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真冬の幽霊 〈 1 〉

 都電を降りて小さな踏切を渡り、すぐ右手の細い道を入る。火が出たらあっという間に灰になりそうな、古い民家が建ち並ぶ路地裏を縫うように続くその道は、いつしか舗装道路ではなくなる。
 その変化に視線を上げるとそこにはもう民家はなく、左手に私立大学のグラウンドを取り囲むフェンスと空に向かって高く張り巡らされた緑色のネットが見える。片や右手にも同じく灰色のコンクリの塀があり、今は落葉して裸になってしまった大きな篠懸(すずかけ)の並木が塀沿いに並んでいる。
 英 亨(はなぶさ とおる)は、細く拗くれた篠懸の枝を見上げながら細い道を進む。冬の乾ききった砂利道は一歩踏み出す度に黒い革靴を白く染めるが、上ばかり見ている亨は気がつかない。枝の間から見える鈍(にび)色の冬雲の中にちらりと緑青色が混じると、我知らず歩く速度が速まった。
 延々と続いていた灰色の塀がぽっかりと口を開けた中へ砂利道は続き、門扉のないその入り口から十メートルほど先にある大きな白い洋館が終着点だった。
 亨は入り口まで来ると緑青色の切妻屋根が印象的な洋館を感慨深くじっと眺めた。
 細い板を何枚も横に重ね合わせた外観は、札幌の時計台に似ている。木製のダブルハングという細長い上下に開閉する窓が一定間隔に並んでいて、一見古い教会か、学校に見えなくもない。白いペンキはあちこちはげかけて、雨染みなのか黒く変色した箇所がいくつもあった。
 七つの年に引っ越すまでこの近所に住んでいた亨には、とても懐かしく温かい思い出のある場所だった。子どもの頃はもっと綺麗で明るい印象があった。十年前の記憶の中にある建物となんら変わりがない筈なのに、似ても似つかない場所に感じるのは何故なのか。
 考えて直ぐに思い至る。人の姿がどこにもないせいだ。何の物音もしない。時折、キィーキィーと野鳥の鳴く声が聞こえる他は風に揺れる葉擦れの音がするだけだった。
 この木造二階建ての西洋館は国立大学の寮だ。細い砂利の私道はこの寮のもので、建物を過ぎた所からまた舗装道路になりそのまま表通りへと続いている。表通りに出るとすぐに地下鉄の入り口があるので、知る人ぞ知る近道なのだが、殆ど通る人がいないのはこの寮せいだ。
 大正時代に建てられて、奇跡的に戦火を逃れた歴史的建造物は、何度が補修をしているとはいえ老朽化が激しく、利用する学生の数も激減し寂れる一方だった。広い敷地に植えられた木々は、長い年月の間に巨木に成長し、日差しを遮って昼間でも薄暗く電灯も少ない。駅までほんの一分程度の距離だが、朝や私大のグラウンドが使用されている時間帯は別として、夜この道を通る人は少なかった。尤も、人が通らない理由は別にあるのだが。
 今、この寮に人はいない。もともと『幽霊屋敷』と呼ばれていたのが、その名の通りの様相を深くしてひっそりと佇んでいた。
 廃寮になったのはつい最近のことだ。世間を騒がせた耐震偽装事件の余波で、この寮も耐震強度の検査を受け使用は危険と指摘された。その結果、大学が閉鎖を決定したのが昨年の十月で、寮生は冬休み中に退寮するよう勧告されていた。
 『幽霊屋敷』と呼ばれながらも駅に近く、六畳の個室に賄い付きで部屋代が月に三万円という値段の魅力は捨て難く、住めば都と噂をものともしない強者が十六名入寮していた。五十名が定員なので採算が合わず大学側も頭を抱えていたため即決だった。
 寮を取り壊したあと敷地の半分を売却し、残った土地に新たな寮を建設する予定だったが、歴史的に価値のある建物である上に都会に残る貴重な緑地を守ろうと、寮のOBや知識人の間で保存運動が起こった。
 国立大学とはいえ都会のど真ん中にある広大な土地を再開発しない手はないと、両者は真っ向からぶつかり合い、すったもんだの挙げ句、大手の不動産会社の仲裁で、寮の建物は同じような歴史的建造物を集めたテーマパークに移築すること、建て直す際に出来る限り緑を残すことで丸く収まった。
 その間、年が明けても居座りを決め込んでいた学生も徐々に退寮していき、最後に残った学生が出て行ったのが二月最後の日だった。
 亨は白い洋館を眺めながら小さなため息をついた。自分たちがこれからしようとしている不届きな行為を考えると、鉛を飲んだように気が重かった。
