INDEX NOVEL

秘密のピーチパイとチェリーボンボン 〈 18 〉

 駆け落ちを持ちかけた日、俺は午前十一時に遅い朝飯をマキの部屋へ運んだが、呼び鈴を鳴らしても応答がなかった。叔母さんから預かった合鍵を使って部屋へ入ると、マキは寝息を立ててぐっすり寝入っていた。
 朝方まで抱いていたから無理もないと、起こさずに食事をトレーごとテーブルに置いて母屋へ戻ったが、それが、マキを見た最後の姿だった。
 もしもマキを起こして話をしていたら、事態は違っていたかもしれない。だが俺は、明日の早朝の電車で、マキを連れこの町を出る事しか考えていなかった。だいたい、マキが一人で家出しようと思っていたなんて、誰が想像できただろう。
 母屋に戻って女帝に鍵を返しながら、「ぐっすり寝てたんで、食事は部屋に置いて来ました」と報告した。
「そう。ありがとう、泰治くん。じゃあ夕方頃、様子を見に行こうかしらね……」
 女帝は頬に手をあてて心配顔で呟いたが、彼女がマキの部屋に行ったのは夜八時を過ぎてからだった。明日は夏休み最後の土曜日で、ペンション恒例のバーベキュー大会の日であり、その準備のために忙しかったからだ。
 俺もいつもの業務に加えて不足分の皿やコップの買い出しに行かされて、駆け落ちの計画を立てるどころじゃなく、女帝を出し抜かなきゃならない焦りに苛まれながら、ホームセンターから急いでマキの部屋へ電話をかけた。
 なかなか繋がらない上に、繋がったと思ったら留守電のメッセージで、まだ寝てるのかとガックリしながら、駆け落ち後の当座に必要な持ち物と、電車の時間は調べる時間はなかったから、迎えに行く時間を追って連絡する旨を吹き込んで電話を切った。時間は午後四時過ぎだった。
 このとき、寝ていると思っていたマキは、既に部屋にはいなかったようだ。後の祭りって言葉があるが、電話に出ない事を訝しんで、帰ってから部屋を覗きに行きさえすれば、駅に向かったマキをぎりぎり捕まえられただろう。だが、そんな事を知りようもない俺は、ともかく用件を吹き込んだ事で安心してしまったんだ、コンチクショウ!!
 夜八時。明日の準備も済んで泊まり客の食事も済んだ頃、女帝はマキの様子を見に行った。俺は駆け落ちの準備をするために、食事を辞退して帰る用意をし、女帝が母屋に戻るのを厨房でクロさんと喋りながら待っていた。彼女と入れ違いでマキの部屋へ行くつもりでいたからだ。
 程なくして女帝は血相変えて戻って来た。
「あっ、あなたっ、どうしましょう!? マ、マキちゃんが〜〜!」
 勝手口から厨房へ転がるように飛び込んで来ると、賄いの用意をしていたクロさんに縋り付いて叫んだ。
「家出しちゃったのよーーっ!!」
 彼女の叫んだ言葉は、稲妻みたいに俺の頭を直撃し、灰のように真っ白になった。
「美代子さん、落ち着いて! マキちゃんが家出って、どういう事だい?」
「部屋にいないのよっ! 置き手紙があって、し、しばらく身を隠しますって……」
 半泣き状態の女帝は、手に握り締めた手紙をクロさんに差し出した。俺は二人の側へ駆け寄ったものの、ショックで声が出せなかった。クロさんは女帝から手紙を受け取ると、ざっと目を通してから信じられないという顔で俺を見た。
「あの、どうかしたんですか?」
 背後から声がして慌てて振り向くと、食堂にいた加奈子と譲が入り口からこちらを窺っていた。俺は二人の顔を見てようやく正気を取り戻し、クロさんに向かって「マキが家出したって、本当ですか?」と訊いた。
 俺の台詞に加奈子が短い悲鳴を上げ譲と一緒に側へ来たが、クロさんは慌てて手紙を畳むと「ああ、家を出ると書いてある」と頷いて、加奈子と譲に向かって言った。
「詳しい説明は後でするから、悪いけど君たちは駅へ行って、マキちゃんを見かけなかったか、訊いて来てくれるかな? 何時頃どこ行きに乗ったかまで分かれば有り難いけど、あまり騒ぎを大きくしたくないから、見かけたかどうかだけでもいいから。それと、出来れば高速バスの乗り場と、案内所も回って訊いて来てくれる? タクシーは使わないと思うから、取りあえずその二カ所だけ。泰治くん、すまないけど車を貸してあげてくれるかな?」
 指令を受けた二人は「わかりました!」と頷き、俺は黙って尻ポケットから車のキーを出すと、譲はひったくるようにして加奈子と二人で表へ走って行った。
 いつもなら、こんなテキパキ指令を下すのは女帝の方なのに、どうした訳か女帝はクロさんに縋り付いたままベソベソ泣いているだけで、まったく腑抜けた状態になっていた。クロさんは「大丈夫かい?」と女帝に声をかけて食堂の方へ移動した。
「俺、マキの部屋を見て来ます!」
 俺は二人の背中へ声をかけ、マキの部屋まで全速力で走った。行ったって、マキがいない事は分かっていた。だが、まだ信じられない気持ちもあって、自分の目で確かめたかったんだ。
 部屋は鍵が開いていた。電気を点けて中の様子を窺うと、洋服が何枚かベッドの上に放り出されているくらいで、どこかへ外出しました…という程度の、いつもとそれほど代わらない部屋の様子に、俺は無償に腹が立った。
 確かに、『駆け落ちしよう』と誘った事に対して、マキははっきりと頷かなかった。だけど、俺と一緒にいたいと言ったじゃないか! なのに、この仕打ちはないだろうが!?
