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真冬の幽霊 〈 5 〉

 瞠目して武大を見つめた。動悸で上手く呼吸ができないまま、頭は高速で回転する。何故、気を付けろなどと言ったのか、武大の真意が掴めない。亨は酸欠で目眩がしそうになった。どうにか息を吸うと、「な、にを…ですか?」と辛うじて返事をした。
 武大は「昨日の…」と言いかけて言いにくそうに顔を顰めたが、すぐに思い切ったように言った。
「昨日の彼の事だよ。彼はストーカーではないの? それとも、君たちはちゃんと付き合ってるのかい?」
 亨は驚きのあまり、手にしたマグカップを落としてしまった。珈琲がジーンズの裾を濡らし、カップは割れずに木の床を転がった。
 武大は慌てて起ち上がると口の開いた段ボールの中からTシャツのような布を出し、亨の足下に跪いてかかった珈琲を拭いながら「やけど、しなかった?」と心配そうに聞いた。
 ショックで喉が詰まって声がでない。亨は小さく首を横に振った。珈琲など疾うに冷めていて何も感じない。それよりも、どうして三原と唯の友人関係でない事が分かったのだろうかと、武大の洞察力に恐れ戦いた。
 昨日、武大と三原が会ったのはほんの数分の事だ。それだけで、分かってしまうものなのだろうか。それとも、誰から見ても自分たちは “ そう ” 見えるのだろうか。そう思うと恐ろしくて、どうしていいか分からなかった。
 寮に来るまでの間、武大に三原の事を聞かれるかもしれないと覚悟はしていた。でも、いいところ恐喝されて金蔓にされている『いじめられっ子』くらいにしか見えないだろうと思っていたし、訊かれたらそう答える積もりでいた。
 まさか「付き合っているのか」なんて直球で訊かれるとは思わなかった。もちろん違うと嘘を吐けばいい。なのに、言葉が上手く紡げない。亨は下を向いてひたすら首を振り続けた。
 膝の上で硬く握った拳に武大の手が触れた。はっとしてその手を見つめると労るような声が聞こえた。
「立ち入った事を訊いて御免ね。君を責めてる訳でも、非難してる訳でもないんだ。ただ、心配になったから…」
「心配…?」
 目を上げると、下から覗き込む武大と目が合った。言葉通り心配そうに気遣う瞳は、初めて会った時の正秋と同じ慈愛に満ちた色をしていた。思わず引き込まれるように見つめ返すと武大は微笑んで頷き、亨の手をぽん、ぽん、と優しく叩いて起ち上がった。
「最初は、恐喝でもされてるのかなと思ったんだけどね…」
 喋りながら珈琲を拭いた布を丸めて段ボールの側へ置くと、武大はまた亨の隣に腰かけた。
「君はあんな場所で泣いていたし、あの彼の剣幕も尋常じゃないように感じたし、何か胸騒ぎがしてね…」
 そこまで言うと言葉を切り、また言いづらそうに髪の毛を掻き回しながら悩ましげな表情で亨を見た。亨がまたどきどきしながら話の続きを待っていると「怒らないでね」と前置きして、「君たちの跡を、追っかけた…」と言った。
「嘘…」
 呟いた途端、どっと汗が流れ出た。一体どこまで見られたのだろうか。一部始終を見られていたなら弁解の余地がない。武大がどこまで知っているのか、聞きたくても怖くて聞けなかった。口で呼吸を繰り返しながら呆然としている亨に、武大はもう一度「御免ね」と謝った。
「お節介だとは思ったんだよ…でも、気がついたら財布とコートを持って走り出してた。門を出たらもう姿が見えなくなってたから、地下鉄へ向かったたんだろうと踏んだらその通りで、ホームで電車を待つ君たちが見えた。俺は電車が閉まる寸前に乗り込んで、隣の車両から君たちの事を観察してたんだ。君たちは少し離れた所に立って終始無言でいたよね。とても友だちといった雰囲気じゃないし、君はとても憂鬱そうに見えた。新宿で降りたから、俺はやっぱり君の金を当てにして遊ぶつもりでいるんだと思ったんだよ。だから、頃合いを見て声をかける積もりでいたんだ。そうしたら、トイレから出て来た君は…」
 亨の目から涙が溢れ出した。そこまで聞けば充分だった。武大には全て知られてしまっている。しかも状況から言えば、きっと女装したがるオカマだと思われているだろう。選りに選って武大に見られてしまうなんて、羞恥と情けなさで死んでしまいたいくらい哀しかった。
