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放蕩息子の恋愛 〈 6 〉

 アルベルトと居酒屋で飲んだ週の日曜日、真は玄を連れて教会を訪れた。
 約束の時間に入口で待っていたアルベルトに案内されて教会へ入ると、青々とした大きなモミの木が目に飛び込んで来た。
 ようやくお目にかかれた “ ほんもの ” のクリスマスツリーは、教会の天井まで届くほどで、優に5メートルはあるかという堂々としたものだった。
 その割に飾りは質素で、赤いガラス玉のクーゲルとよく磨かれた金の鈴、そして杖の形をしたキャンディ・ケーンが飾られているだけだった。天辺には勿論ベツレヘムの星があったが、年代物らしくメッキが剥げて星の輝きは失われていた。
 玄はぽっかり口を開け、反っくり返りながらツリーを眺めていたが、しばらくすると満足したのか「外に行ってる」と言って、隣で一緒に眺めていた葉月の手を引いてさっさと出て行ってしまった。
 真がやれやれと肩を竦めると、アルベルトは「こんなものだよ」と笑いながら真を牧師館へ誘った。二人が外へ出ると、猫の額ほどの小さな庭にアルベルトの母親リンドヴァル夫人が、子どもたちと一緒に待っていた。
「真くん? お久し振りね〜。まあまあ、本当に大きくなって〜」
「あっ、はい。お久し振りです。お陰様で何とか…」
 真は釣られて答えたものの、ほとんど初めて会うアルベルトの母親と、どう会話を繋げていいか分からず言葉を濁した。
 26歳にもなって挨拶ひとつ満足に出来ない自分が情けなかったが、彼女は気にした風もなく、そのふっくらした体つきに似合った優しげな微笑みを浮かべて真たちを歓迎した。
 挨拶を済ますと夫人は真たちを牧師館の応接間に通した。そこにはあまり見た事のないクリスマス飾りが一杯で、真は思わずキョロキョロしてしまいそうになるのを、玄の手前どうにか我慢した。
 みんなが案内された席に着くと、夫人は夫で牧師のカール=ヨハン・リンドヴァル氏の不在を詫びた。真にとってはその方が都合が良かったので、恐縮して「こちらこそ、お休みの日にお邪魔してしまって、すみません」と謝ると、夫人は「牧師に休養日はありませんのよ」と笑った。
 牧師は午前のミサが終わると、病気療養中の信者や、高齢で介護が必要な信者の家を訪問しているとの事だった。それも毎週だと言うので、「大変ですね」と言うと、逆に「あら、お寺でも檀家さんのお宅を訪問なさるでしょう?」と訊かれ、真は困ってしまった。
 寺では戒名や法事などの相談を受けたり、特別な加持祈祷を行ったりもする。けれど、月命日などは別として、頼まれもしないのに住職が個人宅を訪問する事はない。お寺でも慈善的な仕事がある事はあるが、上手く説明する自信がなくて、真は「ええ、まあ…」と曖昧な返答をした。
 話し好きらしい夫人は、その後も寺の行事について色々訊ねたが、口下手な真は説明するのに疲れてしまい、必死でアルベルトにめくばせを送った。
 すぐに察したアルベルトは苦笑しながら助け船を出した。
「お母さん、おしゃべりはそのくらいにして、早くご自慢のルッセカッテルとお茶の用意をお願いします」
「あらあら、まあまあ、ごめんなさいね。すぐに用意するわ」
 アルベルトの催促に、夫人がいそいそとテーブルに運び込んだのは、サンドイッチや果物の他に、そのルッセカッテルと呼ばれたロールパンと、白い雪を被ったようなシュトーレン(ドイツのクリスマスケーキ)、そしてバスケット一杯に入ったジンジャークッキーだった。
 所狭しと置かれた見た事のないお菓子の山に玄が歓声を上げた。
「さあ、どうぞ召し上がれ」
「いただきます。すごいですね…。これ、みんな作られたんですか?」
「久し振りのお客様だから、張り切っちゃったの」
 真が感心して言うと夫人は恥ずかしそうに手を振って、テーブルの中央に置いたキャンドルに火を点けた。
 キャンドルは全部で4本あるのに端の2本しか点けないので、真が不思議に思って首を傾げると、
「これはアドヴェント・キャンドルというの。クリスマス当日から数えて4つ前の日曜日が第1アドヴェントで、1本目のロウソクに火を灯すの。今日は第2アドヴェントだから、2本目に火を灯すのよ」と説明した。
