INDEX NOVEL

真冬の幽霊 〈 4 〉

 夜明け前、亨は逃げるようにホテルを出た。
 三原に抱えられたまま一睡もできず、握り締めた携帯の時刻を数えるようにして、五時になるとそっと腕の中を抜け出した。汚れた身体のまま着替えるのは嫌だったが、シャワーを浴びたら水音で三原が起きてしまうと思い、諦めて制服を身に着けた。
 電話機の横に置かれた埃に汚れて端の捲れ上がったメモ帳に、用事があるから先に帰ると書き置きし、五千円札を挟むと音を立てないよう細心の注意を払って部屋を出た。
 繁華街とはいえ明け方の街は暗く静かで、人の気配は何処にもなかった。足下から這い上がる寒さが疲労した身体に追い打ちをかけたが、家に帰ることだけ考えて重い下肢をひたすら動かし続けた。
 地下鉄の始発は既に動いている時間だったが、駅の入口は全て開いている訳ではなく、改札へ辿り着くまで随分時間がかかった。その分ホームで待たされる事はなく、滑り込んで来たガラガラの電車に乗ることができた。
 休日のこんな早い時間の電車に乗るなど初めてだったが、山へ行くらしい服装の中高年と、終電を乗り過ごしたらしいサラリーマン、それに夜の勤めを終えた人など、多種多様な恰好をした乗客が数人乗っていた。
 亨は座席に凭れると直ぐに睡魔に襲われた。終点まで乗るのだが、いくらもしないうちに着いてしまうから、寝過ごさないように鞄の中から単語帳を取り出した。開いて文字を目で追うが、意味は頭をすり抜けていく。亨は頭を振り、目を上げて誰も座っていない臙脂色のシートを眺めた。起きていようとすると、自然と三原の言った言葉が思い起こされる。眠れずにいた間ずっと考え続けていたが、結局また、その真意を求めて反芻し始めた。
 半年前、ただ単に偶然声を掛けられただけだと思っていた。なのに、三原はずっと前から自分を知っていて、機会を狙っていたと言った。『好きなヤツ…』とも言った。それは、自分を女代わりの気楽な相手としてではなく、『好き』だから、こんな面倒な苦労をしてまで逢いたいという事なのだろうか。
 亨は両手で顔を覆って項垂れた。そんな事、知りたくなかった。あの時、一度きりの事だと、そう思ったから応じたのだ。自分を好きだなんて分かっていたら、頷いたりしなかったのに。
 迂闊に誘いに乗った自分の軽率さを本気で後悔した。好奇心だったのだ。いつ経験できるか分からない性行為への興味が、冷静な判断力を奪ってしまったのだ。それでも、三原は遊んでいるのだと信じていた。三原は女性とできるのだから、男の自分に本気になる筈がないと。だから暫く我慢していれば、そのうちに飽きて解放されると思っていた。
 どうして早く断らなかったのか。拒まずにズルズルといつまでも言う事を聞いていたから、亨にもその気があると信じて疑っていない口振りだった。亨は思わず両腕を抱えて身震いし、どうしても、精神的に三原の事を好きにはなれないと自覚した。
 亨は男性が好きだ。女性は嫌いじゃないが性的に興奮できなかった。だからと言って、男なら誰でも良い訳ではないのだ。もし誰でも良かったなら、三原とは性的な関係が結べているのだから、これほど悩んだりはしない。亨は心から好きになれる恋人が欲しかった。正秋のように、優しく穏やかで理知的な会話ができる恋人が。それを望むのは、贅沢なのだろうか。
 亨の中の『恋人』という概念を育んだのは、正秋との日々だった。当時は自覚しなかったが、初恋の相手も、そして失恋した相手も正秋だった。
 あれは、正秋の元へ通うようになって三ヶ月経った五月の連休の事だった。行楽や帰省のため人気のなくなった寮の森の奥で、背の高いがっしりした男性と歩く正秋の姿を見た。誰もいない淡い木漏れ日が差す緑の中を、二人は手を繋いで寄り添い、時々立ち止まっては見つめ合っていた。一目見ただけで、亨にも二人が恋人同士なのだと分かってしまった。それくらい二人の放つ空気は濃密なものだった。
