INDEX NOVEL

秘密のピーチパイとチェリーボンボン 〈 20 〉

「……ありがとうございました。失礼します…」
 神田駅近くのパチンコ屋のタバコ臭い事務室を出ると、ギラギラ輝く太陽の日差しに目がクラクラした。急いで日陰へ移動し、ポケットからメモ帳を取り出して、バイト先リストにバツ印を付けた。本日、10軒目の黒星。
「はあぁ〜〜………」
 断られ続ける事に気力が削がれて、僕は盛大なため息を吐くと仕方なく歩き出した。
 次のバイト面接の電話をしなくちゃと思うけど、携帯電話を持ってないから公衆電話を見つけなきゃならない。だけど、今どき公衆電話を見つけるのは大変で、しかも東京は九月に入った今も猛暑日が続いていて、涼しい高原の田舎から出て来た僕には、十分も歩くと暑くてとても耐えられない。
「帰りたいなぁ……」
 思わず口に出していて、はっとして自分の頭を叩いた。気が緩むとすぐに弱音が出てしまう。こんな事じゃ、叔母さんの所を出て来た意味がなくなってしまうじゃないか。
 滲んだ涙を拭って鼻を啜ると余計にのどが乾いてしまい、お金がもったいないけど熱中症になっちゃうよりいいかと、すぐ目についたコーヒーショップで一息つく事にした。アイスコーヒーを買って窓際の禁煙席に陣取り、一気に半分まで飲んで漸く生き返った気がした。
『駆け落ちしよう』とまで言ってくれた泰治を振り切り、ひとり東京へ戻って今日で四日目。
 毎日ネットカフェに泊まりながらアルバイトを捜しているけど、なかなか見つからない。理由は、住み込みのアルバイトを探しているからだ。
 別に、求人がない訳じゃない。ネットカフェで夜な夜なネット検索すると、結構たくさん見つかる。でも、観光地の宿泊施設での募集が多いんだ。東京にこだわりがある訳じゃないけど、あまり知らない所へ行くのは情けないけどまだ心細くて、最初は東京で探したいと思っていた。
 宿泊施設以外のバイトで寮とかアパート完備の仕事は、パチンコ屋さんとかネットカフェとかが多い。もちろん、どこでも面接はしてくれるんだけど、全部見た目で断られちゃうんだ。
 自慢じゃないけど容姿には自信があったから、最初はどうして断られるのか分からなかった。黒星を重ねる毎にどんどん自信も喪失して、勇気を出して「どうして駄目なんでしょうか?」って聞いたら、「童顔だから」と言われて絶句した。
「いや、別に高卒ってのを嘘だと思ってる訳じゃないけど、君って、どう見ても中学生くらいにしか見えないんだよね。しかも、住み込み希望でしょう? うちのような業界はさ、警察とか煩いから家出中の未成年を雇ってるなんて、例え噂でも立てられたら困っちゃうんだよ」
 ほとんどが同じ理由だ。池袋のネットカフェなんて、「君、本当に男の子なの? もしかして、男の娘?」とか、あからさまに変な目つきで見られて寒イボが立った。
「男です!」って強調したけど、全然人の話を聞いてやしない。したり顔で「アキバとか行ってみたら? 君の顔なら一発で雇ってくれる所多いと思うよ」とか言われてムカついたんだけど、三日目あたりからすごく焦ってしまって、その気になって秋葉原に来てみたら、こっちはメイドカフェとかコスプレ喫茶の女の子募集ばかり。男も募集してるけど、住み込みはなくてがっかりした。
 確かに、こちらは童顔でもオッケーらしく、道でいきなり声をかけられてバイトしないかと言われた時は、『やったぁ!』と思ったけど、喜んで付いて行ったら「えっ? 君、女の子じゃないの? もしかして、男の娘? それともオネエ系? まあ、可愛けりゃ、何でもいいけどね〜」とか言われて、「僕は男だ〜!」とイスを蹴り倒して出て来たのであった。
 どいつもこいつも、どこに目があるんだと思った。この暑いのに、胸にさらしを巻いて目立たないようにしたし、服装も男っぽい…というか、普通に男物を着ているのに、何で女に見えるんだっっ!
 男に拘っていた僕にとって、これは屈辱以外の何物でもなかった。
 とは言え、六年も女として暮して来たから、自分じゃ分からないけど、もしかしたら仕草がオネエっぽくなっているのかもしれない。だったら性別を女にした方が仕事が見つかるだろうか?
