INDEX NOVEL

一握の砂 〈9〉

 実家に着くとすぐ部屋にあった学籍名簿を探し出し、呆れる両親を尻目にマンションへ取って返した。
 田辺の居所はすぐに分かった。田辺の実家に電話を掛け、大学の同窓会があるので連絡を取りたいと告げると、おっとりした声の女性――多分彼の母親は、あっさりと連絡先を教えてくれた。海千山千の商店主相手に鍛えた営業トークで、聡は如何にも田辺と大学時代親しい関係にあったと匂わせて、彼の近況を聞き出した。
 田辺は大学を卒業した年に司法試験に合格し、今は企業の顧問弁護業を主とした弁護士事務所に勤めている。三年前から実家を出て独り暮らしをしているとの事だった。さり気なく修二の名前を出してみると、電話の向こうで更に弾んだ声が上がった。
「まあ、あなた、修ちゃんともお友だちなのね。そう、心配しているんだけど、遠慮してちっとも家に寄ってくれないのよ。今度是非、一緒に家へ遊びに来て頂戴ね」
 はい、是非と相槌を打つと、礼を言って電話を切った。多少良心の呵責を感じたが、これくらい何だと首を振る。それよりも改めて田辺と修二の親しい関係を知らされ、口惜しい思いに満たされた。幼馴染みと聞いてはいたが、本当に家族ぐるみのつき合いをしていたのだ。ならば、何故――と、聡は釈然としないものを感じた。どうして今、修二と一緒にいるのが田辺ではなく、後輩の吉田なんだと。
 吉田とは一度だけ会った事がある。ゼミの後輩だと修二は彼を紹介したが、聞けば高校の後輩でもあるらしく、「望月先輩のことは存じ上げてます」と笑った眼鏡の穏和そうな男の顔が、朧げながら記憶にある。彼が一体どういう人物で、どういう経緯で修二の“世話”をしているのか。
 聡は腕時計を見た。午後十時半を回っていたが、迷わず携帯を開くと今し方教えてもらった番号を押した。訊きたいことは山のようにある。教えてくれるとも限らないが、行動しなくては何も進まないのだ。聡は固唾を呑んで呼び出し音に耳を澄ませた。
 幾らも待たず「はい」という低い男の声が聞こえた。聡は一拍おいて「田辺さんのお宅でしょうか? 望月聡と申しますが…」と名乗ると、相手はえっ、と言ったきり沈黙してしまった。聡は切られるかと慌てて「もしもし!」と声を掛けると「修二の事か?」と単刀直入に尋ねられた。今度は聡が驚いて息を呑んだ。
「そうだけど…」どうして分かったのか。
「望月が俺に電話を掛けてくるなんて、理由はそれしか思いつかない。それに修から聞いたよ。この間、会ったんだって?」
 聡の疑問に答えるように田辺は落ち着いた声で答えた。その声に釣られて聡も落ち着きを取り戻した。
「そう。だったら話が早い。修二の居場所を教えてくれないか」
「会った時に訊かなかったのか?」
「電話番号は教えてもらったが、繋がらない。吉田くんの所にいるのは聞いたが、住所までは…」
「それが、修の答えなんだとは思わないのか?」
 聡は返答に詰まった。自分でも思っていた事だ。図星を指されて頭に血が集中するのが分かる。落ち着け。ここでキレたら本も子もなくなる。聡は深く息を吸い込んで気を静めた。
「そうかも知れない。それでも、修二に会いたいんだ。会って、どうしても言いたい事がある」
 はっきりと言いきった言葉に、田辺の返答は無かった。切るでもなく、何事か考えているのか暫し沈黙した後、「会って、何が言いたい?」と抑揚のない声で問い返された。聡は今度こそムッとして言い返した。
「それは…、田辺には関係のない話だ。それとも君にお伺いを立てないと会えない理由があるのか!」
 聡の勢いに押されたのか田辺は押し黙り、また暫く沈黙が続いたが、ため息をつくような長く息を吐き出す音がした後、意を決したような声が聞こえた。
「否、悪かった。俺には、あんたを止める権利は無い。分かった、望月。吉田に会え」