「御免。そんな風に泣かないで…。本当に、君を非難してる訳じゃないんだ」
 武大は腕を回して亨の頭を自分の胸に抱き寄せた。そのまま亨の頭を優しく撫でて泣かないでと繰り返す。しゃくり上げていた亨は、武大の胸に抱かれた事に驚いて余計に呼吸を乱したが、その腕から逃れようとは思わなかった。
 自分たちが男同士でどんな事をしていたか、武大は知った上でこうして慰めてくれる。そう思うと、硝子のように砕けてしまいそうな心を保つ事ができた。
「君は…嫌なんだろう、彼の事。俺にはそう見えたけど、違う?」
 小さく頷くと、「そうだよね…」と武大は自分自信で納得したような声を出した後、窺うように「じゃあ、何で君は彼の言う事を聞いているの?」と訊いた。
 亨は身体を硬くした。答えるには自分の恥部をもっと曝さなければなならない。これ以上卑しい部分を見せるのは忍びなかった。
「暴力を振るわれるの?」
 武大は心底心配そうに尋ねた。亨は益々自分を恥じて首を振った。すると武大は亨の頬に手を当てて上向かせると、涙の跡を指で拭き取りながら「心配しなくても大丈夫だよ。力になるから」と囁いた。
「どうして…ですか? どうして、僕の事…」
 昨日会ったばかりの一面識もない武大が、どうして力になってくれるのだろうか。亨は不思議で堪らなかった。武大は眉根を寄せて困った顔をしてから、う〜んと唸って腕組みした。
「どうしてだろうね…。でも、ほっとけない。自分でも変だと思うけど、君の事が心配で仕方がないんだよ。それじゃあ、納得できない?」
 そう言って微笑む武大に、亨は首を横に振って答えた。
 ずっと、誰かに助けて欲しかった。でも、内容が内容だけに誰にも頼れず、亨の心は逼塞(ひっそく)していた。正秋が生きていたらとそればかり考えて、幽霊の姿でもいいから助けて欲しいと願うほど。そんな自分に、正秋そっくりな武大が力になってくれると言う。武大にとっては単なる興味なのかも知れないが、それでもいいような気がした。
「暴力で脅されてる訳じゃありません…。でも、付き合っている訳でもありません。僕は…男にしか興奮しなくて…。彼には街で声を掛けられて、一度だけのつもりで…寝たんです。でも彼は…違ってたみたいで…」
「しつこく、付き纏われているの?」
 亨は頷きかけたが、そのまま曖昧に下を向いた。三原にしつこくされているのは事実だが、自分がはっきり誘いを断らないのも事実だった。黙っていると「彼は一度きりのつもりはなくて、君はその誘いを断れないんだ?」と訊かれ、コクリと小さく頷いた。
「その、断れない理由なんだけど…。彼が、怖いから? でも、暴力を振るわれる訳じゃないんだよね」
『ひとりになりたくないから』断れないのだと、答えた所で分かって貰える自信がなかった。答えあぐねていると、
「寝るには、いい感じなの?」と訊かれ、意味が分からず首を傾げた。
「彼の事は好きじゃないけど、身体の相性がいいから断れないって事なのかな?」
 改めて問われ、自分はそんな淫らな人間に見えているのかと、遣り切れない怒りと悲しみが身体中に膨らんだ。亨はきっと武大を睨んだが、怒りはすぐにボロボロ崩れて悲しみだけが残った。
 武大には女装してまでホテルに入る姿を見られているのだ。そう思われても仕方がない。言い逃れも出来ない破廉恥な真似をした自分が堪らなく汚らわしく思えて、双眸からまた涙が溢れ出た。
 武大は慌てて、「ごめん、言い方が悪かったね。それが悪いって言ってる訳じゃないんだよ」と謝った。
「君の年齢だと少し早い気がするけど、身体の関係だけと割り切って付き合う子もいるからね。セフレなんてみんなそんな感じだろうし、何にせよ本人が納得しているなら、構わないと俺は思っているよ」
 そう肯定的に言いながら、武大は亨の表情を窺うように見ている。亨は三原とセフレだと思われるのは嫌だった。
「違います! セフレなんかじゃないし、別に身体の相性なんて…よく分からないけど…」
 良くはありませんと、武大を見ながらはっきりと否定した。
「じゃあ、どうして断れないんだろうね」
 武大は悩ましげな表情で亨を見返した。
「トオルくんは、どうしたいの? 君は彼との関係を終わらせたいんじゃないの? 俺の目には、昨日の君は本当に辛そうに見えた。どうして彼に、それが分からないのかと思うほど。まあ…彼は君の事が好きなんだろうから、悪知恵の働くヤツなら君が従う限り、分からない振りを続けるだろうとは思うけどね」
