを撫でた。指を立てて手慣れた仕草で回し入れると、慎ましく閉じられた入口は簡単に幸人を受け入れる。数時間に渡って凶器に近い太さの肉塊を咥えさせられていたのだから仕方がない。
 滑らかな襞で覆われた内部は、昨夜の余韻を残してしっとりと濡れていた。入口が必死に収縮して閉じようとするけれど、却って中へ誘うように締め付けただけだった。
「いつまで狸寝入りを続けるつもり?」
 耳元で囁くと、「だって…」と掠れた声が胸に直接響いてきた。「だって、何?」と聞くと、思った通り『恥ずかしい』との台詞が続いた。
「昨日、あんなに色々したのに、まだ恥ずかしいの?」
 意地悪く聞くと綾人は少しふて腐れたように「もう、朝だし…」と呟いた。寝こけていた上に、寝たふりで遣り過ごそうとしていたくせにと笑いながら「もうお昼なんだけど」と突っ込みを入れると、綾人は驚いたように「帰らなきゃ」と慌てて身体を起こそうとした。
 これには幸人が慌てる番で、綾人の身体を抱き竦め「どうして?」と問うと、「パパ…、えっと、父さんたちが帰ってくるから」と小さな声が返ってきた。
 そう言えば、旅行に行っていると聞いていた。だから、昨日の新年会には綾人だけが出席したのだ。それは幸人にとって好都合だったが、どうして両親の帰宅に合わせて綾人も帰らないといけないのか。
「もう、帰らないといけないの?」
「そんな事もないけど…」
 口籠もる綾人に、幸人は次の手を打った。綾人から顔を背け「そう…」と、如何にも気落ちしたようにため息を吐いた。
「このあと、綾人とマリーナのレストランに行こうと思って、楽しみにしていたんだけど…」
 残念だなと言いながら綾人の中に入れた指をゆっくり引き抜こうとする。
「あっ、ん…」
 綾人は身体を震わせて幸人にしがみつくと、お尻にくっと力を入れた。途端に指の動きが止められる。
「行く! 大丈夫。夜までに帰ればいいだけだから。お昼、ゆきちゃんと一緒に行く…」
 そう必死で答えると幸人の胸に顔を擦りつける。思った通りの反応を示す綾人に、幸人は口元が緩みそうになるのを必死で堪えた。
 子どもの頃から何でも従う綾人だったが、たまにはこうして逆らう事もあった。そんな時は、大袈裟にガッカリして見せると直ぐに譲歩してくるのだった。幸人は更に攻勢をかけた。
「お昼だけ?」
 途中まで引き抜いた指をもう一度押し込みながら耳元で囁く。
「ああっ…」
 綾人は仰け反って逃げを打とうとするけれど、グッと引き寄せ逃げないように抱きしめる。窄まりにもう一本指を増やして襞の感触を楽しむように抜き差しすると、太腿に密着している綾人の股間が硬くなるのを感じた。
「駄目なの? 綾…」
 『とどめ』とばかりに甘く強請るように耳の中へ吹き込むと、綾人はふるっと震えて幸人を見上げた。
「駄目…」
 言いながら切なげに潤んだ瞳を瞬く。その蠱惑的な表情に、幸人は全身の血が激しく一点に凝集するのを感じた。
 無意識にこんな誘い方をするなんて…。驚きながら吸い寄せられるように綾人の口元の淫靡な黒子を眺めていると、綾人の唇が音も無く動いた。何と言ったか分からなかったが、もう、返事などどちらでも良かった。
 激しい口づけで綾人の唇を塞ぐと、口内を愛撫しながら指の動きを激しくする。綾人の身体から力が抜けた。幸人は人形のように意志の通わない足を担ぎ上げ、柔らかく綻んだ入口に熱い猛りを打ち込んだ。
 寸止めされて燻り続けた欲望は止まる所を知らず、幸人の激しい思いの丈を全て出し切る頃には、陽はとっぷりと暮れてしまっていた。結局ランチはディナーへ化けてしまい、綾人を自宅に送り届けたのは深夜を回ってからだった。

