INDEX NOVEL

真冬の幽霊 〈 8 〉

 四月に入り、もうすぐ春休みが終わろうとしても、武大からは何の連絡もなかった。
 日を追って募るのは武大の安否と、もう二度と会えないかもしれない恐怖。正秋の時と同様に亨の食は細り窶れていった。まだ悪夢を見て魘されていないのが自分でも不思議だったが、それも時間の問題だろう。
 武大が確かに実在していたのだと物語る身体に残された赤い印も消えてしまい、あれは自分の願望が見せた白昼夢だったのか、それともやっぱり幽霊だったのかと思い始めている。
 はっきりさせたくて何度か通話も試みたが、電源が入っていない諭旨のアナウンスが流れるだけだった。そうして狂いそうなほどの不安に駆られて一日に何通もメールを出したりしたが、帰らぬ返事を待つのに疲れ、最近は一日に一度『早く会いたい』と出すのが精一杯になった。
 武大にというよりは、もはや自分を慰めるためにしているようなもので、これは武大へ届いているのだと思い込む事で何とか正気を保っていた。それでも苦しくなる時は、正秋がくれた――祖母の遺品でもある――白い椿の匂い袋を肌身離さず持ち歩き、握り締めては正秋に祈った。『どうか、もう一度武大さんに会わせてください』と。
 そんな亨にとって、相馬の家での勉強会は良い気晴らしになった。
 夜、武大の事を考えて眠れないせいで、昼間は気を抜くと突然意識が消える事があった。そのまま眠れればいいのだが、家にいると亨に干渉する母親に気が立って休まらなかったから、逃げ出す絶好の口実になった。実際、相馬の家にいる方が落ち着いて過ごせた。
 幸いな事に、受験前の自由な休みを満喫したい仲間の集まりは悪く、いつもは相馬と二人きりか、副会長と書記の子が来るくらいだった。恐らく相馬の口添えがあるからだろう、彼らは亨の状態を見て見ぬ振りをしてくれて、煩わしい思いをせずに済んだ。
 相馬の家に通い出した当初は不安が的中し、相馬がそれと分かるアプローチをして来たのには閉口したが、それもいつしか気にならなくなった。さり気ない仕草で身体や髪に触れられる事など、大した事ではないくらい相馬の傍は居心地が良かった。一人でいるのは寂しいけれど、煩く訊かれるのは耐えられない。そんな我が儘を通させてくれるのは相馬だけだったから、知らぬ間にすっかり頼り切っていた。
 今日も、英語の予習をしている途中でうつらうつらし始めた亨を抱え上げ、相馬が自室のベッドへ運んで寝かせてくれた。目が覚めるとベッドの傍らで相馬は静かに本を読んでいた。窓辺はもう薄暗くなっていて、みんなはもう帰ったのだろうと思われた。耳を澄ますと室内には静かにクラシック音楽が流れ、微かにコーンスープの香りもして、亨のお腹が小さく鳴った。
「お腹空いた? 良い事だよ。起きられる?」
 笑いながら相馬が亨の額にかかった髪を梳く。頷いて起き上がろうとするが直ぐには起き上がれず、相馬に腕を借りて上体を起こす。相馬が「大丈夫?」と心配そうに覗き込んだ。亨が笑顔で頷くと、相馬は保温器に入ったスープを皿に装ったが、それを亨に差し出すのではなく自らスプーンですくい亨の口へと運んだ。
 以前は戸惑ったその行為も、もうすっかり慣れてしまった。自分でできると言ってもさせてほしいと譲らないし、世話になりっぱなしで今更な気もして素直に口を開くと、相馬は喜々として亨にスープを飲ませた。
 不思議と亨の食も進み、自分でも入院騒ぎにまで至らないのは相馬のお陰だと思っている。スープを飲み終えた亨に「もう少し横になったらいい。泊まっても構わないし」と相馬が言った。亨はため息を吐いて悪いからとお決まりの台詞で固辞すると、相馬は亨の手を握り「遠慮しないで。その方が安心だし、俺は嬉しい」と笑いかけた。
「安心…?」
 不思議に思って聞くと、相馬は顔色を曇らせ言いにくそうに口を開いた。