 ここには僕の秘密を知る人はいないんだから、もう女の子の格好はしたくない。
 だけど、仕事を見つけられないと、いくら手術用に貯めた貯金が二百万円近くあっても、このまま潜伏生活を続けるなんて無理だ。やっぱり地方の旅館とかのバイトを探した方がいいだろうか?
 氷で薄まったアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、ぼんやりそんな事を考えていた。
 ふと、窓の外から視線を感じて目を向けると、店の前にいた如何にもホストと言った格好の茶髪の男と目が合った。男は僕に向かってニッと口の端を上げて笑った。瞬時にゾクッと嫌な予感がして目を逸らしたけど、男はそのまま店の中へ入って来てしまった。
 どうしよう。すごいドキドキして、全財産が入った大きめのショルダーバッグに手をかけて、いつでも出られる準備をした。
 男はすぐには近寄って来なかった。どうやらただコーヒーを飲みに来ただけのようだ。だけど、落ち着かないのは変わらない。僕は思い切って席を立ちそそくさと店の外へ出た。
 もう今日はどこかで夕飯を食べて、ネットカフェに落ち着いたら、面接対策を練り直そう。
 そう思って駅に向かって歩いていたら、突然肩を掴まれた。
「ひぃっ!」
「あっ、ごめん、ごめん。驚かしちゃったぁ?」
 振り向いたら、さっきのホストもどきがニヤケた顔を近づけて来た。
「君さ〜、仕事探してるんだろう?」
 僕は息を呑んで男のニヤケ顔を凝視した。どうして仕事を探してるなんて分かったんだろう。頭に心臓があるみたいに頭がガンガンした。これはきっと警笛だ。
「そ〜んな不振そうな顔しないでよ〜。恐い事なんてないからさ〜」
 男はまるでエスパーみたいに、僕の考えている事を先読みする。
「さっき、パチンコ屋の裏から出て来たろう? ガッカリした顔してたし、そのでっけー荷物で一目瞭然。どっか田舎から出て来たんだろう? 俺、親切心で声かけたんだぜ〜」
 僕はショルダーバッグの紐を後悔で強く握り締めた。やっぱりこんな大きな荷物で動き回るんじゃなかった。ロッカー料金をケチったためにこんな男に目をつけられるなんて。
 逃げなきゃ! 早く逃げなきゃ!! と心の声がこだまして、男の声が遠くに聞こえる。
「俺、すぐそこの『アマンダ』ってキャバクラの人事担当してんの。君、可愛いからさ、うちの店で働かない?」
 頭も心臓もガンガンしてたけど、しっかり台詞は流れ込んで来て意外な単語を聞き止めた。
「キャ、キャバクラ?」
「そっ。でも、お触りなしの健全な店だから、安心していいよ?」
 言いながら、男は懐から気障な仕草で名刺を取り出して見せた。
 僕はてっきり、この男はホモで、宿を提供してやるからエッチな事をさせろと言われるんだと思ってたから、まじまじと名刺を眺めた。意外と素っ気ない白い名刺に、株式会社八ッ城 総務部人事担当と書いてある。だけど、何でキャバクラ?
「ボーイとして、雇ってくれるって事ですか?」
「はっ? 何でボーイ? キャバ嬢としてよ? 決まってるでしょ」
 こいつも、女と勘違いしてるんだ……。
 声をかけて来た理由が分かった途端、怒りが恐怖に勝った。
「僕はっ、お・と・こ、なんで、そんな仕事できませんっ!」
 振り切って駅に向かって歩き出したけど、男はしつこく後を追って来た。
「男の子の格好をしてるだけでしょ〜。見れば分かるよ」
「えっ?」
 自分でもバカだと思うけど、思わず立ち止まってしまった。だって、自分では男のつもり……って言うか男なのに、どうして “ 女 ” と言われるのか、ずっと不思議だったんだ。
「ほら、そうなんだろう?」
 くそっ、カマかけられたんだっ!