「それで? 俺を呼び出したのは、その惚気を聞かせるためな訳?」
 白鳥 誠(しらとり まこと)は、グラスの中の丸い氷をくるくる回しながら、わざとらしく呆れたような声を出した。
「惚気じゃない。状況説明だ」
 幸人は憮然とした表情で言い返したが、半分は白鳥の言う通り、惚気だ。可愛い綾人の話ができるのは、今のところ白鳥一人しかいないのだから。
「状況説明ね…。ハイ、ハイ。もうジューブン分かりましたから、今回のご依頼の説明をどうぞ」
 白鳥はもうお腹いっぱいという顔をして、空になったグラスを少し持ち上げた。カウンターの中央にいたバーテンダーが笑顔で近づいてくる。白鳥がウイスキーのおかわりを頼むと、かしこまりましたと妙な流し目を送って下がって行った。
 白鳥と会う時に必ず使う都内某所のバーラウンジは、時間が早いせいか閑散としていた。幸人は白鳥と会う以外でここを利用する事はないが、白鳥は常連らしく従業員と顔見知りらしい。幸人はバーテンダーが視界から消えると漸く口を開いた。
「今日は仕事の依頼じゃない。相談だ」
「へぇ、“ 相談 ” ねぇ…。じゃあ、“ 相談料 ”、一時間一万円」
 白鳥はカウンターに頬杖をつきながら茶目っ気たっぷりに横目で笑って見せたが、本気で言っているに違いない。中学校からの付き合いになるこの親友は、お人好しの恋人のために年中金欠状態で、良家の出とは思えないほど金に意地汚い。ここの払いも幸人に任せる積もりらしく、遠慮なしに飲み続けている。
「クリスマスの時の失態の穴埋めに、相談ぐらいタダで聞けよ」
「失態? 冗談でしょう。さっきの惚気話は、成功の証じゃないの」
「冗談じゃないのはこっちだ。綾人の苦しむ姿に、どれだけ肝が冷えたと思う?! 俺はデートの邪魔をしろとは頼んだが、毒を盛れとは頼んでないぞ!」
「毒だなんて、人聞きの悪い事言わないでよ。唯の下剤じゃない。まあ、あれには俺も驚いたけど。綾ちゃんって、昔っから心も身体も繊細なんだねぇ。あっちの女の子なんかケロッとしてるからさ、連れ出したはいいけど途中でどう巻こうか焦っちゃったよ。駅まで行って漸く効き目が現れて、脂汗を浮かべながら『用事思い出しちゃった〜』とか言って、駅のトイレに駆け込む姿を見た時は、腹抱えて笑っちゃった」
 白鳥はその時の事を思い出したのか、カラカラと顔に似合わない下品な笑い声を上げた。人の事は言えないが、相変わらずの口の悪さに幸人が嫌そうな顔で睨むと、悪い悪いと言って口元を押さえた。
「彼は、昔とちっとも変わらないね。最初は、可愛いだけで一体何処がいいんだかと思ってたけど、お前に頼まれて張り付いてるうちに、まあ、分かるような気がしたよ。だから、誠心誠意、面倒臭い素行調査も別れさせ屋の依頼も、こなしたつもりなんですけどね」
『別れさせ屋』という生々しい響きに幸人はどきりとした。実際は恋人ではなかったから罪悪感は半減したが、多少の後ろめたさを感じて「彼女、大丈夫だったのか?」と問うと、白鳥はふんと鼻を鳴らした。
「さあ。さっさと帰ったから知らないけどね。駅ビルに薬局も入ってたから大丈夫だったんじゃない。それに、女は心も身体も男より丈夫だから平気だよ。特にあんな、いくら初対面でほっとかれたからって、苦しんでる相手をほったらかしてホイホイ俺の誘いに乗るような娘は、心配なんかする必要ないさ。昔から思ってたけど、女って、ほんっと無神経で残酷だよね。ほら、綾ちゃんが新年会に来なくなった原因作った、あの娘…夏生(なつき)ちゃんか。あれ、わざと言ったんだぜ。まあ、そうさせたのは、幸人(こうじん)だけどね」
「よく覚えてるな、そんな昔の事…」
