INDEX NOVEL

一握の砂 〈10〉

 田辺賢造が部屋を尋ねた時、修二はぐっすり眠っていた。
 杖をついてでも歩けるようになって、まだ一年も経っていないし、もともと身体が丈夫な方ではない修二に何かあってはと、強引に合い鍵を預かっていたが、まさか本当にこうして訪ねて行く事になるとは思ってもいなかった。
 一ヵ月前まで白かった修二の髪は、今は綺麗な栗色に染められている。地毛の色よりは少し暗い色だが、こうして眠っている姿は、まるで高校生の頃に戻ったかと錯覚するくらい、若くあどけなく見えた。頬に掛かった髪の毛を指で払い落としても、余程眠りが深いのか身動き一つしなかった。
 こちらが幾ら髪を染めるように勧めても煩そうにして聞く耳を持たず、厭世観を引きずったままだった修二が、ある日、自ら美容院に出掛けた。その心境の変化を本人は気分転換と言ったが、存外に意固地な性格を熟知している賢造には、予感めいたものがあった。問い詰めればやはり、『偶然、望月聡に会った』と薄く微笑みながら告白した。その顔を見ながら、未だその心を占める望月に対する深い想いを知らされて、賢造は驚くよりも哀れさが先に立った。
 吉田に望月と会うように連絡したのが三日前。今頃、吉田は望月と会っている筈だ。
 賢造が望月の要望を伝えると、吉田は意外に冷静に対応してくれた。それが、今朝早く、修二の具合が悪いが、自分は仕事の都合で帰れそうにないので、夜、部屋へ寄って欲しいと電話があった。修二の体調不良の原因を訊くと、返答を渋っていたが、暫く「昨晩、自制出来なくなりました」と答えた消え入りそうな声が、吉田の不安と恐れを伝えていた。賢造はつくづく自分の迂闊さに臍を噬んだ。胸の奥から苦いものが込み上げたが、後の祭りだと諦めて了承するに止めた。
 賢造は寝顔を見ながらため息をつくと、修二の食事を作るために台所に立った。
 吉田はコンビニで弁当でもと言ったが、唯でさえ食の細い修二はそういうものを受けつけない。慣れた手つきで缶詰の蟹を使って卵雑炊と、青梗菜とエリンギの蟹あんかけを作る。独り暮らしも三年になれば自炊も出来るようになるが、もともと子どもの頃から実家の蕎麦屋の手伝いをさせられていたので、包丁を持つのは苦ではなかった。
 江戸時代から続く老舗の蕎麦屋だとご大層な事を言っても、周りが思うほど儲かっている訳ではなく、純日本家屋の店舗を維持するのも大変な状態だった。しかもその家訓とやらで、暖簾分けをせず、家族で経営するという非効率的な伝統を頑なに守っていたので、休みの度に手伝いに駆り出され、因果な家に生まれたものだと思っていた。家業を厭うと言うよりもその煩い仕来りに嫌気が差し、長男であるにも拘わらず姉に家督を押しつけて、賢造は早々に自立の道を選んだ。
 自立と言っても住み慣れた神田の街は離れがたく、実家から歩いて十五分の所にマンションを借りて住んでいる。確実に住む人は減ったが、昔から自営業を営む家が多い地域だったから、修二の実家のように地所をビルに建て替えて、下を店舗や貸事務所にし上に自宅を構えている人も多く、一歩路地へ入ればそれぞれ八百屋や豆腐屋など細々と続けていて、特に生活に困る事はなかった。
 修二が京都から東京へ戻ると決めた時、母親と折り合いが悪い修二を、賢造は当然のように引き取るつもりでいたが、修二の方から拒まれた。足繁く京都に通っていた吉田と一緒に住むつもりだと聞かされた時には驚いたが、本人が決めた事ならとその件は譲歩し、吉田に家賃の援助を申し出たがそちらも断られた。
 鷹揚に構えていた賢造だが、さすがに二人で自分の目の届かない所へ行かれるのは堪らないと、知り合いの不動産屋に頼んで自分のマンションに近い物件を探し出し、修二の身体の事や彼の実家に近い事、吉田の勤める出版社に近い事などを挙げて説得し、強引に住まわせるのに成功した。
 吉田と修二が暮らし始めて半年以上過ぎたが、こういう事態になるのを予測するべきだったと、賢造は唇を噛んだ。断固反対するべきだったか、或いは自分の言動をもっと慎重にするべきだった。少なくとも吉田の前で髪を染めた理由を訊き出すなどするべきではなかったのだ。それを切っ掛けに、吉田は修二に想いを告げたのだから…。
 修二の部屋に食事を運ぶと、既に起きて待っていた。
「起きてたのか。大丈夫か?」と声を掛けると、修二は申し訳なさそうに苦笑して見せた。
「うん、いい匂いがしていたから目が覚めた。仕事帰りなのに悪い。手を煩わせて…」
 言いたい事は山ほどあったが、今は食事をさせるのが先だと賢造は口を噤んだ。