 成る程、4本のうち1本目のロウソクはもう随分短くなっていた。2本の揺らぐ炎の隣りで、残りの2本は火が灯されるのを待っているようだった。
「そして、これが聖ルチア祭に欠かせないパンよ。スウェーデンにはクリスマスケーキはないけど、貴重なサフランを入れたパンを焼くの」
 夫人は説明しながら子どもたちの皿にパンを載せた。S字型にクルクル巻かれた黄色いパンを玄がしげしげと眺めた。
「聖ルチア祭って、あのサンタ・ルチアの事ですか?」
「そう、ナポリ民謡で有名なサンタ・ルチアだよ」
 真の疑問に今度はアルベルトが答えた。
「スウェーデンでは12月13日に聖人ルチアの聖名祝日を祝うんだ。光の祭とも言うんだよ。聖ルチアに扮した少女が頭に燃えるロウソクの冠を被って、お供の『星の子どもたち』と一緒にサンタ・ルチアを歌うんだ。尤も、ナポリ民謡とは違って、聖ルチア祭に合わせた歌詞が付けられてるけどね。家庭ではその家の年長の娘がロウソクの冠に白いドレスを着て、ルチアの歌を歌いながらこのルッセカッテルを両親に渡すんだよ」
 アルベルトは母から渡されたパンのカゴを真の前に置いた。
「はい、お子様はミルクね。大人は温かいグレッグをどうぞ」
 夫人がワゴンからそれぞれに飲み物のカップを配った。真とアルベルトの前に出されたのは、スパイスを入れて温めた赤ワインだった。よく見ると、アーモンドスライスと干しぶどうが浮いていて、シナモンやグローブの良い香りがする。
 真は居酒屋でワインは嫌いだと言ったアルベルトの台詞を思い出し、思わずその顔を窺うと、すました顔でちびりちびりと飲んでいる。
 真も初めて見る温かいワインを恐る恐る口にしたが、割と甘くて飲みやすかった。
「どうお?」
 夫人がにこにこしながら感想を求めるので、「おいしいです」と答えると、夫人は嬉しそうに「ヨーロッパの冬の飲み物なのよ」と説明しながら真のカップにピッチャーでおかわりを注いだ。
 玄がそれを見て飲みたそうに手を出しているので、真が駄目だと嗜(たしな)めると、「子ども用もあるのよ」と言って夫人がノンアルコールのものを持って来てくれたが、玄はひと口飲んだ途端ブッと吹き出してしまった。
「あっ、すいません!!」
 真っ白なテーブルクロスに赤い染みが点々と着いてしまった。真は青ざめて謝りながらハンカチで拭こうとしたが、夫人はいいの、いいのと手を振って、「やっぱり飲めないわよね〜」と可笑しそうにケラケラ笑った。
「あ〜っ、ちっちゃい子って、やっぱり可愛いわ〜」
「お母さん…子どもで遊ばないでください」
 呆気に取られている真の前で、アルベルトはゲンナリしたような顔で母親を咎(とが)め、夫人は笑いながら布巾を持って玄の傍に来ると、ぶえっと泣きそうな顔をしている玄の口元を拭(ぬぐ)った。
「だって、久し振りにちっちゃい子が来てくれたから、嬉しくて、つい…。甘いけど飲みつけない味だからビックリしちゃったわね」
 夫人はごめんねぇ〜と玄の頭を撫でてご機嫌を取ると、小さく切り分けたシュトーレンを玄と葉月の皿に取り分けた。
「最近は、子どもが減っているでしょう? 信者さんも高齢化して、たまにお孫さんを連れていらっしゃるけど、普段は離れて暮らしているから、ずっと教会へ通ってくださる訳じゃないしね。葉月の幼稚園で遊びに来るよう声をかけても、やっぱり入信を勧められるんじゃないかと用心されちゃって、教会まで足を運んでくださらないから」
 だから葉月くんには友だちが少ないのかと真は気の毒になって、お行儀よくシュトーレンを食べている葉月を眺めた。こんなに可愛いのになぁと思っていると、夫人がにこにこしながら真に言った。
「貴方は珍しかったのよ〜。だから、よ〜く覚えているの」
「えっ? 僕を、ですか?」
「そうよ。アルから幼稚園でクリスマスや教会の話を聞いてくれる子がいるって聞いて、お迎えの度に貴方の事じ〜っと見てたの。女の子だとばっかり思ってたから、男の子だって分かった時はビックリしたのよ。名前も真ちゃんって、どっちでもある名前でしょう? 可愛いな〜、遊びに来てほしいな〜って、誘いたくて仕様がなかったけど、お寺のお子さんだって先生に聞いていたから、我慢してたの。仕方ないけど、色々苦労するわね」