「えっ?」
「俺には無いが、吉田にはその権利がある。まず、吉田に会って話を聞け。今、修二がどうしているのか。どうなっているのか。あいつの話を聞いても、まだ修二に会う気があるなら…。どうしても修二に会いたいなら、もう一度、俺に連絡してくれ。いいな? 吉田には俺から連絡するから、あんたの携帯番号を教えてくれ」
 思いも寄らない展開に聡は戸惑った。吉田には聡を止める権利があると田辺は言う。それはどういう意味なのか。嫌な予感がするが、これしか方法がないなら仕方がないと腹を括った。
「分かった。宜しく頼むよ。ありがとう」
 田辺に番号を教え、折り返し連絡をもらう約束をして携帯を切った。これで修二に会える道筋が出来たが、聡は単純に喜ぶ気にはなれなかった。

 二日後、田辺から連絡があった。『明日の晩八時に、神保町の喫茶店で』との事だった。「行けるか?」と気遣わしげに訊く田辺に、直ぐに了承して返した。
 吉田が指定した喫茶店は、岩波ホールの近くにあった。木と白壁の内装が落ち着いた雰囲気の店で、壁際の席が全て半円形の壁で囲まれた個室になっている。成る程、一寸した商談などには向いていると聡は思った。店員が寄ってくるのを手で制止して、待ち合わせをしていると告げると、「失礼ですが、お客様は望月様でしょうか? 承っております。どうぞ、ご案内致します」と言って奥へと案内した。
 店員の示した席に向かうと、既に席に着いていた男が聡を認めて立ち上がった。「お待たせしました」と聡が声を掛けると、男は一礼して顔を上げた。その顔は聡の記憶とは随分感じが違っていた。
 背は聡とそう変わらない、痩せた身体に黒縁の幅の細い眼鏡を掛けている。整髪料で整えた短い髪と揉み上げから顎に繋がる無精髭が、そう精悍でもないのによく似合っていた。これで細身のデザインスーツなど着ていれば、広告代理店の営業マンといった所が、普通のスーツを着ているので洒落過ぎず好感が持てた。
「こちらの都合でお呼び立てして申し訳ありませんが、これからまた社の方へ戻らないといけませんので…」
 第一声で暗に手短にしろと言うはっきりした意思表示に、聡は自分に対する吉田の敵意を感じ取った。柔和な声音と顔には微笑すら浮かんでいるが、眼鏡の奥の瞳が少しも笑っていない。彼は自分と修二の事も、何のために来たのかも知っているのだろう。聡は気持ちを引き締めて、「否、こちらこそ、忙しいのに時間を取ってもらって済まないね」と相手の顔を見据えて頷いた。
 吉田は「いいえ」と答えると聡に椅子を勧めた。聡がコーヒーを注文するのを見届けると、早速、話の口火を切った。
「お久し振りですね、望月先輩。田辺先輩から連絡を受けた時は驚きましたよ。一体全体、私に何のご用件でしょうか?」
 顔見知りとは言え殆ど初対面の相手に、吉田の態度は何処までも慇懃無礼だった。ならば、と聡は単刀直入に切り出した。
「修二に会わせてもらいたい。どうして君に許可をもらわないといけないのか分からないが、田辺に君から修二の事を訊けと言われた。彼は今どうしている? 何で彼は君と一緒にいるんだ?」
 いきなり切口上になった聡に、吉田は目を見開いて驚いたが、次の瞬間笑い出した。
「はっ! すごいな…。貴方の厚顔さは尊敬に値しますよ。修二さんに会いたいなどと、よく言えますね。貴方、自分があの人にした事を忘れたんですか?」
 聡は吉田が “ 修二 ” と名前で呼ぶ馴れ馴れしさに神経を逆撫でされ、更に語気が強くなった。
「君が何処まで知っているのか分からないが、何を知っていようと、“ 僕らの事 ” は、君には関係のない事だろう?」
 関係ないという言葉に、吉田は鋭く反応すると聡を睨みつけた。
「関係ない…。確かに、貴方と修二さんの関係に於いて、私は関係ありませんがね。私にとって貴方の存在は昔も今も目の上の瘤でしかないし、修二さんにとっても疫病神でしかないんですよ!」