 賢造は修二の膝へお盆を乗せると自分はベッドの傍らへ椅子を引き寄せ腰を掛けた。修二は食欲はあるようで、徐々に空になっていく皿を見てほっとするが、これからの事を思うと先が思いやられた。
 賢造は完全なノーマル嗜好の男だが、同性愛者に対して偏見は無い。子どもの頃から見続けているこの友人が、そうであると知った時も驚きはしたが嫌悪感は湧かなかった。それでも、寝込むほど疲弊する性行為には危惧を感じたし、修二の心の内も疑ってしまう。
 吉田の修二に対する気持ちが、いつ恋情に変わったのかは分からない。学生時代は同じゼミの守口今日子とつき合っていたくらいだから、『そういう想い』で修二を見ているなど思いもしなかった。吉田の中に、どれだけ強い想いがあるのか分からないが、百歩譲って激しい行為が愛情表現だとしても、こうした形で不安をぶつける吉田の許に、このまま修二を置いておくのは危ぶまれた。
「あの後、望月から連絡はあったのか?」
 粗方食べ終えた修二を見て、賢造は何でもない口調で問い掛けた。修二はぴくっと肩を振るわせたが、特に慌てるでもなく静かに答えた。
「連絡先を教えてないから。もう会うこともないよ」
 先日の電話で、望月は教えてもらった番号が繋がらないと言っていた。賢造はこの嘘吐きな友人の顎を掴んで自分の方へ向けさせると、瞳を覗き込みながら尚も問い続けた。
「お前は、それで、いいのか? このままの状態で、本当にいいのか?」
 修二は驚いて見開いた瞳を振るわせ、忙しなく瞬きを繰り返した。子どもの頃から嘘を付いている時の癖。それでも意地っ張りな幼馴染みは、賢造の手を払いのけると俯いたまま反論した。
「いいんだよ! これで…。前にも話しただろう? もう、決めた事だから…」
「決めた事? 望月を諦める事をか? 養ってもらってる見返りに吉田に抱かれる事をか?」
「賢造!!」
 修二は怒鳴って鋭く賢造を睨みつけた。怒りの為か肩が震えている。
「悪かった…。言い過ぎた。でもな、お前が恋人として、吉田を受け入れていると言うのなら、どうして嫌な事は嫌だと言わないんだ。身体を壊してまでする事じゃないだろ。お前たちが別れない限り、これからずっと続いていくんだぞ」
「たまたま…だよ。いつもじゃない。もう迷惑を掛けないように気をつけるから、俺の事は――」
 話の途中で賢造の携帯が鳴った。吉田からで、賢造は「悪い」と言って椅子から立ち上がると部屋の隅に移動した。今日の事は修二には秘密にしている。聞かれないよう充分距離を取ると声を落として携帯に出た。
「もしもし」
『田辺先輩ですか。吉田です。終わりましたよ』
 吉田の声は興奮しているのか上擦っていた。
「ああ、それで?」
『…多分、納得してもらえたと思います。もう『会いたい』なんて言ってこないと思いますよ』
 勝ち誇ったような強い口調で答える声に、賢造に対する当て付けが感じられた。
「そうか…。分かった」
『それより、修二さんの具合はどうですか? 代わってもらえますか?』
「ああ、もう起き上がってるし、飯も食えたから大丈夫だろ。待ってろ」
 賢造はベッドの側へ戻ると、吉田からだと修二に携帯を差し出した。
「もしもし、保?」
 修二が屈託無く携帯へ出ると、吉田は益々興奮したのか、離れて立っている賢造にも声が筒抜けだった。修二は賢造を気にして顔が見えないように身体をずらした。
『修二さん、具合はどうですか? 本当に済みませんでした…』
「もうだいぶ良くなったから気にするな。こっちこそ、体力が無くて済まないな…」
『いいえ。じゃあ、今日は戻れませんけど、戸締まりに気をつけて、充分休んでくださいね』
「ああ、保こそ、残業頑張って」
『修二さん、愛してます』
 修二はその台詞に対して一拍間を置くと、静かに「うん…」と頷いて携帯を切った。少し顔を赤くして返そうと差し出す修二の手から携帯を受け取ると、賢造は先ほどの吉田との会話を思い返した。
 望月は、このまま諦めるだろうか? 吉田の牽制に簡単に屈してしまうだろうか…。
 後は望月がどう出るか。その出方を待つしかないと、賢造は心の中でため息をついた。

 聡は喫茶店を出た後、自分が何処を歩いているのか分からなかった。気が付くと『ラベル』のあった方へ歩いていた。聡は四谷支店に配属になってすぐ『ラベル』を尋ねたが、コンビニエンスストアに変わっていた。近所の人に訊けば、『ラベル』のマスターは二年前に亡くなったとの事だった。
 温厚なマスターの顔と修二とお揃いでもらった時計を思い出し胸が痛んだ。墓参りに行きたいと思ったが、身寄りのない人なので場所などよく分からないと言われて諦めていた。こうして修二との接点がどんどん失われていく。
