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真冬の幽霊 〈 2 〉

 風が頬を切るように通りすぎた。周囲の木々が一斉にざわめき、羽を休めていた鳥が鳴きながら飛び立った。
 亨は木々と同じくざわめく心を持て余し恐怖と羞恥で泣きそうになった。瞳を潤ませる亨の様子に驚いた相馬は慌てて亨の腕を離した。
「あっ、ごめん! その、俺だけじゃなくて、みんな心配してるんだよ。最近、英が元気ないって…」
「みんなって…」
 普段と同じように振る舞っているつもりだった。そんな大勢の人間に心配されるほど、心労が滲み出てしまっているのだろうか。そんな筈はないと縋るように相馬を見つめると、相馬は「生徒会のみんな…」と言いかけて口を噤み、一旦下を向くと意を決したように顔を上げた。
「本当は、俺が…心配なんだ」
「えっ?」
「俺ね、英ともっと親しくなりたいと思ってる。生徒会の関わりだけじゃなく個人的にね。だから、最近ずっと元気がないのが気になって…。何かあるなら力になりたい。何でも相談して欲しい。英と…そんな間柄になりたいんだ」
 思いがけない相馬の言葉に思わず俯いた。正直に言えば嬉しかった。相馬の事は亨も好ましく思っている。そんな相手から好意を寄せられて嬉しくない訳がない。けれどそれなら尚の事、胸の内など明かせられない。知れば、相馬はきっと二度とこんな風に話しかけてはくれないだろう。
 亨は首を振ると小さな声で礼を言った。
「ありがとう。でも、ちょっと疲れているだけで、悩みなんて特にないから…」
「そう? 本当に?」
 心配そうに尚も食い下がる相馬に、亨は顔を上げて納得させるように微笑みかけた。
「だったら良いけど…」
 相馬は少し拍子抜けしたような顔をしたが、すぐに気を取り直したように頷いた。
「本当に親しく付き合いたいんだ。だから相談事に限らず、何かあったら頼って欲しい。そうだ、今度うちでやる勉強会に来ない? 今回は石崎(いしざき)が物理を教えてくれる事になってる。代わり映えしないメンバーだけど、英が来るって聞いたらみんな喜ぶし…」
「うん…。ありがとう。参加させて貰うよ…」
 会話を切り上げる口実を探しながら、その気もないのに取り敢えず頷いた。色よい返事を聞かない限り相馬はいつまでも帰りそうになかった。
 相馬の家でやる勉強会は『サロン』と呼ばれ学校でも有名だった。相馬の家は近隣でも有数な資産家で、父親は亨たちの通う新星学園の理事長でもある。相馬はそんな出を鼻にかけない気さくな性格で誰からも好かれていたし、彼に白亜の豪邸に招かれる事は、新星の生徒の間ではちょっとしたステータスだったが、参加者はごく限られていて、殆どが生徒会の役員とその友人たちだけだった。
 その『サロン』で何をしているかと言えば、学年トップの成績を誇る生徒を先生役にして、『お茶を飲みながら優雅に勉強を教え合う』とは建前で、年相応の男子生徒らしく真面目な内容だけではないらしい。相馬自身『サロン』などと呼ばれるのは「名前負け」だと笑っていた。
 亨は以前別の生徒から誘いを受けたが、全く興味が持てず断っていた。勉強なら教わる必要もない。それ以外の事は、いても切なくなるだけだ。
「良かった! 来週の土曜日の放課後だから。楽しみにしてるよ」
 心底嬉しそうに笑う相馬に後ろめたさを感じて目を逸らした。自分は相馬の友人として相応しくない。今だって、すぐにも三原が来てしまうかも知れないと、その事ばかりが気にかかる。無意識に腕時計に目を遣ると、相馬が察したように「じゃあ、また来週」と手を振って亨に背を向けた。
 相馬を見送り彼の姿が門柱を出て見えなくなると漸く安堵の息を吐いた。それから改めて寮を眺め、相馬が教えた椿の木がある庭の奧へと視線を移した。そのまま自然と足が動いていた。柳の巨木の脇を抜け、衝立のように視界を遮る孟宗竹を回り込むと果たして椿の木はあった。
