INDEX NOVEL

一握の砂 〈8〉

「今の女性、望月先輩の事、すごい意識してましたね…」
 お茶を出して女子社員が出て行くと、呆れた様子で田中が言った。融資の申し込みがあった担当企業の応接間に通されて、社長と経理担当者が来るのを待っているのだが、なかなか現れない。田中は初めての大口の融資話に興奮しているのか口数が多く、聡は苦笑して窘めた。
「田中くん、余計な事は言わない。誰が聞いているか分からないよ」
「あっ、済みません…」
 実際、女子社員の媚びを売るような視線はあからさまで不快な程だったが、そうした秋波を受け慣れている聡は涼しい顔で受け流した。
 まだ二十代の若さで支店長代理の肩書を持って回ると、男も女もあらゆる意味で興味を示す。この若さで聡が支店長代理になったのには、水面下で再度合併が進んでいるとのデマが流れ、その引責処分者を大量に出した事による暫定的人事だった。聡もその絡繰りは承知していた。それでも六年の実績は伊達ではなく、肩書に見合った実力も充分あったし、本人にもその自負があった。
 繰り返された合併劇によって、図らずも同期となった社員の間では、それなりの軋轢が生じたが、行内でもその家柄、ルックス、学歴、人望など総合して聡の右に出る者はいなかったから、今回の人事に対してどこからも文句は出なかった。そんな聡をほうっておく手は無いと、女子社員は疎か、取り込もうとする連中を躱すのに、聡は人知れず苦労していた。
 上司からの覚えが高いのに、奢った所のない謙虚な態度を示す聡は、後輩の男性社員から慕われていた。特にこの田中という、入行二年目の後輩は聡に懐いてよく話し掛けてくる。真面目で明るく、悪い男ではないのだが、少々口が軽かった。普段から「先輩は、僕の憧れです」と慕ってくれるのは良いのだが、誰彼構わず聡の噂話をするらしく、先日も忌引きの田中に代わって回った初見の取引先で、「噂に違わず、立派な方と取引出来て心強いですよ」と言われたのには閉口した。
 行く先々で誉められれば聡とて嬉しい。そんな時はいつも修二の事を思い出した。もしも自分が、言葉通りの立派な人間になれているとすれば、それは修二のお陰なのだ。別れてから日を置けば置く程、修二との思い出は鮮やかで、特に高校時代の事は聡の生きる糧になっていた。
『あるがままを受け入れ、自分に出来る事を一つずつやっていく』
 修二の教えてくれたこの言葉は、あらゆる事に有効だった。聡とて最初から順風満帆だった訳ではない。最初のスタートはあきる野市の支店からだった。商店街の海千山千の店主を相手に、口座一つ作ってもらうのさえ苦労した。それでも、自分に出来る事からと、一軒一軒、毎日足繁く通い、出来うる限りの要望に応えた。徐々に信頼を受け、気が付けば取引先は行内一位となっていた。
 それ以来、幾つも支店を変わったが、どこでも必ず一つの目標を定め、全てクリアして行く事を繰り返した。それは目に見える結果となり、肩書に反映された。人間関係でも、困難にぶち当たる度、修二ならどうするだろうかと考えた。修二を傷つけた自分の他人に対する配慮の無さは、痛い教訓として刻まれていたから、気配りの利いた思慮深い行動を取れるようになっていた。その姿勢は聡の家族にも影響を与えた。
 就職と共に自立し、帰ってくる度に姿形が立派になり、肩書を上げていく息子を、年老いた父は “ 自慢の息子 ” と手放しに喜んだ。兄もその家族も聡を歓待してくれる。そう年の違わない二人の姪などは、競うように聡と一緒に出掛けたがった。銀行に就職するのを反対していた母ですら、気が付けば、目を細めて聡を眺めるだけになっていた。母の眼差しの変化を見て、聡は心から修二に感謝した。本当に『努力する自分の姿を見せて』母に諦めてもらえたのだと思うと感無量だった。
 銀行の仕事に全てを懸けているとは言えないが、仕事としての遣り甲斐は充分感じていたし、満足もしていた。そしてその道を付けてくれたのは修二なのだ。聡にとって修二の存在を想う事が、そのまま生きる指針になっていた。
 修二に再会した時、謝罪は勿論だったが、何より感謝の気持ちを伝えたかった。そして、出来るなら――もう一度、やり直したい――そう願っていた。虫が良い願いだとは分かっている。どの面下げてと罵られるのも覚悟の上で、せめて、友人としてでも良いから、修二の側に在る事を許して欲しかった。