 そのとき胸に走った痛みは今も忘れられないが、同時に心を通わせた恋人同士の姿は、喩え同性同士であっても、美しいものなのだと刻み込まれてしまったのだ。それからずっと自分も恋人ができたなら、二人のようにありたいと望んでいた。それがどれほど難しい事か、正秋の年齢に近づけば近づくほど知る事になったが…。
 電車が三駅目を過ぎた頃、乗り込んで来た一人の乗客が亨の前を通り過ぎた。その人が歩くたび電車がグラグラ小舟のように揺れるのに驚いて顔を上げると、肩幅が広く天井に付きそうなほど長身の女性が、ピンヒールの踵を床に食い込ませる様に踏みしめて、一番端の車両へ向かっている所だった。
 派手なピンク色の、身体にピッタリとしたワンピースを着た女性――だと思ったが、その骨格が元は男性なのだと雄弁に語っていた。夜の勤め帰りなのだろうと思われるその乗客が最後尾の席にどっかりと腰を落とすと、電車はまた緩やかに走り出した。
 気がつくと、疎らに座っていた乗客全員が、その女性を凝視していた。連結部分のドアが開け放たれていたから、ほぼ二車両分の乗客の好奇と侮蔑を込めた刺すような視線が、目に見えるような軌跡を描いて女性を貫いている。亨はぞっとして下を向いた。
 乗客の視線は一様に冷たいものだった。自分がどんな顔であの人を見ていたかは分からないが、そう変わらない視線を向けていたのに違いない。男性を好きでも、決して女装をしたいとは思わないが、世間一般の人から見たら “ 同性が好き ” という輩は一緒に見えるに違いなかった。
 あんな視線を受けて、自分は生きて行けるだろうか。あんな風に堂々と――。
 否、無理だ。きっと出来ない。隠して、普通の振りをして独りで生きるか、それが嫌なら、三原を受け入れるしかないのかも知れない。自分の性癖を隠しながら好きな人を見つけるなんて、砂漠に落ちた針を探すくらい難しいだろう。それを、彼は自分を好きだと言ってくれたのだから。でも…嬉しくないのだ。これっぽっちも。
 自力で相手を見つけられないと諦めながら、選り好みをする自分。そして、嫌なものを振り切って独りで生きて行く覚悟も出来ない。もう、精神的に一杯一杯だった。
 亨は目眩を覚えて目を閉じると武大を思った。途端に、奈落に落ちそうな気持ちが少しだけ浮上する。また、彼に会える。それだけが、頽(くずお)れそうになる亨を支える一筋の希望だった。

 家に帰った亨は、真っ先に浴室に駆け込んでシャワーを浴びた。ごしごし身体を擦って二回も洗い、後孔も念入りに清めて出て来ると、母親がリビングで亨を待っていた。
 気まずい思いで母親に対峙すると、怒られはしなかったが、これからはもっと早く連絡しなさいと注意された。素直に謝ると、それだけで母親はまた寝室へ戻ろうとしたが、亨の腹が盛大に鳴るのを聞いて笑いながら食事の用意を始めてしまった。
 本当は着替えて直ぐにでも出かけたかったが、確かに空腹だったので用意してくれた朝食を食べてしまったら、猛烈な睡魔に襲われてどうにもならなくなった。仕方なく仮眠のつもりでベッドに入ったが、目覚ましをセットし忘れていて、目を覚ましたら十一時を過ぎていた。
 慌てて飛び起きたが、今度は寝汗をかいて気持ちが悪かった。我慢出来ずにもう一度シャワーを浴びて身支度を調えたら昼を回っていて、亨は泣きたい気持ちで家を飛び出したのだった。
 自分が悪いのだから焦っても仕方がないが、電車が遅く感じて苛々しながらやっとやっと寮まで辿り着いた。昨晩から一日が酷く長く感じていたのに、ここに来て時間がやけに早く過ぎて行く気がした。もう武大が帰ってしまっていたらどうしようと、亨は焦りながら足早に門扉のない門を入った。
 中央にある丸いアーチ型をした玄関扉は大きく開かれていて、武大がまだ中にいる事を告げていたが、勝手に入っていいものか躊躇われた。入口でうろうろしていると、「やあ! 来たね。上がっておいで!」と、左側の二階の一番端の窓から首だけ出して武大が手を振っていた。