 十年前、新年会の席でたった一度会っただけの夏生の名前を覚えていた白鳥の記憶力に、幸人は改めて舌を巻いた。昔から知能も外見も人より格段に優れているが、特に視覚と記憶力は秀逸で一度読んだだけで教科書一冊暗記ができた。白鳥にとっては、一度見た人の名前と顔を覚えるなんて朝飯前のはずだ。今、その能力は恋人が営む『探偵事務所』とは名ばかりの、『何でも屋』の仕事に大いに役立っているのだろう。
「覚えてるよ。忘れるもんか。お前は容姿端麗成績優秀でモテまくってたくせに、いつもカリカリ尖ってて近づく相手を片っ端から切っちまうようなヤツだった。それが好きな相手を自分から遠ざけてるストレスなんだと知って、お前の想い人がどんな子か、見たくて見たくて無理矢理くっついて行ったんだから、抜かりなく逐一観察していたさ。あの時、夏生って娘、綾ちゃんと同い年ぐらいだろうけど、一端の女みたいに色気づいて必死に秋波を送ってたのに、お前はメロメロな顔して綾ちゃんばっかり見てただろう。だから、気づいてくれない腹いせに綾ちゃんを虐めたんだ。女って生き物は、好きな男は決して責めないが、代わりにその相手を狙うのさ。彼女の目論見は成功し、目障りな綾ちゃんはお前の前から姿を消しただろう? お前の親族は極端だよね。お前やあの娘みたいに強情で腹立つようなのと、綾ちゃんみたいに謙虚で苛々するようなのと。足して二で割ったら丁度いいのに」
 白鳥は得意げに講釈を垂れてケラケラと笑った。いつもはここまで明け透けに言ったりしないから、どうやら酔っぱらっているらしい。こいつは酒癖が悪いんだったと、幸人は内心で舌打ちした。
 オマケに、探偵が推理した事の顛末は少し外れていた。夏生は綾人を溺愛している祖父母に疎まれて、あれ以来鎌倉の家には出入り禁止になった。だから幸人は綾人と同様に夏生ともずっと会っていなかった。その後二人に会ったのは祖母の葬儀の席だったが、夏生はもう幸人は眼中にないようで、どういう風の吹き回しか綾人にやたらと話しかけていた。
 綾人に近づけない幸人は苛々しながらその様子を眺めていたが、綾人は全く上の空で早々に引き上げてしまったから、ほっとしたような残念なような気がして、その訳の分からない苛立ちを夏生にぶつけたい衝動に駆られた。それはさすがに大人げない気がして止まったのだ。
「まあ、俺はそんなお前だったから、随分慰められたけどね。あっちの方もお互い後腐れなくやれて助かったし。大学入ってからは音信も途絶えがちになって、その内に俺の方は上手くいっちゃって、ずっと気になってたからさ。お前、本当に諦めるのかな〜って。そうしたら、いきなり綾ちゃんの身辺調査してくれなんて言うから、ちょっと嬉しかったんだよ」
 白鳥は掛け値無しに嬉しそうな顔で微笑んだ。いつもの嘘くさい優雅な笑顔ではなく、恐らく恋人の松崎(まつざき)と幸人にしか見せない顔。こんな顔でしおらしい事を言われると、この口の悪さもつい許せてしまう。
 バーテンダーがカットが美しいバカラのグラスに入れたウイスキーを運んで来た。お待たせ致しましたとグラスを置くと、白鳥は唇の端を上げただけの上品な微笑を浮かべありがとうと囁いた。また例の妙な流し目を送るバーテンの顔を見ながら、幸人は松崎の苦労を思って苦笑いが漏れた。
「酒は、もうそのくらいにしておけよ」と釘を刺すと、「これから幸(こう)の “ 相談 ” を聞くんでしょう? 飲まなきゃ聞けない話じゃないの?」と鼻で笑われた。ちょっと気分を害されたが、さあどうぞと促され、幸人は漸く本題を口にした。
「綾が会ってくれないんだ」
「へっ? さっきラブラブな話、してたじゃない」