「どうして、分かるんですか? 三原が、僕を好きだって…」
 半年もの間、自分は全く気がつかなかったのに、どうして武大には何でも分かってしまうのだろうと不思議だった。
「そりゃ、分かるよ。三原くん…か、あの時の彼の態度も俺を見る目も、とても尋常じゃなかったからね。嫉妬でギラギラしてたんだろうよ。ある意味分かりやすい子だね。それよりも、問題は君だよ。一体、どうしたいの? 何がそんなに君を苦しめているの?」
「ひとりに、なるのが、こわいんです…」
 亨はやっと本心を口にした。分かって貰えるかは分からないが、言わなければ話が先に進まない。武大は首を傾げ、「一人ではいられないって事?」と訊いた。亨は首を振って考えながら言葉を探した。
「僕は、さっきも言った通り、男にしか好意を持てません。でも、そんな事を表に出して生きて行く勇気はありません。性癖を隠しながら、一生、そういう交渉もなく独りで生きる事になる…そう思っていました。でも、自分の生きて行く未来(さき)に何もないと思うのは、寂しかったし、怖かったんです。そんな時、三原に誘われました。断る事もできたけど、やっぱり、知りたかったから…」
 性に対する好奇心に負けたのだと告白するのは、恥ずかしく情けなかった。話の先が続けられず下を向くと武大が口を開いた。
「彼としたのが、初めて?」
「そうです…。痛くて、嫌でした。こんなものかとがっかりしたけど、何もないよりはいいと思って…。それで、終わる筈だったんです…」
 そうだ。あの頃はまだ、これ程ひとりになるのが怖くはなかった。漠然とした不安を抱えたまま、行く先の見えない元いた道へ戻るだけだった。
「でも、彼は君を好きになった。それで迫られ続けているんだろう?」
「そう、だと思います…」
 少し違うようだが概ね合っているだろう。亨にだって三原の本心などはっきりとは分からないのだから。
 武大は亨の返事を聞くと立ち上がり、苛々したように頭を掻きながら語調を荒げて言った。
「思いますって、ねぇ…トオルくん!! それ、このままほっといたら、彼は本気でストーカーになっちゃうよ?! 君は彼が好きじゃないんだろう? 何でちゃんと断らないの? 独りになるのが怖いって言ってたけど、セフレになりきれもしないのにこんな事を続けていたら、そのうち独りになるより怖い目に遭うよ? 正秋さんみたいにね!」
「正秋さんは! 正秋さんは違います!」
 亨は初めてむっとして言い返した。何も知らないくせに、自分と一緒にして大切な人を侮辱されるのは堪らなかった。
「君はさっきもそう言ったね。どうして、違うと言い切れるの?」
 尻ポケットに両手を突っ込んだ恰好で挑発するように訊き返されて、亨は武大を睨み返した。
「あの二人は、ちゃんと…ちゃんと、愛し合っていたから…」
 …と思う、という台詞は口にできなかった。否、亨の中では二人は愛し合う恋人同士だったのだから、言う必要なんかない。武大は亨の言葉に驚いたように目を見開いたが、やがて目を伏せて静かに言った。
「じゃあ、あの二人は相手が逆上して起こした無理心中じゃなくて、覚悟の心中だったって事? どうして二人は死ぬ必要があったのかな…」
 急にトーンダウンした武大に気がそがれ、「それは、分からないけど…」と亨は口籠もった。
 亨に思い当たる理由は一つしかない。同性同士だからだ。亨が同性の恋人を見つけられない孤独な未来を恐れるように、二人には二人の、同性同士で愛し合う困難な未来に絶望したからだと想像がつくが、普通の男性である武大には、きっと想像すらできないだろう。
「貴方には、僕の気持ちも、正秋さんの気持ちも、きっと、理解できません…」
 どんなに顔が似ていても、武大は正秋ではないのだ。自分の気持ちも悩みも、同じ性癖を持つ人にしか理解できない。そう思うと、夢から覚めたような虚しさに襲われた。
「どうして、俺には理解できないと思うの?」
 武大はまた亨の隣に腰を下ろすと少し呆れたような声で訊いた。亨は目を伏せて「貴方は普通の男だから」と呟いた。武大は笑って「普通の男って、何?」と言った。
「トオルくんの頭の中では、女を好きな男は普通で、男を好きな男は特別なの? でも、どうして俺が普通だと決めつけてるの?」