 玄関の中は幾何学模様をあしらったタイル貼りの広い三和土(たたき)になっていて、両脇に腰の高さまでの木製の下足(げそく)入れがあった。どれも亨には見覚えのあるもので、懐かしい気分にさせられる。昔と違うのは、その上の掲示板にベタベタと貼られてあった注意書きや、回覧用紙や、何かのサークルの募集や演劇や映画のポスターなどがなく、斑に日焼けしたクロスだけになっていた事だ。
 記憶が確かなら一階には寮生の部屋はなく、玄関前にある幅の広い階段を挟んで右側に教会の礼拝堂のような食堂があり、左側に事務室とトイレと風呂場があった。トイレには何度か入ったが風呂場は覗いた事があるだけだった。どちらも白いタイル貼りのちょっと寒々しいものだった記憶がある。
 亨は二、三寸高くなった上がり框(かまち)に一足だけ揃えて置かれていたスリッパを履いて、黒光りする欅の階段を軋ませながら二階へ上がった。二階の踊り場は広く、天井には大正時代からの物らしい細工を凝らした電灯が吊り下がっていて趣があった。窓と窓の間に歌に出て来るような大きな柱時計が置かれていたが、その真ん前に雰囲気を壊すような雑多な日用品や段ボール箱が積み重ねてあった。
「いらっしゃい。こっちだよ」
 右側の一番端の部屋から武大が手招きしていた。廊下を挟んで表側と裏側の両側に部屋があり、廊下のどん詰まりにある窓からしか光りが入らないせいか薄暗い。踊り場からは扉を開けて立っている武大の表情はよく見えなかった。怖ず怖ずと近づくと、昨日会った時と同じように武大は優しく微笑んでいた。
「トオルくん、だったよね? お昼は食べて来たかい? 俺はもう済ませちゃったんだ。朝から動いているから腹減っちゃってね。お腹空いてるならカップ麺があるからね。電気は通っているから電子レンジも使えるし、レトルトのカレーでよければ食べられるよ。ここは古いから寒いだろう? ストーブの前へおいで」
 畳み掛けるように話す武大に亨は気後れして、きょときょとしながら「あの、部屋の片付けは…」と聞くと、武大は笑いながら「もう済んだよ」と言った。手伝うつもりでいた亨は遅れて来た事を恐縮して詫びた。
「うん? どうして謝るの?」
「あっ、だって、お手伝い出来なくて…」
「別に構わないよ。俺は最初から、話が聞きたくて君を呼んだんであって、片付けは口実だったから」
 そう言うと部屋の中に招き入れながら、「珈琲でいいかな? インスタントだけど」と聞いた。亨が頷くとベッドを指さして「そこに座ってて」と言い、机の上に置いた古いポットで珈琲を淹れ始めた。ベッドの足下には遠赤外線のストーブが温かい熱と光りを放っていた。亨は言われた通り寝具が載ったままのベッドの上に腰かけた。皺の寄り具合から、武大は昨日ここに泊まったのだと思われた。
 部屋の中には年期が入った古い椅子と机、それに天井まで届く作り付けの本棚とクローゼットがあるだけだった。備え付けらしい日に焼けたカーテンのかかった窓は細長く、幅も人ひとり分の肩幅くらいしかないので、二面あっても部屋の中は廊下と同じく薄暗い。それは何処の部屋も一緒で、こことは真反対にあった正秋の部屋も薄暗く、いつ来ても電灯が点いていたのを覚えている。
 武大の言葉通り、綺麗に全てが片付けられていた。段ボールが三個、入口のすぐ横に積み上げられていて、一番上の箱の口だけが開いた状態だった。大きな風呂敷のような布が段ボールからだらりと垂れ下がっていたが、布団を包むものなのかも知れない。
 自分を待っていてくれたのかと思うと、やはり遅く来たのが悔やまれた。所在なさげに武大を見ていると、珈琲の入ったマグカップを亨にどうぞと差し出した。礼を言って受け取ると、武大は自分の分のカップを手に持って隣に腰かけ、おもむろに「何か、疲れてる?」と亨の顔を覗き込んだ。
 夢にまで見た好きな男(ひと)にそっくりな顔が間近に迫って、亨は真っ赤になりながら身体をずらし首を横に振った。武大は微笑むと「そう?」と言って珈琲を一口飲んだ。
 三原の身代わりに想像した武大の姿を生々しく思い出してしまい、亨は居たたまれずに慌てて口を開いた。
「昨日、ここに泊まったんですか?」