 赤だとばかり思っていたが、暗緑色の葉の間に咲いていたのは、清楚な雪のように白い花だった。亨の頬に一筋の涙が伝って落ちた。
 ああ、やっぱりこの木だ。どうして忘れていたのだろう。自分もここであの人に会ったのに。そして、この木の下であの人は―― 。
 亨ははらはらと涙を零しながら椿の側へ歩み寄った。足下の苔むした地面に無数の花が落ちていた。茶色く朽ちたものもあれば、野鳥にでも啄まれたのか開きかけの蕾もあった。どこも朽ちた様子のない綺麗な花が目に止まる。亨は泥が付くのも構わず跪いてその花を手に取ると、脳裏に十年前の記憶が鮮やかに蘇った。
 小学校に入学した年、大好きだった祖母が入院した。見舞いに行った折、何か欲しい物はないかと尋ねたが、慎ましい祖母は何もいらないと答えた。何かして遣りたい一心でしつこく問うと、少し困った顔をしてから微笑んで「白い椿の花が見たいわね…」と呟いたが、その後すぐに「だから何もいらないわ」と付け足した。椿は祖母の好きな花だった。庭にも植えてあり、丁度見頃を迎えていた。
 簡単な事だと母に言って一輪切って貰おうとしたら、怖い顔をして叱られた。理由を訊いても「いけません」の一点張りで、何故駄目なのかは教えてくれなかった。仕方なく花屋に行ったが売っておらず、途方に暮れるも亨は祖母の願いを叶えて遣りたかった。そうして椿の花を求めて辿り着いたのがこの寮の庭だった。
 亨はここに椿の木があるのを知っていた。この鬱蒼とした森の中は、近隣の子どもたちにとって冒険心を擽られる格好の遊び場だった。特に入口近くに立つ柳の木はターザンごっこに打って付けで、学校帰りに友だちと寮の学生に見つからないよう忍び込んではぶら下がって遊んでいた。
 その庭に、いつもは行かない黄昏時、花ばさみを持ってこっそりと忍び込んだ。花を盗るのだから、それこそ「いけいない」事をしている自覚はあった。綺麗な花をつけた枝を切ろうとしていた時、「そんな所で何しているの?」と背後から声をかけられ飛び上がった。慌てて振り向くと、綺麗な男の人が立っていた。それが、あの人だった。
 声をかけられただけで亨は泣き出した。元々大人しく品行方正な亨にとって、悪事の露見は恐怖に直結していた。恐慌し泣いて謝る亨に対し、あの人は叱るどころか優しく慰め理由を聞いた。しゃくり上げながら祖母の願いを口にすると、少し困った顔をして考え込み「ちょっと待っておいで」と言って寮の中へと入って行った。
 人を呼ばれて大事になるのではと、恐怖に戦きながらも大人しく待っていると、息せき切って戻って来たあの人は「これ、あげる」と言って小さな袋を亨の掌に乗せた。それは、白い縮緬で縫われた椿の花の形をした可愛らしい匂い袋だった。
「病気の人のお見舞いに、椿の花を持って行ってはいけないのはね…足下を見てご覧。花が首から落ちているだろう? だから縁起が悪いって言われているんだよ。でも、お祖母さんは椿の花が好きなんだよね。だから、これをあげる。本物の花じゃないし、香りもきつくないから、お見舞いには丁度良いと思うよ」
 そう言ってあの人は微笑んだが、亨は見ず知らずの人に貰っていいものか戸惑い、ただじっと掌の上の匂い袋を見つめていた。そんな亨の態度を気にする風もなく、あの人は反応のない亨を残して寮の中へと帰って行ってしまった。結局、亨は礼も言わずに貰って帰った。
 翌日、祖母に匂い袋を渡すと大層喜んで、亡くなるまで大切にしてくれていた。亨はそれを祖母の形見として譲り受け、今はあの人の形見として大切に仕舞ってある。亨はあの匂い袋を手にしている時のように白い椿を撫でながら、どうして亡くなってしまったのかと恨めしく思った。
