INDEX NOVEL

一握の砂 〈7〉

※ 性描写があります。18歳未満の方はお読みにならないでください。

 二週間が過ぎる頃、聡はようやく行動を起こしたが、ことごとく空振りだった。勇気を出して修二の携帯に掛けてみたが電源が落とされていたし、家にも掛けたが兄らしい若い男が出て、暫し狼狽した挙げ句、「今は出られない」と告げられた。居留守されているのだと心が凍る思いだったが、「電話を頂いたことは伝えますから」と返され、逆に自分から伝えないでと断ってしまった。
 大学にも行ってみた。会ったらなんと言おう、何と謝ろうと、眩暈をおこしそうなほど高鳴る心臓を押さえながら、修二の行きそうな場所を回ったがその姿は見られなかった。最後の居場所として、ゼミの教室へ行っても修二の姿はなかった。そして田辺の姿も見えなかった。
「もしかして、長瀬くんを探してる?」
 後から声を掛けられ飛び上がって振り向くと、以前、修二と田辺の噂話をしていた女子が立っていた。
「ごめんね、驚かすつもりなかったんだけど」
 にこやかに笑っている顔を見ながら、確か守口今日子と言う子だとな、と思い返す。修二が紹介してくれ挨拶をした程度だが、今日子も聡を覚えていたようだ。
「長瀬くんね、もう二週間も病欠なの。聞いてない?」
 思いがけない言葉に聡は言葉を失った。病欠? 二週間も?…。
「二週間も休んでるの?」
「ええ、連休があったでしょう? あの後から来ていないの。あんまり長いから、私も心配して電話したんだけど、家の人に今は出られないって言われて吃驚しちゃって。具合そんなに悪いんですかって聞いたら、なんか返事を濁されちゃったの。望月くんも何も聞いてないの?」
 聡は無言で頷いた。連休の後と言ったら、別荘に行った直後からという事になる。修二が病気? それは、僕の所為…? 聡は驚愕で頭が真っ白になった。その後、何か言葉を交わしたが、殆ど記憶に残っていない。いつ家へ戻ったかすら覚えていなかった。
 修二が病気という言葉が頭から離れなかった。どんな具合なのか、自分はどうしたらいいのか。あの日の項垂れた修二の姿を思い起こしては悔恨に震えた。こんな事になっているなんて、夢にも思わなかった自分の鈍感さを呪った。
 あの出来事には少なからず自分だって傷ついた。苦しいし、食欲もないし、よく眠れない。それでも自分は病気にもならないし、大学の講義だって普通に受けている。傷つけられた修二は、二週間も人前に出られないほど苦しんでいると言うのに。
 聡は心のどこかで、いつも自分の我が儘を聞いてくれる修二は、今度の事も許してくれるのではないかと思っていた。でも…。
 『…俺だったら傷つくね…元サヤは無いと思うよ』
 あの時の男の言葉が蘇って、頭の中で何度も何度も響き渡る。その度、胸が抉られる痛みに涙が溢れた。
 そうだ。自分の事しか考えない、お前のような自分勝手な奴を、誰が許してくれるものか。修二は許してくれない。二度と戻っては来ない――甘い自分を責めるように、もう一人の自分がしたり顔で囁く。恐ろしかった。自分の犯した罪の重さを知れば知るほど、どうしていいか分からなかった。
 聡の嗚咽以外音のない部屋に突然電子音が鳴り響いた。弾かれたように顔を上げ携帯に飛びつくが、登録外の知らない番号だった。それでも修二かもしれないと迷わず通話ボタンを押した。
「もしもし!」
「あっ…。サトシクン? 俺、俺、覚えてる〜」
 耳元でのんびりとしたふざけた声が聞こえて硬直する。覚えている。つい一週間前、寝た男だ。
「何で…。何で番号を知っている…」
 つき合おうと誘われたが、断ったはず。番号を交換した覚えもない。聡は震える声でやっとやっと声を出した。
「う〜ん。悪いと思ったんだけどさ、俺は連絡取りたいと思っていたから、あんたがシャワー浴びてる間に携帯弄らせてもらった」