 裏切られた哀しみと怒りで心底腹が立ち、怒気が蒸気のように背中から立ち昇るのを感じた。走ったせいもあるし、ショックのあまり自律神経がいかれたのかもしれない。夏の終わりの高原の涼しい夜風に吹かれても、身体はサウナの中にいるみたいに暑くて、全身から汗が噴き出すまま母屋へ取って返した。
 勝手口から厨房へ入り冷蔵庫を開けると、半分ほど残っていたペットボトルの水を飲み干した。冷たい水のお陰で人心地つくと食堂へ向かった。女帝とクロさんがイスに座って小声で何か話し合っていたが、俺を見ると話を止めてクロさんが「泰治くん、ちょっといいかな」と手招きした。
 言われるまま俺が自分の席に座ると、もうすっかり落ち着きを取り戻したらしい女帝が、俺に手紙を差し出した。
「これ、マキちゃんから、あなたに宛てた手紙……」
 俺は反射的に自分でも驚くほどの早さで手を伸ばしたが、その前に女帝が手紙を引っ込めた。俺は目を剥いて女帝を睨みつけた。キレて手を出さなかった自分を、あとあと誉めてやりたいと思うほど女帝に殺意を感じたが、イスを蹴って立ち上がる前に女帝は拝むように手をそろえ、俺に頭を下げて言った。
「怒らないで聞いて頂戴。お願いがあるの。非常識だと思うけど、この際だからお願いしたいの。私たち宛の手紙も見せるから、あなた宛の手紙も見せて欲しいのよ。そうじゃないと、あの子の本心が分からないし、見つけられないと思うの。だから、怒らないで協力すると約束して頂戴」
 下手に出ているようだが、全くの脅迫だと思った。お預けを食わせておいて、お願いするもあったもんじゃねぇと呆れながらも、既にマキを見つける算段をつけているらしい女帝の言を受け入れる事にした。
「…いいですよ。でも、とにかく先に読ませてください」
 女帝が差し出した手紙を、今度こそ取り上げられないようにひったくると、急いで読み始めた。
 手紙には俺への感謝と謝罪の言葉が綴られていた。俺がマキを男と知っても好きだと言った事、一緒に逃げようと誘った事も嬉しかったが、マキの両親が一緒になった事情と、現在の冷め切った関係を鑑(かんが)みるに、“ 駆け落ち ” は、決して選んではいけない道だと書かれていた。
 そして、俺の事を大事に思うからこそ、自分のせいで大学を休学したり、決して周囲に認められないだろう男同士の関係を続けて、人生を棒に振らないで欲しい。だから、自分だけいなくなろうと決めたのだと……
「馬鹿野郎!!」
 思わず口から出てしまったが、怒鳴ったお陰で手紙を破り捨てる真似はしないで済んだが、憤(いきどお)りはなくならない。人生を棒に振るつもりなんかない。俺が好きなら、どうして俺の気持ちが分からないのかと、悔しくて奥歯を噛み締めると耳の奥でゴリッと嫌な音がした。
 俺の様子を窺っていた女帝が、無言で手紙を差し出して来たので、気を取り直してそちらの手紙と交換した。
 マキは叔父と叔母にもこれまで世話になった感謝の言葉を書き連ね、それから俺が昨晩マキの口から訊き出したのと同じ、田島との経緯(いきさつ)が細かく記されていた。驚いた事に俺たちの事も、俺に対して間違いなく恋愛感情を持っていると明言し、喩え自分がゲイであったとしても、田島の申し出は受け入れられないと断言していた。現金にも、俺はその一文を読んだだけで、全身を駆け巡っていた怒りと哀しみが跡形もなく消え去った。
 俺に宛てた手紙と違っていたのは、身の振り方についてだった。男に戻った所で、実家にいたのではゲイの田島からは逃げられない。だから誰にも行き先を告げず身を隠すつもりだと書かれていた。二、三年のつもりでいるが、田島の身の振り方次第では短くも長くもなるだろう。いずれにしろ、落ち着いたら元気でいる事だけは連絡するから、心配しないで欲しいと結ばれていた。
 手紙を返すと、女帝もクロさんと一緒に読んでいた俺宛の手紙を返してくれて、改まった口調で言った。
「マキちゃん、とっても悩んじゃったのね…。私が悪かったんだわ。あの子の口が重いのを知っていたのに、胸の内を聞き出しもしないで、強引に東京に返す事ばかり勧めたから……」