 亨は驚いて武大を見ると、少し怒ったような顔で亨を見ていた。
「トオルくんは…無理もないけど、知らなさすぎるよ。女装してあんな大胆な行動するから、擦れっ枯らしかなのかと思ったら、見た目通りの超がつく初心(うぶ)子ちゃんなんだから…。俺が言うのもなんだけど、本当に心配になっちゃうよ。大体ね、下心もなく誰かに親切にしようなんて男、いるわけないでしょう。俺の事だって、端から信用しちゃいけないし、世間はね、広いようでいて狭いものなんだよ」
 意味が分からず呆然としていると、武大の顔が近づいて掠めるようにキスされた。吃驚して唇を両手で押さえると、「俺はバイだよ」と武大が笑いながら言った。
「でなければ、さっきみたいにベタベタ君に触ったりしないよ。声をかけたのだって、綺麗な子だなあと思ったからだしね」
「バイって…それは…」
「そう。俺は男でも女でも、両方いける口。告白すると、セックスするのは女の方が多いけど、好きになるのは男だけ。“ 普通のホモ ” より始末が悪いね」
 自嘲の響きを含ませて軽い調子で告げられた内容に、亨は驚くばかりだった。この人も三原と同じバイセクシャルなのだ。普通じゃないと言えばそうだろうが、でも、違うのだ。亨から見れば、“ 女性とできる ” という選択肢がある時点で、やはり二人は『普通の男』だった。
「貴方は…僕とは違う」亨は目を伏せて首を振った。
「違わない。俺も男が好きだと言っただろう? しかも、一番好きな人は…もう、死んじまったしね。お陰で誰と付き合ったって、なかなかこれが…上手くいかなくてね。君は…さ、初心すぎて恋人ができないかもって不安から、独りになるのを恐れているんだろうけど、俺はヤル相手に困まらなくても、心ん中はずっと独りきりなんだぜ。同じだろう? 好きになるのは、誰だって良い訳じゃないんだ」
 武大の言葉にはっとして顔を上げると、穏やかに優しく見つめる武大と目が合った。まるで正秋に見つめられているようだった。でも、この人は、感情の起伏が激しくて、思った事をはっきりと口に出す――あの人とは、全然違う。こんなにソックリなのに、別な人。それが不思議でじっと武大の顔を眺めた。
「違いがあるとしたら、それは…『諦めてない』って所だな」
「諦めて、ない?」
「そうだよ。いつか必ず、心の底から愛し合える人が現れるって、俺は信じてる。うん? 現れる…だと受動的だな。探しているんだな、能動的に。亨くんもね、まだ十七才だろう? 駄目だよ、近場で諦めて、あんな碌でもないので手を打とうとちゃあ。もっと積極的に探さなきゃ」
「どう、やって…ですか?」
 何でもない事のように言う武大の言葉に、少しだけ心の荷が軽くなる気はしたが、普通の振りをしてどうしたら積極的に探せると言うのだろうか。
「そんなに深刻に受け止めない事だよ。性癖なんて君が気に病むほど人に気づかれる事はない。ナンパに応じるのも悪い事じゃないし、もう少し色んな経験をすれば、あしらい方も身についてくるだろうしね。大事なのは、どんな時も『嫌な事は嫌だ』と、はっきりした態度を取る事だ。その方が相手に対しても誠実だと思うよ」
 暗に非難されているのだと感じて下を向いた。叱られる時は必ず手足が冷たくなる。掌をぎゅっと握ると、その上に武大の手が触れた。温かくて大きくて、不意に優しかった祖母の手の感触を思い出した。
「君は真面目で良い子だから、今は不安に思う方が大きいだろうけど、俺の予想だと君はこの先、入れ食い状態で断るのに苦労すると思うよ。君は自分の魅力を知らなさすぎる。俺だって尤もらしい事を言いながら、本当はさっきっから君を口説いてるんだけど…」
「えっ?!」
 真っ赤になって身を引いたら、亨の手を握る武大の手の力が強くなった。ドキドキと鼓動が速まって、益々顔が熱くなる。多分首まで赤くなっているだろう。唯でさえ、好きな人に似ているのだ。そんな男から口説いてるなどと言われて普通でいられる訳がない。恥ずかしいのに、心を揺さぶるような武大の瞳から目が離せなかった。
「…全然、伝わらないから困ってる」
 そう言って武大は苦笑いすると「当たって砕けるか」と呟いて、「トオルくん、俺と付き合わない?」と言った。

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