 祖母を見舞った数日後、亨はどうしてもお礼が言いたくて、寮の門の前であの人を待った。寒さに震え、帰宅する寮生にからかわれながらも、一目会いたさに辛抱強く待ち続けた。とっぷりと日が暮れてから帰宅したあの人は、驚きながらも亨を歓迎し、以来、まるで年の離れた弟のように可愛がってくれた。それは翌年、亨が引っ越すまでの短い間だったが、慕い慕われる幸せな日々だった。
「僕は、どうしたらいいんですか、正秋(まさあき)さん…」
 自分の気持ちを分かってくれるのは、あの人しかいない。同じ心を持つあの人しか…。でも、もういないのだ。自分も、ここからいなくなりたかった。ここ最近考えるのは、そんな事ばかりだ。
 亡骸が見つかったこの場所に来れば、何か掲示のようなものが貰えるのではと期待したが、相馬に聞いた時に感じた高揚感は消え去って、虚しさと哀しさだけが募っていた。会いたかった。幽霊でもいいから、会って話を聞いて欲しかった。

「そんな所で何しているの?」

 背後から聞こえた声に、亨は息が止まりそうになった。同じ声、同じ台詞。振り向いた先には――あの人―― 嗣永正秋(つぐなが まさあき)が立っていた。
「正秋さん…。正秋さん!」
 会いに来てくれたのだと思った。自分の願いを聞き届け幽霊になって現れてくれたのだと。
 跳ねるように立ち上がり、正秋と覚しき人物の元まで転がるように走った。声をかけた男の方は、今にも飛びつかんばかりの亨の勢いに驚いたようだが、その場から動かずに目の前で息を切らせて自分を見上げる亨を、不思議そうな顔で見下ろしていた。
「人違いだな。俺はね、武大(たけひろ)って言うの」
「えっ? たけひろ、さん?」
「そう、奥田武大(おくだ たけひろ)」
 名乗られても半信半疑の亨は目を見開いて正秋に瓜二つの顔を凝視した。その不躾な視線に武大は苦笑いを漏らし「そんなに似てるの?」と尋ねた。
「…似てます。幽霊かと思ったほど…」
 漸く、別人なのだと感嘆と落胆が混ざった声音で呟くと、「真冬に幽霊は出ないんじゃない?」とからかうように笑われた。
「そう、ですね…。ごめんなさい」
 いきなり幽霊などと言われたら誰でも気分を害するだろう。自分の思い込みの激しさに羞恥しながら謝罪すると、武大は構わないよと首を振った。
 普通に考えればあり得ない事をすんなり信じてしまうほど、武大は正秋に似ていた。少し癖のある柔らかそうな髪も、彫りが深く日本人離れした甘やかな顔立ちも、忘れないように何度も記憶を手繰り寄せては上書きしてきた面影にぴったりと重なる。さすがに身長や体格の記憶はあやふやで、もう少し線の細い人だった気もするが、そんな違いは些細なものだと思わせるほど、醸し出す雰囲気がそっくりだった。
「幽霊…ね。君が泣いていたのと関係してる?」
 惚けたように見つめる亨の顔を見返して、武大は自分の頬の上で縦に線を引くように人差し指を動かした。亨ははっとして涙の跡が残る頬を掌で擦りながら「なっ、何でもない、です…」と言って俯いた。
「でも、そこって、昔ここの寮生が心中した場所だろう?」
「知ってるんですか?!」
「そりゃあね…。ここに入寮する学生は、まず初めに先輩からその話を聞かされるから全員知ってる。後から文句が出ないようにって事らしいけど、聞かされて気分のいい話じゃないし、何年経っても持ち出される死人の方も、堪ったもんじゃないよね」
 武大は呆れたようにため息を吐いて肩を竦めた。
「死者を思い出すのは供養になると言うけど、俺だったら化けて出たくなるかもね」
 亨はその死んだ当人そっくりな顔で悪態を吐く武大を複雑な思いで眺めた。その視線を受け止めて武大はニッと笑うと亨の顔を覗き込んだ。
「俺はその人の事よく知らないけど、俺にそっくり…なんだよね? そして、君はその人と知り合いなんだろう?」