「亨、どんどん痩せて行ってるの、自分で分かってる? 心配なんだ。夜、眠れないんだろう? うちでは少しは眠れるみたいだし、何なら…休みの間だけでもうちにいたらいい」
「ありがとう。でも、大丈夫…」
「大丈夫な訳あるか!」
 きつく腕を掴まれて怒鳴られると、亨は竦み上がってぎゅっと目を瞑った。相馬は直ぐさま「ごめん」と謝って亨の身体を抱き寄せた。抗う暇も体力もなく亨は相馬の胸に納まった。
「もう、堪らないんだ。今まで黙っていたけど…今日こそ言わせてもらう。亨、もう半年くらい、ずっと元気がなかっただろう? 前に大学の寮の前で話した時の事、覚えてる? あの時も何でもないって言いながらずっと落ち込んだままで…。それって、三原のせいだったんだろう? でも、終業式の時にあいつと話し合ってたから…てっきり終わったものと思っていたけど、あれから益々悪くなってる。ずっとうちに来てるし、あいつに直接何かされてはいないだろうけど、まだ何かあるの? しつこくされているの?」
 亨は、はっとして相馬の腕から離れた。どういう意味で言っているのか。どうとでも受け取れる内容だから言葉だけでは窺えず相馬の顔を見上げた。相馬は心配そうに見つめているだけだった。相馬の目を見ていられず亨は下を向いて「違うよ。三原は関係ない…」とだけ答えた。
「本当に? じゃあ、どうして元気がないの? どうしてこんなに痩せて行くの? 心配事があるからだろう? 俺は亨の力になりたい。このままじゃ、心配でどうにもならないよ。あいつと何があったの?」
「聞かない、約束だよ…」
 これだけ心配してもらって傲慢な気がしたが、三原との関係を話す訳にはいかない。もう…気づかれているのかもしれないけれど、それでも隠しておきたかった。小さく首を振って相馬の胸を押して離れようとすると強く胸に掻き抱かれた。
「分かった。三原の事は聞かない。でも、亨がどうしてそんなに苦しんでいるのかは、知りたい」
 語尾に有無を言わさぬ強さがあって、亨は理由を言わなければ離して貰えないと観念した。
「三原は、本当に関係ないんだ。相馬の言う通り、きちんと終わらせられたから…。僕が、こうなってしまったのは…。とても大切な人と…、ずっと連絡が途絶えてしまって…心配で、堪らない、から…」
 改めて言葉にすると涙が溢れた。
 もう四月になったのに、どうして連絡をくれないのか。正秋のように、もうこの世にいないのではないか。こんなに好きにさせて、望み通り三原とも別れて一人になったのに、こんな宙ぶらりんのまま自分を一人にするなんて…。涙と一緒に心の奥に仕舞い込んだ想いまで、後から後から溢れ出した。
 声を殺して泣く亨の頭を撫でながら「そう、なんだ…」と押し殺したような声で相馬が返事をした。
「その人、亨の所へ戻って来るのかな?」
「そんなのっ! わからない〜〜…」
 それが分かれば、こんな風になってはいない。八つ当たりしそうになって喉の奥で唸りながら相馬の腕の中で藻掻いたが、ぎゅっと抱き竦められて簡単に動きを封じられた。
「俺が、その人の代わりになれないか?」
 亨は息を呑んで動きを止めた。
「俺は、亨が好きだ。どういう意味で言ってるか、分かるだろう?」
 分かっている。相馬がどうしてこんなに優しく接してくれるのか。どんな目で自分を眺めていたか。もう、三原にただ流されていた時とは違うのだ。武大を知り、閉じていた瞳を開いてからは相手が発する僅かな合図も感じるようになった。
 だから、相馬の好意につけ入ったのだ。相馬は三原のように不快な相手ではなかった。少しくらい触れられても意に介さないくらい、与えられる温情は紳士的で心地良かった。でも…。
「だから、放っておけない。好きな人が苦しむ姿は見たくない。俺がその人の代わりになれないか? そう思ってはくれないか?」
 じっとしたまま答えない亨の耳に唇を寄せて相馬は尚も畳み掛けた。
「うぅ、ん…」