「だから、正月三日の新年会から会ってないんだ」
「あら、まあ。それって…、最初にがっつき過ぎたからじゃないの?」
「…………」
 ギロッと横目で白鳥を睨んだが、幸人は直ぐに項垂れた。自分でも少しそう思っていたからだ。
「でも、まあ…まだ一ヶ月だし、綾ちゃんって、殺人的に忙しいんだろう? ブラック会社に勤めてるんだからさ」
 白鳥は取り繕うように仕方ないんじゃないのと言った。
 確かにそれもある。クリスマスの後も少しでも時間が取れれば会いたかったのだが、残念ながら無理だった。いくら景気が悪いと言っても、それなりの企業にいれば師走はやはり忙しかった。
 幸人の勤める商社は石油から食料品まであらゆる物品を扱う仕事をしているが、以前の部署では取引先の殆どが海外で、相手がクリスマス休暇に入ってしまえば、その年の仕事は殆ど終了したようなものだった。それを綾人に繋ぎをつけるために半ば強引に広報室へと潜り込んだものだから、年末の挨拶回りや接待の数が半端ではなく、思ったよりも忙しかった。
 それに、期待したほど綾人に会える機会が少ない事も判明し、かなり失望した。まあ、そこは結果オーライで、綾人を手に入れられたのだし、マスコミ向けの撮影やインタビューなどで社長や重役に会う機会が増えたから、幸人にとって損はなかった。
 問題は綾人の方で、彼は就職情報を専門にしている会社に勤めているが、広告代理店の営業と進行管理を兼ねたような仕事内容だから、印刷物の発行があると年末進行のしわ寄せがある上に、年明けに開催される就職が決まっていない大学生向けの就職セミナーの準備に追われていた。
 クリスマスに『忙しくてインポになった』と聞いてはいたが、遠慮して出している携帯メールの返信も、返って来るのは二日に一度。それも殆どが深夜を過ぎてから『ごめんなさい。忙しくて…』という枕言葉つきの疲れ切った日常が綴られていて、聞きしに勝る状態だった。
 仕方なく、幸人は年が明けるのを子どものように指折り数えて待った。そうして迎えた新年会の席で、幸人の我慢は限界に達した。
 綾人の突然の鎌倉訪問は、親戚一同を驚かせ、また同じくらい喜ばせた。昔の面影を残しつつも端正な大人の男に成長して現れた綾人を、みんな熱烈に歓迎したが、特に祖父と古尾谷家の三女である光子叔母の次男、理人(りひと)が綾人にベッタリと寄り添って離れず、幸人を不快にさせた。
 祖父は、まあ仕方がない。数いる孫のなかでも綾人を溺愛していたし、害にはならない存在だ。だが、綾人と同い年で大学の同期でもあった理人は、幸人の知らない綾人の姿を知っている数少ない存在であり、綾人を溺愛する同属の匂いが芬芬と漂う要注意人物だった。綾人が新年会に出なくなってからこちらも同じく姿を現さなかったから、理人は当然来ないと思っていた。
 きっと、年末から夫と海外旅行に出ている綾人の母親、綾子が教えたのだろう。三女の光子と四女の綾子は仲が良かったから、久し振りに顔を出す綾人の面倒を頼んだのかも知れない。綾子にとって綾人を遠ざけていた幸人は、そうした頼み事をするに値しない存在に目されている。それは自分が招いた結果とは言え悔しくて仕方がなかった。
 綾人も綾人で、自分といる時よりも自然な態度で理人と接し、甘えた声で「りーちゃん」と理人を呼ぶのを聞くに至って、幸人は極限にまで伸びたゴムのような状態だった忍耐が、パチンと音を立てて切れたのを感じた。忍耐のゴムは反動がついて、幸人の心を傷つけた。その裂け目からは密かな残虐性が覗いていた。
 これ以上長居をすると、親戚一同の前でカムアウト寸前の内容を宣言してしまいそうで、最もらしい口実をつけて綾人を連れ出し、男は初めてだという綾人の身体を加減もなく思う存分貪った訳だ。