 夫人は玄と葉月の方を見て、小さくため息を吐いた。
 真は、智円から『教会の外なら』遊びに行くのは構わないと言われた事を思い出し、「そうなんですか…」と答えながら少し胸が痛くなった。
「お寺さんだと、あまりそう言った事はないでしょう? この人なんかね、教会の子ってだけじゃなく、顔立ちがお父さんに似ちゃったものだから、苦労したのよね。結局、この人が信者さん以外で家に連れて来たのは貴方だけですもの。あの時、引っ越す事になって、本当に残念だと思っていたの」
「お母さん、僕たちそろそろアパートの方へ行くから、お菓子を少し分けてくれるかな」
 際限なく続きそうな夫人のお喋りを止めさせたかったのか、それまで黙って聞いていたアルベルトが唐突に口を挟んだ。
「あら、もういっちゃうの? 子どもたちも?」
「ああ、いや…子どもたちは、お母さんさえ良ければ、夕方まで預かってもらえると有り難いけど」
 アルベルトが葉月の方を見ながらそう言うと、葉月もほっとしたような顔をして、ゲームをする為に玄を連れて窓際のテレビの方へ移動した。
 教会の戸締まりをしに行ったアルベルトを待ちながら、真は玄に、5時に迎えに行くまで大人しく良い子で仲良くするようにと言い含めた後、小声で「ここ(牧師館)に来た事と、ワイン飲んだのは内緒な」と言うと、玄は神妙な顔つきで口のチャックを閉める真似をして頷いた。
 真がよしよしと玄の頭を撫でる様子を、遠目で眺めながらお菓子を袋に詰めていた夫人が口を開いた。
「真くん、あんな子だけど…アルベルトの事、どうぞ、よろしくね…」
 改まった口調に驚いて夫人を見ると、とても真剣な眼差しで真を見ていた。真は釣られるように身を正して「はい」と大きく頷いた。
 戻って来たアルベルトに夫人がお菓子の包みを渡し、子どもたちと夫人に見送られながら牧師館を出ると、アルベルトが突然「ごめんね」と謝った。
 何の事か分からず「何が?」と訊くと、「母はおしゃべりな上に、あけすけだから」と苦笑いした。
「とんでもない。すごく楽しいお母さんでいいじゃない。楽しかったよ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。僕も、母のああいう性格に救われているからね」
 そう言うとアルベルトは黙ってしまい、しばらく重い沈黙が続いた。
 真はこの雰囲気をどうにかしようと焦ったが、さっきのワインで酔ったのか、頭がかっかと熱くなるばかりで良い考えが浮かばない。咄嗟に牧師館の応接間で見たアドベントカレンダーについて「教えて?」と頼んだ。
 アルベルトは真を見てほっと小さく息を吐くと、穏やかに微笑んで丁寧に説明してくれた。いつもの雰囲気に戻ったアルベルトにほっとしていると、「ここだよ」と言って二階建ての建物を指さした。
 教会を出てから7、8分という所だろうか。作りはちょっとモダンだけれど、凄く古い建物なのに驚いていると、アルベルトがエントランスへ入って行ってしまったので、慌てて跡を追いかけた。
 階段を二階に上り、中途半端な段差を上がって下がると、5室の扉が並ぶリノリュウム貼りの廊下へ出た。床はよく掃除が行き届いて散り一つ落ちていなかったが、窓がないから昼間でも夜のようだった。
 こんな所に住んでいるのかと真は眉を顰(しか)めたが、アルベルトが鍵を開け扉を開いた途端目を見張った。
 玄関からは広々とリビングとキッチンが見渡せて、カーテンを開け放った対面のバルコニーからは、庭木の緑と陽の光りが燦々(さんさん)として眩しかった。
 そして何より驚いたのは、玄関の壁からずっと、壁という壁が天井までの本棚になっていた事だ。それはまるで私設の小さな図書館のようだった。
「すっごい…本だらけ!」
 真が感嘆して呟くと、アルベルトは「仕事で必要なんでね」と笑った。
「ここで仕事をしているの?」
「うん。ここはほとんど僕の仕事部屋なんだよ」