「うん、そう。遅くなって帰るの面倒臭くなっちゃったから。新しい部屋はちょっと遠いんだよね。金がなくてさ、近場に住めなかった…あっ、ごめん。もしかして、他人のベッドに座るの気持ち悪かった?」
「いいえ! そうじゃなくて…僕だったら、ここに一人で泊まるのは怖いと思ったから…」
「幽霊が出るから?」
 武大は目を大きく見開いて戯けたように笑った。亨は自分の振った話題なのに返答に困って力なく首を振った。
「まあ、そうだねぇ。外の人から見たらここは怖いかもね。でも、俺はここに四年も住んでいたし、みんなおん出されて最後には七人しかいなかったから、一人でいるのとそう変わらないくらいだったよ。だからみんなが残してった不用品の整理も、そんなに大変ではなかったし」
「四年って…じゃあ、今年卒業されるんですか?」
「そう。もう卒業。だから、就職が決まった時点で一番最初にここを追い出される筈だったんだけど、最後の最後まで食い下がったからね。お陰で罰当番喰らったけど、君に会う事ができたから却って良かったかも」
 武大はそう言うと「さあ、例の人の話を聞かせてもらおうかな」と、亨に向き直った。
 亨は一寸考えてから、十年前までここからさほど遠くない祖母の家に住んでいた事、入院した祖母の事で正秋と知り合った事、その後は亨が引っ越すまで正秋が幼い自分を弟のように可愛がってくれた事を詳しく話した。
 正秋が武大に似ている事は敢えて口にしなかった。ただ、穏やかに優しく相手を見つめ語りかけるように話す、理知的で聡明な美しい人であった事、そして、幼い自分の憧れの人だったとだけ熱を込めて説明した。
 武大は頷きながら興味深げに亨の話を聞いていた。終始無言だったが、正秋が祖母のために白い椿の匂い袋をくれた事を話した時だけ、少し驚いた顔をして「そう、なんだ…」と感じ入った声で呟いた。
 亨の話が終わると武大は、「じゃあ、君は引っ越したあとの正秋さんの事は、よく知らないんだね?」と念を押すように聞いた。
「はい。でも、ずっと手紙の遣り取りは…亡くなる直前まで続けていましたから、全く知らないと言う訳じゃないんですけど…」
「亡くなる直前まで…か。その…亡くなる前の手紙には、それらしい悩みとか、変化みたいなものは書かれていたの?」
「いいえ…」
 亨は自分は本当に何も知らないのだと実感し、悲しくなって下を向いた。
 最後の手紙には短い近況報告と、亨のたわいない相談事の返答が綴られていただけで、本当にごくごく普通の内容だった。悩みがあったのなら話して欲しかったが、当時七歳だった自分に、成人した正秋が悩みを打ち明けるなどあり得なかっただろう。
 ただ、手紙の遣り取りの中で、正秋に好きな人がいたらしい事は分かっていた。亨がわざと好きな子がいると嘘の相談をしたから分かった事で、正秋は自分の事を例えて色々アドバイスしてくれたのだが、自分で訊いておきながら、あの男性の事だろうかと痛い思いを味わった。傷口に塩を擦り込むようにどんな人かとしつこく尋ねたが、『やさしい人です』としか答えては貰えなかった。一体それが誰の事だったのか、今はもう知る由もない。
 事件は亨にとって――もちろん正秋にとってもだろうが、晴天の霹靂だったから、正秋が亡くなった事を知らずにいた。それまで忠実(まめ)に届いていた手紙が途絶えた事を訝しく思いはしたが、まさか亡くなっているとは夢にも思わず、ひたすら手紙を待ち侘びていた。そんな時、母親から「この間ね、お祖母ちゃん家の近所の古い寮で、すごい事件があったのよ」と、茶飲み話として知ったのだった。
 吃驚して慌てて図書館で新聞を捜し、実際に正秋の名前を見つけた時は、心臓が止まるかと思う程ショックを受けた。悲しくて信じられなくて、その後の一ヶ月は食事も満足に喉を通らなかった。
「トオルくんは、事件の事は詳しく知っているの?」