 あの日、修二は『これで忘れられる』と言った。如何様にも受け取れる言葉だが、都合良く解釈すれば、聡の罪を “ 忘れ ” てくれる――許し、受け入れてくれるのだと思った。だが、教えてくれた電話番号は繋がらず、交換した聡の携帯にも何ら連絡は無い。『忘れる』とは、そのまま “ 聡の存在 ” を『忘れる』事なのだと分かった時、最後に会った “ 別れた日 ” の事が痛烈に思い出された。
 今日子から修二が完全に復学したと連絡が入って、図書館の裏庭に来てもらうよう伝言を頼んだ。一ヵ月振りに会った修二は、痩せて儚げで生気が無かった。人を引きつけて止まない薄い栗色の瞳は何の感情も映さず、まるでガラス玉のようだった。自分のどんな言葉も修二の心を素通りしてしまいそうで、唯ひと言「別れたい」と告げると、ほんの少し瞳が揺らいで見えたが、「分かった…」と吐息を吐くように呟いた。
 七年経って、髪や足の事は別として、あの頃と全く変わらない修二だったけれど、確かに “ 理想の自分 ” を追っていた修二の面影は無く、代わりに別れた日に感じた、脆く儚げな暗い影を引きずって見えた。
 修二は許していないのだ。そしてそのまま、自分の存在を忘れようとしている。
「望月先輩! どうかしたんですか? 何か具合でも…」
 虚空を見詰めて動かない聡に、田中が心配げに声を掛けた。
「あっ、ああ。何でもないよ」
 我に返った聡は、顔の強張りを取るように薄く笑ってみせた。今は仕事中なのだ、しっかりしろと自分を叱咤する。ドアがノックされ、漸く担当者が現れた。「お待たせ致しました」との挨拶に、聡はスッと立ち上がり、何事も無かったように満面の笑みを浮かべて挨拶を返した。

 訪問先を出ると午後三時を回っていた。連休が終わると金融機関は忙しい。今日も一日中出突っ張りの予定だ。一番陽気の良い季節だが、スーツをきっちり着て移動するにはもう暑いくらいだった。喉の渇きを覚え、次の訪問先へ行くには時間に余裕があったので、通り掛かったカフェで休憩することにした。
 店の中は外回りらしいサラリーマンと近くの大学の学生で一杯だった。田中に二人分のオーダーを頼むと、聡は空いているオープンテラスのテーブルに着いた。上着を脱ぎ、足を組んで資料に目を通していると、近くの席でノートを広げていた女子大生がチラチラと聡を盗み見ている。道行く若い女性たちも聡を流し目で眺めて行った。
「何か…。先輩、モデルみたいですねぇ」
 アイスコーヒーを手に戻って来た田中が、感嘆した声を洩らした。
「馬鹿な事を言わないでくれよ。煽てても何も出ないぞ」
「とんでもない、馬鹿な事じゃないですよ。先輩、行内の『結婚したい男』ランキング一位なんですよ。まあ、頷けますよ。格好いいし、出世株だし」
 田中は真面目な顔で頷いたが、聡は苦笑するしかなかった。その噂は知っている。有難迷惑な話だが、女性はその手の話が好きだから聞き流している。
 聡はそれ程背が高い方ではないが、非常にバランスの取れた体格をしていた。肉が付いた分ジムで筋肉を鍛えたので、胸板が厚くなり背広姿が良く似合った。学生の頃は目が大きめで可愛いと言われた顔立ちが、その甘さをほんの少し残したまま、男らしい洗練された美貌に変化した。特に、その性格を表した優しい笑顔が良いと、女性たちに大人気だった。
「先輩、結婚話とか、一杯来ているんじゃないですか? ああ、でも先輩ほどの人なら、もう恋人いますよね…」
 こんな風に田中が訊くのは、女子社員の誰かに頼まれたからに違いない。聡は答えを考え倦ねる。YESでもNOでも、また噂話に尾ヒレが付くだけだろう。答えはNOだ。今、聡に恋人はいない。
 松田とは、あの後一年もしないで別れてしまった。デリヘルの仕事で、自分の欲求が溜まる一方だったらしい松田は、何も知らない聡に性技を教え込む事に喜びを感じていた。お客の要望に合わせて “ 攻 ” も “ 受 ” も出来た松田は、聡に “ 攻 ” をさせたり、道具を使った行為もした。さすがにSMまがいの行為をされた時には辟易したが、別れた理由は、聡が医者の息子だと分かった途端、恐喝されたからだ。つき合うと言ってもそれほど深入りしなかったので、携帯を変え連絡を絶ったらそれっきりになった。多少の情は感じたけれど、別れた所で痛くも痒くもなかった。
 後はなし崩しだった。一人になってしまえば、また修二との日々が恋しく悔恨に暮れるのが怖くて、ゲイバーやハッテン場で男漁りを繰り返した。声を掛けてくる男に嫌悪感を抱かなければ、誰とでも寝た。修二に似た男がいれば自ら声を掛けた。それが “ 攻 ” であろうと “ 受 ” であろうと関係なかった。