「違います!」
 また歩き出したけど、今度は腕を掴まれてしまった。
「ちょっと、離せよ!」
「大人しく話を聞いてくれるんなら、離してあげるよ?」
 今までのダラ〜っとした喋り方が、急に影を潜めて声が低くなった。僕はゾッとして男を見上げた。割と整った優しげな顔で笑っているけれど、キツネみたいに狡猾そうな目は笑っていない。
「ほんの一時間だよ。話を聞く位いいじゃない。別に、これから行く所も決まってないんでしょう? 美味しいもの奢ってあげる。君って、ロリっぽくて俺の好みなんだよね。スカウトの話とは別に、何なら今日の部屋を用意してあげるよ?」
 僕の予想は外れてなかった。ホモじゃなかったけど、かどわかすつもりだったのは一緒だ。前より更に激しく動悸がして震え始めてしまったけど、逃げる気力は残ってた。
「……男なんだから、話なんて…聞いても仕様がないだろっ」
「はっ、まだ言ってんの? こんな細い腕して……喉仏もないじゃない。俺ね、これでもスカウトマンとして見る目あるよ? いくら奇麗にしてても、オネエの子はすぐ分かる。大体、オネエの子は隠したりしないしね。君、胸に何か巻いてるでしょ? 肩幅が狭いのにやたら胸板が厚いもの。あっ、もしかして男装系百合の子? うわっ、却ってそそられるわ〜」
 胸を隠してると言い当てられた時点で頭が真っ白になって、最後の方は何を言ってるのか聞こえてなかった。だけど、とにかくこの男から逃げなくちゃとだけは強く思って、僕は覚悟を決めた。
 この男には何を言っても無駄だし、きっと普通じゃ逃げられない。こうなったら、泰治に教えて貰った護身術しかないっ!
 僕は震えを止めるために息を吸った。僕の動きが止まった事で観念したと勘違いしたらしい男は、僕の腕を掴む力を弱めた。瞬間、僕は男の股間目がけて膝頭を突き出し、そのまま思いっきり体当たりして男の身体を突き飛ばした。
「ぐあぁッ!!」
男は短い悲鳴を上げて仰向けにぶっ倒れ、すぐに股間を抑えて海老のように丸くなった。
 どうやら膝が見事に命中したらしい。ほっとしたのも束の間、辺りを歩いていた人が男の悲鳴に立ち止まるのが見えて、僕は別な恐怖で反射的に走り出した。
 全速力で走るなんて久し振りだし、走る前から動悸が激しかったから、すぐに苦しくなってしまった。だけど、男が追いかけて来るかもって恐怖と、もしかしてかなり深手を負わせてしまったかもしれないという、二重の恐怖で立ち止まる事が出来なかった。
 本当は駅に入ってそのまま別な場所へ逃げてしまえば良かったんだけど、駅だと傷害罪の現行犯で捕まるかもという恐怖があって、反対側の人気のない方へ向かって無我夢中で走り続けた。
 時間的には五、六分くらい走ったろうか。自分ではかなり遠くまで走ったと思ったところで、突然「うわッ!!」という悲鳴と同時に、男の人の驚いた顔が目に飛び込んで来た。僕は絶えず後ろを気にしながら走ってたから、横から出て来た人に気づかなかったんだ。
 あっ、と避けようとした時には間に合わなくて、僕はそのまま前に突っ込んでしまったんだけど、相手の方は運動神経が良いと見えて、寸での所で脇へ避けたのと同時に、腕を広げて僕の身体を受け止めてくれたから、互いにつかみ合ったまま一回転したものの、倒れて大怪我する事態は免れた。
「あっぶねー……」
 ぎゅっと抱きしめられた頭の上で、男が安堵のため息と一緒に呟く声が聞こえ、僕は恐る恐る目を開けた。
「大丈夫か?」
 心配するような優しい声音に顔を上げると、無精髭のオジサンと目が合った。
 年齢は僕の叔父さんくらいだろうか。寝起きのようにボサボサな長めの髪と、無精髭なのかお洒落なのか分からない中途半端なアゴ髭が印象的な人だ。
 僕が見つめ過ぎてしまったためか、オジサンは困った顔をして首を傾げた。
「おい……」
「……あっ、はいっ、大丈夫です!」
 オジサンは身体を離してくれたけど、気が抜けたらすごく息が苦しくなっちゃって、前のめりになってゼェゼェしている僕の背中を擦ってくれた。僕はそのまま深呼吸を繰り返し、息が整うのを待った。
「何急いでたか知らないが、前見てないと危ねえぞ」