 不愉快どころかどこか面白がるような顔をして尋ねられ亨は反応に困ったが、今更違うと言うのも白々しいだろうと素直に頷いた。武大は何故が嬉しそうに微笑むと「最後の最後で、面白い事に出会えたな…」と呟いた。
「ねえ君、もし良かったら、これから中でその人の事、聞かせてくれないかな」
「えっ?」
「俺ね、最後の最後までここに居残ってた学生なの。お陰で寮長にペナルティー課せられちゃってさ、他のヤツの残してった荷物も一緒に、不用品を今日と明日とで整理しなくちゃなんなくてね。寒いし飽きて来ちゃって、一休みしてたら窓から君の姿が見えて、何してんのかと思って声かけたの。時間あるなら片付け手伝って貰えないかな。そんで、その人の事聞かせてよ。どんな人だったか興味があるんだ。お礼は夕飯ごちそうするってので、どう?」
 亨は青くなって首を振った。もうすぐ三原が来てしまう。寮にはこの人がいるのだから目的は果たせない。思惑が外れた三原がその後どうするだろうと考えると憂鬱だった。
 武大の誘いには驚いたが、嫌ではなかった。それどころか亨自身、三原といるより正秋にそっくりな武大と一緒にいたいと思った。亨は武大に一目で心を奪われてしまっていた。けれど、それは無理な話だった。
「うわっ、即答。残念…。何か用があるの?」
 武大の未練がましい問いかけに、内心でジレンマに陥りながら頷いた。
 三原には暴力を振るわれる訳ではないが、柄悪く強引な態度でしつこく迫られると逆らう気力が萎えてしまうのだ。たぶん、今日も逆らえない。粗暴な振る舞いに魅力を感じる質ではないから、亨の育った環境の中で三原は最も縁のない相手と言えた。なのに、そんな男と嫌々付き合って、断れない自分がとても惨めに思えた。
 知らぬ間に溜まった涙がこぼれ落ち、武大はぎょっとして「御免! ちょっと強引だったね」と謝った。亨は慌てて首を振り「違います!」と叫んだ。
「今日は…駄目なんです。でも…」
 言葉の途中で亨を呼ぶ声が聞こえた。三原の声だった。慌てて声のした方へ目を向けるが、孟宗竹に遮られ三原の姿は見えない。
「トオル! 何処だよ!」
 苛立ちを含んだ怒鳴り声がどんどん近づいてくる。視線を武大に戻し怯えた猫のようにじっと見つめると、武大は一瞬鋭い目つきで三原の声のする方角へ視線を投げてから、納得したような顔で「明日ならいいのかな?」と確認した。
 亨が素早く頷くと、武大は亨の右腕を掴んで引き寄せ、「ずっといるから、君の都合の良い時間においで」と耳元で囁いた。
「何してんだよ!」
 三原の威嚇するような声が背後から飛んで来て、亨は思わず掴まれた腕を引いた。武大の手は簡単に外れ急いで三原の方へ振り向くと、今度は武大が「君こそ何をしてるんだい? ここは寮生以外立ち入り禁止だよ」と厳然とした態度で告げた。
 三原は一瞬臆したが、ちっ、と舌打ちすると「あんた、寮の人?」と不満そうに尋ねた。
「そうだよ。今日と明日、ここの整理を頼まれている寮生だ。最近、建物内に不法侵入して悪戯する輩が多くてね、彼にも注意していた所だよ。用がないなら帰りなさい」
 武大は亨と話していた時とは全く違う厳しい口調で、わざとらしく亨の方を顎でしゃくるのと同時に、亨の背中を優しく押した。
 押されるまま亨は三原の方へ歩み寄った。亨が側に来ると三原はばつの悪い顔をしてもう一度舌打ちした。
「別に…俺たちは待ち合わせしてただけだし。亨、行くぞ!」
 三原は捨て台詞を吐くと亨の腕を掴み門の方へ足早に歩き出した。亨は引き摺られるように歩きながら名残惜しく背後を窺うと、武大の姿は消える事なく白い椿の前でずっと亨を見送っていた。

NEXTは成人向ページです。未成年の方と性描写が苦手な方は、上部よりNOVELでお戻りください。

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