 今の生活もそれほど大差はない。就職してからは不特定多数の人間と寝るのは止め、何人か特定のセフレを持った。それでも修二を想って堪らなくなると、ふらりと夜の街へ出掛け、彼に似た男を誘った。そして毎月、HIV検査の結果を見て、胸を撫で下ろす虚しい日々を続けている。
『立派になった』と眩しげに目を細めて呟いた修二の顔が目に浮かぶ。その顔に訴えたかった。修二、修二、僕には欠けているものがある。一番大切な “ もの ” が ――。
 黙ったまま答えない聡に、機嫌を損ねたと思った田中は慌てて謝罪した。
「済みません。プライベートな事を訊いてしまって…」
「否、いいよ。恋人はいないけど、忘れられない人がいてね…。昔、つき合っていたんだけど、その人を酷く傷つけて別れてしまったんだ。未練だけど、まだその人の事が好きなんだ。だから、まだ結婚は考えられない…」
 憂い顔でため息をつく聡を、田中が吃驚した顔で見詰めている。聡は内心ほくそ笑んだ。田中にリークすれば行内中の女性の耳に入るだろう。吉と出るか凶と出るか。それでも暫くはこれを理由に結婚話を蹴る事が出来るだろう。田中は何故が顔を赤くして瞳を潤ませた。
「そう、なん、ですか…。わっ、分かります、その気持ち。諦めきれないんですよね…。そっ、その人とは、もう会ってないんですか? もう、結婚されたとか…?」
 興奮して吃りながら尚も訊いてくる田中に、聡は失敗したかなと不安になった。
「まだ、独りみたいだよ。一度だけ会えたけど、まだ許してもらえないみたいでね…」
「でも、先輩は、まだ、すっ、好きなんですよね?」
「うん。でも、どうしたら良いか分からないんだ…」
 これは本心だ。折角、奇跡のような再会を果たしたのに、謝罪も受け付けず、許す事もなく自分を忘れようとしている修二に、自分はどうしたらいいのか…。
「ぼっ、僕だったら、謝ります! 許してくれるまで謝り続けます!」
「えっ?」
「土下座でも何でもして、許してくれるまで何度でも謝ります。そして、これからの自分を見て欲しいと頼みます」
「許して…くれるまで?」
「そうです! だって、どうしても手に入れたい人だったら、そこまで出来ますよ。実は…。僕も彼女と喧嘩別れして…。でも彼女じゃないと駄目だって、気が付いたんです。だから諦めきれなくて、頑張りました。最初は受け付けてもらえませんでしたけど、徐々にまた僕を見てくれて…。早いとは思うんですけど、来年には彼女と結婚したいと思ってます」
 聡は田中の勢いに押されてしまって狼狽えたが、その若さが羨ましくなった。
「それは、おめでとう。でも…君たちは上手く行ったけど、もし、駄目だったら?」
 上目遣いに田中の顔を見ると、にっこりと笑いながら事も無げに答えた。
「もし駄目だったら、その時は潔く諦められるじゃないですか。僕はそう思ってました。やって、やって、とことん気が済むまでやって、それで駄目なら見合いでも合コンでもして、新しい恋を探そうって。でも、自分が納得しないままには終わらせられないと思ったんです」
 聡は呆れ返った。何という単純な考えだろう…。そう思ったら、唐突に腹の底から可笑しくなって笑い出した。目に涙さえ滲ませながら笑い続けた。
 単純だけれど、確かにそれしか方法はないと聡も思う。『自分が納得しないままには終わらせられない』それも正しい。今また修二との関係をこのままにすれば、自分は一生、彼の事を引きずる事になる。何も終わっていないのだ。修二を傷付けたあの夜から、自分はずっと逃げ続けているだけだ。
 田中は自分が言った事の何処が可笑しいのか分からず、呆気にとられたまま聡を見ていたが、やがてぱちぱちと瞬きすると恐る恐る「僕、何か変なこと言いましたか?」と訊いた。聡は笑いを納め、目尻を拭いながら田中に向き直った。
「否、変じゃない。参考になったよ、ありがとう。許してもらえるまで、頑張ってみるよ」
 聡は感謝を込めて、あの女性たちを虜にする優しい微笑みを浮かべて礼を言うと、田中は真っ赤になって笑いながら頭を掻いた。
 その日、退社した聡は、真っ直ぐ実家のある経堂へ向かった。部屋には大学の学籍簿が残っている。修二が世話になっているという吉田の住所は分からないだろうが、田辺の住所なら分かるだろう。有名な蕎麦屋だというからそうそう移転はしていないはずだ。
 今度こそ逃げないで、真正面から田辺と対決しよう。聡はそう決意を固めた。

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