「あそこなら絶対誰も来ないし、寮の奴らもついに引き上げたみたいだからさ、なっ? いいだろ?」
 携帯電話の向こうから三原 剛(みはら つよし)は甘い声音で誘ってきた。
「でも、そんな所で…」
「仕様がないだろ! ここんとこ金欠なんだよ。お前、やたらなとこだと嫌がるし。…なぁ、最後にしてからもう一ヵ月だぜ。したいんだよ…」
 お前の躯が恋しいと、すがるように懇願されると拒否することができなかった。
 三原とは半年前、塾の帰りに声をかけられた。新宿の駅前で、まるで旧知の仲のように親しげに声をかけられ、亨は上級生かしらと記憶をかき集め懸命に話を合わせているうちに、何の事はないナンパされていると分かった時にはホテルの前で、逃げ出す切っかけが見つからなかったのは、自分も『男とのセックス』に興味があったからだ。
 “ 男が好き ” なのだと、随分前から自覚はあったが、どうしていいか分からなかった。今、好きな相手はいないけれど、身体の方が性急に大人になりたがってバランスが悪かった。ネットで調べれば知識は得られるし、それなりに慰めたりもできるけれど、十七歳にもなればそんなものじゃ物足りない。それでも “ そっちの世界 ” に足を踏み入れるには、亨は良い子であり過ぎた。
 三原の出現は、ひっそりと心の裏側で上げていた声を聞かれたのかと思うほどタイムリーで、逆を言えば隙をつかれたとも言える。
 茶髪をくしゃりと立ち上がらせ、擦り切れたジーンズと首から下げたやたら太いシルバーのネックレスが如何にもな風情だったが、意外に端麗な顔立ちをしていて嫌悪感は湧かなかった。ホテルの前でしつこく食い下がる三原に、「一度だけなら」と同意したのが運の尽きで、半年経った今もずるずると関係を断ち切れないでいる。
 物音ひとつしない静かな廃寮の佇まいに、確かにここなら誰も来ないだろうと亨も思う。だからと言ってセックスするために潜り込むなんて、まともな人間のすることとは思えなかった。まして亨には大事な思い出の場所であり、こんなことで汚してしまうのがとても後ろめたく感じた。
 やっぱり帰ろうか…。そう思うものの亨の足は一向に動かなかった。十年振りに見た寮も、これで見納めなのだと思うと立ち去り難かったし、ヘタに約束を破ったら三原にいいようにされてしまうのがオチだ。
 大人びた雰囲気で、大学生だとばかり思っていた三原は同い年だった。都内の商業高校に通う十七歳。ダチと賭をしたんだと、亨をナンパした理由を聞かされた時は本当に目の前が暗くなった。
「男と犯れるかって賭けしてさ。アンタ、すっげぇ綺麗だったから、いけそうじゃんって。オマケにマジ具合イイし」
 ハマリそうと笑った顔は年相応に見えたが、亨はその顔を引っ掻いてやりたかった。だが、実際はやり慣れぬ相手との無理な行為で後孔はひどく出血していたし、緊張と痛みとショックとで消耗しきり、動くどころか声を上げることすらできなかった。ひたすら涙に滲んだ瞳で睨みつけていると、
「ああ、アンタ、処女だったんだよな。悪ぃ。大事にすっから勘弁してよ」と言いながらニヤニヤ笑った。
 それがまさか、自分の “ 女 ” になれという意味が含まれていたとは夢にも思わず、一週間後、塾の前で三原の姿を見た亨は、自分の浅はかさを呪わずにはいられなかった。
 三原とて男と深みに嵌ってしまった事実は伏せていたいらしく、それほど頻繁に誘われる訳ではない。お互い高校生同士で、金だってそうもっていない。初めの二、三回こそホテルでしたけれど、あとは百貨店のトイレなど碌な所でしていない。
 会えばする。それだけなのに、三原の亨に対する執着は激しく、体中に印をつけるなど序の口で、挿入しないと気が済まなかった。
「お前がカワイイからさ、俺だって努力してるんだぜ」と嘯くように、何処で覚えてくるのか初めての時よりいくらか『まし』になったけれど、とても『いい』とは言えなかった。止めて欲しくて本気で泣いても、自分のいいようにしか解釈しない。手荒に扱われはしないが、決して気持ち良いものではない三原との逢瀬は苦痛としか言いようがなかった。
 ならば、止めればいい。逢うのを止めればいい。でも…また、自分はひとりになる。
「英?」