 耳が弱い亨は、相馬の囁きに感じて艶っぽい吐息を漏らした。気持ちよりも先に身体が反応してしまう。
「亨! すきだ…」
 亨の吐息に煽られて相馬は亨の項(うなじ)に食らいついた。まるで血でも吸われているようにきつく吸い付かれ、そこから毒が回るようにじんじん疼いて痺れてくる。疼くのは項だけじゃない。あそこも自然と熱を持ち管が開いて濡れてくるようだった。
「あっ、あぁ…ん…」
 相馬は鼻息荒く亨を仰向けに押し倒し、乗り上げるようにして華奢な身体を包み込んだ。一回りも大きい身体にきつく抱きしめられ、亨は目眩を覚えた。爽やかなシトロン系の香りがする相馬の体臭を嗅ぎながら亨の意識が昏迷する。
 亨の苦しみは武大の安否だけでなく、あの身体を想って乱れる夜が増えたからだ。三原とは何度やっても満たされずにいた性欲は、たった一度の強烈な絶頂感を覚えて開花し、盛る身体を持て余していた。
 三原の時は、まだ後戻りできると思っていた。けれど、あれほど満たされた濃密な性愛を知ってしまった今は、もう元になんか戻れない。自分はこんなに淫乱だったのかと嫌悪するほど独り寝が辛かった。
 相馬の背中に手を回し肩胛(けんこう)骨を指で辿りながら亨は思う。この身体に身を任せたら、あの目眩(めくるめ)くような絶頂感を感じる事ができるだろうか。あの満たされた天国の高みへと至る事が…。
 相馬の顔が正面から近づいて来る。鼻先が触れ合う距離で亨を舐めるように観察している。
「亨は…本当に、綺麗だ…。キスしていいか?」
「あっ…」
 亨の頭の中で武大の声と重なった。
『キスいていい?』そう言って、武大は優しく啄むようなキスをしてくれた。初めて心を通い合わせた人とのキスだった。あれからまだ一ヶ月しか経っていない。それに、あの人はずっと自分を信じて待っていろと言い続けていたのに、自分は何をしようとしているのか。
 亨は残っている体力を全て使って相馬の身体を押しやった。肩で息をしながら「駄目…、だめ」と首を振って繰り返した。
「どうして? その人とは…したんだろう? 三原とだって!」
 落胆と口惜しさの混ざった声音で相馬は吐き出すように叫んだ。亨は息を呑んで相馬を見た。相馬は嫉妬の色を浮かべて亨を凝視していた。
「なのに、俺では駄目なの? 俺のこと…、嫌い?」
 亨は頭が真っ白になったが、辛うじて首を振った。相馬は視線を和らげ再び顔を近づけてくる。亨は三原の時と同じ間違いを繰り返している事に今更ながら気がついた。迫る唇を避けるために咄嗟に相馬の広い胸に抱き付いた。相馬の鼓動と息を呑む音を聞きながら亨は懺悔するように囁いた。
「相馬の事は好きだよ…。でも、あの人の代わりには、誰も、なれないから…」
 相馬の事は本当に嫌いではない。どうして相馬が男の自分を好きになってくれたのか分からないけれど、喩え一時の気まぐれだとしても、相馬に好意を寄せられるのは素直に嬉しいと思えた。でも、武大のように好きになれるかは分からないのだ。
 相馬は『代わりに』してもいいと言うが、それでは三原の時のように自分の勝手な気持ちを優先させて、思わせぶりな態度を取りながら拒絶して傷つけた事よりも罪が重い気がした。「好き」という気持ちは永遠ではないのだから、気楽に恋愛を楽しむという考えは、ここへ来ても亨の頭には存在しなかった。
「でも、その人は亨の所へ帰って来るか分からないんだろう。だから、こんなに痩せて――」
「元気になる。みんなに心配かけないようにする。元気になって…もう少し、待ってみる…」
 相馬の言葉を遮って自分に言い聞かせるように宣言した。
 そうだ。まだ四月になったばかりじゃないか。それに、正秋さんの時みたいに自分はもう子どもじゃないんだから、待つだけじゃなくて自分から武大を探せばいい。怖がってばかりじゃいけないんだ。そう思うと身体に力が戻ってくるようだった。