 部屋に上がってまず目に入るのが、フローリングのキッチンにデンッと置かれた大きなアンティークのテーブルで、その上にはデスクライトとノートパソコン、筆記用具や辞書、書類の束が乱雑に置かれていた。
 椅子はバルコニーの窓を背にして一客しか置いておらず、真はどこで食事をするのかとキョロキョロした。
「食事は殆ど牧師館でとるんで、ここでは大した物は作らないんだ。食べる時はそっちを使ってる。真もそこのコタツへどうぞ」
 キッチンのすぐ隣りが襖で区切るタイプの和室の6畳間で、襖が全て取り外してあるから広々と感じる。
 角部屋だから、こちらの側面にも窓があってとても明るい。そして窓の上も下も手作りらしい本棚で埋まっていた。それ以外は、大きな液晶テレビとコタツがあるだけで何もない。
「じゃあ、ここで寝ているの?」
「ううん。その奥は葉月の部屋だけど、僕はそっちの奥の部屋で寝てる」
 アルベルトが指さした先はキッチンの裏で、真の位置からはその部屋に面したサニタリーの扉が見えるだけだった。
 真はコタツに入りながら葉月の部屋に目を向けたが、襖が閉まっていて見えなかった。
「葉月くん、独りで寝てるの?」
「うん。葉月は3歳まで両親に育ててもらったんだよ。彼らは欧米式の子育てをするから、葉月はずっと子ども部屋の揺りかごで、独りで寝かされていたんだ。だから独りでも全然平気なんだよ」
「そうなの…」
 玄なんか今でも母親と一緒に寝ているし、怖い話を聞いた夜は真の布団にも潜り込んで来る。葉月くんはしっかりしているんだなと感心していると、アルベルトがお菓子を皿に盛り直し、珈琲と一緒に運んで来た。
「寒ければ、ガスストーブ点けるけど」
「ううん、大丈夫。いいね、この部屋…よく陽が入るからすごく暖かい。もうコタツで充分。いいな〜、コタツ。コタツ欲しい。家では駄目だって言うんだよ。ゴロゴロしてだらしなくなるからって。寺に来る前は、コタツあったのにな…」
 そう言って、ごろんと横になった真にアルベルトが驚いて聞き直した。
「寺に来る前って…、最初からあそこにいたんじゃなかったの?」
「うん。お寺に来たのは僕が5歳の時だよ。アルに会う一年くらい前かな。だから、僕は最初からあの幼稚園にいた訳じゃないんだ。その前は、小さなアパートにいて、父さんは工事現場で働いてて、母さんは近所のスーパーで働いてた。僕はいつも独りで遊んでたな…。でも、コタツがあって、色んなおもちゃもあって、あの頃は…普通にクリスマスもしてくれた覚えがあるんだ。ほんのちょっとしか覚えてないけど。ここ、その時のアパートに似てる…」
 部屋の中はぽかぽかと暖かい陽射しに満ちてコタツの中も暖かく、静かで珈琲の良い香りがして、お腹もいっぱいで気持ちが良くて…。真の瞼はすっかり重くなっていた。
「なんか、眠い…」
 そうだ。牧師館を出た辺りから、何となく体がふわふわ浮いているような感じがしていた。赤ワインで酔ったのかも知れないと真は目を擦った。
「真、コタツで寝ると風邪引くから、寝るなら僕のベッドで寝なよ」
「ん〜…やだ。あったかいから、ここでいい…」
 アルベルトに肩を揺すられたが、真は嫌々と首を振って子どものように駄々をこねた。
「真、起きて…」
「ん〜…、も…動けない。ぼく、ここに住む〜〜」
「えっ? 真、もしかして、酔った?」
「ん…。そう、かも…」
「…あのワイン、そうとう強かったからね…」
 ため息を吐いて呟いたアルベルトの声を最後に、真の意識は遠のいた。それでも、時々意識が浮上するのか、ゆらゆら体が揺れる感覚や、ひんやりとした空気を感じたりして反射的に体が震えた。
 するとまたフワリと暖かいものに包まれて、真は『ああ、コタツで寝てるんだっけ』と思い出し、安心してほっと息を吐き出すと、柔らかいものが顔に触れた。
 その暖かくて柔らかいものは、しばらく頬や唇の辺りに触れていた。真は何だろうと思うものの、瞼を開けるほどには気にならなかった。
 却って気持ちが良いからいいや、と思っているうちに深い眠りに落ちてしまい、夕方アルベルトに起こしてもらうまで、人の家のベッドですっかり熟睡してしまったのだった。

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