 煌々と輝くコンビニの灯りに吸い寄せられるようにしてふらふらと店内へ入ると、まともに動かない頭をどうにかしたいと、缶ビールを買って一気に呷った。店員が呆気にとられたままその様子を見ていたが、そのまま飲み続けた。苦い液体に噎せりながら一缶飲んでしまうと、吉田の台詞が洪水のように押し寄せて来た。身震いして走り出し、タクシーを拾った所までは記憶にある。気がつけば自室のリビングの床の上に転がっていた。
 明け方の冷気と気持ちの悪さで目が覚めると、慌ててトイレに駆け込んで胃の中の物を全部吐いた。ガンガンする頭を押さえながらリビングに戻ると、ウイスキーやら焼酎やらの瓶があちこちに散乱していた。
 息をついてソファに倒れ込むと、男を誘わなかっただけ進歩だなと自嘲した。以前の自分だったら誰かれ構わず寝ていた所だろうが、あんな話を聞かされた後ではそんな気にもなれない。あんな話――まるで三文芝居の筋立てのようだった。
 修二の足が動かないのは、京都で同棲していた女に刺されたためだった。
 吉田も修二が頑として口を割らないので詳細は知らないとの事だったが、警察やこの事件を取材した知り合いの記者の話を総合すると――、
 修二がどういう経緯でその女と知り合ったのかは分からないが、借金の為にホステスをしていた女と同棲していた。そこへ、女を見初めた客が、借金の肩代わりに結婚を迫った。客の男は裕福な呉服商で、本気とばかりに修二の元へも別れて欲しいと頭を下げに行き、修二はそれを了承した。裏切られたと思った女は無理心中を図って修二を刺したが、自身は死にきれず警察に捕まった。
「修二さんはね、被害届を出さなかったんですよ。事情聴取にも自分の過失だと言って応じない。女は素直に認めていたんですがね。ある時から調書を翻した。その呉服商が寄こした弁護士が付いたんです。そうこうする間に不起訴処分になって、女はちゃっかり呉服商の後妻に納まりました。修二さんは刺され損ですよ」
 吉田は憎々しげに吐き捨てた。その剣幕に聡は無言で見詰めることしか出来ない。
「不思議とね、貴方と別れた時ほど窶れてはいませんでした。ただ、一生歩けないかも知れないと告げられて、少し自棄にはなっていました。私はクビになるのを覚悟で休みを取り、あの人のリハビリにつき合いました。いつまでも東京へ帰らない私を心配して、修二さんは自分からリハビリに励むようになってくれて、半年で何とか杖をついて歩けるようになりました」
 吉田はここで話を切ると、聡の顔を見据えた。暫く互いにそのまま動かなかったが、ゆっくりと吉田が口を開いた。
「貴方は、いつだって修二さんの大事な時に側にいなかった。あの人が助けを必要とする時に側にいなかったんですよ。この七年、私はあの人だけを見てきました。あの人を支えてきた年月は、貴方があの人と一緒に過ごした日々より長いんです。私は修二さんを愛しています。そして、あの人は私の気持ちに答えてくれました」
 聡は驚きに目を見張った。その表情を吉田は満足げに眺めると最後通牒を突き付けた。
「修二さんと私は愛し合っています。一緒にいるとはそう言う意味です。田辺先輩が、私の許可を取れと言ったのは、私が恋人として恋敵の貴方に会わせない権利があると言う事でしょう? 望月さん、前言を撤回しますよ。会わせません、貴方には。今後一切、修二さんに連絡を取ろうなどと思わないでください。では、失礼します」
 吉田が伝票を持って去って行くのを、聡は呆然と見送った。ただ、呆然と。
 夜明けが近いのか、カーテンの隙間から薄青い光が差し始めていた。聡はソファからずり落ちそうな格好でだらし無く横たわったまま動かない。
 これが、全部、夢なら良い――悪い夢なら。なのに、ガンガンと割れるような頭の痛みが、全て現実なのだと教えている。頭の中を切れ切れになった言葉がぐるぐると回る。
 女と同棲? 吉田と恋人同士? 会わせない権利? 疫病神?
 会いたいと思う自分は、そんなに厚顔無恥な男なのだろうか?
 そんなに許されない事なのだろうか?
 耳元へ温かいものが伝って落ちた。何かと思って触ってみると濡れている。僅かな朝の光源を受けて、白く光る指先を眺めながら聡は笑い出していた。修二と別れてから、滅多に泣くなど無かったものを、彼の事になると途端に涙脆くなる自分が可笑しくて、哀しくて、聡はくつくつと何時迄も笑い続けた。

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