 しつこくて嫌気が差した…かも知れないと幸人も考えたが、その後のメールの遣り取りでは、必ず『僕も早く会いたいです』と結びの言葉が添えられていて、特に厭われているようには感じない。だが、どんなに誘いをかけても『ちょっと都合が悪くて』と断られるのだ。何とか食い下がりたかったが、仕事を理由に出されては社会人として引き下がるを得なかった。
「そうねぇ、忙しいのは事実だろうし疲れてるんだろうけど…。でも、恋人ができたんなら、俺だったら寝る間も惜しんで逢瀬を楽しむねぇ。それで翌日黄色い太陽拝んでも幸せな苦しさだしさ。でも、“ あの ” 綾ちゃんだからねぇ…」
 白鳥は痛ましそうな顔をして幸人を見ながらため息を吐いた。素行調査のため三ヶ月近く綾人を尾行していたし、十歳から二十三歳になるまでの空白の過去を、出来うる限り調べ上げた白鳥は、今や幸人と同等に綾人を熟知していた。
「今、それとなく転職を勧めるか、一緒に暮らすよう誘うつもりでいるんだが…」
 それしか会える方法がない気がした。白鳥は「どっちも無理そうだけど…」と呟いたあと暫く考え込んでいたが、「ねぇ…」と悪巧みを考えたとき特有のちょっと媚びを含んだ声音で囁いた。
「何だ?」
 幸人は条件反射でどきどきしながら尋ねると、「それ、依頼として引き受けたら、いくらくれる?」と真顔で言った。
「はっ?」
「だから、転職か、同棲するか、どちらかに綾ちゃんを同意させたら、報酬払ってくれる?」
「そりゃ、まあ…」
 八方塞がりだったのだから願ってもない事だがと思いつつ、用心しながら「もう、そんなに払えないぞ。いくら欲しいんだ?」と聞くと、白鳥はぱっと片手を広げて見せた。
「五万か?」
 何だ、そんなもんかと拍子抜けして呟くと、「一桁ちがう」と白鳥は片目を瞑った。
「馬鹿か?!」
「ええ〜? もうすぐ年収一千万円越えするんだろう? 綾ちゃんとの夢の同棲生活が送れると思ったら安いもんじゃない。ボーナス一括払いでもいいし。分割もオッケーよ」
「いくら何でも、そこまで稼ぎはない! それに、何だかんだで、今までもう三十万は払ってるだろ。俺は領収証も貰ってないんだぞ。お前、あれ、売り上げに計上してないだろう。松崎は知ってるのか?」
「う〜ん、半分は知ってるけど、半分は知らないかな。いいじゃない。別にこっちがどう処理しようと」
 白鳥は都合が悪くなったのか少しムッとした顔で言い返したが、あまり威力はなかった。怖い物なしの白鳥だが、やはり惚れた弱みか、恋人の名前を出されると弱いらしい。
「確かにどうでもいいが、五万だったら手を打ってもいい」
 やってくれるのかと強気で問うと、白鳥は「まあ、いいでしょう」と肩を竦めて見せた。
「その代わり、確約は取れないと思って。あと、見てる限り転職を勧めるのは難しいと思う。同棲も難しいとは思うけどねぇ、その気にさせるお手伝い…くらいはできると思うよ。五万じゃ、これくらいで勘弁して」
 言いながら意味ありげな含み笑いをして見せる。値切った途端ハードルを低くする白鳥に呆れながらも、難しいのは承知の上だったから、反論する気にはならず黙って空になったグラスを弄んでいると、スッと白鳥のグラスが近づいた。
「契約成立?」
 耳元で白鳥の低い声がする。小さくてもよく通る声だった。この声で何人の人間を誑し込んで来たんだろうかと思いながら幸人が頷くと、「まあ、見てて。悪いようにはしないから」と白鳥のグラスが幸人のグラスを軽く弾いた。

BACK [↑] NEXT

Designed by TENKIYA