 聡は言葉を失った。瞬時に怖いと思ったが、これも自分の巻いた種だと諦めに似た気持ちに支配された。
「やあ、あれから気になってさ。彼氏とはどうよ。連絡来た?」
「あんたに話す義務はないし、ほっといてくれ…」
「オイオイ、これでも心配してんのよ。なあ、相談に乗ってやるよ。ゲイの先輩として、意見してやれる事があるかもしんないし」
「いらない。もう…駄目…かも…」
「おーい。泣くなよ…。なあ、出て来いよ。そういう時は一人でいたくないだろう? 色々考えるの、分かるよ。俺だってゲイやってりゃ、色々あるんだから。外に出りゃあ、気晴らしにもなるし」
 最初は、無遠慮な男の余計なお世話を、腹立たしく感じていたが、独りで自分を責めてばかりいた聡の心は、男の気遣いに徐々に傾いていった。止まっていた涙が再び流れ始めると、もうそれを止めることが出来なかった。
 確かに一人でいたくなかった。自分が悪い事は重々承知していたが、それでもお前の気持ちも分かるよと、この痛みを酌んでくれる人が欲しかった。この罪の重さから救ってくれるなら、もう誰でも構わないと思った。
 一時間後、聡は再び男と会っていた。そして男の言われるがまま、最後には身体も繋げていた。
 男がシャワーを使う間、聡は自分の馬鹿さ加減に呆れながらも、どこか冷めた気分になっていた。男は聡の話を聞いてくれ、それなりの慰めはしてくれたが、結局は寝るための口実で、聡はまんまと男の誘いに載せられたのだ。それでも、最初から心のどこかでそれを望んでいた気がする。事実、話すことで幾分心の重責は軽くなった。しかも、寝ている間は確実に痛みを忘れられた。溺れたのだ快感に。聡は一度目よりも凄まじい刺激を感じて我を忘れた。
 自分はきっと、元からこんな人間なのだ。欲望に弱い淫乱な男。修二を傷つけたのも、この自分の醜い肉欲のせいだ。でも、これが自分なのだ…。あんなに綺麗な修二に、自分は似合わない。そんな卑下た考えが、逆に聡の心を落ち着かせた。
 男はシャワーから出ると、上機嫌で一枚の名刺を渡した。『俳優 松田伸之』と名前と肩書きが大きく刷られていた。後は住所と携帯番号のみのシンプルなものだった。「俳優…?」と聡が驚くと、松田は皮肉気な笑みを洩らした。
「まあね、売れない俳優なのよ。劇団に所属してるから、そこの芝居がかかれば給料は出るけどねぇ。後はオーディションとテレビや映画のエキストラ。それも希だから殆ど本職はこっち…」
 そう言って、もう一枚名刺を差し出した。濃紺の紙に金色で「NOBU」という文字と携帯番号しか刷られていない。聡はなんの仕事か分からず、首を傾げた。
「ゲイ専門の出張ホスト。まあ正確にはデリヘルだけど。だからテクには自信アリだぜ。つき合って損はナシ」
 男は笑いながら、いつでも連絡しろと言った。

 会えなくなって三週間目。相変わらず修二の携帯は電源が切られたままだった。自分からメールを出そうと思ったが、直接会って謝罪するならまだしも、綴った言葉はどれも薄っぺらく感じ、結局一通も出していない。
 あれから松田からの連絡も無かった。松田の “ つき合う ” とは “ 身体のつき合い ” 限定で、要は安全な『セフレ』を確保したいのだ。聡はそんな関係を持とうなど夢にも思わなかったから、もらった名刺を手帳に挟んでそのまま放置していた。
 吉報が入ったのは思いもしない人からだった。守口今日子から修二が講義へ出て来たとメールが来たのだ。
 聡は今日子との遣り取りを半分しか覚えていなかったが、あの時、修二が出て来たら知らせてくれると約束していたのだ。午後からのゼミなら会えるのではないかとの内容に、聡は逸る気持ちを抑えて大学へ向かった。