 吐き出すような憎悪剥き出しの吉田の言葉に、修二は鼻白んだ。
「疫病神だって? どういう意味だ!」
「言葉通りですよ。いいですよ。教えて差し上げましょう。貴方がどれだけあの人に災厄をもたらしたか。それを聞いても、まだ『会いたい』と言えるなら、会わせて差し上げますよ」
 吉田はそう言って、怒りを刻んだその顔を暗い微笑に塗り替えた。

「私はご存じの通り、貴方たちの一つ後輩です。高校の頃から修二さんに憧れて大学も後を追いました。同じ文学部に入って喜んだのも束の間、あの人はもう貴方のものでした。隠していても分かりましたよ。私はあの人だけ見ていたんですから。他の者は兎も角、私の目は誤魔化せない。
 それでもいいと思っていました。その時は特に恋情を感じていた訳じゃないんです。後輩として側にいられれば、それで満足でした。幸い、貴方は生田校舎で普段側にはいないのですから、気にもならなかった。私はゼミの教室に潜り込んで、二人でよく小説の話をしていました。穏やかで幸せな時間だった。それが一変した。
 貴方たちが三年生の時でしたよね。忘れもしない、あれは十一月の連休の後の事でした。修二さんは二週間も大学に出てこなかった。やっと出てきたと思ったら窶(やつ)れ果てて、何をするでも田辺先輩が付きっきりで、まるで魂のない人形のようだった。
 高校の頃は田辺先輩とよく一緒にいたのは知っていましたから、他のゼミの連中のように驚きはしませんでしたが、とても不思議だった。何故、貴方じゃないのかと。私が恋人なら、こんな哀れな状態の恋人を他人に任せるような事はしない。だから、修二さんの “ 窶(やつ)れ ” の原因は貴方だろうと察したんです。
 私は、貴方がゼミの教室に修二さんを尋ねて来た日、貴方の後を追ったんです。何故こんな事になったのか訊こうとしてね。驚きましたよ。貴方はタクシーで渋谷に行って、有ろう事か、男とホテルへ入ったきり出てこなかった。
 その事を修二さんに話したか?
 話そうと思いましたよ。貴方が身を削るほど苦しむ価値は無いのだと、そんなに苦しんでいる貴方を置いて平気で浮気が出来る男など捨ててしまえと、どれだけ言いたかったか。
 望月さん、パニック障害って知ってますか?
 修二さん、それになってしまったんですよ。過呼吸をね、繰り返すんです。心臓が止まってしまうような苦しみ方で、見ているのが辛くなるくらいでした。
 どうしようか迷って、田辺先輩に相談しました。彼は粗方の事情は訊いていたようです。二人の間の事は当人同士の問題だから口出しするなと。ただ、修二さんを苦しめる事になるからと固く口止めされ、私もそれに従いました。だから今も、貴方の所業は知りませんよ、あの人は。
 貴方と綺麗さっぱり別れた後も、もう以前の修二さんには戻りませんでした。もともと人見知りな質でしたけど、パニック障害特有の “ 広場恐怖 ” というのに襲われて、必要最低限の外出しかしなくなりました。動悸を伴う不安の発作を頻繁に繰り返すと、発作を恐れて一人で外出する事が出来なくなるんです。笑う事も少なくなって、沈みがちでしたね。
 幸い、薬で発作は直せるので頑張って闘病を続け、夏前には病気そのものは出なくなりました。危ぶまれた就活も出来るようになり、秋には当初の希望通り新聞社の内定も決めました。その頃には随分明るさを取り戻して、元通りの修二さんに戻れるかと思ったんです。なのに…。
 妙な噂を立てられたんですよ。同じゼミだった前川由美って女が、長瀬くんは、男女問わず色目を使うのが上手いから、新聞社の内定もそれでもぎ取ったんだろうって! まともに生活する事すら困難だった人が、倍率の高い就職口を簡単に得られたのは裏工作があったのだと…。とんだ言い掛かりです!