 突然、背後から名前を呼ばれ飛び上がって振り向くと、更に驚いて目を見開いた。後に立っていたのは三原ではなく、同じ学年で一緒に生徒会の役員をしている相馬 駿(そうま しゅん)だったからだ。
「何してるんだ? こんな所で」
 相馬は心底不思議そうに問いかけてきた。相馬は亨の住所を知っている。学校からも遠く、帰り道でも何でもないこの場所に亨がいるのが不思議でならないといった風情で首を傾げていた。亨は返答に困った。本当のことなんて言えない。けれど、誤魔化そうにも突然の相馬の出現に焦ってしまって上手く頭が回らない。
「あっ、その…人と、会う約束があって…」
 結局、嘘はつけなかった。亨の答えを聞くと相馬の眉間に皺が寄った。
「ここで?」
「そう…」
「ここって大学の寮だけど、今は閉鎖になって無人だよ? それって、寮の人なの?」
「ああ、否、寮の人じゃないけど…」
「この近所の人? ねえ、その人と連絡取れる?」
 相馬の追求はしつこかった。相馬とは親しくしているが親友と呼べる仲でもないから、普段こんなに立ち入った質問はしてこない。それが今日に限って、しかもこのタイミングで詰問されて、亨の頭は真っ白になってしまった。
 約束の時間には間があるし、三原は時間にルーズな性格だから大丈夫だろうけれど、気紛れに早くこられたら鉢合わせしてしまう。相馬に三原を見られるのは嫌だった。
 戸惑いながら何とか逃げ道を探すが、焦るばかりで相馬を追っ払う言い訳が見つからない。青くなりながらぱくぱくと金魚のように口を開け閉めしている亨を見て、相馬は苦笑いを浮かべた。
「ごめん。立ち入ったことを訊いて。でも、もう直ぐ日没で暗くなるだろ? 待ち合わせなら場所を変えた方がいいと思って。俺、この近所に住んでいるから知ってるんだけど、この辺、夜は人通りがなくて危ないんだ。それに、これも…出るかもしれないよ」
 相馬はだらりと垂らした両手を、自分の目線の高さまでもってくると「うらめしや〜」と振って見せた。その戯けた仕草が普段は理知的で澄ました雰囲気の相馬には似つかわしくなくて、亨は思わず吹き出してしまった。俄に緊張していた二人の空気が和んだことに相馬はほっとしたような顔をした。
「笑うけど、もっぱらの噂なんだよ。この寮には幽霊が出るって」
「知ってる。でも、それ、嘘でしょう? 本当に出るんなら、疾っくの昔に廃寮になっているんじゃない?」
「英、よく知っているね。そう、噂はあるんだけど、本当に見たっていう人はいないよ。都市伝説ってやつ? 昔ね、ここに住んでいた学生が心中したんだよ。その奥の椿の木の下で。そのせいもあるし、古い洋館で如何にも西洋のお化けが出そうな雰囲気だから、肝試しにくる中学生とかいて寮の人によく追い出されていたよ」
 知っている。その心中事件の話はよく知っている。新聞の切り抜きだって持っている。誰と誰が死んだのかも、どうやって死んだのかも。でも場所までは知らなかった。
 “ あの人 ” ならきっと化けて出たりしないだろう。けれど、もし会えるなら幽霊でもいい。もう一度会いたいと亨は心底願った。
 相馬の指し示す指の先を目で追いながら、寮の左手奥の雑木林の中に目を凝らす。手入れの行き届かない孟宗竹が邪魔をして椿の木が見つからない。
「どこ…? 椿の木、どこにあるの?!」
 急に上擦った声を上げてふらりと歩き出した亨の腕を掴んで、相馬は慌てて引き留めた。
「英! ちょっと、どうしたんだよ?」
「…離してよ。椿の木が、見たいんだ…」
 顔を雑木林に向けたまま手を振り払おうとした亨の腕を、相馬はしっかり掴んで引っ張った。
「はなぶさ!」
 大声で名を呼ばれ我に返った亨は、心配げに眉根を寄せた相馬と見つめ合った。思いの外間近に迫った秀麗な眉目と、その眼差しの強さに呼吸が跳ねてすぐさま下を向いた。
「英、何か、悩み事とか、心配事とか、あるんじゃない?」
「えっ? どうして…? そ、そんな風に…見える?」
「見えるよ…」
 亨の心拍数は更に跳ね上がった。クラスも違いそれほど一緒にいない相馬が、どうしてこんな事を言うのか分からない。賢く聡明な優等生は千里眼の持ち主なのだろうか。亨は自分がこれからやろうしている浅ましい行為を、自分の性癖を見透かされた気がして震え上がった。

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