「俺もです。アイツの両親の事を知らなかったとは言え、駆け落ちを強要した……」
 互いにため息を吐くと顔を上げて見つめ合った。女帝は「あの子を見つけ出さなくちゃ」と呟き、一大決心したような顔で何度も大きく頷いた。
「泰治くん、私はね、あの子が大事なの。本当は姉の子だけど、私たち夫婦は、自分の子どもだと思ってる。親として、あの子には幸せになって欲しいわ。だから、あの子があたなを好きだと言うのなら、男同士だろうと構わないし、あなたたちを守り抜こうとの結論に至ったの。だけど、その前に確かめておきたい事があるわ。あなた、あの子の事、本当に好きなの? 一生、あの子の事を好きでいられるの? あんな身体をしてるけど、あの子は本当に男の子なのよ? 男に戻る事が、あの子の唯一最大の望みだった。それなのに、あなたの事を好きになった…その重さが分かる? でも、あなたはどうなの? 私は、あなたの気持ちが生半可なら、絶対に、許さない」
 女帝は炯々(けいけい)と射るように見つめながらそう畳み掛けた。俺は受けて立つように真っ正面から睨み返して、「俺も、本気で、マキが好きです」と言い切った。
「中学で、初めて会ったときから、ずっとマキが好きだった。男だと分かっても、その気持ちは変わらなかった。マキも、自分の望みを曲げてでも俺の気持ちを受け入れて、応えてくれた。誓えと言うなら、誰にだって、何にだって誓いますよ。俺は一生マキを愛し続けます!」
 俺の言葉を聞くと、女帝は目を潤ませて「安心したわ…」と、ほっとしたように頷いた。それから壁の時計を振り仰ぎ、「九時半…なら、まだ大丈夫よね」と呟くと、俺に向き直って「あなたのお父さんを、呼んでもいいかしら」と言った。
「呼ぶって…今、ここに、ですか?」
 急な展開に面食らって女帝を見ると、隣りのクロさんもオロオロした様子で女帝を見ていた。
「そうよ。善は急げと言うでしょう? マキちゃんを連れ戻すために必要な事で、一刻を争う話よ。あなた、さっき私たちに誓ってくれたじゃない。だったら、お父さんの前でも誓ってくれるわよね?」
 まるで駄目押しするみたいに言われ、ムッとしながら「もちろんですよ!」と吐き捨てた。同時に、こっちの身構えを見せてやろうと、携帯を取り出して親父に電話をかけた。
 兄貴が出たので親父はいるかと聞くと、風呂に入ってるとの事で、上がったらすぐに宮地さんちへ来て欲しいと伝えたが、伝えるのは良いがこんな遅くに呼びつけるなんて、どんな用件か言わねぇと駄目だろうと渋られた。
「俺とマキの将来がかかってんだよ、来てくれねぇと一生恨むぞ!」
 そう怒鳴ると、兄貴は慌てたように車で連れて行くからと言い、俺は頼んだよと言って携帯を切って、どうだとばかりに「すぐ来るそうです」と意気込んで女帝の方を見たが、敵はどこかへ電話をかけている最中だった。
「…ええ、マキについてのお話を伺いましたので、話し合いをしたいと存じまして、こんな時間ですが早いに越した事はございません。そちら様のご都合がよろしければ、今から……ええ、ええ……ああ、お近かくにいらっしゃる? ようございました。はい、では、お待ちしております。ごめんくださいませ……」
 一体誰にかけたのかと訝しく思っていると、今度はクロさんの携帯が鳴った。相手は、駅まで聞き込みに行った譲らしく、会話の内容からどうやら有力な情報を得たらしい事が窺えた。女帝はクロさんに二人に引き上げて来るようにと伝え、クロさんがその通り伝えて通話を終えると、それを待っていたように女帝が口を開いた。
「私はこれから、泰治くんのご家族と、田島さんを相手に、一世一代の賭けに出るわ。それでね、泰治くんには最後まで静観しててもらいたいの。多分、私の頭がおかしくなったんじゃないかと思うかもしれないけど、口出ししないで欲しいの。まあ、少しは口裏を合わせてもらいたいけど、無理に合わせる必要はないわ。発言を求められたら、あなたの思った事を言って構わない。でも、邪魔だけはしないで欲しいの。ちょっと抽象的なお願いで分かりにくいと思うけど、分からないなら黙っててくれればいいから」