 呼吸が楽になったのを確認してオジサンはそう注意したけど、その台詞で俄(にわか)に自分の状況を思い出した僕は、猛烈に震え上がってしまった。無意識にオジサンの腕に縋って、急いで後ろを振り向いてあの男が追いかけて来ていないか確認した。
 僕の怯えた様子を不審に思ったらしいオジサンが「おい、どうしたんだ?」と窺うように聞いた。
「……さっき、変な男に声かけられて…どこかへ連れてかれそうになったから、逃げて来たんですけど……」
 それらしい人影は見えないけど、恐くて落ち着かなくて、後ろを振り返り振り返りしながら必死に説明すると、オジサンも目を凝らすようにして後方を確認し、「警察、行くかい?」と聞いた。
 僕はとんでもないと慌てて首を振った。そんな事したら家出人だってバレてしまう。
 オジサンは青くなっている僕をじっと見た後、ちょっと考えるように首を傾げてから言った。
「……ちょっと時間潰してやり過ごすか。うちの店でお茶でも飲んで行きなよ」
「えっ、お店?」
「ああ、すぐそこだから」
 そう言って指差した先に、ボロい二階建ての一軒家があった。
 一階が店舗で、見た目は古い床屋さんみたいだったけど、床屋さんの目印である赤、青、白のサインポールはついていなかった。代わりに、入り口の横に『麻雀荘(まーじゃんそう) 村田』という電飾看板があった。
 ついさっき、知らない男との遭遇で恐い思いをしたばかりなのに、見ず知らずの人について行っていいのだろうか? という不安はなくはないけど、僕の頭の警報装置はこの人には反応しなかった。
 泰治の例があるように人は見かけじゃないけど、優しそうな外見のこの人は、見たまんまの無害な人だと僕の第六感が告げていた。
「行っても……いいんですか? あの、どこかへ出かける途中だったんじゃ……」
 確かこの人、真横から出て来たから、店の入り口から出て来た所でぶつかったんだと思うけど。
「ああ。コンビニに買い物に行こうと思って出て来たら、いきなりあんたが飛び込んで来たんだよ」
 迷惑と言うよりもむしろ面白そうに言われて、僕は「すみません…」と恐縮した。
「別に急ぐ買い物じゃないからいいんだ」
 オジサンは笑うと僕の肩を抱くように促して、磨(す)りガラスの嵌ったレトロな扉を開けた。
 店の中は、やっぱり床屋さんみたいだった。
 床には臙脂色の絨毯が引かれていたけど、壁の下半分はモザイクタイル貼りで、壁の片側に鏡が三枚等間隔に並んでいた。でも、ある筈のカット用の椅子もシャンプー台もなくて、代わりに緑色のフェルトが張られた大きなテーブルが五台 ―― 雀荘って書いてあったから、たぶん全自動麻雀卓(まーじゃんたく)ってヤツだ ―― と肘掛け椅子が、狭い店内に上手い具合に配置されていた。
「おかえり…あれ、お客さん?」
 薄暗い部屋の奥から驚いたような男の声がした。
 目を向けると、入り口から真っ正面の奥にあるカウンターのスツールに男が座っていて、振り返った状態でこちらを見ていた。
 薄暗くはあったけど、男の髪が白髪に近いブロンドの短髪で、銀縁の眼鏡をかけているのは分かった。どう見ても堅気じゃないように見えたけど、駅前で声をかけて来た男のような嫌悪感は感じなかった。カウンターには全部で三脚スツールがあったが、店の中には男の他に誰もいなかった。
 男を見たまま僕が動かなくなってしまうと、無精髭のオジサンは「あいつは大丈夫だよ」とその男の側へ連れて行って座るように促した。僕は男とオジサンに断りを入れて、背の高いスツールにぎこちなく腰掛けた。
「可愛いお客さんだこと……」
 男は僕を一瞥して呟いた。遠目では若く見えたけど、口元の皺で無精髭のオジサンと同じ歳くらいだと思った。でも、すごい男前だ。
 くたびれた感じがする無精髭のオジサンとは正反対に、きっちりと銀行員みたいにスーツを着こなしている。ヘアスタイルや、磨き上げられた奇麗な爪や、色気を感じるような目線の動かし方から、芸能界の人かしらと、思わず見惚れてしまったけれど……。
 この男が、後に僕の運命を左右する事になるなんて、当然この時の僕は知る由もなかった。

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