 問われて亨は首を振った。小学生の亨では新聞くらいしか事件の内容を知る術を知らなかったが、その新聞にはたった数行、『豊島区の大学生嗣永正秋さん(20)と世田谷区の会社役員堀川康弘(ほりかわ やすひろ)さん(24)が、T大学の豊島寮の敷地内で胸から血を流して倒れいているところを、豊島寮の学生に発見され病院に運ばれたが、二人とも搬送先の病院で死亡が確認された。現場の状況から嗣永さんが堀川さんに刺されたのもと見て警察が原因を調べている』と書かれていただけで、その後の事件の経緯、原因などは全く分からないままだった。
 中学生になってからネットや雑誌社で当時の週刊誌などを探して調べた結果、事件の背景は明るみになったが、より一層深く傷つく羽目になった。
 新聞には一切出なかったが、『ホモの痴情の縺れ』によって起きた事件だと、一部の週刊誌で当時ちょっとした話題になっていた。それらは皆一様に、最高学府の見目麗しい男子学生が、こちらも端整な資産家の男性に無理心中を図られたのだと、好奇の目線で書かれていた。
 それに依れば、亨が見たあの背の高い男性――堀川康弘は旧家の御曹司で、正秋とは大学の先輩後輩になるのだそうだ。堀川は男性しか愛せない性癖を家族に隠し続けていて、親に決められた許嫁との婚姻が近づくにつれてノイローゼ気味であった。そして、婚姻を前に思い詰めた堀川が、予てから想いを寄せていた正秋に最後に一度だけでもと性交を迫ったが、断られて逆上し無理心中を図ったと言うのだ。
 『二人は恋愛関係になかった』との記述に亨は疑問を持ったが、寮生たちや親しい友人は口を揃えて正秋にそうした男色の傾向はなかったし、確かに先輩後輩として面識はあったようだが、二人が一緒にいるのを見た事がないと証言していた。
 無理心中だったのかどうか、堀川の親族からは異議が出たようだ。その根拠は、正秋には抵抗した跡や、薬を飲まされた形跡が一切残されていなかった点で、正秋は刃物で正面から心臓をひと突きにされており、無理矢理襲ったのであれば抵抗した跡が残る筈だと。また、二人とも事件の前に携帯電話や身の回りの荷物を処分しているなどが上げられ、同意の上の心中ではなかったかと主張した。
 同性で恋愛関係にあったとなれば、その方が親族としては困るのではないかと亨は思ったが、無理心中だと殺人罪が適用される。堀川の家としては、親族から犯罪者が出るよりは、合意の上の心中の方が外聞が良いとの考えだったようだが、残念ながら、堀川は新宿二丁目で度々姿を目撃されており、性的な関係を結んだ事があると証言している人物がいたため、警察では無理心中として殺人罪が適用され、被疑者死亡のまま書類送検されていた。
 亨が事件に関して知らないと答えたので、武大は入寮した時に聞いたという事件のあらましを話してくれたが、それは亨の知っている内容と違いがなかった。要するに、二人とも事件の真相は知らないという事だ。
 二人して同時に長いため息を吐いたあと、武大がぽつりと呟いた。
「やっぱり…ストーカー男に道連れにされたって事なのかな…」
「違うと、思います…」
 亨は咄嗟に答えていた。亨にはそこがどうしても信じられなかった。
 事件の経緯を知った時、自分が見たのは正秋と堀川ではなく別人だったのかと思ったが、写真週刊誌に小さく載っていた堀川の写真と記憶の中の男性は同一人物だった。
 あの二人を見た時、亨には堀川の一方的な片恋には見えなかったのだ。もちろん、色々な事情で二人の関係が崩れなかったとは言い切れない。現に二人は心中し真相は闇の中だ。でも…。
 愛しげに見つめ合っていた二人。あれは友愛でなく、確かな恋情を感じた。幼い亨が羨望と憧れを抱く程の。あれは幻なんかじゃない。そうでなければ嫌だ…。
「どうして、そう思うの?」
 武大に興味津々に聞き返され、亨ははっとして武大を見つめた。
 死んだ人のプライバシーを話してしまっていいものか躊躇われた。まして、正秋は誰もがノーマルな男性だと言っているのだ。何の根拠もないのに、二人は恋仲だったと言っても信じては貰えないだろう。口籠もっていると、
「君も、気を付けた方がいいと思うよ」と言われて息を呑んだ。武大は真剣な眼差しでじっと亨を見つめていた。

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