 相馬は暫く黙っていたが、抱き付いている亨の背中をぽんぽんと優しく撫でて「分かった」と呟いた。亨がほっとして顔を上げると、相馬はそれを待っていたように強い意志の隠った瞳で亨の顔を見つめて言った。
「でも、その人が戻らなかったら…、亨はやっぱり元気が出ないだろう? その時は、俺の気持ちを受け入れてほしい。俺の事が嫌いでないなら、考えてほしい」
 真正面から逃げ道を断つような告白をされ、亨はもう頷く事しかできなかった。

 翌日から亨は相馬の家へは行かず、自ら病院へ行き体力回復に努めた。
 血液検査の結果、医者から低蛋白血症だと言われ母親は蒼白になったが、要は軽い栄養失調だったため点滴と食事指導を受けた。不眠は睡眠導入剤を処方してもらい、毎日同じ時間に寝るよう心がけた。相馬との約束が脅迫観念になって、皮肉にも亨を前向きにさせていた。そうして元通りとはいかなかったが体重も体力も回復したが、心の方は身体のようには回復しなかった。武大の安否が杳(よう)として掴めなかったからだ。
 大学の寮は既に移築工事が始まっていて、門の中にすら入る事ができなくなっていたし、思い切って尋ねた大学では、確かに三月に卒業した学生である事以外、個人情報保護のためとして住所や就職先など明かしては貰えなかった。何とか調べる方法はないか考えているのだが上手く知恵も回らず、そのままずるずると新学期を迎えてしまった。
 新しく割り振られたクラスは進む進路によって決められていて、法学部志望と言いながら理系に進んだ相馬とは一緒のクラスにならずに済んでほっとしたが、選挙がある五月まで生徒会の仕事があるので離れる事は叶わない。
 都内でも有数の進学校である新星学園は、始業式は簡略化され進路のガイダンスが行われるだけなので会わずに済んだが、今日は新学期の初仕事である中等部の入学式の準備で一緒にいなければならない。
 告白さらてから逃げるように会わなくなった亨に対し、相馬の態度は穏やかで節度があり告白前と何ら変わるところがなかった。自分だけが意識しているように思えて恥ずかしく、冷静でいようとすればするほど気持ちが昂ぶって落ち着かなかった。
 式が始まり亨も自分のクラスの列に戻って参列したが、だんだん具合が悪くなってきた。元々長い朝礼時には貧血を起こす質だったが、変に気持ちが昂ぶっていたせいか、いつもより早く目眩を感じた。無様に倒れるのは避けたいから早めに申し出ればいいのだが、大袈裟に騒ぐ教師がいるので取り敢えず顔を伏せて目を瞑りできるだけ我慢した。
 式は滞りなく進み、生徒会長である相馬が歓迎の言葉を読み終え、教頭の閉式の言葉が続き、教職員の紹介が行われている。この後、新任教師の紹介がある筈だが、もう殆ど終わったようなものだった。
 亨は視界が暗くなるのを感じ、もう退出してしまおうかと思った時、スピーカーから「…大学を卒業し、化学教諭として赴任された嗣永武大先生…」と聞こえて心臓が大きく波打った。
『つぐなが、たけひろ』だって…?
 嘘だろうと思いながら亨は霞む視界を目一杯広げ、壇上で頭を下げる淡い色のスーツを着た男を見つめた。下げた頭しか見えないが、整えたばかりの短い髪は、それでも緩やかなウェーブが残っていた。記憶にある武大の髪も明るめで柔らかいウェーブがあった。どきどきとうるさい動悸を押さえるために亨は息を止めた。
 早く顔が見たいのに、まるでスローモーション映像のようにゆっくりとしか進まない。徐々に男の頭が上がり、尖った顎と形の良い唇が見えた。次に外国の血が混ざったような細く高い鼻筋と、甘く優しげな目元が見えた。
 間違いなく武大だった。そう確認した瞬間、息苦しさに襲われて亨はそのまま意識を失った。

NEXTは成人向ページです。未成年の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

BACK [↑] NEXT

Designed by TENKIYA