 ゼミの教室へ駆け込むと、また一斉に教室中の視線を浴びたが、そんな事は気にならなかった。荒い息で今日子に声を掛けると、窓際にいた今日子は聡に手を上げて駈け寄ったて来たが、その顔は曇っていた。
「ごめんね。呼び出しておいて…。実は…さっき、長瀬くん、早退したの。昼休み中だったけど、学食で急に気分が悪くなっちゃって…。凄かったの。胸が痛いって言った後、呼吸困難みたいになって。すぐ落ち着いたけど、一応保健室へ連れて行ったの。それでゼミが始まる前に寄ってみたら早退したって…」
「そう…」
 あからさまに落胆した聡に、今日子は気の毒そうな目をして見せた。ならば、もうここに用はないと踵を返した時、「あら、まだいたわよ」と声が降って来た。聡と今日子が同時に声のする方へ顔を向けると、短い髪の女子がニヤニヤしながら立っていた。
「どこに?」
「ほら、この教室出た所の、中庭のベンチ。私遅れて来たからさ。つい今し方見たよ。なんか車が来るのを待ってるみたい。まだいるんじゃない? でも貴方、お邪魔虫クンになっちゃうかもよ」
「由美! 何言ってんのよ…!」
 今日子が慌てて由美と言う子を叱り飛ばしたが、どこ吹く風でそのまま話し続けた。
「だって田辺くんとべったりくっついてるんだもん。すごいよ。当てられちゃうよ〜」
 由美がけらけら笑うのを、今日子が窘めた。
「どうしてそういう言い方をするのよ。仕様が無いでしょう? 具合が悪いんだから」
「でも、ここ最近べったりじゃない。何するでも、何処へ行くでも。いくら幼馴染みでも、あれは無いんじゃないの」
 何故か由美は急に怒りを含んだ声を出したが、それよりも引っかかる言葉があった。幼馴染み? 修二と田辺が幼馴染みだって? 聡の驚愕に青ざめた顔色を何と解釈したのか、今日子が慌てて付け加えた。
「長瀬くんが出て来なくなってから、理由は分からないけど、田辺くんも休んでいたのね。長瀬くんが出て来てからは自分の講義そっちのけで、ずっと付き添っていて…。聞いたら、二人のお家がすごく近所で、幼馴染みなんですって。みんな驚いたのよね、そんな風に見えなかったから…。私は、長瀬くん、すごく弱っているみたいだから仕方ないと思うのよ。でも、ちょっと度が過ぎるって言うか…」
 今日子は由美の方を窺うように話していたが、由美は仏頂面をしたまま何も言わなかった。
「中庭だよね…」そう言うが早いか聡は走り出していた。
 中庭に出ても、すぐには二人の姿を見つけられなかった。庭を見ながら渡り廊下を進むと、校舎の出入り口からは楡の木の影になっているベンチに人影があった。その姿を見た途端、聡の周りの全ての音が消えた。ふらふらと雲の上を歩いているような足どりで、顔がはっきり分かる所まで近づくと、柱の陰に身を隠して二人を眺めた。
 田辺の上着らしいジャケットを肩から掛けた修二は、目を閉じて頭を田辺の肩に預けて眠っているように見えた。修二の顔は紙のように白く、そのせいか目の下の隈が否でも目につく。もともと細く小さめの顔が更に痩せて尖って見える。何だか一回りも小さくなってしまったようで怖いくらいだった。
 田辺は修二の身体がずり落ちないように、しっかりとその肩を抱いていた。時折その肩を揺らして修二を覚醒させると、額に唇を押しつけるように何かを囁いていた。
 聡はその二人の密着した状態よりも、修二の憔悴した様子にショックを受けた。あんな窶れた姿にしたのはこの自分なのだ。何の病気かは分からないが、その原因を作ったのは紛れもなく自分であるに間違いない。その痛々しい姿に、聡はもう元には戻れないんだと悟った。涙が溢れて、二人の姿が霞んでいく。