「あの、具体的に何をするのか、教えてもらえないですかね?」
 ホントに抽象的過ぎて、何が言いたいのかよく分からん。俺の親父を呼びつけたのは、ただ単に俺にカミングアウトさせようとしているのだと思ったが、女帝は一世一代の賭けに出ると言った。俺の親父だけじゃなく(兄貴も来るけど)、田島のヤローも呼びつけて、一体何をやらかそうってんだ、この人は。
「う〜ん…駄目。教えられないわ。だって、あなたは演技なんて出来ないでしょう? 事前に知ってると反応が薄くなるだろうし、それだと田島さんは誤摩化せないと思うの。でも、そうね…これだけは知ってて欲しいわ。私はね、マキちゃんのためなら何だって出来るのよ。大ボラ吹くのなんか朝飯前だし、事によったら人殺しだってするわ。覚えててね」
 最後のひと言は俺に対する脅しだろう。俺が頷くと満足そうに微笑んで、「気合いを入れるために、お化粧して来まーす」とクロさんには目配せして出て行った。
 クロさんは女帝の姿が見えなくなると、イスの背に凭れ掛かって目をつむり、やれやれと言った様子で大きなため息を吐いた。そして、「泰治くん、引き返すなら今だよ…」と言った。
「はあぁっ?」
 何を今更な事をと反抗的な返事をすると、クロさんは眉間に皺を寄せ、「僕は責任を感じてる」と辛そうに首を振った。
「君たちが恋仲になったのは、僕たちの責任だよ。僕と美代子さんが、マキを娘に…病気で亡くした娘の代わりにしちゃったからだ。最初からあの子を男の子として預かって、もっと別の形で教育を受けさせれば良かったのに、わざわざ女の子の格好をさせて…君に出会ったりしなければ、こんな事には……」
「ちょっと、待ってくださいよ!」
 ウダウダ蒸し返すような事を言いやがってと、ムカつきながら遮ろうとしたが、クロさんの口は止まらなかった。
「君だって、マキが最初から男だと知ってたら、あの子を好きになったりしなかっただろう!?」
 そうだろうと言うように見つめられ、不覚にも俺は反論出来なかった。
「マキは、僕らが娘の代わりにしてたのを、ちゃんと理解してた。あの子は優しいから、ずっと僕らの我が儘に付き合ってくれてたんだ。不満があっても、高校を卒業したら男に戻る事を拠り所にしてね。だから僕たちも、本心ではずっとこのまま一緒に暮して行きたいけど、男に戻してあげる約束だけは、叶えてあげようと思ってた。だから田島の話を聞いたとき、美代子さんはマキを男に戻すって、先走ってしまったんだよ。あの子の手紙を読んで、美代子さんは恋仲になった君たちを守る方向を選んだけど、僕は反対だ。今もあの子を、男に戻してあげたいと思ってる。それにマキだって、君を巻き込みたくないから家出したんだよ? 君のお父さんや田島が来たら、君はもう、にっちもさっちも引けなくなるよ? あの子の気持ちを汲んで、君が諦めてくれれば、僕は美代子さんがこれやろうとしてる事を阻止しようと思う。それで、喩え僕らがここに住めなくなっても構わないし、最悪僕らが――」
「だからっ、ちょっと待ってくださいっ!!」
 うわ言みたいに喋り続けるクロさんを、俺は怒鳴りつけて遮った。
「アンタ、さっき俺が誓ったのを、聞いてなかったんスか!? 俺は誰に何を言われても、アイツを諦めたりなんかしない。アンタのさっきの質問で言えば、確かに最初っからマキが男だったら、恋人にしたいなんて思いやしなかった。でも、時間はひっくり返ったって元に戻りゃしないんだ! 誰のどんな思惑があったとしても、俺は女としてのアイツと出会っちまったし、アイツを好きになったのを後悔なんかしちゃいねぇ! 全てを知った今だって、アイツが男に戻っても、二人で生きる未来の事しか考えらんねぇ! アンタ、それでも俺を止めるのか?!」
 クロさんに言われながらふつふつと湧き上がった想いを、そっくりそのまま口にした啖呵は、呆気に取られて聞いていたクロさんにも、どうやらきちんと通じたようで、
「わかった。美代子さんと一緒に、僕も君たちを擁護しよう」と、苦笑いしながら認めてくれた。

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