 あの女、田辺先輩に振らたくせに、諦めなかったんですよ。田辺先輩は周りも訝しむ程、修二さんに掛かりっきりでしたから、ずっと修二さんを逆恨みしていたんです。修二さんはあの通り綺麗な人ですし、貴方もね、女子の間で人気が高かったんですよ。知らなかったんですか?
 だから、あの秋の日を境に貴方が来なくなって、代わりに田辺先輩がべったりですからね、色々憶測が飛んだんです。あの女、田辺先輩がいない時に、修二さんに面と向かって言ったんですよ。ホモ同士くっついていればいいのに、どうして田辺先輩に乗り換えたのかって。修二さん何て答えたと思います?
『俺が望月に言い寄ったけど、あいつはホモじゃないから断られたんだよ。田辺は幼馴染みだから俺の事をほうっておけないだけだろ。これで満足か?』って言ったんですよ、笑いながらね。
 止めようと思った時には遅かった。噂は瞬く間に広がって、ゼミは疎か学部中その噂で持切りでした。ゼミの片桐教授はリベラルな考えの持ち主でしたから、大変心配して個人のプライバシーを尊重するように諫めてくれたんですが、人の口に戸は立てられませんからね。それが思わぬ所へ飛び火したんです。
 新聞社宛に、修二さんはホモで、そういう輩を雇う貴社のモラルを疑う、と言う内容の怪文書が届いたそうです。誰が出したのか分かりません。前川かもしれないし、同社を落ちた学生が噂を聞きつけて出した可能性もあります。
 事実確認のために呼び出しを受けた時は、内定取り消しを覚悟したそうですが、『確かに自分は、恋愛対象者に性別を特定する意識は薄いが、それでは新聞記者に相応しくないのか?』と訊くと、採用担当者は全く問題ないと言ったそうです。事実、内定は取り消されませんでした。
 でもね、蓋を開けてみれば…、京都ですよ。京都支社の文化部です。希望は東京だったのに…。基本的に通信社などは現地採用です。いくら支社が全国にあるからって、希望を出さない限り、縁もゆかりもない地方へ配属されるなど有り得ない。あの怪文書が影響していない筈がない!
 知らなかったでしょう? あの人があの後、どんな日々を過ごしていたのか。言い掛かりだと憤慨しましたか?
 そうです。今話しているのは貴方と別れた後の事ですから、直接貴方とは関係ない。でも、どうして貴方と関係ないと言い切れます?
 恋愛が終わる時は、どちらかが一方的に悪いとは言えないと田辺先輩は言いましたがね。尤もだと思いますよ。でも、どうしてあれほど苦しむような別れ方をしたんです? あんな事が無ければ、あの人は京都に行かなくて済んだかも知れない…。
 そうです…。京都に行かなければ、そして、あんな女に出会いさえしなければ、あの人の足は駄目にならなくても済んだかも知れないのに…」

 聡は、はっとして顔を上げた。先程から悪夢を聞かされている心地で、呆然と吉田の話を聞いている事しか出来なかった。自分には身に覚えの無い話だが、修二の身に起こった驚愕の出来事を吉田が責めるのは無理もないと思った。俯いてじっと責め苦に耐えていたが、修二の足の事に自分が関係しているかのような言い方には納得出来なかった。事件を起こして…と本人は言っていたが、一体何があったのか自分は全く知らないというのに。
 修二に何があったのか?
 聡は吉田の顔を見詰めたまま、その先の言葉が紡がれるのを固唾を呑んで見守った。

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