 プライドの高い修二を傷つけたのだから、怒っているのは仕方がないと覚悟はしていた。反面、いつでも自身の内面を隠してしまう修二に憤りも感じていたから、その怒りを直接自分にぶつけて欲しいと願った。そうして腹を割って話し合えたなら、一緒にいられる道を模索出来るはずだと信じていた。病気の事は気掛りだったが、修二に会えさえすれば、何とかなるのではという思いは消せなかった。
 それが、全て自分の甘い考えだった事を思い知った。人形のように儚い、今にも壊れそうな修二は、聡の瞼に残る修二とは別人だった。どうして聡へ連絡など取れるだろう。怒りをぶつけてくる以前に、修二は生きる活力すら失うほど消耗していたのだ。そして、今の修二を支えているのは、この田辺なのだ。
 自分が一番恐れていた事態へ、当の自分が仕向けてしまった。それでも、どうして? と聡は思わずにいられない。修二の支え、それが何故、田辺なんだと――。聡は腹の底から沸々と怒りが沸くのを感じた。
 付かず離れず修二に寄り添う田辺の影に、聡はずっと怯えていた。幼馴染みかも知れないが、確かに今日子たちが言ったように “ 唯の友人 ” にしては度が過ぎている。友だちの肩をあんな風に抱くだろうか。そして弱っているとは言え、まるでそれを当たり前のように受け入れている修二。自分は、見ず知らずの他人に縋る事しか出来なかったと言うのに。
 もう、耐えられないと思った。自業自得と知りながら、やり場のない怒りが罪もない修二に向かう。どんどん醜くなる自分が堪らなく嫌だった。
 二人に背を向け聡は歩き出した。校舎を抜け、大学の門まで来ると携帯を取り出した。手帳に挟んだ松田の名刺を取り出すと、躊躇わずにボタンを押した。昼間は暇にしていると言った通りツーコールで繋がる。
「もしもし〜。サトシクンからの初コールだね」
 脳天気な声を無視して用件のみを伝える。松田が二つ返事で承諾すると聡は携帯を切り、タクシーを拾った。運転手に行き先を告げると、聡はシートに凭れて目を閉じた。何もかも、早く忘れたかった。その手っ取り早い方法を、聡はこれしか思いつかなかった。
 自分から求めた三度目のセックスは、今までで一番激しいものだった。聡は初めこそ松田のされるがままだったが、その内自ら跨って、後で銜える快感を思う存分貪った。互いの雄を擦り上げ、一滴残らす絞り出すように奪い合った。ホテルの悪趣味な鏡に映る自分の痴態にさえ煽られた。もう、どうでも良かった。頭の中から全てを追い出し、快感の波に自ら溺れて沈んでいった。
 何時間繋がっていたものか、激しい肉の饗宴が終わったのは夜半を回ってからだった。さすがに松田もぐったりとしてしどけなく横たわっていたが、聡の態度の変化に思うところがあったのか、その髪を梳いてやりながら「腹、括ったの?」と訊いた。
 聡は眠ったように目を閉じていたが、半分ほど瞳を開けてじっと松田の顔を眺めると、「あんたとつき合う」ときっぱりと告げた。松田は口の端を上げて笑うと「契約成立だ」と言って煙草に火を付けた。
 『契約成立』――聡は心の中で反芻した。
 まるで悪魔と契約をした気分だった。そうだ。これは儀式だ。修二を忘れるための。そして自分は、この男と肉欲に溺れる契約を交わしたのだ。
 聡は先ほどの自分の痴態を思い返して、その醜さに吐き気がした。でもこれで、穢れた自分はもう修二と交わる事が出来ないのだと、潔く諦められるだろう。ただこの先、修二の事を何度も思い返すであろう自分を思うと、一人では耐えられないと思った。だから契約したのだ、この好きでもない男と。
 松田は灰皿で煙草を揉み消すと、そのまま聡に口づけた。悪魔との口づけは、修二のくれる甘い口づけとは正反対のとても苦いものだった。
 そして、この一週間後、―― 修二との悪夢のような一夜から一ヵ月目 ――聡は修二に別れを告げた。

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